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紅茶の香りと沈黙
9話 悲しみが濡らす夜
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レオニスが別館を訪れてから、数日が過ぎた。
その出来事は、ルシアンの胸に深い余韻を残していた。
あの一瞬の抱擁が、たとえ気まぐれや思い違いだったとしても——
心が温かくなったのは確かなことだった。
けれど、その穏やかさは、まるで幻のように儚く消え去った。
穏やかな時間の陰で、セシリアの態度に微かな違和感を覚えることもあった。
その冷たさの奥には、まるで「私さえここにいなければ」とでも言いたげなものが潜んでいるように感じられた。
男のオメガである自分を、どこか蔑んでいるのでは――そんな気配が、説明しづらい不快さとなって胸に残った。
最初はごく小さな違和感だった。
朝の挨拶に笑顔がなくなり、差し出される紅茶のカップがどこか乱雑になる。
言葉の端々にも、ひんやりとした冷たさが滲んでいた。
「……なにか、怒らせるようなことをしてしまったのだろうか」
思い当たる節はなかったが、それでもルシアンは自分を責めた。
さらに、数日前からは、外へ出ようとすると扉が開かないことが増えた。
(鍵……?)
偶然とは思えないほどの頻度だった。
この屋敷では、時折、必要に応じて別館の扉が厳重に管理されることがある。
レオニスに言うべきか迷ったが、まだ頻度は少なく、言い出せずにいた。
——何かが、静かに、少しずつ狂い始めている。
それでも、ルシアンが本館に行くことは自然とためらわれた。
セシリアやセバスに迷惑をかけるかもしれない——そう考えるだけで、足は自然と止まる。
本館には、側室である自分が自由に出入りできない空気があることも知っていた。
この距離から、ただ静かに様子を見守るしかない——そう自分に言い聞かせた。
そんな疑念を抱きながらも、時は過ぎていった。
気がつけば、この屋敷に来て二年が経っていた。
レオニスは時折、顔を見せに来た。
そのたびに、レティーナの様子を話してくれた。
状態は一進一退だったが、彼の口ぶりには、かすかに希望が混じっていた。
けれど——
その朝は、なにかが違っていた。
不自然なほど早く目が覚めた。
眠れない理由もないのに、胸の奥がざわついて落ち着かない。
窓の外の空気が重たい。
鳥のさえずりすら、遠くくぐもって聞こえる。
そして、セシリアが姿を見せなかった。
(いつもなら朝食の支度に来るはずなのに……)
不安が胸の中で膨らんでいく。
そして夜——
その不安は、現実となった。
久しぶりに、セバスが別館を訪れた。
いつも穏やかで丁寧なあの執事が、扉を叩いたときの気配は、ひどく重苦しかった。
「……こんばんは、ルシアン様」
その声だけで、すべてを悟った。
「……レティーナ様が、先ほど……お亡くなりになりました」
その言葉は、氷の刃のように胸に突き刺さった。
「……そんな……そんなはず、ない……」
呆然と呟いた声に、実感はなかった。
セバスの言葉を聞きながら、頭の中が真っ白になる。
理解したくなかった。
認めたくなかった。
あの優しい声、静かな微笑み、温かく差し伸べられた手。
(レティーナ様が……?)
