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4章
2 帽子屋はアリスにご執心
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2.
ポツポツと小さな音が窓を叩いていた。現実では身近なその音に目を覚まし、僕はベッドから身体を起こした。
窓の外は灰色で、大量の水滴が滴っている。ポツポツと小さくも、沢山の水滴が窓を叩く音が雨であると気づくのに、僕はほんの少しの時間を要した。
僕はベッドから立ち上がり、アマネの側へと行く。アマネはベッドで眠ったまま微動だにしない。顔の前に手を差し込むとそこに呼吸はなく、身体を脈打つ鼓動もないのに、身体は温かくて生き物としての機能を失っていないことだけが確かに分かった。
時間が止まっている。窓の外に見える人々も何かの行動の途中のまま、人形のように止まっていた。僕は慌てて自分が寝ていたベッド脇に置いていた傘を手に取り、階段を駆け下りた。
「ジャッジ!」
随分と長いこと再会するべく探し続け、もう1ヶ月以上が経過していた。僕は白兎の名前を叫びながら、傘をさして外へ飛び出す。
外は視界が烟るような雨。霧がかってるようにすら見える灰色の背景の中、遠くにぼんやりと見える白い影があった。
真っ白なガーゼのような生地で作られた、裾を意図的にほつれさせたようなコート、白いワイシャツにコートと同じガーゼ生地の長いスカート。スカートの下に見えるズボンこそ黒いが、ブーツまで白で固めたその人物はまるで幽霊のようだ。
真っ白な髪と肌に囲まれた真っ赤な瞳だけがヤケに浮いて見える。片耳しかない白い兎の耳を持った華奢な男性は白い傘を手に僕を見つめていた。
「アスカ」
抑揚のない声で表情1つ変えずに彼は僕の名前を呼ぶ。僕は水溜まりを踏みつけるようにして彼の元へと一目散に走った。
「ジャッジさん!やっと会えた!」
「久しぶり。随分と大きく育ったものだ」
ようやく会えた命の恩人に僕が笑うと、ジャッジは相変わらずピクリとも表情を動かさずに、僕の姿に下から上へと視線を滑らせて言った。
「こんなに育ったジャバウォックは初めて見る。それが貴方の選んだ姿なのか」
感嘆とも批判ともとれない口調で淡々と話す彼に僕は何度も小さく頷いた。
「うん、うん…!あなたが僕に助言をくれたからここまで生きてこられました!本当にありがとう…!」
「私は何もしていない。全てはアスカが自ら選択を重ねた成果だ」
彼は僕の言葉に初めて会った時と同じような返答を寄越すと、そのまま間を開けずに続けた。
「私は貴方を探していた。あまり時間がないので、まずは要件を先に伝えたい」
「要件…?」
ジャッジの周囲は時間が止まる。それなのに、時間がないというのは何事だろう。僕は何から話せばいいのか迷うほど、彼に話したいことがあるというのに。
首を傾げる僕にジャッジは頷いて話を続けた。
「帽子屋が補充された。彼はアリスの元へと向かうだろう。アスカには、帽子屋とアリスの合流を防ぐ手伝いを頼みたい」
彼の言葉に僕は目を丸くする。5年もずっと欠員のまま補充されたことのなかった帽子屋が、何故今更のように補充されたのだろう。
いや、補充に理由などないのかもしれないが、何にせよミズキとの合流を阻止しなくてはならない理由が分からなかった。
「眠り鼠も最初の帽子屋を殺したと言ってましたけど、帽子屋って何がそんなにアリスに影響を出すんですか?凄い力を持ってるとか…?」
おずおずと尋ねると、ジャッジは首を縦にも横にも振らなかったが、ただ目を瞬かせて口を開いた。
「帽子屋の能力は変幻。彼が持つ特殊な帽子を使えば、彼が思うように自身の姿を変えることが出来る。彼はアリスの傍にいれば、アリスが望む人物へと変化するだろう」
「…それが何か悪いことなんですか?」
ジャッジの言葉は相変わらず謎かけのようだ。要領を得ない回答に僕が顔をしかめると、彼は表情を変えずに話を続けた。
「彼はアリスに優しく、甘い。甘さは過ぎれば毒になる。過度に甘やかされ続け、肯定され続けると、人間は自分が何か過ちを犯した時に己を省みることが出来なくなる。アリスがそのような状態になり、傲慢になっていくと、この世界そのものの環境が悪化する。今は美しく咲くだけの薔薇の庭園も茨だらけになり、誰も立ち入ることが出来なくなるだろう」
「待ってください。帽子屋は新しく補充されるんですよね?なんでその未来が確定したように話すんですか?」
この世界を作るのはアリスであるミズキ。ミズキのさじ加減で世界が作り替えられるのであれば、ミズキの心持ち次第で環境が悪化する原理は理解できなくもない。
しかし、ミズキがまだ見ぬ帽子屋と関わることでそこまで劣悪な環境を作るとは僕には思えなかった。何より、何も見ずにそれをジャッジが危惧するとは思えない。ジャッジとは短い時間しか過ごしたことはないが、彼らしくないと思ったのだ。
「今のアリスには前科がある」
淡々と彼は僕に返答する。
「帽子屋は唯一、現実に人として存在していない配役だ。彼は自身の姿にアリスの希望を詰め込み、アリスが望む都合の良い人間を演じる。アリスを堕落させ、この世界から離れて行かないように甘やかしてしまう」
ジャッジの言葉に僕は黙る。言葉が出なかった。
帽子屋は現実に存在する人間ではない…?この世界と共に生まれた、空想上の人物と言うことだろうか。空想上の人物なら、確かに補充されても前に起きた記憶なり行動なりを引き継いでいても何もおかしくはない。
しかし、前科があると言われてしまうと、まるでミズキが一度その道を辿ったようじゃないか。ミズキは帽子屋に甘やかされ、世界を腐らせたのだろうか。
彼女ならそんなことしないはず…そう思いかけて、僕の脳裏に先日の出来事が蘇る。
ミズキは確かにフロージィたちの同意を得てから初めて僕にキツく当たった。彼女は誰かの庇護を得ていなければ、驚くほど引っ込み思案なのだ。そう考えれば悔しいが、確率は確かにゼロとは言いきれなかった。
「ミズキ…アリスは前にそうしてここに残ったんですか?」
「どちらかと言えば、他意的に縛られたという表現が近いかもしれない」
僕の問にジャッジはただ僕を真っ直ぐに見つめたまま頷いた。
「最初の茶会での出来事だ。殺された帽子屋は無条件にアリスを愛し、アリスは帽子屋に依存した。森は茨だらけになり、土はぬかるみ、空は淀んだ。アリスと帽子屋の周囲だけに薔薇が咲き、甘い匂いが漂う妙な空間だった」
まるで見たことがあるような口ぶりでジャッジは言う。いや、見たことがあるのだろう。彼は憶測だけで結論を出す人ではない。
「腐りゆく世界に嫌気がさした初代の三月兎は帽子屋にアリスの目の前で危害を加え、アリスを殺そうと刃を向けた。アリスを守ったのは眠り鼠。アリスに夢中になっていた三月兎を背後から刺し殺した。その日の森は血の海になっていた」
ジャッジの口から出てくる当時の話に僕は絶句する。初代の三月兎が死んだ詳細について、誰も話そうとしなかったが、そんな経緯があったとは知らなかった。いや、実際に誰も話そうとしなかったのだから、情報自体が外に広がることがなかったのかもしれない。
しかし、フロージィは帽子屋は自分が殺したと言っていたはずだが、これではフロージィはただアリスを守っただけになる。
「帽子屋は三月兎に殺されたんですか?」
「帽子屋を殺そうと最初に行動したのは三月兎だが、留めを刺したのは眠り鼠だ。凄惨な茶会を見て心に傷を負ったアリスの記憶を彼女は眠らせ、ミズキには帽子屋は死んだと伝えて退避させた後に、眠り鼠が改めて葬った。世界が、アリスがおかしくなった原因は帽子屋だと思ったのは、三月兎も眠り鼠もその点においては合致していたようだ」
烟る雨の中でジャッジは僕の質問に答えると、僕とすれ違うように歩き出す。
「私がいれば周囲の世界の時間は止まるが、アリスと帽子屋は止まらない。もう行かなくては」
「待って!」
僕はジャッジの腕を掴んで引き止める。ジャッジは相変わらず能面のように表情を変えず、僕を見つめた。
「まだ情報が少なすぎます。手伝うために情報を下さい。あなたは、最初のお茶会からいたんですか?」
まるで見てきたような口調で彼は初期のお茶会について話していたが、だとすれば彼は何をしていたのだろう。彼は何を思いながら今までの様子を見てきたのだろう。
ジャッジはただ静かに赤い瞳を開け閉めする。その瞳に映り込む僕の表情は、困惑の色を隠せずにいた。
「私はこの世界が始まった時からいた。何もせずに見続けていた、ただの傍観者だ。私がいると何もかも止まってしまう。だから、私は誰かと共に時を過ごせない。誰かを救うことも出来ない」
ジャッジの周囲の時間は止まる。側にいても時が止まらないのはアリスと帽子屋とジャバウォック。そう考えて、僕は彼が想像以上に孤独な配役であることに今更のように気が付いた。
初期のお茶会など、きっとそう大きなものではなかっただろう。狭くて限りのある森の中、お茶会の半数を担う、三月兎と眠り鼠と彼は会話が出来ない。つまり、ジャッジがいてはお茶会は永久に始まらないし、終わらないのだろう。
「私は彼らが争う中、ただ何もせずに遠くから見ていた。私がもっと側にいて時を止めれば、アリスと帽子屋は逃れられたのかもしれなかったのに、私はそれに踏み切れなかった」
ジャッジは言葉を続ける。抑揚もない、淡々とした口調だと言うのに、僕には何故か彼が後悔しているように聞こえた。
私は誰も救えない、と彼は言っていた。本人は自我も感情も持たないと自分を形容していたが、やっぱりそんなことはないのだろう。
「…ジャッジさんは死んでしまった2人を救いたかったんですか?」
僕が尋ねると、ジャッジは表情を変えずに沈黙した。
誰かを救いたいと願ったことのない人間の口から「救えない」なんて後悔の言葉は出ないはずだ。彼が口にしたことは、間違いなく彼の願望であり、彼の意思だろう。
「今も誰かを救おうとして、僕に声を掛けてくれたんですよね?」
「救いたい…?私が誰かを?」
ジャッジはまるで自分が発した言葉を覚えてなかったのか、僕の言葉を改めて復唱する。片耳しか残っていない兎の耳を指先で触り、彼は何かを考えるように目を伏せた。
「…ああ、確かにそんなことを考えていた。そうだったのかもしれない。ジャバウォックとも話せるようになった時はそう思っていたような気がする」
「話せるようになった…?」
彼の言葉に僕は首を傾げる。
そういえば、イディオットが言っていた。何故、白兎と話せる配役がアリスと帽子屋とジャバウォックなのか。ジャバウォックなどという、マイナーな配役が宛てがわれる理由は僕も気になっていたが、彼の口ぶりでは本来話せる配役ではなかったのだろう。
「ジャッジさんはいつからジャバウォックと話せるようになったんですか?」
僕らは帽子屋とアリスが合流することを防がなくてはならないのかもしれない。一刻を争うのかもしれない。それでも、イディオットに指摘されてからずっと気になっていた疑問は今聞かなければ永遠に分からないかもしれない。今後、イディオットに会う可能性があるなら聞いておくべきだろう。
僕の問に彼は顔を上げる。真っ赤な彼の瞳から感情は読み取れない。
「…忘れてしまった。目の前で殺されるジャバウォックを見ているのを、あの時の私は辛いと思っていたのを微かに覚えている。私は止まっている人間を動かすことは出来ない。村人に屠られるジャバウォックの姿を、当時はただ見ていることしか出来なかった」
ジャッジの話に寄れば、アリスであるミズキによって今の世界は徐々に広がり、場所が増えたらしい。場所が増えるにつれて、配役も場所に応じて増えた。
村人として最初にこの世界に来たのがアマネらしい。アマネはあまりに強く、配役に交代は一度もなかった。初代ジャバウォックはアマネと同時に配役された人物であったが、その人物はアマネが眠り鼠に加担してすぐに殺されてしまったそうだ。
それから、何度も何度もジャバウォックは死ぬ度に補充された。補充されたジャバウォックはどの人も育ちきる前にアマネに狩られた。
ジャッジがいつもいるあの森で、ジャッジのすぐ側で、彼らは1人残らず凄惨な死を遂げたそうだ。
「私がいれば、時間が止まる。止まるのに、アリスと帽子屋以外の誰も動くことが出来ない。私は村人を説得することも、ジャバウォックを守ることも出来なかった。誰を救うでもなく、見ているだけの自分という存在について考えているうちに、私は自分が何者であるかが分からなくなってしまった」
ジャッジはそこまで話すと、僕の顔を見た。その彼の表情は微かだが、困惑したように歪む。
それは僕にとって、初めて見るジャッジの表情だった。
「痛みすら感じなくなったのではないかと、自分の片耳を切り落とした。その時は確かに痛かった。ジャバウォックたちが感じた痛みと同じだと安心したと同時に、それ以上の苦痛を味わうジャバウォックに私は同情したような気がする。1人でも救えればと、私はジャバウォックを探し、話しかける試みを続けた」
ジャッジは自分の片耳を撫でる。片耳しか残っていない彼のその容姿に、僕はようやく合点する。
その姿は、数年間も独りでもがき続けてきた彼の苦悩そのものだったのだろう。この異様なまでの冷静さも、公平さも、感情の起伏のなさも、全ては彼がこの世界で生きていく上で身に着けてきた処世術。僕が補充されてすぐにジャッジに出会えたのは偶然でも何でもなく、彼の努力そのものだ。
幽霊のような佇まいの彼は雨音で消えてしまいそうなほど小さく溜息を吐いた。
「そのまま数年が経ち、ようやくアスカの前に1人だけ対話する機会を得たジャバウォックがいた。なのに…その時の私は、何故ジャバウォックと話そうとしていたかを思い出せなくなっていた」
「じゃあ、そのジャバウォックは…」
僕は彼に追求しようとしてから、口を閉ざす。
そのジャバウォックが助からなかったことは明白だ。他でもない、その次のジャバウォックが僕なのだから。
「そのジャバウォックは私を怪しんで、ロクな対話もせずに私の元から離れた。私はそれを止めなかった。止める理由が、あの時の私には分からなかったから」
ジャッジはそこまで答えると、俯いた。
「…だから、今のジャバウォックの配役としてアスカがいる。アスカも私を疑って離れたなら、やはり私は止められなかっただろう。私はつい、今の今までどうして自分がジャバウォックを探していたのか覚えていなかった。貴方が私にこうして聞かなかったら、思い出すこともなかったのかもしれない」
俯いたジャッジが静かに目を閉じる。真っ白な睫毛で蓋をされると、ジャッジの中から色が消える。灰色の空と彼の姿だけを見れば、それはまるでモノクロ映画の画面のようだった。
「貴方が生きているのは、貴方が選択した結果。私はただ見ていただけだ」
「でも、ジャッジさんは僕を引き留めてくれましたよね。ジャッジさんを疑ってかかったのは僕も、僕の一つ前のジャバウォックと一緒です」
僕は笑う。笑った僕に、ジャッジは目を開く。真っ赤な瞳はこちらをただ黙って見つめた。
「僕がこうしてあなたとお話できるのは、あなたが僕と、僕の前のジャバウォックたちと話そうとしてくれたからですよね。助けてもらったことに代わりはないです!ありがとうございます、今度は僕があなたの手伝いを出来るなら喜んでします!」
今までどうしてアリスと帽子屋だけが話せる特別な配役に、僕のような配役が話せるのかずっと疑問に思っていた。だけど、これで答えが出た。
ジャッジはずっと目の前で死んでいくものを止めたくて、今も腐ってしまうかもしれない世界を腐らせないように、手助けを求めて僕を探して会いに来てくれたのだ。
それなら、僕ができる限りの手伝いをする以外に僕の中で選択肢はない。僕は彼に救われた恩を返したい。
「僕はこれから三月兎に会いに行こうと思っています。元から会いに行くつもりだったんですけど…帽子屋がどんな人物なのか分からないので、どのみち会って協力を仰ぐべきかなと。僕は信頼できる味方は多いほうが良いかと思いますが、ジャッジさんはどう思いますか?」
僕は考えながらジャッジに尋ねる。この情報を持っていれば、きっとイディオットに協力を求める時に大きな説得力を持ってくれる。イディオットは自分の目で見て、明確な理論がなければ疑う人だが、彼に託されてきた疑問はこれで全て解決した。材料が増えた分だけ、味方に出来ると見込んでもいいだろう。
帽子屋と会うにしても、残念ながらジャッジとは長時間の行動を共に出来ない。アマネという一番恐ろしい僕の天敵は、今のところ僕を殺さずにいてくれてはいるが、いつ敵に回るとも分からないし、帽子屋がどんな人なのかも分からない。それなら、イディオットのように一度は信頼関係を育んだ人間と協力した方が何事も身動きしやすいように感じた。
