あなたのいない世界に私は生まれた

駄文のヒロ

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第1章 守り神の行方

2、黄昏の瞬間

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 放課後のラウンジは、昼間よりも少しだけ色が沈んでいた。
 人の流れが緩み、空気に余白が生まれる時間帯。

 穂花は、その余白に引き寄せられるように歩いていた。

 噂で聞いた場所は、昭和ラウンジの繁華の端、再開発から取り残されたような区画にあった。

 赤茶けた木の看板。
 色褪せた文字で書かれた店名。

『昭和酒場・たそがれ』

 夕方でもないのに、店の前はいつも“たそがれ”の色をしている――
 誰かの書き込みに、そんな言葉があったのを思い出す。

 穂花は立ち止まった。

 ガラス越しに見える店内は薄暗く、カウンターと丸い背中の椅子、壁には見慣れない古い装飾。

 胸の奥が、きゅっと縮む。

 ——来ちゃいけない場所かもしれない。

 そう思いながらも、足はもう引き返す方向を向いていなかった。

 暖簾のれんに手を伸ばす。
 少しだけ、ためらってから。

 がらり。

 鈍い音を立てて、扉が開いた。

 中は、外から想像していたよりも静かだった。
 酒の匂いと、どこか懐かしい空気。

 


 カウンターの向こうにいた年配の男が、不思議そうに顔を上げる。

「どうしたい?……お嬢ちゃん。
 まだ開店準備中だよ?」

 穂花は、思わず背筋を伸ばした。

「しかもここはねぇ、
 大人が酒をたしなむとこだよ」

 男は困ったように笑いながら、穂花を頭から足先まで一度だけ見た。

「大人と一緒に来るなら別だが……
 一人で、あんまり来るとこじゃないなぁ」

 責める声ではない。
 追い返すというより、心配する声だった。

 穂花は、言葉を探した。

 自分でも、どうしてここに来たのかうまく説明できなかったから。

 それでも、胸の奥でははっきりしていた。

 ——ここなら、
 “何か”に会える気がした。

 穂花は、ぎゅっと手を握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。
 しばらくの沈黙のあと、
 カウンターの向こうの男――おっちゃんが、穂花に視線を戻した。

