この手に抱くぬくもりは

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紅茶の香りと沈黙

7話 小さな約束、壊れる予感

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レオニスが帰っていったあとも、ルシアンはしばらく部屋に立ち尽くしていた。
驚きと安堵、そしてほんの少しの戸惑いが、胸の奥で静かに交差している。

(……閉じ込められていたわけじゃなかったんだ)

たったそれだけのことなのに、肩の荷が少し下りたような気がした。
けれど——

(……レオニス様って、少し言葉が足りない方なのかもしれない)

自然と、そんな感想が浮かぶ。
初日に投げかけられた、あの冷たい言葉。

「私は今の妻を愛している。家庭を乱すつもりはない。
ただ、君は正式に“嫁いできた”以上、発情期の対応を求めるなら、それには応じるつもりだ」

あの時の冷淡さと、今夜見せた不器用な優しさ。
どうして、あれが同じ人の言葉なのか、信じられない。

(……あの人にも、余裕がなかったのかもしれない)

そう思ってみても、答えは分からない。
けれど、それでも——

ほんの少し、この場所での暮らしに「希望」のようなものを感じていた。

「……疲れたな」

小さくつぶやいて、ルシアンはベッドにもぐり込む。
力が抜けていく感覚に身を委ねながら、静かに目を閉じた。

その夜、久しぶりに夢も見ず、深く眠ることができた。



レオニスが夜更けに訪れてから、わずかな日が流れた。

ルシアンの暮らしは、驚くほど穏やかで、静かで、温かい。
それは、かつて想像すらできなかった“平穏”という名の贅沢だった。

ある日、レティーナから新しい手紙が届いた。

『またお茶をご一緒できませんか? この間お好きだと話されていたアップルパイを、焼かせていただきます』

その一文に、ルシアンは思わず目を細めた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。

(アップルパイ……楽しみだな)

自然と、頬が緩んだ。

そんなルシアンの様子を、扉口から覗いていたハンナが微笑んでいたことに、彼はまだ気づいていなかった。



その日、ルシアンは朝からどこかそわそわしていた。
レティーナとのお茶会が楽しみなのはもちろん、心を浮き立たせていた理由はもう一つ。

昨夜、レオニスから届いた一着の服と、添えられた短い手紙だった。

『この服を着て、レティーナとのお茶を楽しんでほしい』

前回のお茶会で、着る服に迷っていたことを、誰かから聞いたのだろう。
そのさりげない気遣いが、胸に沁みた。

着替え終わった頃、ハンナが迎えに来た。

「まぁ……なんて、よくお似合いなのかしら」

その一言に、ルシアンは頬を染めるしかなかった。



ハンナに連れられて向かったのは、前回と同じ、陽光と花に包まれた庭園。
白いテーブルの上には、ほんのり甘い香りのアップルパイ。
そしてその向こうには、変わらぬ優しさをたたえたレティーナの笑顔。

ルシアンの頬に、自然と笑みが浮かんだ。
かつて、こんなふうに微笑む自分がいるとは、思いもしなかったのに——。



今日のお茶会も、柔らかい時間が流れていた。

手芸の話。庭で見つけた花の話。
他愛のないやりとりが、なぜこんなにも心地いいのだろう。

ふと気づけば、まるで昔からの友人のように感じていた。

風がテーブルをそっと撫でた頃、レティーナがカップを置き、少しだけ考えるような間をおいた。

「ルシアン様……今度のお茶会に、ユリウス——私の子どもを連れてきてもよろしいでしょうか?」

その一言に、ルシアンの胸がふっと温かくなる。
驚きと、そしてそれ以上の喜びが広がった。

昔の自分なら、戸惑いのほうが勝っていたかもしれない。
(なぜ、子どもとまで……?)と。

けれど今は違った。

レティーナを信頼している今だからこそ、彼女の子ども——レオニスとの子に会えることが、ただ嬉しかった。

なにより、自分を“子どもに会わせてもいい存在”だと見てくれたことが、嬉しかった。

ルシアンは、そっと微笑み、小さく頷いた。



お茶会が終わっても、頬の熱はしばらく冷めなかった。
ユリウスに会える。
また、レティーナと時間を過ごせる。

そんなささやかな期待が、心に灯ったままだった。

けれど、それから数日が経ったある日——。

ルシアンは、本館の空気がどこか張りつめていることに気づく。
足音が速く、声に落ち着きがない。

(……何かあったの?)

言い知れぬ不安が胸をざわつかせ、気がつけば庭を通って本館の方へと歩いていた。

そこで花壇のそばにいたハンナを見つけ、思わず声をかける。

「ハンナ……なにかあったの? 本館がちょっと騒がしくて……」

ハンナは一瞬、言葉を飲み込むように目を伏せ、静かに答えた。

「——レティーナ様が、倒れられました」

その言葉は、冷たい水を浴びせられたようだった。

信じたくない。
理解したくない。

けれど、ハンナの沈んだ表情が、それが現実だと静かに告げていた。
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