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第1章 守り神の行方
1、都市伝説
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東京ラウンジの朝は、音が少ない。
目覚ましの代わりに、天井に薄い光のレイヤーが重なり、穂花の視界がゆっくりと現実に戻ってくる。
「……朝か」
ベッドの縁に座ると、足元の床がわずかに発光した。
居住者の動きを検知して、生活モードに切り替わる合図だ。
キッチンから、食器の触れ合う音がする。
「起きた?」
智美の声は、壁越しでもはっきり届く。
いつもと同じ、少し抑揚の少ない声。
「起きた」
洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
そこに映る自分は、昨日と変わらない高校2年生の少女だ。
——少なくとも、自分ではそう思う。
横澤穂花は16歳。
3歳まで現実世界の保育施設で育成され、現在、レイヤー聖台高等学校に通っている。
母親は、横澤智美、39歳のシングルマザー。
第1期レイヤー移民者で、レイヤー生活支援員の資格を持っている。
レイヤー移民やその家族を支援する仕事をしていて、生活ラウンジの調整、心理ケア、適応相談などが主な業務内容である。
ダイニングテーブルには、合成卵のスクランブルと、トースト、そしてラウンジ配信の朝番組が、空間に浮かんでいる。
〈本日も飛びっきりの芸能トピックスをご紹介します——〉
朝の情報番組は、キャスターが芸能人のインタビュー映像や今月の映画紹介を流していた。
《レイヤー》でのテレビの仕組みは、従来の『放送局』は存在せず、レイヤー内に設けられた《放送局ラウンジ》で番組が制作・配信される。
番組はリアルタイム配信が基本だが、アーカイブ化され、いつでも視聴が可能。
視聴者は「見る」だけでなく、コメント・拍手・視線ログなどで番組空間に“参加”することができる。
現実世界での各家庭にあるテレビは、レイヤーから転送された映像を受信する端末となっていて、仕組みとしてはネット配信とほぼ同等。
現実世界の人々は「外側から覗く」形でレイヤー内の番組を視聴している。
つまり本物は常にレイヤー側にあり、現実世界のテレビは“影”を映しているだけ。
「今日、学校あるの?」
智美が何気なく聞く。
「あるよ。平日だもん」
「あら、そうだったかしら」
それだけで会話は終わる。
穂花はトーストをかじりながら、ニュースの中で流れる芸能人の姿をぼんやり見ていた。
全員、レイヤー内の存在。
実体を持つ人間かどうかは、もう誰も気にしない。
「穂花」
名前を呼ばれて顔を上げる。
「帰りは、いつも通り?」
「うん。寄り道しない」
「そう」
その返事に、安心したような気配があった。
——まただ。
穂花は、胸の奥で小さく思う。
智美はいつも、「内容」より「結果」を確認する。
食事を終え、玄関で靴を履く。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
智美は、穂花の制服の襟を整え、ほんの一瞬、顔をじっと見つめた。
何かを確かめるような目。
「今日も、ちゃんと“向こう”に行けるからね」
「……向こう?」
聞き返すと、智美はすぐに言い直した。
「学校よ。レイヤー聖台高等学校」
「あ、うん」
玄関の扉が開くと、東京ラウンジの朝の空気が流れ込んでくる。
現実と仮想が重なり合った、どこか均一で、どこにも属さない光。
「いってきます」
穂花が一歩、外に出る。
「——穂花」
呼び止められて振り返ると、智美はいつもの微笑みを浮かべていた。
「あなたは、あなたのままでいいのよ」
その言葉が、なぜか“願い”ではなく“条件”のように聞こえた。
扉が閉まる。
穂花は、東京ラウンジの通学動線を歩き出しながら、理由のわからない息苦しさを制服の内側に押し込めた。
