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紅茶の香りと沈黙
10話 この命を、あなたは望みますか
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翌朝、目を覚ますと、隣には誰もいなかった。
シーツに残っていたはずのぬくもりはすっかり消え、冷たい空気だけが漂っていた。
レオニスは、どこにもいなかった。
声も、足音も、気配すらも残さずに——
——やっぱり、私は……
その日からの記憶は、どこか霞がかっている。
けれど、ひとつだけ、はっきりしていることがあった。
レオニスも、ハンナも、セバスも。
誰ひとりとして、別館に姿を見せなくなった。
ルシアンは静かに問いかける。
(……私、何かしてしまったのだろうか)
思い浮かぶのは、あの夜のことだけ。
交わってしまったこと。拒めなかったこと。何も言えなかった自分。
——それがいけなかったのか。
それとも最初から、ただの“義務”だったのか。
部屋に来るのは、セシリアだけだった。
「……全部、あなたが悪いんですよ」
そう言って、淡々と食事を置いていく。
その何気ない一言が、毎日、胸を締めつけた。
(やっぱり私は……ここにいてはいけなかったのかもしれない)
せっかく掴みかけた温もりが、指の隙間から零れていくように。
再び、心が灰色の霧に包まれていく。
ルシアンはまた、前の自分に戻ってしまった。
誰にも望まれず、必要ともされず。
ただ、生きているだけの、透明な存在に——
あの日から、食欲は徐々に失われていった。
無理に口にしても、すぐに喉の奥が詰まり、何度も吐いてしまった。
体が拒絶しているのか、心が限界なのか。
どちらにせよ、ただ苦しい。
(きっと、私は……もう必要ないんだ)
そう思うと、空腹よりも、喉の渇きよりも、心の痛みの方が勝った。
外に出られない日も増えていた。
別館の扉には鍵がかけられていることもあり、セシリアはその理由を語ろうともしない。
ただ、いつものように冷たく皿を下げていくだけだった。
(……きっと、嫌われてるんだ)
そう思うのも当然だった。こんな存在、誰も好いてくれるはずがない。
ルシアンはますます言葉を失っていった。
それがいつだったかは思い出せない。
朝だったのか、夜だったのか——
ただ、膝を床について、指が絨毯に触れたその瞬間。
視界がぐらりと揺れた。
何かが崩れ落ちるような音がした。
それは自分の体が倒れた音だったのかもしれない。
頬に冷たい石の感触が触れた。
遠くで誰かが呼ぶ声がした気がした。
けれどそれも、夢か現か分からない。
——こんな終わり方でも、いいかもしれない。
そう思った時、ルシアンの意識は、闇に沈んだ。
⸻
目を覚ますと、そこは見慣れた別館の天井だった。
体が重く、頭の芯がじんわりと熱を帯びている。
(私は……倒れたはず……)
視線を巡らせると、部屋の隅に三人の姿があった。
セバス、セシリア、そして見知らぬ医師。
医師が静かに口を開いた。
「ルシアン様、あなたは……妊娠しております。」
その言葉が落ちた瞬間、世界から音が消えた。
(……妊娠?)
なぜ。いつ。どうしよう——
思考はぐるぐると混乱し、出口を見つけられない。
(レオニス様は……なんて言うだろう?)
あの日以来、一度も姿を見ていない。
言葉も交わせず、ただ日々が過ぎていくだけだった。
胸の奥で、不安だけが膨らんでいく。
(この子の存在を……迷惑に思うんじゃないか)
冷たい感覚が身体を包んだ、その時——
「……ルシアン様」
セバスの声が優しく響いた。
「ご安心ください。大丈夫です。あなたも、お子様も。
何があっても、私どもが必ずお守りいたします」
その穏やかな声に、ルシアンの瞳に涙が滲んだ。
(“大丈夫”——たったそれだけの言葉が、こんなに温かいなんて……)
胸が詰まり、うまく息ができなかった。
医師は「しばらくは安静に」とだけ伝え、部屋を後にした。
セバスも「旦那様にご報告いたします」と言い残し、静かに去っていった。
残されたのは、ルシアンとセシリアだけ。
部屋に静寂が満ちる中、セシリアが口を開いた。
「……おめでたいこと、かもしれませんけど」
足音を響かせながら、ゆっくりと近づいてくる。
「きっと旦那様は……お困りになるでしょうね」
ルシアンの目が揺れる。
「奥様を亡くされたばかりで、お子様まで……
しかも相手が、あの日突然押しつけられた“側室”のあなたじゃ、ねぇ」
その言葉は静かに、けれど鋭く心に突き刺さった。
何も言い返せなかった。
反論しようにも、その言葉は、ずっと心の奥で自分自身がささやいていたものだった。
(本当に……迷惑なんじゃないか)
(私がいなければ、あの人は——)
膝の上で、強く指を絡めた。
爪が肌に食い込んでも、何も感じなかった。
セシリアは無言で紅茶のトレイを置き、
「お身体、お大事に。……お子様のためにも、ね」
そうだけ言い残し、静かに扉を閉めた。