「……うそ……あんなに、やさしかったのに……」
涙が止まらなかった。
天を呪うように、ルシアンは何度も頭を抱え、床に膝をついた。
神とは、なんて残酷なのだろう。
あんなにも美しく、気高く、優しい人を——なぜ、連れて行ってしまうのか。
……
数日後、ルシアンは人目を避けて、ひっそりと葬儀に出席させてもらった。
黒いヴェール越しに見た棺の姿は、まるで夢の中の光景のようで、記憶が霞んでいく。
そして——その日。
雨が静かに屋根を叩いていた。
重く湿った空気が、別館の空間を満たしている。
ルシアンは熱を持つ身体を布で包み、静かに横になっていた。
発情期が近いと察し、薬を飲んで安静にしている。
そのとき——
トントン、と控えめなノックが響いた。
「……はい」
返事をして立ち上がろうとした瞬間——
——ガチャッ。
返事を待たず、扉が勢いよく開いた。
雨の匂いとともに立っていたのは、レオニスだった。
彼は言葉もなく、まっすぐルシアンの元へ歩み寄ると、
バタン、と扉を強く閉めた。
湿った空気が、一気に張り詰める。
レオニスの瞳は、どこか理性を失っていた。
濡れた外套のまま部屋に入り込み、目の奥には深い翳り。
焦点の合わない視線——苛立ちと混乱、そして自己嫌悪が渦巻いている。
(まずい……いまの彼は、理性よりも感情が先に出てしまっている……)
ルシアンは距離を取ろうと、わずかに後ずさる。
自分の発するフェロモンが彼に触れたら、何かが壊れてしまう気がした。
「レオニス様……今は……近づかない方が……」
言葉が終わる前に、レオニスが覆いかぶさる。
「……なぜ……」
雨の匂いを帯びた吐息が頬にかかる。
肩を強く抱き寄せられ、痛みすら感じるほどだった。
「なぜ君は、そんな目で俺を見る……なぜ、何も言わない……!」
苛立ちに見えるその声——
けれどその奥には、怒りだけでなく、混乱と自責の色が滲んでいる。
ルシアンには、彼の胸の内の深さまではわからない。
ただ、何か大切なものを失った痛みが、理性を押し流していることだけは感じ取れた。
「……わたし、は……」
言葉が震える。
フェロモンが空気を満たし、本能が思考を上書きしていく。
レオニスの手が肌に触れる。
身体は拒まず、熱を帯びていく。
でも——心は、置き去りだった。
涙がひとしずく、頬を伝う。
(どうして……こんなことに……)
(レティーナ様……あなたがいない今、私は……あなたの代わりなの……?)
答えのない夜が、静かに、痛みとともに過ぎていった。
その出来事は、ルシアンの胸に深い余韻を残していた。
あの一瞬の抱擁が、たとえ気まぐれや思い違いだったとしても——
心が温かくなったのは確かなことだった。
けれど、その穏やかさは、まるで幻のように儚く消え去った。
穏やかな時間の陰で、セシリアの態度に微かな違和感を覚えることもあった。
その冷たさの奥には、まるで「私さえここにいなければ」とでも言いたげなものが潜んでいるように感じられた。
男のオメガである自分を、どこか蔑んでいるのでは――そんな気配が、説明しづらい不快さとなって胸に残った。
最初はごく小さな違和感だった。
朝の挨拶に笑顔がなくなり、差し出される紅茶のカップがどこか乱雑になる。
言葉の端々にも、ひんやりとした冷たさが滲んでいた。
「……なにか、怒らせるようなことをしてしまったのだろうか」
思い当たる節はなかったが、それでもルシアンは自分を責めた。
さらに、数日前からは、外へ出ようとすると扉が開かないことが増えた。
(鍵……?)