通学動線の終点で、視界が一度白く滲み、穂花はレイヤー聖台高等学校にログインする。
現実世界の聖台高等学校校舎は、もう何年も前に使われなくなった。
今の学校は、レイヤー内に構築された半屋外型のラウンジ空間だ。
空は常に薄曇りで、光の強さは学習効率に最適化されている。
「穂花ー!」
声をかけてきたのは、クラスメートの真帆だった。
すでに二、三人が円形テーブルに集まっている。
「昨日の〈ミラージュ・ステージ〉見た?」
「あ、見た見た。新曲やばくなかった?」
「Layer Worldのセンターの人、もう完全に実体捨ててるらしいよ」
話題は、当然のように芸能ラウンジの話になる。
芸能界は、芸能人・アイドル・俳優・配信者のほぼ全員がレイヤーに常駐している。
ライブやイベントは、レイヤー内の専用ホールや街区で開催される。
観客はアバターとして参加し、同じ空間・同じ視点を共有できる。
現実世界に残る芸能人はごく少数で、「レイヤーに行けない人」「行かなかった人」としてどこか古い存在扱いをされている。
「でもさー、あの人、母親と同じレイヤーにいるって噂」
「え、親も芸能ラウンジ所属なの?」
「知らない?今どき珍しくないじゃん」
穂花は、ストローでドリンクをかき混ぜながら聞いていた。
——母親も、同じレイヤー。
その言葉が、今朝の智美の声と妙に重なる。
「ねえ穂花は?」
真帆が振り向く。
「お母さん、どのレイヤー?」
「……分かんない」
思わず、正直に答えてしまった。
「え、分かんないってどういうこと?」
「普通、生活レイヤーでしょ」
「でもさ、管理情報見れば一発じゃん」
笑いながら言われて、
穂花は曖昧に肩をすくめた。
見ようと思えば、見られる。
でも——見たことがなかった。
「まあ、いいんじゃない?
母親なんて、だいたい似たようなもんでしょ」
その言葉に、胸の奥がちくりとする。
——似たような、もの?
ラウンジの中央ホログラムに、朝のホームルーム開始を告げる光が灯る。
教室は、ざわざわと落ち着かない空気に包まれていた。
朝の連絡事項を読み上げる先生の声が、穂花の耳をすり抜けていく。
「……提出物は、忘れないように」
黒板に書かれる文字。
椅子を引く音。
小さな笑い声。
穂花は前を向いたまま、ノートの端をなぞっていた。
(……あの時)
ふいに、昨夜の光景がよみがえる。
暗い廊下。
リビングから漏れていた、柔らかな光。
そして――智美の声。
『今日は元気だったよ』
その言い方が、頭から離れない。
穂花は、無意識に鉛筆を止めていた。
誰に向けた声だったのか。
誰が、智美の話を聞いていたのか。
仕事の相手?
遠くの親戚?
それとも、ただの独り言?
(……違う)
理由はない。
でも、どれも違う気がした。
智美は、
穂花に向けるときとは、少し違う声をしていた。
もっと――
気を遣っているような。
相手の感情を確かめるような。
『あなたが心配しなくても』
その一言が、胸に引っかかる。
心配する“あなた”って、誰?
穂花は、机の下で手を握りしめる。
言葉にできない。
問いにしてしまうのが、怖かった。
もし聞いてしまったら、今の関係が壊れる気がして。
「……横澤」
名前を呼ばれて、穂花は顔を上げた。
「次、委員の当番ね」
先生の声だった。
「……はい」
返事は、ちゃんとできた。
周りから見れば、何も変わらない。
でも、胸の奥では、小さな疑問が静かに広がっていた。
智美は、誰かと穂花のことを話していた。
その“誰か”は、穂花にとって知らなくていい存在なんだろうか。
それとも――
知らなければいけない存在なんだろうか。
チャイムが鳴り、教室が一斉に動き出す。
穂花は立ち上がりながら、自分でも気づかないうちにこう思っていた。
(……聞いてみたい)
それが、すべての始まりになるとも知らずに。
いろいろ考えていると、穂花はふと別のグループの会話が耳に入った。
「ねえ、知ってる?