イディオットの方が僕よりずっとこの世界に詳しい。先人の知恵は借りるべきだし、餅は餅屋だ。この先もし何か争いになった時は知識を多く持った者に頼れるのは、大きなアドバンテージになるだろう。
ジャッジは珍しく目を少し大きく見開いて、驚いたような顔で僕を見ていたが、いつものように無表情に戻って口を開いた。
「…今の三月兎はなかなかの武闘派だ。変幻している姿にも寄るが、武力行使で帽子屋を止めるタイミングがあるのであれば、得策と言えるかもしれない。ただ、アスカの傍には村人がいるように見える。頭の硬い彼がそれを許すかと推測すれば、許す確率は限りなく低いと見える」
「ああ、まあ…それは僕も思ってました」
アマネは僕がいた時だけでも、すでに集落に大ダメージを与えている。それ以外にも僕がいない間にアマネはゲーム感覚で大勢を殺しているだろうし、眠り鼠に指示された人間も問答無用で葬ったと本人が言っていた。いくら子供で倫理観が欠けるからといって、その行為は決して許されるものではないし、イディオットが一番許せないタイプの人間であることもすでに何となく察してはいる。
僕は自分の顎を指先で叩きながら首を捻った。
「となると、三月兎に会いに行くのが必ずしも良い方に動くかは分からないですね…。ちなみに、三月兎に僕が協力を仰がなかったとして、帽子屋は攻撃的な人物ではないですか?話し合いだけで済まないから、眠り鼠が殺したとかでは…」
現実に帰るにあたって、いつかはイディオットと会って話をしたいが、帽子屋とアリスの合流を第一に防ぐ上でイディオットの存在が逆効果になってしまうのであれば、アマネと二人で帽子屋を探しに行くのもアリだろう。だけど、ジャッジの今までの話を聞いていると、とてもじゃないが帽子屋との平和的な解決が見えてこないのだ。
帽子屋とは会ったことも話したこともない、僕にとって憶測だけの存在でしかないが、あれだけ口達者で理性的な眠り鼠が、自らの手で帽子屋の息の根を止めたのだ。彼女の雄弁さと、物理的な戦闘能力の低さは僕が実際に見てきた。どう考えても論議で戦ったほうが有利な彼女が物理的な方向に動くというのは、よほど話が通じないか、それを上回る饒舌さの持ち主としか思えない。
そんな人間相手に僕一人で勝てるビジョンは浮かばないし、アマネもどう動くか分かったものではない。味方してくれれば物理的に消し去ることは簡単かもしれないが、邪魔でもされたら、それこそ物理的にも論理的にも歯が立たなくなってしまうだろう。
頭を悩ませながら尋ねると、ジャッジは静かに首を横に振った。
「帽子屋自体は攻撃的な人物ではない。ただ、相手の心の隙間に滑り込んでくる。目の前の人間にとって、一番効果的な姿として目の前に現れるから厄介なのだ」
「一番効果的な姿…?」
「甘く優しくほだすのが一番効果的な相手には、それに相応しい姿で本人が望む言葉を余すことなく与えるだろう。畏怖でねじ伏せるのが一番効果的であれば、彼は相手が心から恐れる者に姿を変え、相手の心の傷を抉るだろう。彼は鏡のような性質だ。鏡を覗き込んだ人間次第で性格も性質も変わってしまう」
彼の説明を聞き、僕は今更ながら帽子屋の厄介さを思い知る。あの冷静な眠り鼠が自らの手で殺して、補充されただけでジャッジが僕に助けを求めにくるような人物…いや、この夢から生み出されたのであれば、それを人と呼称することも違うのかもしれない。
「だから、三月兎に協力を仰いでも、仰がなくても結果を私は予測することが出来ない。今の三月兎は帽子屋に出会ったことがないし、アスカの傍にいる村人すら太刀打ちできるか分からない。私に出来ることは、アリスに帽子屋と会わないよう助言することだけ。だから、私の他に助言できる貴方にも手伝いを依頼しに来た」
「ああ、だから僕だったんですね…」
ジャッジのその言葉に僕は肩を落とす。
なるほど、それで僕が選抜されたのか。白兎と話せるのはアリスと帽子屋。イレギュラーではあるが、そこにジャバウォックである僕が含まれるのであれば、確かにこの出来事に関してジャッジが助けを求められるのは僕しかいない。
苦笑いする僕を見ながら、ジャッジは相変わらず無表情のまま声を発した。
「私はこれからアリスを探しに行く。彼女に帽子屋と関わってはならないと伝えることだけが、私に出来ることだ」
「アリスなら、今はたぶん眠り鼠の城にいると思います。僕はアマネの監視もありますし、大きな騒ぎになってしまうのですぐには入れないかもしれませんが…」
僕もミズキと会って話したいし、ミズキはきっと白兎よりも僕の言葉の方がより耳を貸してくれるんじゃないか、なんて自惚れたことを考えてしまう。だけど、それは自分が口にした通りに実現することは難しいし、そう思っているのは僕だけかもしれない。
ミズキは僕が現実に帰ると言う限り、やはり話を聞いてくれないかもしれない。話したところで、意見がすれ違ったままでは何も進展しないのかもしれない。そう考えれば、ジャッジの口からまず状況を伝えてもらうというのは、良いことなのかもしれなかった。
「その情報だけで、とても助かる。ありがとう」
ジャッジは小さく頭を下げる。顔を上げた彼の表情は心なしか嬉しそうにも見えた。
「…私はこうして誰かに救って欲しかったのかもしれない」
傘をさしたまま、ジャッジが歩き出す。土砂降りなのに、汚れ一つない白いコートが雲の隙間からから差す陽を反射して、本物の幽霊のように消えてしまいそうだった。
「ありがとう、アスカ。でも、もう本当に行かなくては」
振り返ったジャッジが言った。相変わらず表情が読み取りづらかったが、言葉が少しだけ明るく聞こえた。
「こちらこそ、色々教えてくれてありがとう!僕にも出来ることを探してみますから、僕が合流するまでどうかミズキを…アリスをよろしくお願いします」
僕からミズキに今すぐ出来ることはない。それはとても歯がゆいが、遠くからでも出来ることを探すことが今の僕の精一杯だ。祈るようにジャッジに言うと、彼は頷いて背中を向けた。
白いその背中が遠ざかる。雨が次第に止んでいき、空に浮かぶ灰色の雲が開いて夕暮れが顔を出す。周囲で半端な姿のまま止まっていた村の人たちが動き出す。彼らは何故か濡れている自分たちの服や、足元に広がる水たまりを不思議そうに見つめ、空を仰いだ。
「ああ、また知らないうちにお天気雨だわ。いつ降ったのかしらね」
傍で会話の途中で止まっていた女性が呟き、その正面に立つ女性は困ったように笑う。
そうか、彼らからすれば雨に遭遇した時に傘を差す暇もほとんどないのだろう。言われてみれば、僕はこの世界で傘を見かけたことがほとんどなかった。傘はある意味、あの豪雨の中でも動ける証拠の一つでもあるのかもしれなかった。
そういえば、アマネを家の中に置いて来てしまった。村の人々を怖がらせてしまうかもしれないが、僕は彼を連れて行動を開始しなくてはならない。駆け足で家に戻る僕の姿を見ると、会話に花を咲かせていた女性たちも焦ったように会話を切り上げる。僕とアマネが一緒に行動しているのは、もう村の中では周知の事実なのかもしれない。
アマネの家に戻ると、相変わらず血なまぐさいリビングとキッチンが最初に目に入る。出来るだけその光景を見ないように僕が二階に上がると、アマネはまだベッドに横になったまま眠っていた。
起こすのは少し可哀想だが、ジャッジの言葉を聞く限り事態は一刻を争うのだろう。ジャッジがミズキを止めてくれている間に僕もイディオットに会いに行きたい。
イディオットがアマネを連れている状態で味方に回ってくれる可能性も、イディオットが味方になったからといって帽子屋を撃退できるかもやはり怪しい。それでも、フロージィの城に帰ることを許されない今の僕に出来る最善策はそれしかないと思っている。
アマネが勝てるかも分からない帽子屋を相手するなら、助っ人はやはり多い方がいい。三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったものだ。知識が多い彼を引き入れた方が出る作戦もあるだろう。
「アマネ、起きて。そろそろ行こう」
「…んん~…」
ベッドに横になるアマネの肩を揺すると、アマネが眉間にしわを寄せて唸る。起きたくないのか、彼はそのまま寝息を立てた。
「もう夕方になるよ。そろそろ三月兎に会いに行こう」
「うるせえなあ」
さらに肩を揺すると、アマネは肩を回して僕の手を払いのける。寝かせておいてあげたいのは山々だが、そうもいかない。僕は払いのけられた手で再び彼を揺すった。
「日が暮れる前にここを出よう。集落までまだ結構距離があるから、途中で野宿して明日の昼にはたどり着くようにしようよ」
「明日の朝に出ればいいだろお」
「帽子屋が補充されたらしいんだ。ミズキと合流するのを防がなきゃ」
渋るアマネに告げると、突然彼は勢いよく起き上がる。びっくりして思わず僕が手を引っ込めると、アマネは険しくさせていた顔を不愉快そうにゆがめて僕を見た。
「帽子屋?本当に?アイツ、フロージィが殺したからもうリスポーンしないんじゃねえの?」
「さっき会った白兎が言ってたんだ。だから、本当だと思うよ」
「白兎?いつ会ったんだよ。アマネは知らねえぞお」
「そりゃ…僕以外に白兎と話せる人はここにいないからね」
どう説得するべきか悩みながら言葉を並べると、アマネは訝しそうに僕を見上げた。
「嘘吐いてねえだろうなあ?」
「吐いてないよ。ほら、雨の後があるだろ?」
肩を竦め、僕は窓の外を指さす。白兎の能力については、湖を渡る時に聞かれたので共有してある。
アマネが僕を信用していないというのは、やはり本当のようだ。疑い深い彼は僕の指先を見つめ、外を見る。
窓についた雨粒と、地面のあちこちに落ちている水たまりに彼は首を傾げ、再び僕を見てから溜息を吐いた。
「…本当に帽子屋がいるなら、殺さなきゃ」
アマネはそう呟いて立ち上がる。思っていたよりも飲み込みが早くて、僕は逆に困惑してしまう。
ベッドから立ち上がった彼は床に投げ出していた剣を拾い上げ、そのまま階段の方へと向かう。
「ほら、行くぞ。帽子屋殺しに」
「ちょ、ちょっと待ってよ!帽子屋を殺しに行くんじゃなくて、三月兎に会いに行くんだよ!」
さっさと歩き出してしまうアマネを追いながら僕が言うと、アマネは振り返りもせずにズカズカと階段を降りていく。
「は?三月兎に会いに行く意味がねえし。帽子屋殺せばいいんだろお?」
「でも、勝てる確証はないよ。味方を増やした方が…」
「アマネが負けるわけねえだろお。なんで負け前提で話を進めんだよバーカ」
家の外に出て、アマネは僕の話も聞かずに森へと歩いていく。確かに森に行くことは正しいのだが、この様子ではイディオットの集落とは別の方向へ行ってしまうだろう。僕は慌てて再びアマネの肩を掴む。
「今、白兎がミズキに帽子屋と会わないように説得に向かってくれてる。それなら、その時間で僕らも準備を整えるべきだ。それこそ、アマネが負けて怪我でも負ったら…」
「アマネは負けねえって言ってんだろお!うるせえんだよ!」
今度はもっと乱暴にアマネは僕の手を振り払う。怒りが込められたそれは力強く、叩き落とされた僕の手首にビリビリとしびれるように痛みが走った。
「フロージィが帽子屋がリスポーンするようなことがあったら真っ先に殺せって言ってた。三月兎に会ってる時間が勿体ねえだろ」
「でも、帽子屋の位置も分からないじゃないか」
「はっ、知ってるし」
まるで意地を張る子供のようにアマネが吐き捨てる。
いや、彼は子供なのだった。現実こそ辛酸を舐め続けているが、この世界での彼は覇者だ。誰にも負けたことがない、無敗の子供。彼は自分が負ける未来など想定すらしないのだろう。
一番最初にこの世界で出会ったジャッジも確かに「この世界でアマネに敵う者はいない」と話していた。話していたが、その彼が「アマネも帽子屋に敵うか分からない」と言ったのだ。実際に帽子屋に出会ったことのある人の証言ほど、信憑性のある発言はない。アマネが勝てると言い張るほど、何故だか僕はどうしようもなく不安になった。
「帽子屋のリスポーン予測地点はフロージィから聞いてる。多分、最初の茶会のエリアだろ。行くぞ」
アマネはポケットから棒付きキャンディーを取り出し、それの袋を開けて口に入れる。
帽子屋の位置情報については初耳だが、シュラーフロージィが言うならそれも確かな情報だろう。確かだからこそ、それは確実な遭遇を意味する。何も準備せずに、そんな得体の知れない人物に会いに行くなんてますます賛成できない。
「ダメだよ!せめて情報を集めてから…」
「うっせえんだよ!じゃあ、お前だけ先に三月兎に会いに行ったらいいだろお!」
「僕の行動を監視したいって言ったのはアマネじゃないか…」
僕はアマネの言葉に溜息を吐く。理不尽にもほどがあるが、もはや当初の目的を投げ出してしまうほどに、アマネの頭の中は帽子屋のことで一杯のようだ。これは伝えない方が正しかったのかもしれない。
僕を置いて、剣を地面に引きずりながらアマネはさっさと先へ進んでしまう。その背中を見ながら僕は腕を組んで考える。
どうしようか、このままアマネを放って僕はイディオットに会いに行ってしまおうか。それこそ、アマネがいない方が話が早いだろうし、イディオットも聞く耳を持ってくれるに違いない。アマネは強いし、それこそ別行動した方が効率がいいこともあるかもしれない。
しかし、アマネが万が一負けでもしたらどうする。この世界で一番強いと言われている人間が突然いなくなりでもしたら、それこそ起こる問題は少なくないだろう。少なくないだろうし…彼のバックグラウンドを知ってしまうと、なんだか放っておけなかった。
遠ざかっていく彼の背中に僕は大きな溜息を吐きながら、駆け足で追いかけた。
「わかったよ!一緒に行くよ」
「はあ?頼んでねえし」
追いついてきた僕にチラとも視線をよこさずにアマネが悪態を吐く。これではどちらが行動を監視しているのか分からなくなる。
アマネに連れられて森を進む。色とりどりのフルーツや花をつけた草木がなんだか懐かしい。随分と長い時間をこの森で過ごしたような気がする。
帽子屋がいるという、初期のお茶会の場所には実は一度、僕もミズキと共に訪れたことがある。本当に森の中に長テーブルが置かれただけの殺風景な場所だ。
最初はまだエリアが少なかったらしいこの世界の端が断崖絶壁なのを考えると、昔は今より作り物感は強かっただろう。ここまで広げられた世界が全てミズキによるものだと思うと、なんだか感慨深くもあった。
夕暮れが夜に差し掛かり、空に薄ぼんやりと月が見えた頃、目の前を歩いていたアマネがふと足を止める。それに合わせて僕も足を止める。
僕より身体の大きなアマネの背中から顔を覗かせると、あの殺風景な長テーブルに腰をかけている人物が見えた。
月明かりを反射する美しいプラチナブロンドの髪と透き通るような緑色の瞳。こちらを振り返った彼は恐ろしく整った顔立ちをしていて、まるで作り物のようだ。
真っ直ぐでサラサラの髪を揺らして小首を傾げた彼の頭には白いシルクハット。右上部だけが白黒のチェッカー模様で、トランプが数枚リボンに括りつけられている。
簡素なワイシャツの首元には片結びのリボンを巻き、タイトな白いズボン、レディースのピンヒールブーツを履いている。中性的に揃えられたそれが目を疑うほど整った容姿のせいか、まるで違和感がない。彼の左目には白い薔薇が咲いており、エメラルドのような右目を細めて笑うその表情は精巧に作られた人形が笑っているようだった。
「こんにちは、君たちは初めましての人だよね」
帽子屋と思しきその人物は席から立ち上がり、胸に手を当てて深々とお辞儀をする。優しく微笑むその表情からは悪意を感じない。ただ友好的でいようとする姿勢が伺えた。
「お前が帽子屋かあ?」
アマネは言うや否や、手に持つ剣を地面に突き立てる。その様子を見た帽子屋らしき男性は目を丸くして困ったように笑った。
「そうだけど…何か君を不快にさせてしまったことがあるのかな?争いごとはあまり好きじゃないんだ。そんな怖い顔しないで、まずはお話しない?」
「話すことなんかあるか」
アマネが剣を掲げる。僕はそのアマネの肩を掴んで、それを引き止めた。
「突然で驚かせてしまい、すみません。ただ僕らはあなたにアリスと合流しないで欲しいと伝えたくて」
「何勝手に話してんだアホ!」
僕の話を聞きながらアマネが僕の手を振り払うが、僕も負けじと彼を引き戻す。僕も大分強くなったもので、本気で止めると力が拮抗した。
