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プロローグ
違和感
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西暦2051年6月上旬。
仮想空間《レイヤー世界》は、いまだ完全には眠れていなかった。
一年前に起きた『ロンドン崩壊事件』は、
仮想都市が部分的に瓦解するという、前例のない事態だった。
死者は出なかった。
だが、“世界が壊れうる”という事実だけが、住民の記憶に深く残された。
それ以来、レイヤーは安定しているとされている。
実際、数値は改善を示していた。
通信遅延は激減し、強制切断や局所的な負荷集中も、創成期に比べればほとんど問題にならない。
世界は、以前よりもずっと滑らかだった。
それでも人々は、時折、空を見上げる。
雲の動きがあまりに正確なとき。
街のざわめきが、過不足なく揃いすぎているとき。
不具合は消えた。
だが、不安は消えなかった。
——この世界は、一度、崩れかけたのだ。
外光は調整され、時間帯の感覚は薄い。
窓の向こうに広がる東京ラウンジの街並みは、現実と寸分違わぬ精度で再現されているが、その完璧さがかえってここが仮想であることを思い出させた。
雲の流れは一定で、光は均等に拡散され、遠くに見える管理塔の輪郭は誤差なく空に溶け込んでいる。
ここでは、天候も時間も「揺らぎ」を持たない。
レイヤー世界での空は、今日も完成されすぎていた。
《東京レイヤー総合管理塔》は、その中心にそびえている。
研究・管理・倫理審査が同居する象徴的建造物。
“塔”という言葉が、後の中枢タワーと呼応する。
創成期から存在するこの塔は、都市というより記録そのものだった。
人の生活、感情、選択、そして——死までも。
朝霧結奈は、その高層フロアにいた。
結奈は13歳の頃に第5期としてレイヤーに移民してきて、この世界では今年24歳になった。
レイヤー研究部門で新人研究員として解析補助班に配属されている。
だが今、彼女が向き合っているのは、業務でも論文でもない。
個人研究として登録された、誰にも共有していない調査だった。
結奈は研究フロアの端末に、静かにログインする。
端末に表示される名前。
——朝霧雅人(32)
——死亡原因:実験中の突発性発作
父の名の入ったログで、何度も見た記録だった。
父は、レイヤー創成期の移行実験に参加していた制御系の被験者だった。
ところが、実験中に容体が急変し死亡。
公式記録はそれだけだった。
労災は認定され、補償も支払われた。
書類は整っている。
疑義を差し挟む余地は、表向きにはない。
それでも、結奈は違和感を覚えていた。
「……発作、ね」
結奈は声に出さずに思う。
突然死という言葉は、あまりにも便利だ。
便利であるがゆえに、理由を語らない。
ログを遡る。
当時の実験記録は、多くが黒塗りか、参照制限付きだ。
だが、完全に消されてはいない。
いくつかの時刻。
実験当日の温度ログの一瞬の跳ね上がり。
制御応答の一瞬の遅延。
数値としては致命的ではない。
——けれど、「何もなかった」と言うには、少しだけ多い。
結奈は思う。
——父は何をしていたんだろう。
——本当にただ倒れただけだったのか。
研究者としての好奇心、と言えば聞こえはいい。
だがこれは、論文にならない調査だ。
父の死を疑うことは、
父の人生そのものを問い直すことになる。
それでも、目を逸らす気にはなれなかった。
管理塔の高層フロア。
ガラス越しに見下ろす東京ラウンジは、完璧に平和で、何も隠していないように見える。
結奈は、端末を閉じようとして手を止めた。
今日も確証は得られなかった。
だが、違和感は消えなかった。
彼女が見つめているのは、世界の未来ではない。
——過去だ。
——この世界は、すべてを記録するくせに、なぜか「理由」だけを残さない。
端末に向き直った結奈は、もう一度だけ父のログを開いた。
理由はない。
強いて言えば、さっき閉じたとき、
胸の奥に残った「引っかかり」が消えなかった。
朝霧雅人。
死亡記録は変わらない。
閲覧履歴も、研究員のものだけ。
——のはずだった。
画面の隅に、小さなマーカーが点っている。
参照ログ。
結奈は一瞬、それを見間違いだと思った。
死亡から16年。
個人ログは凍結され、定期監査以外ではアクセスされない。
ましてや——
「……最近?」
参照日時——三日前。
結奈の喉が、わずかに鳴った。
三日前。
自分が、この調査を再開するよりも前。
しかも、参照者IDは——
〈管理層権限:非公開〉
喉の奥が、わずかに鳴った。
管理層が、今になって父のログを読む理由はない。
事故死として処理された被験者。
公表も、再検証もされていない。
それでも、誰かが「見た」。
しかも、ただの閲覧ではない。
参照深度は、人格構造ログにまで及んでいる。
人格構造ログ。
感情反応マップ。
——未来予測に使われるはずの、最下層領域。
結奈は、思わず椅子の背に体を預けた。
頭の中で、研究者としての知識が回転する。
——誰かが、父を“過去”としてではなく
——“構造”として見ている。
端末が、静かに次の行を表示する。
〈関連ログ:リンク保留〉
保留。
接続は成立していない。
けれど、試みられた痕跡だけが残っている。
結奈は画面を閉じなかった。
怖さよりも先に、理解できないことへの苛立ちが勝った。
——隠すなら完全に消せばいい。
——なぜ痕跡だけを残す?