このレイヤーの噂」
教室のざわめきの中で、誰かが声をひそめた。
「なに?」
「“世界を見守る守り神”」
穂花の足が、一瞬止まる。
「レイヤーの奥にいてさ、人の“本当の居場所”を知ってる存在」
「また都市伝説でしょ?」
「守り神がいるとか、世界を監視してるとか」
笑い声が起こる中、窓際の席にいたクラスメート――
いつもは口数の少ないその子が、ぽつりと割って入った。
「……実際に、会いに行った新婦さんがいる」
教室が一瞬、静まり返る。
「は?」
「なにそれ、本当?」
視線が一斉に向くと、その子は肩をすくめる。
話し始めたのは、窓際の席のクラスメートだった。
都市伝説が好きで、休み時間になるといつも何かしら持ち出してくる子だ。
「亡くなったお父さんを探してた人がいてさ。
そしたら、どこからともなく守り神が現れたんだって」
周囲が「はいはい」と笑う中、彼女は続ける。
「で、その守り神が、お父さんを見つけ出したらしいの。
結婚式の日にさ――」
一瞬、教室が静かになる。
「バージンロードを、一緒に歩いたんだって」
「うそぉ……」
「作り話じゃないの?」
「仮想世界レイヤーだからね、何でもありじゃないの」
誰かが吹き出し、
「泣かせにきてるじゃん」と茶化す声が上がる。
「えー、父親、ちゃんと現れたらしいよぉ。
しかも、自分から“探してくれてありがとう”って言ったらしい」
そこで言葉を切り、少しだけ間を置く。
「しかもね、そのあと守り神はもう現れなかったらしいよ。
役目が終わったから、消えたんだって」
疑いの声が飛ぶ中、穂花だけは何も言えなかった。
——探してくれて、ありがとう。
その言葉が、なぜか胸の奥に引っかかる。
“探しているのは、親のほうだったんじゃないか”
そんな考えが、一瞬、頭をよぎった。
窓の外に広がる東京ラウンジの空は、朝なのにどこか夕暮れの色をしていた。
穂花は知らず、指先を強く握りしめていた。
やがて、ラウンジは一気にざわめきを増した。
ログアウトする生徒、
部活動レイヤーへ向かう生徒、
雑談ラウンジに残る生徒。
穂花は、そのどれにも加わらず、一人で情報回廊へ足を向けた。
「都市伝説」
「守り神」
「世界を見守る存在」
検索ワードを入れても、
公式データベースにはほとんど引っかからない。
ヒットするのは、断片的な噂話ばかりだった。
・正体不明
・実体はない
・レイヤーの深層にいる
・“迷った家族”の前に現れる
——最初から“そういうもの”として扱われている。
だが、個人ログや半匿名の書き込みを辿ると、その中でひとつだけ、やけに具体的な記述があった。
「半年前、“守り神”が新婚の父親を探していたらしいよ」
穂花は、指先を止めた。
「……新婚の、父親?」
理由は書かれていない。
ただ、複数の書き込みが同じことを言っている。
さらにスクロールすると、別の投稿が目に入った。
「去年、レイヤー全体に致命的な不整合が起きただろ。
そのとき、中枢に直接介入した“何者か”がいたって話。
公式発表では『自律修復プロトコルの成功』だけど、現場にいた人は違うって言ってる。
事故処理とされているけど、実際は“守り神”がレイヤーを救ったらしい。
果たしてどうなんだろうな」
穂花は、息を詰める。
——守った。
——家族を探して。
——レイヤーの危機を救って。
それは、
都市伝説にしては、あまりにも“人間的”だった。
——守り神は、ただ見守っている存在じゃない。
必要なら、
人を探し、家族に触れ、世界に介入する。
「……なんなの、それ。
……守り神って」
声に出したつもりはなかったが、自分のログに小さな振動が返ってきた。
穂花は、ふと考える。
世界を見守る存在が、どうしてたった一人の父親を探す必要があるのか。
なぜ、その行動がレイヤー全体の危機と救うことに結びつくのか。
ラウンジの照明が、放課後モードに切り替わる。
穂花の影が、床の仮想タイルに少し長く伸びた。
その影が、どこか自分一人分ではない気がして、穂花は思わず足元から目を逸らした。