仲間内で意見が食い違う僕らを見ながら、帽子屋は数歩だけ後退しながら、相変わらず困ったように笑っていた。
「ごめんね、僕はアリスと合流しないわけにはいかないんだ。僕はアリスの理想でいないといけない。アリスが僕を呼んでるんだ」
「はあ?お前のせいで一回この世界ぐちゃぐちゃになったんだろお」
帽子屋の言葉にアマネが剣を振りかぶろうと腕を上げる。それを僕は捕まえて必死に静止するが、その様子を見ている当の帽子屋本人はまるで危機感のない様子で首を傾げて僕らを見ていた。
「ぐちゃぐちゃにした覚えはないな…あの時のアリスは幸せそうに見えたけど違ったかな。今も寂しいから僕を呼んでるんだと思うよ。だから早く行ってあげないと。心細い思いをしているなら、その時間は短いほうが幸せでしょう?」
まるで悪意の欠片もない優しい口調だ。自分の行動を良いものだと本心から信じて疑わない彼の言葉はそれこそ無邪気で、善意そのもの。良かれと思って彼はミズキの元へ行こうとしている。それだけは、この短時間でも僕にもよく分かった。
僕には彼がこの世界に悪影響を与えた様を見ていない。本当に彼がそこまでミズキを腐らせてしまったのだろうか。そんな疑念がわくほどに、彼の言葉は自信に溢れていた。
人間は何かを自信たっぷりに説明されると、それが正しいのではないかと思えてきてしまうものだと思う。帽子屋の言葉にはそれがあったと思う。
しかし、ジャッジまでもが止めに行くような人物だ。彼の言葉に流されてはならないだろう。
「アリスも時には一人で考える時間が必要な時もあると思います。寂しいからといってベッタリ誰かが傍にいるのが必ずしも正解ではないんじゃないでしょうか。少し時間を置いてみては?」
暴れるアマネの両腕を彼の背後から掴んだまま、僕は帽子屋に疑問を投げかける。アマネはうっとおしそうに僕の腕を振り払おうと腕を振り回す。アマネはまだ手加減してくれているのか、なんとか止められているが、長くは続かないだろう。
「アリスは僕の言葉を聞きすぎて、どれが自分の言葉か分からなくなったと言っていました。人からみて何か過ちを犯しているように見えるなら、助言することも必要ですし、何かに悩んでいるなら寄り添って背中を押すことも大事だとは思いますが、最後に決断するのは彼女です。今はそっとしておいてあげて貰えませんか」
ミズキは僕の行動のどこまでを疎ましく思っていて、どこまでを嬉しく思っていてくれたのかは分からない。僕らが今こうして行動を別々にしているのは、きっと距離が近すぎてしまったからだと思う。自分の半身のように思っていた人間が、半身どころか自分そのものだと勘違いしてしまうような至近距離。それは常に僕らが互いに隣で、互いに行動に口を出し続け、行動を縛りつけるようになったから起きたのだ。
経緯はどうあれ、僕はこの機会にミズキとの距離感や互いの在り方、価値観の違いについてを考え直したいと思っている。酷い話だろうが、僕は正直この国の存続がどうこうとかよりも、ミズキと僕が本当に幸せだと感じられる関係を築くことの方が大事だった。ミズキが自分の頭で、自分の意思で、僕に思っていたことを話してもらうためにも、帽子屋が介入することは避けたくあったのが本音だ。
僕の言葉を帽子屋は聞いていたようだったが、彼は相変わらず柔和な笑みを浮かべたまま首を傾げる。
「アリスは今がとても寂しいと思っているのに、放っておく方が良いことなの?僕はそれに寄り添って、彼女が欲しい言葉を全部あげられる。解決してあげられるんだから、早く解決してあげた方が良いと僕は思うけどな」
「そのアリスが欲しい言葉って、寂しさを紛らわすためのものじゃないですか?紛らわしたって根本が解決されないなら、彼女の苦しみが長引くだけだと思います」
寂しいか、寂しくないかだけの話をするならば、僕だって本当は寂しい。傍にずっといてくれたミズキがいないことが酷く心細くて、急に全て投げ出したくなってしまう時があるのを、それこそ僕はアマネやジャッジに紛らわせて貰っているだろう。
だけど、アマネもジャッジもミズキの代わりにはなれない。イディオットに会ったって、彼もこの寂しさを埋めてくれることはないだろう。ミズキがいなくなって欠けたピースは、ミズキの形のまま取れてしまったのだ。それを埋められる人はミズキ以外にあり得ないのは考えなくたって分かる。
もし、僕と同じ理論がミズキにも通じるならば、僕を失ったことが原因で寂しくなっているのであれば、その寂しさは僕にしか埋められないはずだ。その寂しさがあるから、彼女は僕と向き合おうとしてくれているのだと、僕はそう思っていたかった。
しかし、帽子屋は僕の言葉に困惑するでもなく、納得するでもなく、ただ不思議そうに微笑んでいた。
「僕はその寂しさをずっと埋めてあげることが出来ると思うよ。嘘もずっと吐いていれば、いずれ本当になるんだ。本当になるまで、僕がずっと彼女が求めている言葉を嘘でも与え続けてあげれば全て解決するだろう?それの何が悪いの?」
帽子屋の言葉に僕は息を呑む。ジャッジやフロージィが彼を目の敵にする理由が、今になってようやく少し理解できたのだ。
帽子屋は本当に、ただ良かれと思ってやっているのだ。でも、それは決して人を良い方向に育てないように僕には思えた。
ミズキは甘やかすことで僕をここまで育ててくれた。だけど、ずっとそれに甘んじていたなら、僕はあの森から出ることもなかっただろうし、きっとアマネにここまで立ち向かうこともなかっただろう。彼女と僕がここまで上手く噛みあって成長できたのは、僕がある程度は物事を律する判断が出来たからだと思うし、その判断を僕にさせてくれたのは間違いなくアマネの存在があったからだった。
人間は楽な方へと逃げるのが当たり前だ。甘い蜜だけ吸って生きていけるなら、その方が楽に決まっている。自分が欲しい物が全てが座っているだけで手に入るなら、誰も進んで歩いたりはしない。でも、歩き方を学ばなかったら、一体いつ歩けるようになるだろう。ずっと動かずにいれば、足は退化してその場から動けなくなってしまう。
アマネほどの強敵である必要はないが、ただ自分が自力で何とかしなくてはならない試練は人にとって必要なのだと思う。ミズキにとって試練はきっと、帽子屋が言う「今の寂しさ」だ。
僕がミズキと仲違いしてまで自分の意思を貫いたのは、彼女に自分の力でも歩けるようになって欲しかったからだ。それなのに、帽子屋の彼が甘やかして、その試練を無条件に取り除いてしまっては、ミズキは永遠に歩けなくなってしまう。本末転倒。その事態は僕も避けたい。
「ふざけんな!あの女ばっか楽させてんじゃねえ!」
アマネが声を張り上げ、僕の腕から抜け出す。剣を振り上げ、帽子屋に向かって飛び込んでいく。
それに驚いたように帽子屋は身を翻すと、さっきまで彼がいた地面に剣が叩きつけられる。地面がビリビリと揺れるような衝撃と共に地面に穴が空き、砂煙が舞った。
「アマネの時は誰も助けに来てくれなかったのに、なんでアイツばっかり声も出さずに助けてもらえるんだよ!アイツはまだ泣いてもないし、怪我もしてない!」
アマネの怒りの矛先は僕が思っているものとは大分違ったが、どうやら帽子屋の行動は彼の癇に障ったらしい。分かろうと思えば分からなくもないが、彼は現実の自分と違って、本人が助けを求める前に帽子屋にすぐ救いの手を差し出されるミズキの状況が腹立たしいのだろう。
「もっと辛い目に遭って、泣き叫ぶまで放っておけばいいんだ!自分で何とかしようともしないで、ただ黙ってるだけで助けてもらえるって何様なんだよ!甘やかしてんじゃねえぞクソボケ!」
「どうしてそんな怖いこと言うの?」
穴の開いた地面を見つめ、帽子屋は困惑したように眉をひそめる。彼は自分が被っていたシルクハットを手に取ると、それを器用に人差し指の上で回す。くるくると回転させたそれを見ながら、彼は何かを思いついたように笑った。
「そうだ、あなたの中で一番印象的な人になってみれば分かるかも」
帽子屋が回転させた帽子を被り直すと、彼の笑顔を覆い尽くすように左目に咲いた白い薔薇からツタが伸びる。それは彼の顔だけでなく、全身を駆け巡るように包み込むと、大量の薔薇が咲き乱れる。白い薔薇の集合体のようになってしまった帽子屋にアマネが斬りかかる。
アマネの剣はその薔薇の集合体を叩き割るように真っすぐ縦に入ったが、鈍い金属音と共にそれが宙で止まった。白い薔薇の花弁が桜吹雪のように風で舞い上がる。
花弁が舞うその場に現れた光景に僕は思わず自分の目を疑う。帽子屋が立っていた場所にいたのは、帽子屋ではなかった。
アマネが二人いた。帽子屋に斬りかかった剣を持つアマネと、その剣を受け止める斧を持ったアマネが互いに鍔迫り合いをしていた。
帽子屋の能力は変幻。相手が一番望む者の姿や、相手が一番恐れる者の姿に彼は姿を変えることが出来るとジャッジは言っていた。恐らく斧を持つアマネは、帽子屋が変幻したものだろう。
剣を受け止められたアマネは帽子屋の姿に目を見開く。その表情は今までに見たことがない程に彼は驚いていることがよく分かった。
「凄い、あなたってこんなに強い人だったんだね!でも、この人のことで頭がいっぱいだ」
アマネに化けた帽子屋が、その姿のままアマネの剣を弾き返す。その勢いに負けて、アマネの身体がグラついて後退する。表情から驚きが抜けないままのアマネに、帽子屋が斧の柄でアマネに追撃をかける。
「この人の愛情表現ってどんな感じだったんだろう?あなたにしてきたことが愛情だったのかな?だとしたら、これで合ってる?」
帽子屋は笑いながら斧の柄をアマネの腹部に向けて突く。それをアマネは剣で受け止めるが、彼の足が地面を滑る。続いて帽子屋は斧を手元で回転させ、刃の部分でアマネを縦に切り裂く。
それを寸でアマネは避けるが、帽子屋は斧をそのまま地面に突き立てて、斧を軸にアマネめがけて飛び蹴りを入れる。帽子屋の蹴りがアマネの顔面に入り、アマネが背中から地面へと倒れた。
「アマネ!」
目の前で何が起きたのか分からずに呆気に取られていたが、あのアマネが一方的に押されていることに気が付いて僕は慌ててアマネに駆け寄る。当のアマネは自分と同じ姿をした帽子屋を視界に入れたまま呆然と目を見開いていた。
きっと帽子屋が化けたのは、アマネではなく、現実にいるアマネの父親なのだ。それこそ、アマネが頭の中で恐怖で大きくしていった化け物じみた恐ろしい父親像。そんなもの、勝てるわけがない。その父親を模して力を得たアマネですら、この世界では物理的に敵う人はいないのに。
アマネの腕を掴み、彼を立ち上がらせようと引き上げる。どう考えても戦うべきではないし、話が通じる相手でもない。逃げるべきだと思った。
「今は戦っても意味がない!逃げよう!」
「っせえ!」
しかし、アマネは僕の手を乱暴に叩き落とす。彼は帽子屋を視界に収めたまま立ち上がると、ポケットから棒付きキャンディーを取り出して袋を開けた。端が切れて血が付着したその口にキャンディーを咥え、彼は剣を引きずって帽子屋に向き直る。
「アスカは邪魔だから引っ込んでろ。アマネの攻撃が当たると、お前が死ぬぞ」
言葉はキツいが、意外なことにアマネは僕に攻撃を当ててしまった時のことを考えてくれているようだ。確かにアマネが手加減なしで僕に攻撃を仕掛ければ、間違いなく僕は無事で済まない。それは流れ弾でも変わらないだろう。
その気遣いは有難いとは思いつつ、この様子ではアマネの戦意が失われたようには見えない。僕としては早く帽子屋から離れるべきだと思うのだが、アマネは口の中でキャンディーを転がしながら帽子屋を見つめていた。
「息子はいつか父親を超えるんだろ。それなら、アマネはコイツも越えられるはずだ。あのグズ野郎はアマネが殺す。アスカは手出しすんじゃねえぞ」
「ははっ、イキがるねえ」
アマネの言葉に被せるように帽子屋が笑う。腹から息を漏らすような気怠い笑い声。振り返った先にいる帽子屋は斧を刃を地面置き、その柄に肘をついて僕らを笑っていた。
「父親を殺すだってえ?とんだクソガキだ。躾が足らねえなあ?」
彼はコートの内ポケットから紙タバコを取り出す。セブンスターの14mgにライターで火を着け、ゆっくりと肺に吸い込んだ。
「飯食わしてやってんだ、感謝してほしいねえ。その口で舐めてる飴は美味いか?その菓子も俺たちの金で買ってやってんだぜえ」
アマネと同じ声、語尾を伸ばしたような話し方もよく似ている。それでも、話す言葉がアマネと全く違う。帽子屋とも違う。そこにいるのは、もはやアマネの頭に描かれた父親そのものだっただろう。
アマネの父親が立つ足元に白い薔薇が芽吹く。それは遠くからでも甘い香りで僕の鼻をくすぐる。
彼の言葉を聞いていたアマネの額に血管が浮かび上がる。咥えていたキャンディーをバリバリと噛み砕き、棒をその場に吐き捨てると、彼は地面を蹴って父親へと飛び込んで行った。
「アマネ!ダメだ!」
頭に血を昇らせてしまっていてはまともな判断など出来るはずがない。止めようと声を上げるが、風のように駆けていくアマネに届くわけがなかった。
アマネが剣を振り上げ、父親に斬り掛かる。その動きに合わせて、鏡のように父親が的確にそれを防ぐ。間を置かずにアマネはそれに連撃を加えていくが、父親は薄ら笑いを浮かべたままそれをいとも簡単に否していく。
「よえーくせに刃向かってんじゃねえぞ」
父親がアマネの剣を弾き、蹴りを入れるのをアマネがバックステップで回避する。回避しながらアマネがポケットから小石を取り出して、コイントスの要領で父親にそれを飛ばす。
弾丸並の速度を持つそれを父親は首を傾げるだけで容易にかわす。その足で彼はアマネの懐まで走り込み、斧の刃先でアマネの腹部目掛けて突き上げた。
「うぐ…っ!」
アマネがギリギリのところでそれを剣で防ぐ。怒りで真っ赤になっていたはずの彼の顔が、眼前に迫る刃を前に焦りで白くなる。父親はタバコを口に咥えたまま、口の端を吊り上げてニィと不気味に笑った。
「ほーら、子供は大人しく親に従ってりゃあいいんだよ。お仕置きされてえのか?これだけ暴れたんだ、仕置きしねえわけにはいかねえよなあ?注意してやってる俺っていい親だわあ」
ガリガリと刃を擦り合って鍔迫り合いをするが、父親の方がやはり力が強いのか、アマネの足がジリジリと滑って後退していく。
「ふざけ…」
「そろそろ黙らねえと本当に殺すぞ」
言い返そうとするアマネに、父親は低い声を出す。その威圧でか、アマネの頬に冷や汗が伝った。
僕があげたヴォーパルの剣にヒビが入る。ミシミシと父親の斧の重みと、恐怖で悲鳴を上げていた。
ここ最近は茶色くなっていたアマネの瞳から、少しずつ光が失われて黒くなっていく。あの深淵を飲み込んだような瞳にあったのは、途方もない絶望だ。
「アマネ!逃げて!」
僕は鍔迫り合いをしていた父親の腕を背後から掴みあげ、アマネから引き剥がす。激しい戦いで、いつ仲介に入ろうかと悩んでいたが、鍔迫り合いをしていた今なら止められる。
アマネにまたあの目をさせてはいけない。あんな退屈そうで、悲しそうな表情をさせたくなかった。
「なんだお前、怖いもの知らずじゃん」
僕に背後から掴まれたまま、アマネの父親がこちらを振り返って笑う。分かっていたが、物凄い力だ。かなうわけもなく、あっという間に彼は僕の腕の中から逃れる。
「これは躾だぜえ?子の未来を思っての優しさ。悪いことは悪いってちゃんと親が教えなきゃダメだろお?殴られる子も痛えだろうが、殴る側の俺の手も痛えんだ」
「その痛みはアマネが感じる何分の一ですか。アマネの未来に本当に役立つ優しさだと思いますか」
出来れば争いたくはないが、襲われたときに応戦できるよう、僕は傘を握り締めてアマネの父親に尋ねる。
アマネの父親は訝しげに片目を細めたが、タバコの煙をゆっくり吸って吐いた。
「偉そうな口叩くじゃん。お前、子供育てたことあんの?大変なんだぜえ、子育てってさあ」
「子供を育てたことはありませんが、子供をやっていたことはあります。なんなら、今だって親の前ではずっと子供で、この先もずっと子供でしょう。あなたもそうじゃないんですか?」
何年経とうが、何歳になろうが、親から見れば子供はずっと子供。その逆も然りだ。
子供として自分が育てられた時に、自分が親に抱いた不満くらい覚えていないものだろうか。自分よりずっと身体が大きい相手から振るわれる暴力がいかに怖いか、どれほどの痛みを伴うのか。
僕の父も手を上げる人だ。アマネが受けた虐待には程遠いだろうが、僕だって幼い日の父の体罰は脅威だった。それの何倍にも及ぶ暴力に囲まれて生き抜いてきたアマネを思えば、彼の父親の言葉は僕にも十分すぎるほど腹立たしい。