まるで、
「気づいてもいい」と言われているようだった。
結奈は静かに息を吸う。
研究者として。
そして、朝霧雅人の娘として。
この違和感が何を意味するのか、
確かめずにはいられなかった。
知らないふりをするには、
もう遅かった。
結奈はまだ知らない。
その違和感が、このレイヤーの最深部と繋がっていることを。
そして——
誰かが、すでに彼女を見ていることを。
仮想空間《レイヤー世界》は、いまだ完全には眠れていなかった。
一年前に起きた『ロンドン崩壊事件』は、
仮想都市が部分的に瓦解するという、前例のない事態だった。
死者は出なかった。
だが、“世界が壊れうる”という事実だけが、住民の記憶に深く残された。
それ以来、レイヤーは安定しているとされている。
実際、数値は改善を示していた。
通信遅延は激減し、強制切断や局所的な負荷集中も、創成期に比べればほとんど問題にならない。
世界は、以前よりもずっと滑らかだった。
それでも人々は、時折、空を見上げる。
雲の動きがあまりに正確なとき。
街のざわめきが、過不足なく揃いすぎているとき。
不具合は消えた。
だが、不安は消えなかった。
——この世界は、一度、崩れかけたのだ。
外光は調整され、時間帯の感覚は薄い。
窓の向こうに広がる東京ラウンジの街並みは、現実と寸分違わぬ精度で再現されているが、その完璧さがかえってここが仮想であることを思い出させた。
雲の流れは一定で、光は均等に拡散され、遠くに見える管理塔の輪郭は誤差なく空に溶け込んでいる。
ここでは、天候も時間も「揺らぎ」を持たない。
レイヤー世界での空は、今日も完成されすぎていた。
《東京レイヤー総合管理塔》は、その中心にそびえている。
研究・管理・倫理審査が同居する象徴的建造物。
“塔”という言葉が、後の中枢タワーと呼応する。
創成期から存在するこの塔は、都市というより記録そのものだった。
人の生活、感情、選択、そして——死までも。
朝霧結奈は、その高層フロアにいた。
結奈は13歳の頃に第5期としてレイヤーに移民してきて、この世界では今年24歳になった。
レイヤー研究部門で新人研究員として解析補助班に配属されている。
だが今、彼女が向き合っているのは、業務でも論文でもない。
個人研究として登録された、誰にも共有していない調査だった。
結奈は研究フロアの端末に、静かにログインする。
端末に表示される名前。
——朝霧雅人(32)
——死亡原因:実験中の突発性発作
父の名の入ったログで、何度も見た記録だった。
父は、レイヤー創成期の移行実験に参加していた制御系の被験者だった。
ところが、実験中に容体が急変し死亡。
公式記録はそれだけだった。
労災は認定され、補償も支払われた。
書類は整っている。
疑義を差し挟む余地は、表向きにはない。
それでも、結奈は違和感を覚えていた。
「……発作、ね」
結奈は声に出さずに思う。
突然死という言葉は、あまりにも便利だ。
便利であるがゆえに、理由を語らない。
ログを遡る。
当時の実験記録は、多くが黒塗りか、参照制限付きだ。
だが、完全に消されてはいない。
いくつかの時刻。
実験当日の温度ログの一瞬の跳ね上がり。
制御応答の一瞬の遅延。
数値としては致命的ではない。
——けれど、「何もなかった」と言うには、少しだけ多い。
結奈は思う。
——父は何をしていたんだろう。
——本当にただ倒れただけだったのか。
研究者としての好奇心、と言えば聞こえはいい。
だがこれは、論文にならない調査だ。
父の死を疑うことは、
父の人生そのものを問い直すことになる。
それでも、目を逸らす気にはなれなかった。
管理塔の高層フロア。
ガラス越しに見下ろす東京ラウンジは、完璧に平和で、何も隠していないように見える。
結奈は、端末を閉じようとして手を止めた。
今日も確証は得られなかった。
だが、違和感は消えなかった。
彼女が見つめているのは、世界の未来ではない。
——過去だ。
——この世界は、すべてを記録するくせに、なぜか「理由」だけを残さない。
端末に向き直った結奈は、もう一度だけ父のログを開いた。
理由はない。
強いて言えば、さっき閉じたとき、
胸の奥に残った「引っかかり」が消えなかった。
朝霧雅人。
死亡記録は変わらない。
閲覧履歴も、研究員のものだけ。
——のはずだった。
画面の隅に、小さなマーカーが点っている。
参照ログ。
結奈は一瞬、それを見間違いだと思った。
死亡から16年。
個人ログは凍結され、定期監査以外ではアクセスされない。
ましてや——
「……最近?」
参照日時——三日前。
結奈の喉が、わずかに鳴った。
三日前。
自分が、この調査を再開するよりも前。
しかも、参照者IDは——
〈管理層権限:非公開〉
喉の奥が、わずかに鳴った。
管理層が、今になって父のログを読む理由はない。
事故死として処理された被験者。
公表も、再検証もされていない。
それでも、誰かが「見た」。
しかも、ただの閲覧ではない。
参照深度は、人格構造ログにまで及んでいる。
人格構造ログ。
感情反応マップ。
——未来予測に使われるはずの、最下層領域。
結奈は、思わず椅子の背に体を預けた。
頭の中で、研究者としての知識が回転する。
——誰かが、父を“過去”としてではなく
——“構造”として見ている。
端末が、静かに次の行を表示する。
〈関連ログ:リンク保留〉
保留。
接続は成立していない。
けれど、試みられた痕跡だけが残っている。
結奈は画面を閉じなかった。
怖さよりも先に、理解できないことへの苛立ちが勝った。
——隠すなら完全に消せばいい。
——なぜ痕跡だけを残す?
まるで、
「気づいてもいい」と言われているようだった。
結奈は静かに息を吸う。
研究者として。
そして、朝霧雅人の娘として。
この違和感が何を意味するのか、
確かめずにはいられなかった。
知らないふりをするには、
もう遅かった。
結奈はまだ知らない。
その違和感が、このレイヤーの最深部と繋がっていることを。
そして——
誰かが、すでに彼女を見ていることを。
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