胸の奥が、微かに熱を帯びる。
——もし。
もし、あの“違和感”が、単なる思春期でも、母親との距離でもなく。
誰かが、「見る役割」として智美を選んだ結果だとしたら。
画面の端に、新しい書き込みがひとつ浮かぶ。
「守り神に会える中継点は、『昭和酒屋たそがれ』だって噂らしいぜ」
穂花は、その文字列から目を離せなかった。
——行けば、何かが分かる。
それが答えでも、もっと大きな違和感でも。
彼女は初めて、“確かめたい”という意思をはっきり自覚していた。
目覚ましの代わりに、天井に薄い光のレイヤーが重なり、穂花の視界がゆっくりと現実に戻ってくる。
「……朝か」
ベッドの縁に座ると、足元の床がわずかに発光した。
居住者の動きを検知して、生活モードに切り替わる合図だ。
キッチンから、食器の触れ合う音がする。
「起きた?」
智美の声は、壁越しでもはっきり届く。
いつもと同じ、少し抑揚の少ない声。
「起きた」
洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
そこに映る自分は、昨日と変わらない高校2年生の少女だ。
——少なくとも、自分ではそう思う。
横澤穂花は16歳。
3歳まで現実世界の保育施設で育成され、現在、レイヤー聖台高等学校に通っている。
母親は、横澤智美、39歳のシングルマザー。
第1期レイヤー移民者で、レイヤー生活支援員の資格を持っている。
レイヤー移民やその家族を支援する仕事をしていて、生活ラウンジの調整、心理ケア、適応相談などが主な業務内容である。
ダイニングテーブルには、合成卵のスクランブルと、トースト、そしてラウンジ配信の朝番組が、空間に浮かんでいる。
〈本日も飛びっきりの芸能トピックスをご紹介します——〉
朝の情報番組は、キャスターが芸能人のインタビュー映像や今月の映画紹介を流していた。
《レイヤー》でのテレビの仕組みは、従来の『放送局』は存在せず、レイヤー内に設けられた《放送局ラウンジ》で番組が制作・配信される。
番組はリアルタイム配信が基本だが、アーカイブ化され、いつでも視聴が可能。
視聴者は「見る」だけでなく、コメント・拍手・視線ログなどで番組空間に“参加”することができる。
現実世界での各家庭にあるテレビは、レイヤーから転送された映像を受信する端末となっていて、仕組みとしてはネット配信とほぼ同等。
現実世界の人々は「外側から覗く」形でレイヤー内の番組を視聴している。
つまり本物は常にレイヤー側にあり、現実世界のテレビは“影”を映しているだけ。
「今日、学校あるの?」
智美が何気なく聞く。
「あるよ。平日だもん」
「あら、そうだったかしら」
それだけで会話は終わる。
穂花はトーストをかじりながら、ニュースの中で流れる芸能人の姿をぼんやり見ていた。
全員、レイヤー内の存在。
実体を持つ人間かどうかは、もう誰も気にしない。
「穂花」
名前を呼ばれて顔を上げる。
「帰りは、いつも通り?」
「うん。寄り道しない」
「そう」
その返事に、安心したような気配があった。
——まただ。
穂花は、胸の奥で小さく思う。
智美はいつも、「内容」より「結果」を確認する。
食事を終え、玄関で靴を履く。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
智美は、穂花の制服の襟を整え、ほんの一瞬、顔をじっと見つめた。
何かを確かめるような目。
「今日も、ちゃんと“向こう”に行けるからね」
「……向こう?」
聞き返すと、智美はすぐに言い直した。
「学校よ。レイヤー聖台高等学校」
「あ、うん」
玄関の扉が開くと、東京ラウンジの朝の空気が流れ込んでくる。
現実と仮想が重なり合った、どこか均一で、どこにも属さない光。
「いってきます」
穂花が一歩、外に出る。
「——穂花」
呼び止められて振り返ると、智美はいつもの微笑みを浮かべていた。
「あなたは、あなたのままでいいのよ」
その言葉が、なぜか“願い”ではなく“条件”のように聞こえた。
扉が閉まる。