薄暗い天井を見上げながら、
ルシアンは、胸の奥から溢れそうになる感情を、ただ、噛みしめていた。
シーツに残っていたはずのぬくもりはすっかり消え、冷たい空気だけが漂っていた。
レオニスは、どこにもいなかった。
声も、足音も、気配すらも残さずに——
——やっぱり、私は……
その日からの記憶は、どこか霞がかっている。
けれど、ひとつだけ、はっきりしていることがあった。
レオニスも、ハンナも、セバスも。
誰ひとりとして、別館に姿を見せなくなった。
ルシアンは静かに問いかける。
(……私、何かしてしまったのだろうか)
思い浮かぶのは、あの夜のことだけ。
交わってしまったこと。拒めなかったこと。何も言えなかった自分。
——それがいけなかったのか。
それとも最初から、ただの“義務”だったのか。
部屋に来るのは、セシリアだけだった。
「……全部、あなたが悪いんですよ」
そう言って、淡々と食事を置いていく。
その何気ない一言が、毎日、胸を締めつけた。
(やっぱり私は……ここにいてはいけなかったのかもしれない)
せっかく掴みかけた温もりが、指の隙間から零れていくように。
再び、心が灰色の霧に包まれていく。
ルシアンはまた、前の自分に戻ってしまった。
誰にも望まれず、必要ともされず。
ただ、生きているだけの、透明な存在に——
あの日から、食欲は徐々に失われていった。
無理に口にしても、すぐに喉の奥が詰まり、何度も吐いてしまった。
体が拒絶しているのか、心が限界なのか。
どちらにせよ、ただ苦しい。
(きっと、私は……もう必要ないんだ)
そう思うと、空腹よりも、喉の渇きよりも、心の痛みの方が勝った。
外に出られない日も増えていた。
別館の扉には鍵がかけられていることもあり、セシリアはその理由を語ろうともしない。
ただ、いつものように冷たく皿を下げていくだけだった。
(……きっと、嫌われてるんだ)
そう思うのも当然だった。こんな存在、誰も好いてくれるはずがない。
ルシアンはますます言葉を失っていった。
それがいつだったかは思い出せない。
朝だったのか、夜だったのか——
ただ、膝を床について、指が絨毯に触れたその瞬間。
視界がぐらりと揺れた。
何かが崩れ落ちるような音がした。
それは自分の体が倒れた音だったのかもしれない。
頬に冷たい石の感触が触れた。
遠くで誰かが呼ぶ声がした気がした。
けれどそれも、夢か現か分からない。
——こんな終わり方でも、いいかもしれない。
そう思った時、ルシアンの意識は、闇に沈んだ。
⸻
目を覚ますと、そこは見慣れた別館の天井だった。
体が重く、頭の芯がじんわりと熱を帯びている。
(私は……倒れたはず……)
視線を巡らせると、部屋の隅に三人の姿があった。
セバス、セシリア、そして見知らぬ医師。
医師が静かに口を開いた。
「ルシアン様、あなたは……妊娠しております。」
その言葉が落ちた瞬間、世界から音が消えた。
(……妊娠?)
なぜ。いつ。どうしよう——
思考はぐるぐると混乱し、出口を見つけられない。
(レオニス様は……なんて言うだろう?)
あの日以来、一度も姿を見ていない。
言葉も交わせず、ただ日々が過ぎていくだけだった。
胸の奥で、不安だけが膨らんでいく。
(この子の存在を……迷惑に思うんじゃないか)
冷たい感覚が身体を包んだ、その時——
「……ルシアン様」
セバスの声が優しく響いた。
「ご安心ください。大丈夫です。あなたも、お子様も。
何があっても、私どもが必ずお守りいたします」
その穏やかな声に、ルシアンの瞳に涙が滲んだ。
(“大丈夫”——たったそれだけの言葉が、こんなに温かいなんて……)
胸が詰まり、うまく息ができなかった。
医師は「しばらくは安静に」とだけ伝え、部屋を後にした。
セバスも「旦那様にご報告いたします」と言い残し、静かに去っていった。
残されたのは、ルシアンとセシリアだけ。
部屋に静寂が満ちる中、セシリアが口を開いた。
「……おめでたいこと、かもしれませんけど」
足音を響かせながら、ゆっくりと近づいてくる。
「きっと旦那様は……お困りになるでしょうね」
ルシアンの目が揺れる。
「奥様を亡くされたばかりで、お子様まで……
しかも相手が、あの日突然押しつけられた“側室”のあなたじゃ、ねぇ」
その言葉は静かに、けれど鋭く心に突き刺さった。
何も言い返せなかった。
反論しようにも、その言葉は、ずっと心の奥で自分自身がささやいていたものだった。
(本当に……迷惑なんじゃないか)
(私がいなければ、あの人は——)
膝の上で、強く指を絡めた。
爪が肌に食い込んでも、何も感じなかった。
セシリアは無言で紅茶のトレイを置き、
「お身体、お大事に。……お子様のためにも、ね」
そうだけ言い残し、静かに扉を閉めた。
薄暗い天井を見上げながら、
ルシアンは、胸の奥から溢れそうになる感情を、ただ、噛みしめていた。
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