【完結】おじさんはΩである

藤吉とわ

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3話ーかつてαだった男③

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 再検査の必要性などない気がしてくる。指先で挟んだカードが床に落ちる。考えてみれば、αとしての自負はこの薄っぺらい紙だけだったように思う。
 αと診断された日以降も雄大の体にはαらしい部分が出現することはなかった。第二性徴で現れるかと期待したα男性の身体的特徴である高身長も筋肉質な体つきも、まるで雄大には関係がないことのように思春期は穏やかに去り、身長は百六十八センチでぴたりと止まって、瘦せ型の体が完成された。
 恋愛面でも年相応に数人のΩ女性と付き合いはしたが、どれも自然消滅に終わった。こうなって初めて分かることだが、Ω同士の恋愛で情熱的な何かが起こるわけなどなく、フェードアウトになるのは必然で、もしかしたら相手は雄大に対し「αなのにαらしくない」と感じていたかもしれない。それを口に出したりなどしないところがΩ女性の優しさか――現実逃避をするように雄大はそんな昔のことに思いを馳せ、もう細やかな表情は忘れてしまったけれど彼女たちの存在を思い出す。
「αじゃないから今からすぐΩになれって……そんなに簡単にはいきませんよ」
 肉体的にはΩなのだから、Ωとして生きていけば良い。けれど、心は別だ。今すぐにΩとして生きることを受け入れられるかといえば口にした通り簡単ではない。
 職場に第二の性の届け出の変更をしなければならないし――そもそも届け出の変更なんてそんな申し出が通るのかも分からない。昔とは違うのだから、Ωだからといってあからさまに態度を変えて来る者はいないだろうが、雄大にどのようなΩの症状――発情期の頻度や程度――が起こるかも分からない今、担任を受け持っているクラスは外されてしまうだろう。
 親はどうだ。元々一人息子だったこともあり可愛がられていたが、αと判明してからは更に大事に将来を期待されて育った。母親は息子がαであることをご近所に自慢しまくっていた。現代ではαであってもひけらかすことなく生きていくのが普通なのに、古い時代を生きて来た母は将来を約束されたとばかりに喜び、息子の気持ちは無視で周りに喋っていた。
 父さんは大丈夫だろうけど、母さんは泣いちゃうだろうな。
 ――αからΩは天国から地獄ですよねぇ
 そう言って笑っている事務員の声が耳の奥でこだまする。
 地獄。その通りだった。αと言われて周囲とは違う選ばれた人間なのだと自信を持ち、Ωと言われて人の道を外れたかのように悲観する。身を以てその両方を体感した雄大は床に向けて落としていた顔をのろのろと上げた。
「それで俺はどうしたら良いんでしょう? 教えてください。俺はどうなるんでしょうか」
 医療過誤を受けたという怒りは絶望の海に飲まれ沈んでしまった。あまりにも真っ暗で深い場所に落ちていて、感情の持ち主である雄大本人も触れることが出来ない。だから苛立ちなどは湧かず、今はどうすれば良いのか、助けて欲しい、その一心だった。
「まず、今処方されているお薬を確認させてください」
 言われて、雄大はテレビを置いている方へ目をやる。一週間分など決まった量を薬袋から出すと残りはテレビ台下の収納になおしている。それを取りに行こうと立ち上がろうとするが自分の意思とは逆に体は動いてくれない。
「テレビボードの下に入ってるんですか」
 ずっと隣で寄り添ってくれている若い男が雄大の視線に気付いて言う。初めて声を聞いた。血の気の引いた体にちょうど良く響く心地良い声色に雄大は頷いて見せる。
「門村先生はここに居てください」
 先生、と呼ばれて漸く正気に戻った気がした。この若者は自分が教師をしていることを知っているのだろうか。クリニックに電話を掛けた時に教諭をしていると名乗ったかもしれない、と以前の会話を思い返す気もないのにそんなことを考えた。
 収納の中から薬の袋を取り出して持って来た男はそれを田口に手渡すとまた雄大の隣の空間を埋めるように座る。
「ラットを起こす促進剤を飲んでいるんですね」
「はい。Ωに対して一度も発情したことがないことを相談したら出されました。それと一緒に強い発情が来ても困るので抑制剤も飲んでいました」
 強い薬と一緒に使う胃薬みたいな感じで矛盾する錠剤を長年服用してきた。
 今となってはΩがΩに発情するはずがないと可笑しくなるが、中高生の頃は自分はαであると信じて疑っていなかったからΩ相手に性欲が湧かないことに随分と悩んだ。それも年を経ると共に自分は理性的だから獣じみた発情がないだけだろうという思いに変わっていった。ただ第二の性が間違っていただけだなんてもう笑うほかない。