穂花は、東京ラウンジの通学動線を歩き出しながら、理由のわからない息苦しさを制服の内側に押し込めた。
通学動線の終点で、視界が一度白く滲み、穂花はレイヤー聖台高等学校にログインする。
現実世界の聖台高等学校校舎は、もう何年も前に使われなくなった。
今の学校は、レイヤー内に構築された半屋外型のラウンジ空間だ。
空は常に薄曇りで、光の強さは学習効率に最適化されている。
「穂花ー!」
声をかけてきたのは、クラスメートの真帆だった。
すでに二、三人が円形テーブルに集まっている。
「昨日の〈ミラージュ・ステージ〉見た?」
「あ、見た見た。新曲やばくなかった?」
「Layer Worldのセンターの人、もう完全に実体捨ててるらしいよ」
話題は、当然のように芸能ラウンジの話になる。
芸能界は、芸能人・アイドル・俳優・配信者のほぼ全員がレイヤーに常駐している。
ライブやイベントは、レイヤー内の専用ホールや街区で開催される。
観客はアバターとして参加し、同じ空間・同じ視点を共有できる。
現実世界に残る芸能人はごく少数で、「レイヤーに行けない人」「行かなかった人」としてどこか古い存在扱いをされている。
「でもさー、あの人、母親と同じレイヤーにいるって噂」
「え、親も芸能ラウンジ所属なの?」
「知らない?今どき珍しくないじゃん」
穂花は、ストローでドリンクをかき混ぜながら聞いていた。
——母親も、同じレイヤー。
その言葉が、今朝の智美の声と妙に重なる。
「ねえ穂花は?」
真帆が振り向く。
「お母さん、どのレイヤー?」
「……分かんない」
思わず、正直に答えてしまった。
「え、分かんないってどういうこと?」
「普通、生活レイヤーでしょ」
「でもさ、管理情報見れば一発じゃん」
笑いながら言われて、
穂花は曖昧に肩をすくめた。
見ようと思えば、見られる。
でも——見たことがなかった。
「まあ、いいんじゃない?
母親なんて、だいたい似たようなもんでしょ」
その言葉に、胸の奥がちくりとする。
——似たような、もの?
ラウンジの中央ホログラムに、朝のホームルーム開始を告げる光が灯る。
教室は、ざわざわと落ち着かない空気に包まれていた。
朝の連絡事項を読み上げる先生の声が、穂花の耳をすり抜けていく。
「……提出物は、忘れないように」
黒板に書かれる文字。
椅子を引く音。
小さな笑い声。
穂花は前を向いたまま、ノートの端をなぞっていた。
(……あの時)
ふいに、昨夜の光景がよみがえる。
暗い廊下。
リビングから漏れていた、柔らかな光。
そして――智美の声。
『今日は元気だったよ』
その言い方が、頭から離れない。
穂花は、無意識に鉛筆を止めていた。
誰に向けた声だったのか。
誰が、智美の話を聞いていたのか。
仕事の相手?
遠くの親戚?
それとも、ただの独り言?
(……違う)
理由はない。
でも、どれも違う気がした。
智美は、
穂花に向けるときとは、少し違う声をしていた。
もっと――
気を遣っているような。
相手の感情を確かめるような。
『あなたが心配しなくても』
その一言が、胸に引っかかる。
心配する“あなた”って、誰?
穂花は、机の下で手を握りしめる。
言葉にできない。
問いにしてしまうのが、怖かった。
もし聞いてしまったら、今の関係が壊れる気がして。
「……横澤」
名前を呼ばれて、穂花は顔を上げた。
「次、委員の当番ね」
先生の声だった。
「……はい」
返事は、ちゃんとできた。
周りから見れば、何も変わらない。
でも、胸の奥では、小さな疑問が静かに広がっていた。
智美は、誰かと穂花のことを話していた。
その“誰か”は、穂花にとって知らなくていい存在なんだろうか。
それとも――
知らなければいけない存在なんだろうか。
チャイムが鳴り、教室が一斉に動き出す。
穂花は立ち上がりながら、自分でも気づかないうちにこう思っていた。
(……聞いてみたい)
それが、すべての始まりになるとも知らずに。
いろいろ考えていると、穂花はふと別のグループの会話が耳に入った。
「ねえ、知ってる?