「子供の身になって考えたことは?あなたがアマネの立場から見た時に、どれだけ恐ろしいことをしているのか自覚するべきじゃないんですか」
「児相みてえなこと言うなお前。俺からアマネを取り上げる気か?」
僕の言葉に、次第にアマネの父親は険しい表情を浮かべる。怒りからか、彼の口の端がピクピクと痙攣していた。
児相というのは、恐らく児童相談所のことだろう。誰かが過去に通報したことがあるのかもしれない。
通報が入ったとして、すぐに虐待だと断定するのは難しい。アマネはその時に保護して貰えなかったのかもしれない。
「アマネは俺の子供だぞ、誰にもやらねえ」
咥えていたタバコを地面に捨て、彼はその火を靴底で踏み消す。斧を肩に担ぎ、ジリジリと距離を詰めてくる彼に僕も傘を構える。
剣にするべきか?傘の柄を握ったまま僕は考える。アマネに通用しなかった遠距離攻撃は、この父親に効くのだろうか。
そう思った瞬間、アマネの父親が何かに気付いたように振り返る。彼の背後からアマネが剣で斬りかかって来るのを、彼は逃さず斧で防いだ。
「これだからクソガキは」
溜息のようにアマネの父親が笑う。アマネは怒りにフーフーと荒い呼吸で彼を睨みつけて剣の刃をガリガリと押し付けた。
「アマネ!なんで逃げないんだよ!」
僕は傘を構えて、トリガーを想像する。ここまで来たら、帽子屋との和解は無理だ。もうやるしかない。
イディオットに援護射撃をした時と同じように、アマネに誤射する未来は考えない。ただ、目の前のアマネの父親を撃退するための攻撃を考えるのだ。
トリガーを引き、銃口から7回の小さな破裂音と共に7色の弾丸が飛び出す。それらはそれぞれに螺旋を描きながら、アマネと揉み合う父親の背中へと向かう。
父親はこちらをチラと一瞥すると、ニィと不気味に笑った。
「雑魚がイキがるねえ」
彼はポケットから小さなバタフライナイフを取り出すと、片手でアマネの剣を否したまま僕の弾丸を全て叩き落とす。落ちた弾丸が地面で炸裂し、花のような火花をとばすが、それらに素早く足で砂を掛けて鎮火させてしまった。
「殺す殺す殺す殺す殺す」
アマネが剣で斧を押し返しながら、真っ赤な顔でひたすらに呪詛を繰り返す。唸る獣のようなのに、怒りや恐怖が入り交じった彼の目には涙が浮かんでおり、それは見ているだけで痛々しい。
アマネの表情を父親はせせら笑うと、剣を斧で防いだままナイフでアマネの腹を突き刺した。
アマネの腹から血が吹き出し、彼が悲痛な声を上げながら腹を抱えて後ろに下がる。
「アマネ!」
僕は傘を置いて、首の十字架を手に取る。それを黒い大剣へと変えると、アマネの父親の元へと走った。
「おっと、こっから親子水入らずなんだ。よそもんは帰ってほしいねえ」
アマネの父親は斧を大きく横ぶりにする。その遠心力の聞いたスイングはあまりに強く、剣で防ぐものの踏ん張りが効かずに背後へと吹き飛ばされる。翼を羽ばたかせ、何とか勢いを殺して転ばずに耐えるが、その間に父親はアマネへと向き直る。
アマネは腹にナイフを刺されたまま、よろよろと剣を構えるが、父親はそれを無慈悲に斧でたたき落とす。叩き落とされた瞬間、バキンと音を立ててヴォーパルの剣が割れた。
アマネが舞い散る刃の破片を見て、目を見開く。失われ掛けていた彼の瞳の光が消える。真っ黒なあの闇が瞳の中へと戻っていく。
「派手に暴れてくれたなあ、おい」
父親がアマネの腹に刺さったままのナイフ目掛けて蹴りを入れる。ナイフは彼の身体の奥へとめり込み、アマネが鈍い悲鳴をあげた。
地面に倒れたアマネに、父親は容赦なく腹を何度も踏みつける。ナイフを奥へ奥へと送り込むように念入りに踏む。その衝撃でアマネの身体から血液が流れ出し、地面に赤い水溜りを作っていく。
「なあ、お前なんでそんなに良い子に出来ねえんだあ?悪いことしたら、ごめんなさいだろお?ほら、謝れよ。さっさと泣いて謝れクソガキ」
僕が腕を切り落としても、まるで痛がらなかったアマネが父親に蹴りを入れられるたびに、耳を塞ぎたくなるような悲痛な叫び声を上げて痛がる。
僕は急いでアマネの父親の元へと走り、大剣で突き上げるが、彼はこちらを見もせずに片手間に斧でそれを易々と防いだ。
「ほら、ごめんなさいはどうした?許してくださいは?」
まるで僕など眼中にないといった様子で父親はアマネを嘲笑う。地面に転がったアマネは荒い呼吸を繰り返しながら、真っ黒な瞳で父親を見上げた。
彼のその瞳からボロボロと涙がこぼれ落ちる。痛みと恐怖でガチガチと歯を鳴らし、アマネは震えた声を口の隙間から漏らすように言葉を紡ぐ。
「…ご…ごめん、なさ…」
「謝るな!」
アマネの言葉に被せて僕は叫ぶ。
「アマネは悪くない!謝るな!」
こんな不条理を前に、何故アマネが許しを乞わなくてはならないのか。許せなかった。納得が出来なかった。
許せない。いくら能力の変幻で、帽子屋そのものから出る言葉じゃなくても、こんな胸糞悪い仕打ちは見ているだけで激しい怒りが込み上げた。
僕の声にアマネの父親は不愉快そうに眉をしかめると、ポケットから取り出したもう一本のナイフを片手にようやく僕に振り返った。
「さっきからうるせえな、お前」
ナイフで僕の胸を切り上げようとするのを剣で否す。小型ナイフに対し、大剣というアドバンテージがありながら、僕の手首にビリビリとした振動が走る。
「お前も少しは他人の言葉に耳を傾けろよ」
あまり勝てるヴィジョンが浮かばないが、アマネを放ってなどいられない。アマネの父親に言い返すと、彼は舌打ちをしてこちらに向き直った。
「アマネは俺の所有物だ。とやかく言われたくねえなあ」
「人は物じゃない」
湧き上がる怒りに頭に熱が登る。僕は歯を食いしばり、力いっぱい大剣の柄を握りしめる。
「人は物じゃないから、思い通りに動かすことなんか、100パーセント分かり合えることなんか出来やしない。だから言葉を尽くして、相手を理解して、自分で分かる範囲で寄り添って支え合うんだろ。そのために言葉を発達させたんだ。暴力に訴えるだけなら、猿にだって出来る」
地面で転がったまま、アマネが僕を見ていた。彼の真っ黒な瞳に僕の姿が映る。
アマネの父親は舌打ちをすると、腹立たしそうに空を仰いだが、不意に手に持っていた斧で僕に斬り掛かる。
突然の攻撃に対処が遅れる。剣で防ぐが、角度が甘くて剣の刃を斧が滑っていく。父親はそのまま斧を縦に回転させ、再び僕へと斬撃を入れる。
身体を捻ってそれを回避するが、それを逃さずに彼は僕の足を蹴って払う。
あまりの力強さに耐えることも出来ずに僕は背中から地面に転倒する。アマネの父親はニィと勝ち誇ったように口元を吊り上げて笑った。
斧が振り下ろされる。それは僕の胸から腹部にかけてを貫く。呼吸が出来なくなり、口から大量の血が溢れる。ゴボゴボと口の中を満たす自分の血液に言葉も出ない。
「アスカ…」
地面に這いつくばったままのアマネが弱々しい声で僕の名前を呼んだ。あれだけの処刑を掻い潜り、僕に腕を切り落とされても痛がる素振りすらなかったアマネが、腹に深く刺さったナイフ1つで酷く弱っている。
彼の強さを形作るのは、生への執着心と自分自身の強さへの信頼と自信だろう。今のアマネにはそれがない。そう考えると、彼が絶対に死なない保証など今はないのかもしれなかった。
僕は腹を貫通した斧を引き抜こうと藻掻く。動くほど、腹の奥から血がせり上がり、口内に溢れ出てくる。
「さっさと死ねよ、痛いだろ?」
斧で地面につなぎ止められた僕の顔をアマネの父親が蹴り飛ばす。顎がずれて唇が切れる。間を置かずにもう一撃、もう一撃と顔を重点的に嬲られる。
なんとか顔を庇おうと腕で頭を庇うが、あまりに強い蹴りに腕がミシミシと音を立て、弾かれる。
5分くらいだろうか。彼は僕を徹底的に嬲った。身体をナイフで滅多刺しにし、傷口を蹴り上げ、斧で僕の顔面を叩き潰す。もう身体の原型がなくなっていてもおかしくないくらいに蹂躙してから、アマネの父親が不思議そうに顔をしかめて足を止める。散々暴行をくわえた僕の顔をみつめ、彼は僕の腹部に刺さった斧を引き抜いた。
「なんだお前…」
彼の様子に、僕も薄々感じていた違和感に納得する。立ち上がり、僕は自分の顔を確かめるように触った。
「そっか、帽子屋の能力って配役まではコピーされないのか…いや、もともとアマネのお父さんはこの世界にいないのか」
潰されたはずの顔面は手で触ると無傷だ。つけられたばかりの腹部の傷すらみるみる治っていく。
そもそも、最初からあまり痛くないのだ。彼から受ける攻撃は衝撃や息苦しさはあれど、痛みは一瞬だけですぐに消える。最初はいつもの驚きすぎて痛みが追いついてこないやつかと思っていたが、あくまで相手の男は帽子屋がアマネの脳内をコピーして作り出した偽物のアマネの父親だ。彼の配役は帽子屋に変わりない。
そもそも、見た目がアマネだから村人と同じ能力を持っているのではと警戒したが、本物の父親だったとしても、それは村人の配役を持たないだろう。
ジャバウォックは村人以外の攻撃をほとんど受け付けない。それなら、彼が僕を殺せる可能性はゼロに等しい。
「あーそっか!あなたはジャバウォックなんだね!この人の姿では難しいかな」
アマネの父親が、帽子屋が手を叩いて声を上げる。それと同時にアマネの父親の姿が白い花弁となって地面に散った。
僕はその間にアマネに駆け寄る。地面に倒れたまま戸惑ったように僕を見つめるアマネの肩を担ぐ。
「なんでお前…」
「いいから逃げよう!話が通じる相手じゃないし、アマネの傷の方が心配だ」
アマネを半ばおぶるように僕は帽子屋に背を向けて歩き出す。背後で帽子屋が再び指先でシルクハットを回しているのが目の端で見えた。
「明日香ちゃん」
聞こえた聞き慣れた声に僕の心臓が跳ね上がった。思わず立ち止まり、恐る恐る首だけでゆっくりと振り返る。
黒くて長い髪に、小太りな初老の女性。歳の割に若く見えるが、僕の目には彼女は酷く醜い魔物のように見えた。
彼女は僕の母親だった。偽物だと思っていても、恨めしそうにこちらを見つめるその視線があまりに似ていて悪寒がした。
「どうしていつもワガママばかり言うの?人の邪魔ばかりして…アンタが考えていることだけが全てじゃないの、まだ分からない?アンタ、頭悪いんだから人の言うこと聞きなさいよ。何も出来ないくせに」
母の言葉に心拍数が上がる。荒くなる呼吸に胸を抑え、僕は唾を飲み込んだ。
あれは偽物だ。目の前にいるのは帽子屋だ。耳を貸してはならない。
母は僕に一歩、二歩と歩み寄る。彼女は難しそうに顔をしかめながら言葉を続けた。
「大事な友達が出来たんでしょう?その子がここに残りたいなら、一緒に残ってあげなさいよ。自分ばかり優しくされておいて、何も返さないの?本当に冷たいわね」
彼女の言葉に胸が締め付けられるように痛む。頭に浮かぶのはミズキの顔。彼女は僕に現実に帰らないでと言った。
それを拒絶した自分は冷たいだろうか。僕はミズキとの未来を思って行動しただけだ。
僕は冷たくなんかない。僕のワガママで済まされたくない。そう思いつつ、僕はそれを口に出して断言できない。
自信がなかった。自分がしていることが、ミズキのためになる確証がない。僕のせいで大勢に迷惑を掛ける可能性も確かにある。
「違う…」
母を否定する言葉が震えた。僕のその声は、言い返すと言うより、自分に言い聞かせているのに近かったように思う。
「隣で怪我をしてるその子も帰りたくないんでしょ?アンタのせいで帰りたくない大勢を巻き込むの分かってる?相手の気持ち、考えてあげたことある?」
僕の気も知らずに好き勝手に話し続ける母に、僕はアマネを肩に担いだまま背を向けた。
話すだけ無駄だ。あれは偽物なのだ。呑まれる前に、アマネが弱りきってしまう前に、早く立ち去らなくては。
「逃げるの?お母さんを置いていくの?」
「うるさい」
「人を大事に出来れば、どんな子に育ってもいいと思っていたのに、どうしてそんなに酷いこと言うようになっちゃったの?全然優しくない」
「うるさい!」
言葉を返そうとしても、それに被せるように母は話し続けるので、僕は声を荒らげて母の声を掻き消した。
そうでもしないと、僕は耳を貸してしまう。母は僕にとって、呪いのような存在だ。いつまでたっても、彼女の言葉1つで僕の気持ちが揺らいでしまう。
母の言う通りにしないと、母はいつまでも僕を責め立てる。僕が物心着くまえからの失態から遡って、僕に母を受け入れるよう要求する。彼女が考える「僕がやった母に対する酷い仕打ち」を、たとえそれが不条理で理不尽であっても僕が認めて謝罪しなければ終わらない。
不当な遡り請求だと分かっていても、僕はそれの支払いをしなくてはと胸が騒ぐ。ソギソギと肌の表面が削り取られるような、嫌な寒気がするのだ。
「アンタは女の子なのよ」
僕の背中に向かって母が言う。
「私は明日香ちゃんを娘だと思ってるし、そんなの汚い男装にしか見えない。そんな恥ずかしい格好で外を歩けるとでも?」
僕はただアマネを背負って歩く。
耳が痛い。聞きたくない。頭の端では分かっていて、先送りにしていたことが、母の口を通じて突きつけられる。
いや、前にどこかで聞いた。あの言葉を言われた時、僕は酷く後悔したんだ。
何を後悔した?頭が痛い。
僕は現実ではずっと女性でいた。女性でいなくてはならなかった。この姿は母親に見せてはならないはずなのに。
「明日香ちゃんがそんなんでも受け入れてくれた友達なら、もっと優しくしなさい。そんな明日香ちゃん、誰も好きになるわけないでしょ。もっとお母さんを見習って」
「うるせえんだよ!クソババア!!」
母の声を掻き消す怒号に僕は顔を上げる。自分の口から出たのかと思ったが、僕の肩に担がれていたアマネが肩で息をしながら僕の母を見ていた。
「こっちもお前たちに、生んでくれなんて一言も言ってねえんだよ!口出しすんじゃねえよバーーカッ!!」
腹にナイフが刺さったままだというのに、無遠慮にアマネが全力で怒鳴る。口の端から血が混ざった唾液を垂らしながら叫ぶ彼の腹からは、力を入れたせいでボタボタと血が滴った。
「アマネ!」
グラつくアマネの身体を支え直すと、アマネは濁った目で荒く息をしながら僕に視線だけ寄越した。
「いくぞ…アスカも悪くないんだろ…」
血の気が失せて真っ白になっているアマネの顔を見て、僕は慌てて頷いて歩き出す。
「信じられない、本当に酷い子。親を置いて行くなんて。血縁ですら恥ずかしいのに、そんな状態で自分を恥ずかしいと思わないの?私が一番愛しているのに…」
背後から母の声が遠ざかって行く。やがてその声は聞こえなくなり、僕の耳元で聞こえるのはアマネの苦しそうな呼吸と、森を抜ける風と草木の音だけになった。
アマネが僕の母に対して言ってくれた言葉が、ずっと頭の中で木霊していた。アマネはどうして僕の代わりに怒ってくれたのだろう。
僕の母親に対して反論してくれた人間は今までに傍にいなかった。甲斐性のない父は母に金銭面的な意味では強く出られない立場だったし、母は漫画家という立場から常に自分が一番上に立つ立場であった。職場に来るアシスタントたちにとっても、先生である母に何か反論をするような人間もいない。
母はいつもアシスタントの女性たちの前で僕を悪く言ったりもした。それに同調して笑う者もいた。僕が反論をすれば「子供だから」と更に笑われたり、諭されたりもした。父もいつも茶化して、苦笑いするだけだった。
仕方のないこともあったのだと思う。実際に僕が変なことを言っていたのかもしれないし、同調圧力がある職場環境だったのかもしれない。とは言え、そんな職場がある僕の自宅環境はいつも落ち着かなかったし、孤立無援のような空間であったことは間違いない。
そんな僕にとってアマネの言葉はあまりに乱暴ではあったが、同時に救いに思えてしまったのだ。
「…お前のママ、あんなんなのか」
僕の肩に上半身を委ねたまま、アマネが小さな声で言った。僕はそれに苦笑いする。
「アマネの環境に比べれば、それほど酷い人でもないよ。ご飯は出るし、学校にも通わせてもらったし、電気も通っててお風呂も入れる」
そうだ、僕の家はごくごく普通の家だった。いや、むしろ一般より裕福だった。紙面がよく売れるバブル時代の漫画家だった母の収入は、そこらへんのサラリーマンの収入を優に超えていた。
きちんとした衣食住、加えて私立の学校まで通わせてもらい、塾へ行き、たまには家族旅行があった。それを僕が本当に望んでいたかはさておきだが。
僕は塾で勉強したいこともなく、行きたい学校もないまま適当に親に勧められるままに進学した。父は教育熱心で、進路に妥協はしなかったし、頻繁に手を上げるから怖くて意見が言えなかった。母は逆らうと顔を真っ赤にして「どうしてあなたのためを思って言っているのに、言うことを聞かないの」と喚き散らすから、僕はそれが面倒で従うことに徹していた。