「……で、お嬢ちゃん。
 名前、なんて言うんだい?」

 穂花は一瞬、言葉に詰まった。
 知らない大人に名乗るのは、少しだけ怖い。

 でも、ここまで来てしまった以上、嘘はつきたくなかった。

「……横澤、穂花です」

 そう言うと、おっちゃんは小さく頷いた。

「穂花ちゃん、ね」

 その呼び方が、少しだけ胸を落ち着かせる。

 おっちゃんは腕を組み、少し考えるような間を置いてから言った。

「で……ここに何しに来たんだい?」

 穂花は、ぎゅっと唇を結んだ。

「……会いたい人が、いるんです」

 それだけ言うと、自分でも驚くほど胸の奥が熱くなった。

 誰なのか。
 名前は。
 どういう関係なのか。

 自分でも、はっきりとは分からない。

 ただ——
 “ここにいる気がした”。

 おっちゃんは、すぐには聞き返さなかった。

 穂花の顔をじっと見て、その目の奥を測るように静かに眺めている。

 やがて、ふっと息をついた。

「……なるほどなぁ」

 それから、少しだけ困ったように笑う。

「悪いけどね、
 ここじゃ酒は出せないよ。
 未成年だ」

 穂花は、慌てて首を振った。

「い、いりません。
 お酒は……」

「分かってる、分かってる」

 おっちゃんはそう言って微笑み、背後の棚に手を伸ばした。

「酒は出せないがな、
 ジュースならある」

 冷蔵庫を開ける音。
 グラスを取り出す音。

 やがて、氷の入ったグラスに鮮やかなオレンジ色が注がれた。

 カウンター越しに差し出される。

「オレンジジュースだ。
 これなら問題ない」

 穂花は、少し戸惑いながらも両手で受け取った。

 冷たい感触が、指先に伝わる。

「……ありがとうございます」

「いいさ」

 おっちゃんは、いつの間にか“追い返す大人”の顔ではなくなっていた。

「ただしな、穂花ちゃん」

 カウンターに肘をつき、少しだけ声を落とす。

「ここは、
 探し物をしてるやつが来る場所だ」

 穂花は、オレンジジュースを見つめたまま、小さく息をのんだ。

 ——やっぱり、間違っていなかった。

 店の奥で、何かが静かに動いた気がした。
 穂花がオレンジジュースに口をつけた、その時だった。

 おっちゃんが、ふと独り言のように言った。

「……探し人ってのはな」

 カウンターを拭く手を止めず、どこか遠くを見るような目で続ける。

「待つもんじゃない」

 穂花の指が、ぴくりと動いた。

「え……?」

 思わず顔を上げると、おっちゃんは穂花を見ていなかった。

 壁にかかった、色褪いろあせた昭和のポスター。
 もう誰も覚えていない歌手の名前。

 それらを眺めながら、静かに言う。

「待ってりゃ、いつか来るって思ってるうちはな、

 本当に会いたい相手には、辿り着けねぇ」

 穂花の胸が、きゅっと締めつけられる。

 ——どうして、そんなことを。

 自分が、“誰かを待っている”と分かっているみたいに。

 おっちゃんは、ようやく穂花の方を見た。

「探すってのはな」

 その目は、優しくもあり、同時にどこか厳しかった。

「自分の足で一歩踏み出すってことだ」

 穂花は、言葉を失った。

 今まで感じていた違和感。
 胸の奥で、ずっと名前を持たなかった感情。

 ——会いたい。

 誰に?
 なぜ?

 分からないのに、この言葉だけが真っ直ぐ刺さる。

 おっちゃんは、それ以上何も言わず、またカウンターを拭き始めた。

 まるで、言うべきことはもう全部言ったかのように。

 昭和酒場・たそがれの中で、時間だけが静かに流れていった。

 そして——
 穂花はまだ知らない。

 この一言が、“守り神”と呼ばれる存在へ踏み出す最初の合図だったことを。

 おっちゃんのさっきの一言が、店の中にふわりと残った。

「……探し人は、待つもんじゃない」

 穂花はオレンジジュースのストローを指でつまんだまま、意味を掴めずにいた。
 何か言い返そうとして、でも言葉が見つからない。

 そのときだった。

 ――コツ。

 店の奥、暖簾の向こうから、かすかな足音。

 続いて、
 ――チン。
 グラス同士が触れ合う、乾いた音。

 ほんの一瞬。
 すぐに、外のざわめきに溶けて消える。

 穂花は反射的に顔を上げ、奥の暗がりを見つめた。
 そこには古い棚と、くすんだ鏡があるだけで、人影は見えない。

「……今の」

 呟きかけた穂花に、おっちゃんは何も言わない。
 ただ、カウンターを拭く手を止めず、どこか遠い目をしている。

 オレンジジュースの氷が、静かに音を立てて溶けていった。

 穂花はしばらく、店の奥を見つめたまま動けずにいた。

 今の音――
 確かに聞こえた。
 そう思うのに、思い返そうとすると輪郭が曖昧になる。

 足音だったのか。
 それとも、ただの空調のきしみか。

「……気のせい、だよね」

 声に出してみると、途端に現実味が薄れた。

 穂花はストローに口をつけ、冷たいオレンジジュースを一口飲んだ。
 甘さが広がるのに、喉の奥が少しだけ渇いたままだ。

 ――でも。

 もし、気のせいなら。
 どうして胸の奥が、こんなふうにざわつくんだろう。

 穂花は無意識に、カウンターの下で拳を握りしめた。
 まるで、誰かに呼ばれた音を、聞き逃さないようにするみたいに。

 店の奥は、相変わらず暗い。
 何も起きていないはずなのに、「何も起きていない」と言い切れない空気だけが、そこに残っていた。
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