このレイヤーの噂」
教室のざわめきの中で、誰かが声をひそめた。
「なに?」
「“世界を見守る守り神”」
穂花の足が、一瞬止まる。
「レイヤーの奥にいてさ、人の“本当の居場所”を知ってる存在」
「また都市伝説でしょ?」
「守り神がいるとか、世界を監視してるとか」
笑い声が起こる中、窓際の席にいたクラスメート――
いつもは口数の少ないその子が、ぽつりと割って入った。
「……実際に、会いに行った新婦さんがいる」
教室が一瞬、静まり返る。
「は?」
「なにそれ、本当?」
視線が一斉に向くと、その子は肩をすくめる。
話し始めたのは、窓際の席のクラスメートだった。
都市伝説が好きで、休み時間になるといつも何かしら持ち出してくる子だ。
「亡くなったお父さんを探してた人がいてさ。
そしたら、どこからともなく守り神が現れたんだって」
周囲が「はいはい」と笑う中、彼女は続ける。
「で、その守り神が、お父さんを見つけ出したらしいの。
結婚式の日にさ――」
一瞬、教室が静かになる。
「バージンロードを、一緒に歩いたんだって」
「うそぉ……」
「作り話じゃないの?」
「仮想世界レイヤーだからね、何でもありじゃないの」
誰かが吹き出し、
「泣かせにきてるじゃん」と茶化す声が上がる。
「えー、父親、ちゃんと現れたらしいよぉ。
しかも、自分から“探してくれてありがとう”って言ったらしい」
そこで言葉を切り、少しだけ間を置く。
「しかもね、そのあと守り神はもう現れなかったらしいよ。
役目が終わったから、消えたんだって」
疑いの声が飛ぶ中、穂花だけは何も言えなかった。
——探してくれて、ありがとう。
その言葉が、なぜか胸の奥に引っかかる。
“探しているのは、親のほうだったんじゃないか”
そんな考えが、一瞬、頭をよぎった。
窓の外に広がる東京ラウンジの空は、朝なのにどこか夕暮れの色をしていた。
穂花は知らず、指先を強く握りしめていた。
やがて、ラウンジは一気にざわめきを増した。
ログアウトする生徒、
部活動レイヤーへ向かう生徒、
雑談ラウンジに残る生徒。
穂花は、そのどれにも加わらず、一人で情報回廊へ足を向けた。
「都市伝説」
「守り神」
「世界を見守る存在」
検索ワードを入れても、
公式データベースにはほとんど引っかからない。
ヒットするのは、断片的な噂話ばかりだった。
・正体不明
・実体はない
・レイヤーの深層にいる
・“迷った家族”の前に現れる
——最初から“そういうもの”として扱われている。
だが、個人ログや半匿名の書き込みを辿ると、その中でひとつだけ、やけに具体的な記述があった。
「半年前、“守り神”が新婚の父親を探していたらしいよ」
穂花は、指先を止めた。
「……新婚の、父親?」
理由は書かれていない。
ただ、複数の書き込みが同じことを言っている。
さらにスクロールすると、別の投稿が目に入った。
「去年、レイヤー全体に致命的な不整合が起きただろ。
そのとき、中枢に直接介入した“何者か”がいたって話。
公式発表では『自律修復プロトコルの成功』だけど、現場にいた人は違うって言ってる。
事故処理とされているけど、実際は“守り神”がレイヤーを救ったらしい。
果たしてどうなんだろうな」
穂花は、息を詰める。
——守った。
——家族を探して。
——レイヤーの危機を救って。
それは、
都市伝説にしては、あまりにも“人間的”だった。
——守り神は、ただ見守っている存在じゃない。
必要なら、
人を探し、家族に触れ、世界に介入する。
「……なんなの、それ。
……守り神って」
声に出したつもりはなかったが、自分のログに小さな振動が返ってきた。
穂花は、ふと考える。
世界を見守る存在が、どうしてたった一人の父親を探す必要があるのか。
なぜ、その行動がレイヤー全体の危機と救うことに結びつくのか。
ラウンジの照明が、放課後モードに切り替わる。
穂花の影が、床の仮想タイルに少し長く伸びた。
その影が、どこか自分一人分ではない気がして、穂花は思わず足元から目を逸らした。
胸の奥が、微かに熱を帯びる。
——もし。
もし、あの“違和感”が、単なる思春期でも、母親との距離でもなく。
誰かが、「見る役割」として智美を選んだ結果だとしたら。
画面の端に、新しい書き込みがひとつ浮かぶ。
「守り神に会える中継点は、『昭和酒屋たそがれ』だって噂らしいぜ」
穂花は、その文字列から目を離せなかった。
——行けば、何かが分かる。
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彼女は初めて、“確かめたい”という意思をはっきり自覚していた。
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