僕も悪いのだ。僕はそこで考えることを放棄してしまった。だから、あの時から僕はずっと中身が空っぽのまま、自分が本当になりたい姿さえ分からないまま年を重ねて今がある。
母は元より、父にまでゴマをすって、両親の顔色ばかり見て生きてきた僕の報いなのだ。
「これ、抜きたい…」
腹に刺さったままのナイフを、アマネが引っ張りだそうとするのを僕は慌てて手で優しく止める。
傷口に刺さったものを抜くと出血が酷くなる。今のアマネの回復力がどこまであるのか分からないのに、手当する道具もないままナイフを抜くのはリスキーだ。
「だめだめ!ちゃんと手当できる場所に、三月兎の集落に着いてからにしよう」
「あの兎が…アマネのこと助けるとでも、思ってんのかよ…バカか…」
アマネはいつものように悪態を吐くが、弱ってるのもあってか強い抵抗は示さなかった。足を引きずるように歩くアマネを支えながら、僕はイディオットの集落に向かって歩き続ける。
彼の集落はここからまだもう少しかかる。それまでアマネがもってくれればいいのだが。
夜が更け、月が空に上がる頃になると、僕は懐かしい場所へと辿りつく。
ミズキと共に過ごした僕の特製キャンプ地だ。そこには幸いなことにミズキが作ったまま残していってくれた家具がいくつか残っている。僕は急いでアマネをミズキが作ってくれたベッドに運ぶ。
ゆっくりとアマネをそこに寝かせると、アマネは小さく呻く。ベッドにじんわりと血がにじむ。なんとか早く止血したいところだ。
「アマネはここで待っててくれる?僕は三月兎を呼んでくる。急がないと、そのままじゃ傷が悪化して、下手したら命を落としてしまうかもしれない。すぐ戻ってくるから」
ここからイディオットの集落まで、走れば数時間…いや、今なら空も飛べる。一人で行けばもっと早く辿り着けるはずだ。
急いで飛び立とうとする僕の手をアマネが掴んで引き止める。振り返ると、彼は僕を濁った黒い目で睨むように見上げていた。
「…本当に、戻ってくんのか?見捨てる気じゃねえだろうなあ…?」
荒く呼吸を繰り返すアマネに、僕はその手を握って傍に屈む。
見たことがある光景だった。幼い日に肺炎で入院した時に、面会から帰ろうとする親にすがる自分にアマネは良く似ていた。
不安なのだ。当たり前だろう。僕らの間に信頼関係はほとんどないし、彼は酷い傷を負っている。見た目はこれだが、9歳であることを加味すれば良い子にしている方だろう。
「大丈夫、絶対に戻ってくる」
「絶対って言う大人はすぐ嘘吐く」
「僕がアマネにとっての初めて約束を守る大人になるよ」
握手をするようにギュッと彼の手を握る。アマネは僕の顔を険しい表情でしばらく見つめていたが、目を閉じてゆっくりと自ら手を離した。
「…寝てる。早く帰って来い。帰ってこなかったら…いつか殺しに行くから」
彼はそう言うと傷を庇うように横向きにうずくまり、僕から背を向ける。殺してやる、と言うのは彼の常套句だが、いつもより覇気のないそれはあまり殺意を感じなかった。
「アマネは強いから、大丈夫って信じてるよ。だから、生きて待っててね」
「うっせ…」
頭を撫でると、彼は小さく悪態を吐いてから間もなく気を失うように寝息を立て始める。
アマネは元々あれだけのスペックを発揮できる程の強い意志の持ち主だ。気を強く持っていてくれれば死なないだろうが、傷を負わされたのが彼のトラウマである父親であることが心配だ。夢だからこそ何が起きるか分からない。早く処置してやりたい。
僕は地面を蹴飛ばし、翼を羽ばたかせて上空へ舞い上がる。空を飛ぶのは下手だと思っていたが、アマネをぶら下げて湖を渡るという試練を超えたおかげか、最初に比べてかなり安定して飛べた。
上空から森を見下ろすと、今や懐かしいイディオットたちの集落が遠くに見える。
ふと、自分の下に落ちる自分の影がしっかりトカゲのようなシルエットになっていることに気づいた。みんなに言われてばかりであまり自覚はなかったが、こうして空を飛ぶ自分は本当にジャバウォックになってしまったんだな。そう考えると、少しばかり感慨深い。
ポツポツと小さな音が窓を叩いていた。現実では身近なその音に目を覚まし、僕はベッドから身体を起こした。
窓の外は灰色で、大量の水滴が滴っている。ポツポツと小さくも、沢山の水滴が窓を叩く音が雨であると気づくのに、僕はほんの少しの時間を要した。
僕はベッドから立ち上がり、アマネの側へと行く。アマネはベッドで眠ったまま微動だにしない。顔の前に手を差し込むとそこに呼吸はなく、身体を脈打つ鼓動もないのに、身体は温かくて生き物としての機能を失っていないことだけが確かに分かった。
時間が止まっている。窓の外に見える人々も何かの行動の途中のまま、人形のように止まっていた。僕は慌てて自分が寝ていたベッド脇に置いていた傘を手に取り、階段を駆け下りた。
「ジャッジ!」
随分と長いこと再会するべく探し続け、もう1ヶ月以上が経過していた。僕は白兎の名前を叫びながら、傘をさして外へ飛び出す。
外は視界が烟るような雨。霧がかってるようにすら見える灰色の背景の中、遠くにぼんやりと見える白い影があった。
真っ白なガーゼのような生地で作られた、裾を意図的にほつれさせたようなコート、白いワイシャツにコートと同じガーゼ生地の長いスカート。スカートの下に見えるズボンこそ黒いが、ブーツまで白で固めたその人物はまるで幽霊のようだ。
真っ白な髪と肌に囲まれた真っ赤な瞳だけがヤケに浮いて見える。片耳しかない白い兎の耳を持った華奢な男性は白い傘を手に僕を見つめていた。
「アスカ」
抑揚のない声で表情1つ変えずに彼は僕の名前を呼ぶ。僕は水溜まりを踏みつけるようにして彼の元へと一目散に走った。
「ジャッジさん!やっと会えた!」
「久しぶり。随分と大きく育ったものだ」
ようやく会えた命の恩人に僕が笑うと、ジャッジは相変わらずピクリとも表情を動かさずに、僕の姿に下から上へと視線を滑らせて言った。
「こんなに育ったジャバウォックは初めて見る。それが貴方の選んだ姿なのか」
感嘆とも批判ともとれない口調で淡々と話す彼に僕は何度も小さく頷いた。
「うん、うん…!あなたが僕に助言をくれたからここまで生きてこられました!本当にありがとう…!」
「私は何もしていない。全てはアスカが自ら選択を重ねた成果だ」
彼は僕の言葉に初めて会った時と同じような返答を寄越すと、そのまま間を開けずに続けた。
「私は貴方を探していた。あまり時間がないので、まずは要件を先に伝えたい」
「要件…?」
ジャッジの周囲は時間が止まる。それなのに、時間がないというのは何事だろう。僕は何から話せばいいのか迷うほど、彼に話したいことがあるというのに。
首を傾げる僕にジャッジは頷いて話を続けた。
「帽子屋が補充された。彼はアリスの元へと向かうだろう。アスカには、帽子屋とアリスの合流を防ぐ手伝いを頼みたい」
彼の言葉に僕は目を丸くする。5年もずっと欠員のまま補充されたことのなかった帽子屋が、何故今更のように補充されたのだろう。
いや、補充に理由などないのかもしれないが、何にせよミズキとの合流を阻止しなくてはならない理由が分からなかった。
「眠り鼠も最初の帽子屋を殺したと言ってましたけど、帽子屋って何がそんなにアリスに影響を出すんですか?凄い力を持ってるとか…?」
おずおずと尋ねると、ジャッジは首を縦にも横にも振らなかったが、ただ目を瞬かせて口を開いた。
「帽子屋の能力は変幻。彼が持つ特殊な帽子を使えば、彼が思うように自身の姿を変えることが出来る。彼はアリスの傍にいれば、アリスが望む人物へと変化するだろう」
「…それが何か悪いことなんですか?」
ジャッジの言葉は相変わらず謎かけのようだ。要領を得ない回答に僕が顔をしかめると、彼は表情を変えずに話を続けた。
「彼はアリスに優しく、甘い。甘さは過ぎれば毒になる。過度に甘やかされ続け、肯定され続けると、人間は自分が何か過ちを犯した時に己を省みることが出来なくなる。アリスがそのような状態になり、傲慢になっていくと、この世界そのものの環境が悪化する。今は美しく咲くだけの薔薇の庭園も茨だらけになり、誰も立ち入ることが出来なくなるだろう」
「待ってください。帽子屋は新しく補充されるんですよね?なんでその未来が確定したように話すんですか?」
この世界を作るのはアリスであるミズキ。ミズキのさじ加減で世界が作り替えられるのであれば、ミズキの心持ち次第で環境が悪化する原理は理解できなくもない。
しかし、ミズキがまだ見ぬ帽子屋と関わることでそこまで劣悪な環境を作るとは僕には思えなかった。何より、何も見ずにそれをジャッジが危惧するとは思えない。ジャッジとは短い時間しか過ごしたことはないが、彼らしくないと思ったのだ。
「今のアリスには前科がある」
淡々と彼は僕に返答する。
「帽子屋は唯一、現実に人として存在していない配役だ。彼は自身の姿にアリスの希望を詰め込み、アリスが望む都合の良い人間を演じる。アリスを堕落させ、この世界から離れて行かないように甘やかしてしまう」
ジャッジの言葉に僕は黙る。言葉が出なかった。
帽子屋は現実に存在する人間ではない…?この世界と共に生まれた、空想上の人物と言うことだろうか。空想上の人物なら、確かに補充されても前に起きた記憶なり行動なりを引き継いでいても何もおかしくはない。
しかし、前科があると言われてしまうと、まるでミズキが一度その道を辿ったようじゃないか。ミズキは帽子屋に甘やかされ、世界を腐らせたのだろうか。
彼女ならそんなことしないはず…そう思いかけて、僕の脳裏に先日の出来事が蘇る。
ミズキは確かにフロージィたちの同意を得てから初めて僕にキツく当たった。彼女は誰かの庇護を得ていなければ、驚くほど引っ込み思案なのだ。そう考えれば悔しいが、確率は確かにゼロとは言いきれなかった。
「ミズキ…アリスは前にそうしてここに残ったんですか?」
「どちらかと言えば、他意的に縛られたという表現が近いかもしれない」
僕の問にジャッジはただ僕を真っ直ぐに見つめたまま頷いた。
「最初の茶会での出来事だ。殺された帽子屋は無条件にアリスを愛し、アリスは帽子屋に依存した。森は茨だらけになり、土はぬかるみ、空は淀んだ。アリスと帽子屋の周囲だけに薔薇が咲き、甘い匂いが漂う妙な空間だった」
まるで見たことがあるような口ぶりでジャッジは言う。いや、見たことがあるのだろう。彼は憶測だけで結論を出す人ではない。
「腐りゆく世界に嫌気がさした初代の三月兎は帽子屋にアリスの目の前で危害を加え、アリスを殺そうと刃を向けた。アリスを守ったのは眠り鼠。アリスに夢中になっていた三月兎を背後から刺し殺した。その日の森は血の海になっていた」
ジャッジの口から出てくる当時の話に僕は絶句する。初代の三月兎が死んだ詳細について、誰も話そうとしなかったが、そんな経緯があったとは知らなかった。いや、実際に誰も話そうとしなかったのだから、情報自体が外に広がることがなかったのかもしれない。
しかし、フロージィは帽子屋は自分が殺したと言っていたはずだが、これではフロージィはただアリスを守っただけになる。
「帽子屋は三月兎に殺されたんですか?」
「帽子屋を殺そうと最初に行動したのは三月兎だが、留めを刺したのは眠り鼠だ。凄惨な茶会を見て心に傷を負ったアリスの記憶を彼女は眠らせ、ミズキには帽子屋は死んだと伝えて退避させた後に、眠り鼠が改めて葬った。世界が、アリスがおかしくなった原因は帽子屋だと思ったのは、三月兎も眠り鼠もその点においては合致していたようだ」
烟る雨の中でジャッジは僕の質問に答えると、僕とすれ違うように歩き出す。
「私がいれば周囲の世界の時間は止まるが、アリスと帽子屋は止まらない。もう行かなくては」
「待って!」
僕はジャッジの腕を掴んで引き止める。ジャッジは相変わらず能面のように表情を変えず、僕を見つめた。
「まだ情報が少なすぎます。手伝うために情報を下さい。あなたは、最初のお茶会からいたんですか?」
まるで見てきたような口調で彼は初期のお茶会について話していたが、だとすれば彼は何をしていたのだろう。彼は何を思いながら今までの様子を見てきたのだろう。
ジャッジはただ静かに赤い瞳を開け閉めする。その瞳に映り込む僕の表情は、困惑の色を隠せずにいた。
「私はこの世界が始まった時からいた。何もせずに見続けていた、ただの傍観者だ。私がいると何もかも止まってしまう。だから、私は誰かと共に時を過ごせない。誰かを救うことも出来ない」
ジャッジの周囲の時間は止まる。側にいても時が止まらないのはアリスと帽子屋とジャバウォック。そう考えて、僕は彼が想像以上に孤独な配役であることに今更のように気が付いた。
初期のお茶会など、きっとそう大きなものではなかっただろう。狭くて限りのある森の中、お茶会の半数を担う、三月兎と眠り鼠と彼は会話が出来ない。つまり、ジャッジがいてはお茶会は永久に始まらないし、終わらないのだろう。
「私は彼らが争う中、ただ何もせずに遠くから見ていた。私がもっと側にいて時を止めれば、アリスと帽子屋は逃れられたのかもしれなかったのに、私はそれに踏み切れなかった」
ジャッジは言葉を続ける。抑揚もない、淡々とした口調だと言うのに、僕には何故か彼が後悔しているように聞こえた。
私は誰も救えない、と彼は言っていた。本人は自我も感情も持たないと自分を形容していたが、やっぱりそんなことはないのだろう。
「…ジャッジさんは死んでしまった2人を救いたかったんですか?」
僕が尋ねると、ジャッジは表情を変えずに沈黙した。
誰かを救いたいと願ったことのない人間の口から「救えない」なんて後悔の言葉は出ないはずだ。彼が口にしたことは、間違いなく彼の願望であり、彼の意思だろう。
「今も誰かを救おうとして、僕に声を掛けてくれたんですよね?」
「救いたい…?私が誰かを?」
ジャッジはまるで自分が発した言葉を覚えてなかったのか、僕の言葉を改めて復唱する。片耳しか残っていない兎の耳を指先で触り、彼は何かを考えるように目を伏せた。
「…ああ、確かにそんなことを考えていた。そうだったのかもしれない。ジャバウォックとも話せるようになった時はそう思っていたような気がする」
「話せるようになった…?」
彼の言葉に僕は首を傾げる。
そういえば、イディオットが言っていた。何故、白兎と話せる配役がアリスと帽子屋とジャバウォックなのか。ジャバウォックなどという、マイナーな配役が宛てがわれる理由は僕も気になっていたが、彼の口ぶりでは本来話せる配役ではなかったのだろう。
「ジャッジさんはいつからジャバウォックと話せるようになったんですか?」
僕らは帽子屋とアリスが合流することを防がなくてはならないのかもしれない。一刻を争うのかもしれない。それでも、イディオットに指摘されてからずっと気になっていた疑問は今聞かなければ永遠に分からないかもしれない。今後、イディオットに会う可能性があるなら聞いておくべきだろう。
僕の問に彼は顔を上げる。真っ赤な彼の瞳から感情は読み取れない。
「…忘れてしまった。目の前で殺されるジャバウォックを見ているのを、あの時の私は辛いと思っていたのを微かに覚えている。私は止まっている人間を動かすことは出来ない。村人に屠られるジャバウォックの姿を、当時はただ見ていることしか出来なかった」
ジャッジの話に寄れば、アリスであるミズキによって今の世界は徐々に広がり、場所が増えたらしい。場所が増えるにつれて、配役も場所に応じて増えた。
村人として最初にこの世界に来たのがアマネらしい。アマネはあまりに強く、配役に交代は一度もなかった。初代ジャバウォックはアマネと同時に配役された人物であったが、その人物はアマネが眠り鼠に加担してすぐに殺されてしまったそうだ。
それから、何度も何度もジャバウォックは死ぬ度に補充された。補充されたジャバウォックはどの人も育ちきる前にアマネに狩られた。
ジャッジがいつもいるあの森で、ジャッジのすぐ側で、彼らは1人残らず凄惨な死を遂げたそうだ。
「私がいれば、時間が止まる。止まるのに、アリスと帽子屋以外の誰も動くことが出来ない。私は村人を説得することも、ジャバウォックを守ることも出来なかった。誰を救うでもなく、見ているだけの自分という存在について考えているうちに、私は自分が何者であるかが分からなくなってしまった」
ジャッジはそこまで話すと、僕の顔を見た。その彼の表情は微かだが、困惑したように歪む。
それは僕にとって、初めて見るジャッジの表情だった。
