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30話ー二度目のヒート
しおりを挟む付き合っていたわけではないから一般的な恋人同士が迎える別れとは違う。
前向きに捉えて、戸賀井との関係がまだ始まっていないとするならばここからもう一度挽回して新たに関係を築けるのではないかと考えもする。だが、彼に拒絶されたのはかなり堪えた。
戸賀井の意思が固く、断り続けられたらあれを何度も食らうことになる。耐えられるか分からない。
では諦めようか。
手を一度打ち鳴らして「はい、諦めました」と簡単に割り切れるものならこんなに辛い思いはしない。
戸賀井の自宅を訪ねた翌日から雄大は体調を崩した。
冷えた空気の中で彼を待っていたのと泣き過ぎたのが原因か、喉を痛めた。ただ、熱もなく、のど飴を舐めていればマシになるので雄大は出勤を続けた。
それから数日。喉の痛みは取れたのに、今度は怠さが全身に拡がり始めた。
この日も朝から倦怠感があったが、ここ数日と同じように熱はなかったため出勤をした。クリニックの予約日はまだ先なので、決められた量の抑制剤を飲んで、スラックスのポケットに緊急用の抑制剤も忍ばせて勤務していた。
ちょっとした事案が起きたのは昼休み。
三年生の女子生徒らに一緒に遊ぼうと誘われて教室から校庭に移動していた時のことだった。
「せんせー! 男子が喧嘩してるー!」
廊下で声を掛けられて現場に向かうと五年生の男子らが小競り合いをしている。雄大が駆け付けた時には養護教諭が既に居たが、男子らの剣幕に気圧されて手を出せる状態ではなかった。
「こらっ、やめなさい!」
腹の底から低い声を出すと拳を振り上げていた男子生徒の動きが止まった。
「話しを聞くから離れて」
周囲では喧嘩を見て泣いている生徒も居る。
いがみ合う生徒らを引き離したところで、雄大は足がよろめいた。眩暈だ。体調が悪いからだと思ったが、先日の頭痛の時とは違う感じがする。
胸の奥の不快感はあるが、せり上がってくるのは吐き気ではない。
ヒートが来たか、それとも前触れか。男子二人を引き剥がして、一人を養護教諭に任せたところで、彼らの担任の教諭が現れた。
助かったと息をついたら、担任教諭は生徒たちよりも先に雄大の元へ来て「大丈夫ですか」と声を掛けて来た。曰く、顔が真っ赤になっているらしい。
「大丈夫ではなさそうなので、任せても良いですか」
そうと言うと担任教諭は力強く頷いてくれた。雄大は唇を引き上げて無理矢理笑顔を作って階段を下りた。
生徒たちが集まっている。壁に手を付いて階段を下りながら「教室に戻りなさい」と声を掛けて行く。下まで下りたところで上から、キャーッと複数の女子生徒の叫び声が聞こえた。
振り返ると、先程引き離したはずの男子生徒らが暴れている。
小学五年生とはいえ、体は立派に育っている。二人同時に暴れたら大人が数人居なければ対応は難しいだろう。
やはり戻ろう。今しがた下った階段を再び上ろうと足を上げ、校内用にしているスニーカーの底を踏み締めたと思った瞬間、滑って階段を踏み外した。
今度は雄大の周辺で悲鳴が上がる。
思い切り前のめりに倒れて、何とか防御したものの顔面を自分の腕に打ち付けた。一瞬、頭の中が真っ白になって意識が飛ぶ。
「先生! 先生!」
「……ぁ、大丈夫、大丈夫だから」
手で体を支え、平気だよ、と生徒に声を掛ける。雄大が盛大に転げたお陰か、踊り場での騒ぎもすっかり沈静化していた。
「先生ぇ」
「大丈夫だよ」
「鼻血出てるよ」
「え」
生徒に言われて初めて鼻を啜る。思っていた以上に液体が鼻の方へ戻って来て、指で拭うと血が付着した。
「あ、ほんとだ」
「ハンカチ使っていいよ、先生」
「自分のがあるから。ありがとう」