「子供の成長に個人差があるようにバース性にも個人差があります。恐らく門村さんのバース性は成長が遅く、Ω性の症状が出る前にこのα用の促進剤と抑制剤を服用してきたのでヒートも抑えられていたんでしょう。αの薬は元々Ωの薬を作り出す段階で派生的に開発されたものなのでΩが飲んでも効くように出来てるんです」
 ヒート、と聞いて身が硬くなる。Ωの発情期のことだ。Ω女性と交際中、彼女らは自分の体のこと、ヒートの頻度・期間をよく把握しており上手く薬で抑えていた。そのため彼女らにヒートが訪れた時どのようになるのか雄大は知りもしなかった。だが、一度街中でヒートになってしまったΩ男性になら遭遇したことがある。その時はパートナーらしき男性も共に居て、この子はヒートが不安定なんだ、αは離れてくれ! と必死な形相で叫んでいたことをよく覚えている。
 庇われているΩ男性は立って居られないようで震える体を支えられ、顔は紅潮し、ぽかんと開いた唇からは唾液が零れそうになっていた。自分もヒートの時期が安定してなければ己の意思とは関係なくああなるのだろうか。その時パートナーがそばに居てくれれば、まだ何とかなるかもしれないが、居なければ街中でαを誘惑する匂いを撒き散らしてトラブルを起こすことになる。
 そんな光景を想像し、体を小刻みに震わすと手の甲に温かみを感じた。隣に居る若者が石のように硬くなった雄大の手の上に手の平を覆い被せて、視線が合えば安心させるかのように目を細めてくれる。
 この人も医者なのだろうか。この場に居るのだからそうに違いないが、こんなに親身になってくれるものなのだな――と絆されそうになったところで田口の「それでは一度全てのお薬の服用を中止してください」という声で我に返る。
「……中止したらどうなるのでしょう」
「恐らく近い内にヒートが来ます」
「きついものなのでしょうか」
「ヒートにも個人差があり、比較的穏やかな方も居れば、周期によって違う方もいます。門村さんの場合、α用とはいえ処方薬でヒートを抑えていた部分があり、それが今回の服薬中止で一気に枷が外され強いヒートが来る可能性があります。加えて精神的なショックもおありでしょうから、お一人で初めてのヒートを迎えるのは心身ともにお辛いかと」
「入院とかになるんですか」
 ヒートが強すぎる場合、管理入院するというのを聞いたことがある。雄大が持ち出すと、田口は「門村さんが望まれた場合、入院施設のある提携病院をご紹介いたします」と説明された。みつたにクリニックには入院施設がないようだ。
「俺としては、入院は避けたいし、仕事もしたいです」
「お仕事に関しましては、初めてのヒートが来るまでの間はお休みして頂く必要があります。ただ、ヒートはこれから門村さんが長く付き合っていかなければならないもので、入院して管理するよりは自由な環境下の中で門村さん自身のヒートの性質を知って頂く方が良いかと思います」
 はぁ、そうですか、と雄大が頷く前に田口は続け様に言葉を紡ぐ。
「そこで提案なのですが、ヒートが来るまでそこに居る戸賀井とがいと暮らして頂けませんか」
 時が止まった。いや、この場でそう思っているのは雄大だけだろう。繋いだ部分から温かみをくれる若者は名を戸賀井というらしい。
 田口はその若者と一緒に暮らせという。
「彼はまだ研修医ですが、バース性専門医を目指しているので知識も豊富です。彼と居ればいつヒートになっても適切な対処が出来ますし、何より彼自身がαなので、門村さんのヒートを誘発することが出来る。今の門村さんにとって最も必要なのは薬で抑えることなく早期にヒートを迎えること。本来ならばΩの症状が出ていなければならない時期に門村さんの体は薬によってその症状が抑えられていました。Ωにとってヒートは辛いものかもしれませんが、それ自体がないというのはΩの寿命にとっては致命的です。ただでさえΩは番を見つけないと寿命が……ああ、この話は今直接関係ないので割愛しますが、とにかく一刻も早く門村さんが自覚するような明確な発情期を迎える必要があります。勿論、戸賀井と暮らすという選択ではなく、一時的にご実家に戻られても結構です」
 今すぐに決めて欲しいという意思を感じる。雄大にとって最善の策を自分で考え、短い時間で決めろという。
「……」
 バース性専門医を目指す研修医と、詳しい知識もなく雄大を前にめそめそと泣くだけになりそうな両親。寿命のことまで話に出されてしまえば、どちらと暮らすかなど天秤にかけるまでもない。
「……と、戸賀井さんと暮らすことにします」
 答えたらぎゅうっと強く手を握られた。まるで正しい選択をしたと褒められているようだ。
 手の温もりに励まされ促されるように、サポートしてください、と雄大は軽く頭を下げる。自分のせいでこうなったわけではないのに、生来Ωは穏やかで他人との諍いを好まないという自分の中にしっかりと根付いたΩの血に呆れてしまう。

 門村雄大、三十四歳、α――ではなく、医療過誤によりΩであったことが判明し、年若い男と同居することがたった今決まった。
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