「痛みすら感じなくなったのではないかと、自分の片耳を切り落とした。その時は確かに痛かった。ジャバウォックたちが感じた痛みと同じだと安心したと同時に、それ以上の苦痛を味わうジャバウォックに私は同情したような気がする。1人でも救えればと、私はジャバウォックを探し、話しかける試みを続けた」
ジャッジは自分の片耳を撫でる。片耳しか残っていない彼のその容姿に、僕はようやく合点する。
その姿は、数年間も独りでもがき続けてきた彼の苦悩そのものだったのだろう。この異様なまでの冷静さも、公平さも、感情の起伏のなさも、全ては彼がこの世界で生きていく上で身に着けてきた処世術。僕が補充されてすぐにジャッジに出会えたのは偶然でも何でもなく、彼の努力そのものだ。
幽霊のような佇まいの彼は雨音で消えてしまいそうなほど小さく溜息を吐いた。
「そのまま数年が経ち、ようやくアスカの前に1人だけ対話する機会を得たジャバウォックがいた。なのに…その時の私は、何故ジャバウォックと話そうとしていたかを思い出せなくなっていた」
「じゃあ、そのジャバウォックは…」
僕は彼に追求しようとしてから、口を閉ざす。
そのジャバウォックが助からなかったことは明白だ。他でもない、その次のジャバウォックが僕なのだから。
「そのジャバウォックは私を怪しんで、ロクな対話もせずに私の元から離れた。私はそれを止めなかった。止める理由が、あの時の私には分からなかったから」
ジャッジはそこまで答えると、俯いた。
「…だから、今のジャバウォックの配役としてアスカがいる。アスカも私を疑って離れたなら、やはり私は止められなかっただろう。私はつい、今の今までどうして自分がジャバウォックを探していたのか覚えていなかった。貴方が私にこうして聞かなかったら、思い出すこともなかったのかもしれない」
俯いたジャッジが静かに目を閉じる。真っ白な睫毛で蓋をされると、ジャッジの中から色が消える。灰色の空と彼の姿だけを見れば、それはまるでモノクロ映画の画面のようだった。
「貴方が生きているのは、貴方が選択した結果。私はただ見ていただけだ」
「でも、ジャッジさんは僕を引き留めてくれましたよね。ジャッジさんを疑ってかかったのは僕も、僕の一つ前のジャバウォックと一緒です」
僕は笑う。笑った僕に、ジャッジは目を開く。真っ赤な瞳はこちらをただ黙って見つめた。
「僕がこうしてあなたとお話できるのは、あなたが僕と、僕の前のジャバウォックたちと話そうとしてくれたからですよね。助けてもらったことに代わりはないです!ありがとうございます、今度は僕があなたの手伝いを出来るなら喜んでします!」
今までどうしてアリスと帽子屋だけが話せる特別な配役に、僕のような配役が話せるのかずっと疑問に思っていた。だけど、これで答えが出た。
ジャッジはずっと目の前で死んでいくものを止めたくて、今も腐ってしまうかもしれない世界を腐らせないように、手助けを求めて僕を探して会いに来てくれたのだ。
それなら、僕ができる限りの手伝いをする以外に僕の中で選択肢はない。僕は彼に救われた恩を返したい。
「僕はこれから三月兎に会いに行こうと思っています。元から会いに行くつもりだったんですけど…帽子屋がどんな人物なのか分からないので、どのみち会って協力を仰ぐべきかなと。僕は信頼できる味方は多いほうが良いかと思いますが、ジャッジさんはどう思いますか?」
僕は考えながらジャッジに尋ねる。この情報を持っていれば、きっとイディオットに協力を求める時に大きな説得力を持ってくれる。イディオットは自分の目で見て、明確な理論がなければ疑う人だが、彼に託されてきた疑問はこれで全て解決した。材料が増えた分だけ、味方に出来ると見込んでもいいだろう。
帽子屋と会うにしても、残念ながらジャッジとは長時間の行動を共に出来ない。アマネという一番恐ろしい僕の天敵は、今のところ僕を殺さずにいてくれてはいるが、いつ敵に回るとも分からないし、帽子屋がどんな人なのかも分からない。それなら、イディオットのように一度は信頼関係を育んだ人間と協力した方が何事も身動きしやすいように感じた。
イディオットの方が僕よりずっとこの世界に詳しい。先人の知恵は借りるべきだし、餅は餅屋だ。この先もし何か争いになった時は知識を多く持った者に頼れるのは、大きなアドバンテージになるだろう。
ジャッジは珍しく目を少し大きく見開いて、驚いたような顔で僕を見ていたが、いつものように無表情に戻って口を開いた。
「…今の三月兎はなかなかの武闘派だ。変幻している姿にも寄るが、武力行使で帽子屋を止めるタイミングがあるのであれば、得策と言えるかもしれない。ただ、アスカの傍には村人がいるように見える。頭の硬い彼がそれを許すかと推測すれば、許す確率は限りなく低いと見える」
「ああ、まあ…それは僕も思ってました」
アマネは僕がいた時だけでも、すでに集落に大ダメージを与えている。それ以外にも僕がいない間にアマネはゲーム感覚で大勢を殺しているだろうし、眠り鼠に指示された人間も問答無用で葬ったと本人が言っていた。いくら子供で倫理観が欠けるからといって、その行為は決して許されるものではないし、イディオットが一番許せないタイプの人間であることもすでに何となく察してはいる。
僕は自分の顎を指先で叩きながら首を捻った。
「となると、三月兎に会いに行くのが必ずしも良い方に動くかは分からないですね…。ちなみに、三月兎に僕が協力を仰がなかったとして、帽子屋は攻撃的な人物ではないですか?話し合いだけで済まないから、眠り鼠が殺したとかでは…」
現実に帰るにあたって、いつかはイディオットと会って話をしたいが、帽子屋とアリスの合流を第一に防ぐ上でイディオットの存在が逆効果になってしまうのであれば、アマネと二人で帽子屋を探しに行くのもアリだろう。だけど、ジャッジの今までの話を聞いていると、とてもじゃないが帽子屋との平和的な解決が見えてこないのだ。
帽子屋とは会ったことも話したこともない、僕にとって憶測だけの存在でしかないが、あれだけ口達者で理性的な眠り鼠が、自らの手で帽子屋の息の根を止めたのだ。彼女の雄弁さと、物理的な戦闘能力の低さは僕が実際に見てきた。どう考えても論議で戦ったほうが有利な彼女が物理的な方向に動くというのは、よほど話が通じないか、それを上回る饒舌さの持ち主としか思えない。
そんな人間相手に僕一人で勝てるビジョンは浮かばないし、アマネもどう動くか分かったものではない。味方してくれれば物理的に消し去ることは簡単かもしれないが、邪魔でもされたら、それこそ物理的にも論理的にも歯が立たなくなってしまうだろう。
頭を悩ませながら尋ねると、ジャッジは静かに首を横に振った。
「帽子屋自体は攻撃的な人物ではない。ただ、相手の心の隙間に滑り込んでくる。目の前の人間にとって、一番効果的な姿として目の前に現れるから厄介なのだ」
「一番効果的な姿…?」
「甘く優しくほだすのが一番効果的な相手には、それに相応しい姿で本人が望む言葉を余すことなく与えるだろう。畏怖でねじ伏せるのが一番効果的であれば、彼は相手が心から恐れる者に姿を変え、相手の心の傷を抉るだろう。彼は鏡のような性質だ。鏡を覗き込んだ人間次第で性格も性質も変わってしまう」
彼の説明を聞き、僕は今更ながら帽子屋の厄介さを思い知る。あの冷静な眠り鼠が自らの手で殺して、補充されただけでジャッジが僕に助けを求めにくるような人物…いや、この夢から生み出されたのであれば、それを人と呼称することも違うのかもしれない。
「だから、三月兎に協力を仰いでも、仰がなくても結果を私は予測することが出来ない。今の三月兎は帽子屋に出会ったことがないし、アスカの傍にいる村人すら太刀打ちできるか分からない。私に出来ることは、アリスに帽子屋と会わないよう助言することだけ。だから、私の他に助言できる貴方にも手伝いを依頼しに来た」
「ああ、だから僕だったんですね…」
ジャッジのその言葉に僕は肩を落とす。
なるほど、それで僕が選抜されたのか。白兎と話せるのはアリスと帽子屋。イレギュラーではあるが、そこにジャバウォックである僕が含まれるのであれば、確かにこの出来事に関してジャッジが助けを求められるのは僕しかいない。
苦笑いする僕を見ながら、ジャッジは相変わらず無表情のまま声を発した。
「私はこれからアリスを探しに行く。彼女に帽子屋と関わってはならないと伝えることだけが、私に出来ることだ」
「アリスなら、今はたぶん眠り鼠の城にいると思います。僕はアマネの監視もありますし、大きな騒ぎになってしまうのですぐには入れないかもしれませんが…」
僕もミズキと会って話したいし、ミズキはきっと白兎よりも僕の言葉の方がより耳を貸してくれるんじゃないか、なんて自惚れたことを考えてしまう。だけど、それは自分が口にした通りに実現することは難しいし、そう思っているのは僕だけかもしれない。
ミズキは僕が現実に帰ると言う限り、やはり話を聞いてくれないかもしれない。話したところで、意見がすれ違ったままでは何も進展しないのかもしれない。そう考えれば、ジャッジの口からまず状況を伝えてもらうというのは、良いことなのかもしれなかった。
「その情報だけで、とても助かる。ありがとう」
ジャッジは小さく頭を下げる。顔を上げた彼の表情は心なしか嬉しそうにも見えた。
「…私はこうして誰かに救って欲しかったのかもしれない」
傘をさしたまま、ジャッジが歩き出す。土砂降りなのに、汚れ一つない白いコートが雲の隙間からから差す陽を反射して、本物の幽霊のように消えてしまいそうだった。
「ありがとう、アスカ。でも、もう本当に行かなくては」
振り返ったジャッジが言った。相変わらず表情が読み取りづらかったが、言葉が少しだけ明るく聞こえた。
「こちらこそ、色々教えてくれてありがとう!僕にも出来ることを探してみますから、僕が合流するまでどうかミズキを…アリスをよろしくお願いします」
僕からミズキに今すぐ出来ることはない。それはとても歯がゆいが、遠くからでも出来ることを探すことが今の僕の精一杯だ。祈るようにジャッジに言うと、彼は頷いて背中を向けた。
白いその背中が遠ざかる。雨が次第に止んでいき、空に浮かぶ灰色の雲が開いて夕暮れが顔を出す。周囲で半端な姿のまま止まっていた村の人たちが動き出す。彼らは何故か濡れている自分たちの服や、足元に広がる水たまりを不思議そうに見つめ、空を仰いだ。
「ああ、また知らないうちにお天気雨だわ。いつ降ったのかしらね」
傍で会話の途中で止まっていた女性が呟き、その正面に立つ女性は困ったように笑う。
そうか、彼らからすれば雨に遭遇した時に傘を差す暇もほとんどないのだろう。言われてみれば、僕はこの世界で傘を見かけたことがほとんどなかった。傘はある意味、あの豪雨の中でも動ける証拠の一つでもあるのかもしれなかった。
そういえば、アマネを家の中に置いて来てしまった。村の人々を怖がらせてしまうかもしれないが、僕は彼を連れて行動を開始しなくてはならない。駆け足で家に戻る僕の姿を見ると、会話に花を咲かせていた女性たちも焦ったように会話を切り上げる。僕とアマネが一緒に行動しているのは、もう村の中では周知の事実なのかもしれない。
アマネの家に戻ると、相変わらず血なまぐさいリビングとキッチンが最初に目に入る。出来るだけその光景を見ないように僕が二階に上がると、アマネはまだベッドに横になったまま眠っていた。
起こすのは少し可哀想だが、ジャッジの言葉を聞く限り事態は一刻を争うのだろう。ジャッジがミズキを止めてくれている間に僕もイディオットに会いに行きたい。
イディオットがアマネを連れている状態で味方に回ってくれる可能性も、イディオットが味方になったからといって帽子屋を撃退できるかもやはり怪しい。それでも、フロージィの城に帰ることを許されない今の僕に出来る最善策はそれしかないと思っている。
アマネが勝てるかも分からない帽子屋を相手するなら、助っ人はやはり多い方がいい。三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったものだ。知識が多い彼を引き入れた方が出る作戦もあるだろう。
「アマネ、起きて。そろそろ行こう」
「…んん~…」
ベッドに横になるアマネの肩を揺すると、アマネが眉間にしわを寄せて唸る。起きたくないのか、彼はそのまま寝息を立てた。
「もう夕方になるよ。そろそろ三月兎に会いに行こう」
「うるせえなあ」
さらに肩を揺すると、アマネは肩を回して僕の手を払いのける。寝かせておいてあげたいのは山々だが、そうもいかない。僕は払いのけられた手で再び彼を揺すった。
「日が暮れる前にここを出よう。集落までまだ結構距離があるから、途中で野宿して明日の昼にはたどり着くようにしようよ」
「明日の朝に出ればいいだろお」
「帽子屋が補充されたらしいんだ。ミズキと合流するのを防がなきゃ」
渋るアマネに告げると、突然彼は勢いよく起き上がる。びっくりして思わず僕が手を引っ込めると、アマネは険しくさせていた顔を不愉快そうにゆがめて僕を見た。
「帽子屋?本当に?アイツ、フロージィが殺したからもうリスポーンしないんじゃねえの?」
「さっき会った白兎が言ってたんだ。だから、本当だと思うよ」
「白兎?いつ会ったんだよ。アマネは知らねえぞお」
「そりゃ…僕以外に白兎と話せる人はここにいないからね」
どう説得するべきか悩みながら言葉を並べると、アマネは訝しそうに僕を見上げた。
「嘘吐いてねえだろうなあ?」
「吐いてないよ。ほら、雨の後があるだろ?」
肩を竦め、僕は窓の外を指さす。白兎の能力については、湖を渡る時に聞かれたので共有してある。
アマネが僕を信用していないというのは、やはり本当のようだ。疑い深い彼は僕の指先を見つめ、外を見る。
窓についた雨粒と、地面のあちこちに落ちている水たまりに彼は首を傾げ、再び僕を見てから溜息を吐いた。
「…本当に帽子屋がいるなら、殺さなきゃ」
アマネはそう呟いて立ち上がる。思っていたよりも飲み込みが早くて、僕は逆に困惑してしまう。
ベッドから立ち上がった彼は床に投げ出していた剣を拾い上げ、そのまま階段の方へと向かう。
「ほら、行くぞ。帽子屋殺しに」
「ちょ、ちょっと待ってよ!帽子屋を殺しに行くんじゃなくて、三月兎に会いに行くんだよ!」
さっさと歩き出してしまうアマネを追いながら僕が言うと、アマネは振り返りもせずにズカズカと階段を降りていく。
「は?三月兎に会いに行く意味がねえし。帽子屋殺せばいいんだろお?」
「でも、勝てる確証はないよ。味方を増やした方が…」
「アマネが負けるわけねえだろお。なんで負け前提で話を進めんだよバーカ」
家の外に出て、アマネは僕の話も聞かずに森へと歩いていく。確かに森に行くことは正しいのだが、この様子ではイディオットの集落とは別の方向へ行ってしまうだろう。僕は慌てて再びアマネの肩を掴む。
「今、白兎がミズキに帽子屋と会わないように説得に向かってくれてる。それなら、その時間で僕らも準備を整えるべきだ。それこそ、アマネが負けて怪我でも負ったら…」
「アマネは負けねえって言ってんだろお!うるせえんだよ!」
今度はもっと乱暴にアマネは僕の手を振り払う。怒りが込められたそれは力強く、叩き落とされた僕の手首にビリビリとしびれるように痛みが走った。
「フロージィが帽子屋がリスポーンするようなことがあったら真っ先に殺せって言ってた。三月兎に会ってる時間が勿体ねえだろ」
「でも、帽子屋の位置も分からないじゃないか」
「はっ、知ってるし」
まるで意地を張る子供のようにアマネが吐き捨てる。
いや、彼は子供なのだった。現実こそ辛酸を舐め続けているが、この世界での彼は覇者だ。誰にも負けたことがない、無敗の子供。彼は自分が負ける未来など想定すらしないのだろう。
一番最初にこの世界で出会ったジャッジも確かに「この世界でアマネに敵う者はいない」と話していた。話していたが、その彼が「アマネも帽子屋に敵うか分からない」と言ったのだ。実際に帽子屋に出会ったことのある人の証言ほど、信憑性のある発言はない。アマネが勝てると言い張るほど、何故だか僕はどうしようもなく不安になった。
「帽子屋のリスポーン予測地点はフロージィから聞いてる。多分、最初の茶会のエリアだろ。行くぞ」
アマネはポケットから棒付きキャンディーを取り出し、それの袋を開けて口に入れる。
帽子屋の位置情報については初耳だが、シュラーフロージィが言うならそれも確かな情報だろう。確かだからこそ、それは確実な遭遇を意味する。何も準備せずに、そんな得体の知れない人物に会いに行くなんてますます賛成できない。
「ダメだよ!せめて情報を集めてから…」