渡されたものの、生徒の私物を血液で汚すのが忍びなくて、断りを入れてポケットから取り出したハンカチで鼻を覆う。
「すいません、一旦職員室に戻ります」
上へ声を掛けると、眩暈が起きる。担任教諭と養護教諭の反応も確認出来ないまま、雄大は遊ぶ約束をしていた女生徒たちに謝りを入れてから壁を伝いながら職員室へと戻った。
倒れただけではなく、鼻血まで出したことが作用して周囲に心配され、午後は受け持ちの授業もないので早退を勧められた。
校長にだけはヒートが来たかもしれないということを告げると、明日は休暇を取るよう言われて職員用の玄関を出る。
迷惑を掛けているという自覚があるから、家まで送ろうか、タクシーを呼ぼうか、という同僚の申し出を全て断ってしまった。
善意は受け取るものだなと若干前のめりになりながら震える膝に手を付いて職員用出入口の前に二段ある階段を下る。
自転車で帰れるだろうか。とりあえず鍵を取り出そうとリュックのポケットに手を突っ込む。掴み出した拍子に中に入っていたスマホも一緒に出て来て、高い位置から地面に向かって落ちた。
「……あぁー……」
元気一杯な子供たちの居る学校でも昼休みが終わり授業が始まると静かなものだ。
雄大の落胆の声ははっきりと玄関前で響いた。
裏返しになって床に伏せているスマホを拾い上げる。今時画面を保護するシートも貼り付けていなかったスマホは上部が激しく傷付き、画面には小さなヒビが入っている。前に同僚に勧められた時に貼っておけば良かったと後悔してももう遅い。
今一度溜息を吐くと重い体を引き摺って、短い距離を引き返して雄大は職員室へ戻った。
殆どの教員が授業のために出払っており、事務員にタクシーを呼んで貰い再び外へと出る。
ひび割れたスマホ画面を見ながら戸賀井に連絡しようか迷う。
ヒートが来たから助けてくれ? もう触らないと言われたのに? 戸賀井は優しいから緊急事態だと言って呼び出せば来てくれるだろう。
でもそれでどうなる。セックスして中に出して貰って、それで? 番にはならないと言われたのに、それでは虚しいだけじゃないか。ヒートを抑えるためだけの関係なら欲しくない。バース性も発情期も、何もかも関係なく戸賀井が欲しい。頭のてっぺんから爪先まで丸ごと欲しい。
戸賀井のことばかりを考えていると腹の奥が痛いほどに疼いて来る。職員用の門の前にタクシーが停まって、雄大はそちらに向かい歩き出す。柔らかな風が頬を撫でるだけで欲情してしまう。間違いなくヒートが来ている。
手に握り込んだスマホが震えて、その刺激で「ぁ」と声が漏れる。手元に目を落とすと、上部は割れているが受信したメッセージはギリギリ読むことが出来た。
翔からだった。謝りたい、とある。あの日のことをだろう。でも謝罪は必要じゃない。
雄大が欲しいものは翔からは得られない。欲しくないものは幾ら与えられても満たされることはない。雄大は返信をせずに、スマホを適当にスラックスのポケットに突っ込んだ。
タクシーに乗り込む前に車内を覗き、ダッシュボードを確認する。氏名の掲示はされていないがバース性だけは表示されていて、運転手がβであることを確認すると乗り込むために身を屈める。
その瞬間に再びスマホを落とした。
今度はそんなに高い位置からではなかったが、歩道と車道を区切る縁石に当たったので、もう画面は駄目だろうなとスマホを拾い上げた。
案の定、ヒビは拡がり画面全体が真っ黒になっている。もう翔からのメッセージも読むことが出来ない。それだけではなく、もう誰にも連絡出来ない。勿論、戸賀井にも。
そのままタクシーに乗り込む。「大丈夫ですか」と聞かれ、大丈夫ではなかったが、だからといって運転手に頼めることは何もないので雄大は「大丈夫です」と答えた。
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