偶然とは思えないほどの頻度だった。
この屋敷では、時折、必要に応じて別館の扉が厳重に管理されることがある。
レオニスに言うべきか迷ったが、まだ頻度は少なく、言い出せずにいた。
——何かが、静かに、少しずつ狂い始めている。
それでも、ルシアンが本館に行くことは自然とためらわれた。
セシリアやセバスに迷惑をかけるかもしれない——そう考えるだけで、足は自然と止まる。
本館には、側室である自分が自由に出入りできない空気があることも知っていた。
この距離から、ただ静かに様子を見守るしかない——そう自分に言い聞かせた。
そんな疑念を抱きながらも、時は過ぎていった。
気がつけば、この屋敷に来て二年が経っていた。
レオニスは時折、顔を見せに来た。
そのたびに、レティーナの様子を話してくれた。
状態は一進一退だったが、彼の口ぶりには、かすかに希望が混じっていた。
けれど——
その朝は、なにかが違っていた。
不自然なほど早く目が覚めた。
眠れない理由もないのに、胸の奥がざわついて落ち着かない。
窓の外の空気が重たい。
鳥のさえずりすら、遠くくぐもって聞こえる。
そして、セシリアが姿を見せなかった。
(いつもなら朝食の支度に来るはずなのに……)
不安が胸の中で膨らんでいく。
そして夜——
その不安は、現実となった。
久しぶりに、セバスが別館を訪れた。
いつも穏やかで丁寧なあの執事が、扉を叩いたときの気配は、ひどく重苦しかった。
「……こんばんは、ルシアン様」
その声だけで、すべてを悟った。
「……レティーナ様が、先ほど……お亡くなりになりました」
その言葉は、氷の刃のように胸に突き刺さった。
「……そんな……そんなはず、ない……」
呆然と呟いた声に、実感はなかった。
セバスの言葉を聞きながら、頭の中が真っ白になる。
理解したくなかった。
認めたくなかった。
あの優しい声、静かな微笑み、温かく差し伸べられた手。
(レティーナ様が……?)
「……うそ……あんなに、やさしかったのに……」
涙が止まらなかった。
天を呪うように、ルシアンは何度も頭を抱え、床に膝をついた。
神とは、なんて残酷なのだろう。
あんなにも美しく、気高く、優しい人を——なぜ、連れて行ってしまうのか。
……
数日後、ルシアンは人目を避けて、ひっそりと葬儀に出席させてもらった。
黒いヴェール越しに見た棺の姿は、まるで夢の中の光景のようで、記憶が霞んでいく。
そして——その日。
雨が静かに屋根を叩いていた。
重く湿った空気が、別館の空間を満たしている。
ルシアンは熱を持つ身体を布で包み、静かに横になっていた。
発情期が近いと察し、薬を飲んで安静にしている。
そのとき——
トントン、と控えめなノックが響いた。
「……はい」
返事をして立ち上がろうとした瞬間——
——ガチャッ。
返事を待たず、扉が勢いよく開いた。
雨の匂いとともに立っていたのは、レオニスだった。
彼は言葉もなく、まっすぐルシアンの元へ歩み寄ると、
バタン、と扉を強く閉めた。
湿った空気が、一気に張り詰める。
レオニスの瞳は、どこか理性を失っていた。
濡れた外套のまま部屋に入り込み、目の奥には深い翳り。
焦点の合わない視線——苛立ちと混乱、そして自己嫌悪が渦巻いている。
(まずい……いまの彼は、理性よりも感情が先に出てしまっている……)
ルシアンは距離を取ろうと、わずかに後ずさる。
自分の発するフェロモンが彼に触れたら、何かが壊れてしまう気がした。
「レオニス様……今は……近づかない方が……」
言葉が終わる前に、レオニスが覆いかぶさる。
「……なぜ……」
雨の匂いを帯びた吐息が頬にかかる。
肩を強く抱き寄せられ、痛みすら感じるほどだった。
「なぜ君は、そんな目で俺を見る……なぜ、何も言わない……!」
苛立ちに見えるその声——
けれどその奥には、怒りだけでなく、混乱と自責の色が滲んでいる。
ルシアンには、彼の胸の内の深さまではわからない。
ただ、何か大切なものを失った痛みが、理性を押し流していることだけは感じ取れた。
「……わたし、は……」
言葉が震える。
フェロモンが空気を満たし、本能が思考を上書きしていく。
レオニスの手が肌に触れる。
身体は拒まず、熱を帯びていく。
でも——心は、置き去りだった。
涙がひとしずく、頬を伝う。
(どうして……こんなことに……)
(レティーナ様……あなたがいない今、私は……あなたの代わりなの……?)
答えのない夜が、静かに、痛みとともに過ぎていった。
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