「うっせえんだよ!じゃあ、お前だけ先に三月兎に会いに行ったらいいだろお!」
「僕の行動を監視したいって言ったのはアマネじゃないか…」
僕はアマネの言葉に溜息を吐く。理不尽にもほどがあるが、もはや当初の目的を投げ出してしまうほどに、アマネの頭の中は帽子屋のことで一杯のようだ。これは伝えない方が正しかったのかもしれない。
僕を置いて、剣を地面に引きずりながらアマネはさっさと先へ進んでしまう。その背中を見ながら僕は腕を組んで考える。
どうしようか、このままアマネを放って僕はイディオットに会いに行ってしまおうか。それこそ、アマネがいない方が話が早いだろうし、イディオットも聞く耳を持ってくれるに違いない。アマネは強いし、それこそ別行動した方が効率がいいこともあるかもしれない。
しかし、アマネが万が一負けでもしたらどうする。この世界で一番強いと言われている人間が突然いなくなりでもしたら、それこそ起こる問題は少なくないだろう。少なくないだろうし…彼のバックグラウンドを知ってしまうと、なんだか放っておけなかった。
遠ざかっていく彼の背中に僕は大きな溜息を吐きながら、駆け足で追いかけた。
「わかったよ!一緒に行くよ」
「はあ?頼んでねえし」
追いついてきた僕にチラとも視線をよこさずにアマネが悪態を吐く。これではどちらが行動を監視しているのか分からなくなる。
アマネに連れられて森を進む。色とりどりのフルーツや花をつけた草木がなんだか懐かしい。随分と長い時間をこの森で過ごしたような気がする。
帽子屋がいるという、初期のお茶会の場所には実は一度、僕もミズキと共に訪れたことがある。本当に森の中に長テーブルが置かれただけの殺風景な場所だ。
最初はまだエリアが少なかったらしいこの世界の端が断崖絶壁なのを考えると、昔は今より作り物感は強かっただろう。ここまで広げられた世界が全てミズキによるものだと思うと、なんだか感慨深くもあった。
夕暮れが夜に差し掛かり、空に薄ぼんやりと月が見えた頃、目の前を歩いていたアマネがふと足を止める。それに合わせて僕も足を止める。
僕より身体の大きなアマネの背中から顔を覗かせると、あの殺風景な長テーブルに腰をかけている人物が見えた。
月明かりを反射する美しいプラチナブロンドの髪と透き通るような緑色の瞳。こちらを振り返った彼は恐ろしく整った顔立ちをしていて、まるで作り物のようだ。
真っ直ぐでサラサラの髪を揺らして小首を傾げた彼の頭には白いシルクハット。右上部だけが白黒のチェッカー模様で、トランプが数枚リボンに括りつけられている。
簡素なワイシャツの首元には片結びのリボンを巻き、タイトな白いズボン、レディースのピンヒールブーツを履いている。中性的に揃えられたそれが目を疑うほど整った容姿のせいか、まるで違和感がない。彼の左目には白い薔薇が咲いており、エメラルドのような右目を細めて笑うその表情は精巧に作られた人形が笑っているようだった。
「こんにちは、君たちは初めましての人だよね」
帽子屋と思しきその人物は席から立ち上がり、胸に手を当てて深々とお辞儀をする。優しく微笑むその表情からは悪意を感じない。ただ友好的でいようとする姿勢が伺えた。
「お前が帽子屋かあ?」
アマネは言うや否や、手に持つ剣を地面に突き立てる。その様子を見た帽子屋らしき男性は目を丸くして困ったように笑った。
「そうだけど…何か君を不快にさせてしまったことがあるのかな?争いごとはあまり好きじゃないんだ。そんな怖い顔しないで、まずはお話しない?」
「話すことなんかあるか」
アマネが剣を掲げる。僕はそのアマネの肩を掴んで、それを引き止めた。
「突然で驚かせてしまい、すみません。ただ僕らはあなたにアリスと合流しないで欲しいと伝えたくて」
「何勝手に話してんだアホ!」
僕の話を聞きながらアマネが僕の手を振り払うが、僕も負けじと彼を引き戻す。僕も大分強くなったもので、本気で止めると力が拮抗した。
仲間内で意見が食い違う僕らを見ながら、帽子屋は数歩だけ後退しながら、相変わらず困ったように笑っていた。
「ごめんね、僕はアリスと合流しないわけにはいかないんだ。僕はアリスの理想でいないといけない。アリスが僕を呼んでるんだ」
「はあ?お前のせいで一回この世界ぐちゃぐちゃになったんだろお」
帽子屋の言葉にアマネが剣を振りかぶろうと腕を上げる。それを僕は捕まえて必死に静止するが、その様子を見ている当の帽子屋本人はまるで危機感のない様子で首を傾げて僕らを見ていた。
「ぐちゃぐちゃにした覚えはないな…あの時のアリスは幸せそうに見えたけど違ったかな。今も寂しいから僕を呼んでるんだと思うよ。だから早く行ってあげないと。心細い思いをしているなら、その時間は短いほうが幸せでしょう?」
まるで悪意の欠片もない優しい口調だ。自分の行動を良いものだと本心から信じて疑わない彼の言葉はそれこそ無邪気で、善意そのもの。良かれと思って彼はミズキの元へ行こうとしている。それだけは、この短時間でも僕にもよく分かった。
僕には彼がこの世界に悪影響を与えた様を見ていない。本当に彼がそこまでミズキを腐らせてしまったのだろうか。そんな疑念がわくほどに、彼の言葉は自信に溢れていた。
人間は何かを自信たっぷりに説明されると、それが正しいのではないかと思えてきてしまうものだと思う。帽子屋の言葉にはそれがあったと思う。
しかし、ジャッジまでもが止めに行くような人物だ。彼の言葉に流されてはならないだろう。
「アリスも時には一人で考える時間が必要な時もあると思います。寂しいからといってベッタリ誰かが傍にいるのが必ずしも正解ではないんじゃないでしょうか。少し時間を置いてみては?」
暴れるアマネの両腕を彼の背後から掴んだまま、僕は帽子屋に疑問を投げかける。アマネはうっとおしそうに僕の腕を振り払おうと腕を振り回す。アマネはまだ手加減してくれているのか、なんとか止められているが、長くは続かないだろう。
「アリスは僕の言葉を聞きすぎて、どれが自分の言葉か分からなくなったと言っていました。人からみて何か過ちを犯しているように見えるなら、助言することも必要ですし、何かに悩んでいるなら寄り添って背中を押すことも大事だとは思いますが、最後に決断するのは彼女です。今はそっとしておいてあげて貰えませんか」
ミズキは僕の行動のどこまでを疎ましく思っていて、どこまでを嬉しく思っていてくれたのかは分からない。僕らが今こうして行動を別々にしているのは、きっと距離が近すぎてしまったからだと思う。自分の半身のように思っていた人間が、半身どころか自分そのものだと勘違いしてしまうような至近距離。それは常に僕らが互いに隣で、互いに行動に口を出し続け、行動を縛りつけるようになったから起きたのだ。
経緯はどうあれ、僕はこの機会にミズキとの距離感や互いの在り方、価値観の違いについてを考え直したいと思っている。酷い話だろうが、僕は正直この国の存続がどうこうとかよりも、ミズキと僕が本当に幸せだと感じられる関係を築くことの方が大事だった。ミズキが自分の頭で、自分の意思で、僕に思っていたことを話してもらうためにも、帽子屋が介入することは避けたくあったのが本音だ。
僕の言葉を帽子屋は聞いていたようだったが、彼は相変わらず柔和な笑みを浮かべたまま首を傾げる。
「アリスは今がとても寂しいと思っているのに、放っておく方が良いことなの?僕はそれに寄り添って、彼女が欲しい言葉を全部あげられる。解決してあげられるんだから、早く解決してあげた方が良いと僕は思うけどな」
「そのアリスが欲しい言葉って、寂しさを紛らわすためのものじゃないですか?紛らわしたって根本が解決されないなら、彼女の苦しみが長引くだけだと思います」
寂しいか、寂しくないかだけの話をするならば、僕だって本当は寂しい。傍にずっといてくれたミズキがいないことが酷く心細くて、急に全て投げ出したくなってしまう時があるのを、それこそ僕はアマネやジャッジに紛らわせて貰っているだろう。
だけど、アマネもジャッジもミズキの代わりにはなれない。イディオットに会ったって、彼もこの寂しさを埋めてくれることはないだろう。ミズキがいなくなって欠けたピースは、ミズキの形のまま取れてしまったのだ。それを埋められる人はミズキ以外にあり得ないのは考えなくたって分かる。
もし、僕と同じ理論がミズキにも通じるならば、僕を失ったことが原因で寂しくなっているのであれば、その寂しさは僕にしか埋められないはずだ。その寂しさがあるから、彼女は僕と向き合おうとしてくれているのだと、僕はそう思っていたかった。
しかし、帽子屋は僕の言葉に困惑するでもなく、納得するでもなく、ただ不思議そうに微笑んでいた。
「僕はその寂しさをずっと埋めてあげることが出来ると思うよ。嘘もずっと吐いていれば、いずれ本当になるんだ。本当になるまで、僕がずっと彼女が求めている言葉を嘘でも与え続けてあげれば全て解決するだろう?それの何が悪いの?」
帽子屋の言葉に僕は息を呑む。ジャッジやフロージィが彼を目の敵にする理由が、今になってようやく少し理解できたのだ。
帽子屋は本当に、ただ良かれと思ってやっているのだ。でも、それは決して人を良い方向に育てないように僕には思えた。
ミズキは甘やかすことで僕をここまで育ててくれた。だけど、ずっとそれに甘んじていたなら、僕はあの森から出ることもなかっただろうし、きっとアマネにここまで立ち向かうこともなかっただろう。彼女と僕がここまで上手く噛みあって成長できたのは、僕がある程度は物事を律する判断が出来たからだと思うし、その判断を僕にさせてくれたのは間違いなくアマネの存在があったからだった。
人間は楽な方へと逃げるのが当たり前だ。甘い蜜だけ吸って生きていけるなら、その方が楽に決まっている。自分が欲しい物が全てが座っているだけで手に入るなら、誰も進んで歩いたりはしない。でも、歩き方を学ばなかったら、一体いつ歩けるようになるだろう。ずっと動かずにいれば、足は退化してその場から動けなくなってしまう。
アマネほどの強敵である必要はないが、ただ自分が自力で何とかしなくてはならない試練は人にとって必要なのだと思う。ミズキにとって試練はきっと、帽子屋が言う「今の寂しさ」だ。
僕がミズキと仲違いしてまで自分の意思を貫いたのは、彼女に自分の力でも歩けるようになって欲しかったからだ。それなのに、帽子屋の彼が甘やかして、その試練を無条件に取り除いてしまっては、ミズキは永遠に歩けなくなってしまう。本末転倒。その事態は僕も避けたい。
「ふざけんな!あの女ばっか楽させてんじゃねえ!」
アマネが声を張り上げ、僕の腕から抜け出す。剣を振り上げ、帽子屋に向かって飛び込んでいく。
それに驚いたように帽子屋は身を翻すと、さっきまで彼がいた地面に剣が叩きつけられる。地面がビリビリと揺れるような衝撃と共に地面に穴が空き、砂煙が舞った。
「アマネの時は誰も助けに来てくれなかったのに、なんでアイツばっかり声も出さずに助けてもらえるんだよ!アイツはまだ泣いてもないし、怪我もしてない!」
アマネの怒りの矛先は僕が思っているものとは大分違ったが、どうやら帽子屋の行動は彼の癇に障ったらしい。分かろうと思えば分からなくもないが、彼は現実の自分と違って、本人が助けを求める前に帽子屋にすぐ救いの手を差し出されるミズキの状況が腹立たしいのだろう。
「もっと辛い目に遭って、泣き叫ぶまで放っておけばいいんだ!自分で何とかしようともしないで、ただ黙ってるだけで助けてもらえるって何様なんだよ!甘やかしてんじゃねえぞクソボケ!」
「どうしてそんな怖いこと言うの?」
穴の開いた地面を見つめ、帽子屋は困惑したように眉をひそめる。彼は自分が被っていたシルクハットを手に取ると、それを器用に人差し指の上で回す。くるくると回転させたそれを見ながら、彼は何かを思いついたように笑った。
「そうだ、あなたの中で一番印象的な人になってみれば分かるかも」
帽子屋が回転させた帽子を被り直すと、彼の笑顔を覆い尽くすように左目に咲いた白い薔薇からツタが伸びる。それは彼の顔だけでなく、全身を駆け巡るように包み込むと、大量の薔薇が咲き乱れる。白い薔薇の集合体のようになってしまった帽子屋にアマネが斬りかかる。
アマネの剣はその薔薇の集合体を叩き割るように真っすぐ縦に入ったが、鈍い金属音と共にそれが宙で止まった。白い薔薇の花弁が桜吹雪のように風で舞い上がる。
花弁が舞うその場に現れた光景に僕は思わず自分の目を疑う。帽子屋が立っていた場所にいたのは、帽子屋ではなかった。
アマネが二人いた。帽子屋に斬りかかった剣を持つアマネと、その剣を受け止める斧を持ったアマネが互いに鍔迫り合いをしていた。
帽子屋の能力は変幻。相手が一番望む者の姿や、相手が一番恐れる者の姿に彼は姿を変えることが出来るとジャッジは言っていた。恐らく斧を持つアマネは、帽子屋が変幻したものだろう。
剣を受け止められたアマネは帽子屋の姿に目を見開く。その表情は今までに見たことがない程に彼は驚いていることがよく分かった。
「凄い、あなたってこんなに強い人だったんだね!でも、この人のことで頭がいっぱいだ」
アマネに化けた帽子屋が、その姿のままアマネの剣を弾き返す。その勢いに負けて、アマネの身体がグラついて後退する。表情から驚きが抜けないままのアマネに、帽子屋が斧の柄でアマネに追撃をかける。
「この人の愛情表現ってどんな感じだったんだろう?あなたにしてきたことが愛情だったのかな?だとしたら、これで合ってる?」
帽子屋は笑いながら斧の柄をアマネの腹部に向けて突く。それをアマネは剣で受け止めるが、彼の足が地面を滑る。続いて帽子屋は斧を手元で回転させ、刃の部分でアマネを縦に切り裂く。
それを寸でアマネは避けるが、帽子屋は斧をそのまま地面に突き立てて、斧を軸にアマネめがけて飛び蹴りを入れる。帽子屋の蹴りがアマネの顔面に入り、アマネが背中から地面へと倒れた。
「アマネ!」
目の前で何が起きたのか分からずに呆気に取られていたが、あのアマネが一方的に押されていることに気が付いて僕は慌ててアマネに駆け寄る。当のアマネは自分と同じ姿をした帽子屋を視界に入れたまま呆然と目を見開いていた。
きっと帽子屋が化けたのは、アマネではなく、現実にいるアマネの父親なのだ。それこそ、アマネが頭の中で恐怖で大きくしていった化け物じみた恐ろしい父親像。そんなもの、勝てるわけがない。その父親を模して力を得たアマネですら、この世界では物理的に敵う人はいないのに。
アマネの腕を掴み、彼を立ち上がらせようと引き上げる。どう考えても戦うべきではないし、話が通じる相手でもない。逃げるべきだと思った。
「今は戦っても意味がない!逃げよう!」
「っせえ!」
しかし、アマネは僕の手を乱暴に叩き落とす。彼は帽子屋を視界に収めたまま立ち上がると、ポケットから棒付きキャンディーを取り出して袋を開けた。端が切れて血が付着したその口にキャンディーを咥え、彼は剣を引きずって帽子屋に向き直る。
「アスカは邪魔だから引っ込んでろ。アマネの攻撃が当たると、お前が死ぬぞ」
言葉はキツいが、意外なことにアマネは僕に攻撃を当ててしまった時のことを考えてくれているようだ。確かにアマネが手加減なしで僕に攻撃を仕掛ければ、間違いなく僕は無事で済まない。それは流れ弾でも変わらないだろう。
その気遣いは有難いとは思いつつ、この様子ではアマネの戦意が失われたようには見えない。僕としては早く帽子屋から離れるべきだと思うのだが、アマネは口の中でキャンディーを転がしながら帽子屋を見つめていた。
「息子はいつか父親を超えるんだろ。それなら、アマネはコイツも越えられるはずだ。あのグズ野郎はアマネが殺す。アスカは手出しすんじゃねえぞ」
「ははっ、イキがるねえ」
アマネの言葉に被せるように帽子屋が笑う。腹から息を漏らすような気怠い笑い声。振り返った先にいる帽子屋は斧を刃を地面置き、その柄に肘をついて僕らを笑っていた。
「父親を殺すだってえ?とんだクソガキだ。躾が足らねえなあ?」
彼はコートの内ポケットから紙タバコを取り出す。セブンスターの14mgにライターで火を着け、ゆっくりと肺に吸い込んだ。
「飯食わしてやってんだ、感謝してほしいねえ。その口で舐めてる飴は美味いか?その菓子も俺たちの金で買ってやってんだぜえ」
アマネと同じ声、語尾を伸ばしたような話し方もよく似ている。それでも、話す言葉がアマネと全く違う。帽子屋とも違う。そこにいるのは、もはやアマネの頭に描かれた父親そのものだっただろう。
アマネの父親が立つ足元に白い薔薇が芽吹く。それは遠くからでも甘い香りで僕の鼻をくすぐる。
彼の言葉を聞いていたアマネの額に血管が浮かび上がる。咥えていたキャンディーをバリバリと噛み砕き、棒をその場に吐き捨てると、彼は地面を蹴って父親へと飛び込んで行った。
「アマネ!ダメだ!」
頭に血を昇らせてしまっていてはまともな判断など出来るはずがない。止めようと声を上げるが、風のように駆けていくアマネに届くわけがなかった。
アマネが剣を振り上げ、父親に斬り掛かる。その動きに合わせて、鏡のように父親が的確にそれを防ぐ。間を置かずにアマネはそれに連撃を加えていくが、父親は薄ら笑いを浮かべたままそれをいとも簡単に否していく。
「よえーくせに刃向かってんじゃねえぞ」
父親がアマネの剣を弾き、蹴りを入れるのをアマネがバックステップで回避する。回避しながらアマネがポケットから小石を取り出して、コイントスの要領で父親にそれを飛ばす。
弾丸並の速度を持つそれを父親は首を傾げるだけで容易にかわす。その足で彼はアマネの懐まで走り込み、斧の刃先でアマネの腹部目掛けて突き上げた。
「うぐ…っ!」
アマネがギリギリのところでそれを剣で防ぐ。怒りで真っ赤になっていたはずの彼の顔が、眼前に迫る刃を前に焦りで白くなる。父親はタバコを口に咥えたまま、口の端を吊り上げてニィと不気味に笑った。
「ほーら、子供は大人しく親に従ってりゃあいいんだよ。お仕置きされてえのか?これだけ暴れたんだ、仕置きしねえわけにはいかねえよなあ?注意してやってる俺っていい親だわあ」
ガリガリと刃を擦り合って鍔迫り合いをするが、父親の方がやはり力が強いのか、アマネの足がジリジリと滑って後退していく。
「ふざけ…」
「そろそろ黙らねえと本当に殺すぞ」
言い返そうとするアマネに、父親は低い声を出す。その威圧でか、アマネの頬に冷や汗が伝った。
僕があげたヴォーパルの剣にヒビが入る。ミシミシと父親の斧の重みと、恐怖で悲鳴を上げていた。
ここ最近は茶色くなっていたアマネの瞳から、少しずつ光が失われて黒くなっていく。あの深淵を飲み込んだような瞳にあったのは、途方もない絶望だ。
「アマネ!逃げて!」
僕は鍔迫り合いをしていた父親の腕を背後から掴みあげ、アマネから引き剥がす。激しい戦いで、いつ仲介に入ろうかと悩んでいたが、鍔迫り合いをしていた今なら止められる。
アマネにまたあの目をさせてはいけない。あんな退屈そうで、悲しそうな表情をさせたくなかった。
「なんだお前、怖いもの知らずじゃん」
僕に背後から掴まれたまま、アマネの父親がこちらを振り返って笑う。分かっていたが、物凄い力だ。かなうわけもなく、あっという間に彼は僕の腕の中から逃れる。
「これは躾だぜえ?子の未来を思っての優しさ。悪いことは悪いってちゃんと親が教えなきゃダメだろお?殴られる子も痛えだろうが、殴る側の俺の手も痛えんだ」
「その痛みはアマネが感じる何分の一ですか。アマネの未来に本当に役立つ優しさだと思いますか」
出来れば争いたくはないが、襲われたときに応戦できるよう、僕は傘を握り締めてアマネの父親に尋ねる。
アマネの父親は訝しげに片目を細めたが、タバコの煙をゆっくり吸って吐いた。
「偉そうな口叩くじゃん。お前、子供育てたことあんの?大変なんだぜえ、子育てってさあ」
「子供を育てたことはありませんが、子供をやっていたことはあります。なんなら、今だって親の前ではずっと子供で、この先もずっと子供でしょう。あなたもそうじゃないんですか?」
何年経とうが、何歳になろうが、親から見れば子供はずっと子供。その逆も然りだ。
子供として自分が育てられた時に、自分が親に抱いた不満くらい覚えていないものだろうか。自分よりずっと身体が大きい相手から振るわれる暴力がいかに怖いか、どれほどの痛みを伴うのか。
僕の父も手を上げる人だ。アマネが受けた虐待には程遠いだろうが、僕だって幼い日の父の体罰は脅威だった。それの何倍にも及ぶ暴力に囲まれて生き抜いてきたアマネを思えば、彼の父親の言葉は僕にも十分すぎるほど腹立たしい。
「子供の身になって考えたことは?あなたがアマネの立場から見た時に、どれだけ恐ろしいことをしているのか自覚するべきじゃないんですか」
「児相みてえなこと言うなお前。俺からアマネを取り上げる気か?」
僕の言葉に、次第にアマネの父親は険しい表情を浮かべる。怒りからか、彼の口の端がピクピクと痙攣していた。
児相というのは、恐らく児童相談所のことだろう。誰かが過去に通報したことがあるのかもしれない。
通報が入ったとして、すぐに虐待だと断定するのは難しい。アマネはその時に保護して貰えなかったのかもしれない。
「アマネは俺の子供だぞ、誰にもやらねえ」
咥えていたタバコを地面に捨て、彼はその火を靴底で踏み消す。斧を肩に担ぎ、ジリジリと距離を詰めてくる彼に僕も傘を構える。
剣にするべきか?傘の柄を握ったまま僕は考える。アマネに通用しなかった遠距離攻撃は、この父親に効くのだろうか。
そう思った瞬間、アマネの父親が何かに気付いたように振り返る。彼の背後からアマネが剣で斬りかかって来るのを、彼は逃さず斧で防いだ。
「これだからクソガキは」
溜息のようにアマネの父親が笑う。アマネは怒りにフーフーと荒い呼吸で彼を睨みつけて剣の刃をガリガリと押し付けた。
「アマネ!なんで逃げないんだよ!」
僕は傘を構えて、トリガーを想像する。ここまで来たら、帽子屋との和解は無理だ。もうやるしかない。
イディオットに援護射撃をした時と同じように、アマネに誤射する未来は考えない。ただ、目の前のアマネの父親を撃退するための攻撃を考えるのだ。
トリガーを引き、銃口から7回の小さな破裂音と共に7色の弾丸が飛び出す。それらはそれぞれに螺旋を描きながら、アマネと揉み合う父親の背中へと向かう。
父親はこちらをチラと一瞥すると、ニィと不気味に笑った。
「雑魚がイキがるねえ」
彼はポケットから小さなバタフライナイフを取り出すと、片手でアマネの剣を否したまま僕の弾丸を全て叩き落とす。落ちた弾丸が地面で炸裂し、花のような火花をとばすが、それらに素早く足で砂を掛けて鎮火させてしまった。
「殺す殺す殺す殺す殺す」
アマネが剣で斧を押し返しながら、真っ赤な顔でひたすらに呪詛を繰り返す。唸る獣のようなのに、怒りや恐怖が入り交じった彼の目には涙が浮かんでおり、それは見ているだけで痛々しい。
アマネの表情を父親はせせら笑うと、剣を斧で防いだままナイフでアマネの腹を突き刺した。
アマネの腹から血が吹き出し、彼が悲痛な声を上げながら腹を抱えて後ろに下がる。
「アマネ!」
僕は傘を置いて、首の十字架を手に取る。それを黒い大剣へと変えると、アマネの父親の元へと走った。
「おっと、こっから親子水入らずなんだ。よそもんは帰ってほしいねえ」
アマネの父親は斧を大きく横ぶりにする。その遠心力の聞いたスイングはあまりに強く、剣で防ぐものの踏ん張りが効かずに背後へと吹き飛ばされる。翼を羽ばたかせ、何とか勢いを殺して転ばずに耐えるが、その間に父親はアマネへと向き直る。
アマネは腹にナイフを刺されたまま、よろよろと剣を構えるが、父親はそれを無慈悲に斧でたたき落とす。叩き落とされた瞬間、バキンと音を立ててヴォーパルの剣が割れた。
アマネが舞い散る刃の破片を見て、目を見開く。失われ掛けていた彼の瞳の光が消える。真っ黒なあの闇が瞳の中へと戻っていく。
「派手に暴れてくれたなあ、おい」
父親がアマネの腹に刺さったままのナイフ目掛けて蹴りを入れる。ナイフは彼の身体の奥へとめり込み、アマネが鈍い悲鳴をあげた。
地面に倒れたアマネに、父親は容赦なく腹を何度も踏みつける。ナイフを奥へ奥へと送り込むように念入りに踏む。その衝撃でアマネの身体から血液が流れ出し、地面に赤い水溜りを作っていく。
「なあ、お前なんでそんなに良い子に出来ねえんだあ?悪いことしたら、ごめんなさいだろお?ほら、謝れよ。さっさと泣いて謝れクソガキ」
僕が腕を切り落としても、まるで痛がらなかったアマネが父親に蹴りを入れられるたびに、耳を塞ぎたくなるような悲痛な叫び声を上げて痛がる。
僕は急いでアマネの父親の元へと走り、大剣で突き上げるが、彼はこちらを見もせずに片手間に斧でそれを易々と防いだ。
「ほら、ごめんなさいはどうした?許してくださいは?」
まるで僕など眼中にないといった様子で父親はアマネを嘲笑う。地面に転がったアマネは荒い呼吸を繰り返しながら、真っ黒な瞳で父親を見上げた。
彼のその瞳からボロボロと涙がこぼれ落ちる。痛みと恐怖でガチガチと歯を鳴らし、アマネは震えた声を口の隙間から漏らすように言葉を紡ぐ。
「…ご…ごめん、なさ…」
「謝るな!」
アマネの言葉に被せて僕は叫ぶ。
「アマネは悪くない!謝るな!」
こんな不条理を前に、何故アマネが許しを乞わなくてはならないのか。許せなかった。納得が出来なかった。
許せない。いくら能力の変幻で、帽子屋そのものから出る言葉じゃなくても、こんな胸糞悪い仕打ちは見ているだけで激しい怒りが込み上げた。
僕の声にアマネの父親は不愉快そうに眉をしかめると、ポケットから取り出したもう一本のナイフを片手にようやく僕に振り返った。
「さっきからうるせえな、お前」
ナイフで僕の胸を切り上げようとするのを剣で否す。小型ナイフに対し、大剣というアドバンテージがありながら、僕の手首にビリビリとした振動が走る。
「お前も少しは他人の言葉に耳を傾けろよ」
あまり勝てるヴィジョンが浮かばないが、アマネを放ってなどいられない。アマネの父親に言い返すと、彼は舌打ちをしてこちらに向き直った。
「アマネは俺の所有物だ。とやかく言われたくねえなあ」
「人は物じゃない」
湧き上がる怒りに頭に熱が登る。僕は歯を食いしばり、力いっぱい大剣の柄を握りしめる。
「人は物じゃないから、思い通りに動かすことなんか、100パーセント分かり合えることなんか出来やしない。だから言葉を尽くして、相手を理解して、自分で分かる範囲で寄り添って支え合うんだろ。そのために言葉を発達させたんだ。暴力に訴えるだけなら、猿にだって出来る」
地面で転がったまま、アマネが僕を見ていた。彼の真っ黒な瞳に僕の姿が映る。
アマネの父親は舌打ちをすると、腹立たしそうに空を仰いだが、不意に手に持っていた斧で僕に斬り掛かる。
突然の攻撃に対処が遅れる。剣で防ぐが、角度が甘くて剣の刃を斧が滑っていく。父親はそのまま斧を縦に回転させ、再び僕へと斬撃を入れる。
身体を捻ってそれを回避するが、それを逃さずに彼は僕の足を蹴って払う。
あまりの力強さに耐えることも出来ずに僕は背中から地面に転倒する。アマネの父親はニィと勝ち誇ったように口元を吊り上げて笑った。
斧が振り下ろされる。それは僕の胸から腹部にかけてを貫く。呼吸が出来なくなり、口から大量の血が溢れる。ゴボゴボと口の中を満たす自分の血液に言葉も出ない。
「アスカ…」
地面に這いつくばったままのアマネが弱々しい声で僕の名前を呼んだ。あれだけの処刑を掻い潜り、僕に腕を切り落とされても痛がる素振りすらなかったアマネが、腹に深く刺さったナイフ1つで酷く弱っている。
彼の強さを形作るのは、生への執着心と自分自身の強さへの信頼と自信だろう。今のアマネにはそれがない。そう考えると、彼が絶対に死なない保証など今はないのかもしれなかった。
僕は腹を貫通した斧を引き抜こうと藻掻く。動くほど、腹の奥から血がせり上がり、口内に溢れ出てくる。
「さっさと死ねよ、痛いだろ?」
斧で地面につなぎ止められた僕の顔をアマネの父親が蹴り飛ばす。顎がずれて唇が切れる。間を置かずにもう一撃、もう一撃と顔を重点的に嬲られる。
なんとか顔を庇おうと腕で頭を庇うが、あまりに強い蹴りに腕がミシミシと音を立て、弾かれる。
5分くらいだろうか。彼は僕を徹底的に嬲った。身体をナイフで滅多刺しにし、傷口を蹴り上げ、斧で僕の顔面を叩き潰す。もう身体の原型がなくなっていてもおかしくないくらいに蹂躙してから、アマネの父親が不思議そうに顔をしかめて足を止める。散々暴行をくわえた僕の顔をみつめ、彼は僕の腹部に刺さった斧を引き抜いた。
「なんだお前…」
彼の様子に、僕も薄々感じていた違和感に納得する。立ち上がり、僕は自分の顔を確かめるように触った。
「そっか、帽子屋の能力って配役まではコピーされないのか…いや、もともとアマネのお父さんはこの世界にいないのか」
潰されたはずの顔面は手で触ると無傷だ。つけられたばかりの腹部の傷すらみるみる治っていく。
そもそも、最初からあまり痛くないのだ。彼から受ける攻撃は衝撃や息苦しさはあれど、痛みは一瞬だけですぐに消える。最初はいつもの驚きすぎて痛みが追いついてこないやつかと思っていたが、あくまで相手の男は帽子屋がアマネの脳内をコピーして作り出した偽物のアマネの父親だ。彼の配役は帽子屋に変わりない。
そもそも、見た目がアマネだから村人と同じ能力を持っているのではと警戒したが、本物の父親だったとしても、それは村人の配役を持たないだろう。
ジャバウォックは村人以外の攻撃をほとんど受け付けない。それなら、彼が僕を殺せる可能性はゼロに等しい。
「あーそっか!あなたはジャバウォックなんだね!この人の姿では難しいかな」
アマネの父親が、帽子屋が手を叩いて声を上げる。それと同時にアマネの父親の姿が白い花弁となって地面に散った。
僕はその間にアマネに駆け寄る。地面に倒れたまま戸惑ったように僕を見つめるアマネの肩を担ぐ。
「なんでお前…」
「いいから逃げよう!話が通じる相手じゃないし、アマネの傷の方が心配だ」
アマネを半ばおぶるように僕は帽子屋に背を向けて歩き出す。背後で帽子屋が再び指先でシルクハットを回しているのが目の端で見えた。
「明日香ちゃん」
聞こえた聞き慣れた声に僕の心臓が跳ね上がった。思わず立ち止まり、恐る恐る首だけでゆっくりと振り返る。
黒くて長い髪に、小太りな初老の女性。歳の割に若く見えるが、僕の目には彼女は酷く醜い魔物のように見えた。
彼女は僕の母親だった。偽物だと思っていても、恨めしそうにこちらを見つめるその視線があまりに似ていて悪寒がした。
「どうしていつもワガママばかり言うの?人の邪魔ばかりして…アンタが考えていることだけが全てじゃないの、まだ分からない?アンタ、頭悪いんだから人の言うこと聞きなさいよ。何も出来ないくせに」
母の言葉に心拍数が上がる。荒くなる呼吸に胸を抑え、僕は唾を飲み込んだ。
あれは偽物だ。目の前にいるのは帽子屋だ。耳を貸してはならない。
母は僕に一歩、二歩と歩み寄る。彼女は難しそうに顔をしかめながら言葉を続けた。
「大事な友達が出来たんでしょう?その子がここに残りたいなら、一緒に残ってあげなさいよ。自分ばかり優しくされておいて、何も返さないの?本当に冷たいわね」
彼女の言葉に胸が締め付けられるように痛む。頭に浮かぶのはミズキの顔。彼女は僕に現実に帰らないでと言った。
それを拒絶した自分は冷たいだろうか。僕はミズキとの未来を思って行動しただけだ。
僕は冷たくなんかない。僕のワガママで済まされたくない。そう思いつつ、僕はそれを口に出して断言できない。
自信がなかった。自分がしていることが、ミズキのためになる確証がない。僕のせいで大勢に迷惑を掛ける可能性も確かにある。
「違う…」
母を否定する言葉が震えた。僕のその声は、言い返すと言うより、自分に言い聞かせているのに近かったように思う。
「隣で怪我をしてるその子も帰りたくないんでしょ?アンタのせいで帰りたくない大勢を巻き込むの分かってる?相手の気持ち、考えてあげたことある?」
僕の気も知らずに好き勝手に話し続ける母に、僕はアマネを肩に担いだまま背を向けた。
話すだけ無駄だ。あれは偽物なのだ。呑まれる前に、アマネが弱りきってしまう前に、早く立ち去らなくては。
「逃げるの?お母さんを置いていくの?」
「うるさい」
「人を大事に出来れば、どんな子に育ってもいいと思っていたのに、どうしてそんなに酷いこと言うようになっちゃったの?全然優しくない」
「うるさい!」
言葉を返そうとしても、それに被せるように母は話し続けるので、僕は声を荒らげて母の声を掻き消した。
そうでもしないと、僕は耳を貸してしまう。母は僕にとって、呪いのような存在だ。いつまでたっても、彼女の言葉1つで僕の気持ちが揺らいでしまう。
母の言う通りにしないと、母はいつまでも僕を責め立てる。僕が物心着くまえからの失態から遡って、僕に母を受け入れるよう要求する。彼女が考える「僕がやった母に対する酷い仕打ち」を、たとえそれが不条理で理不尽であっても僕が認めて謝罪しなければ終わらない。
不当な遡り請求だと分かっていても、僕はそれの支払いをしなくてはと胸が騒ぐ。ソギソギと肌の表面が削り取られるような、嫌な寒気がするのだ。
「アンタは女の子なのよ」
僕の背中に向かって母が言う。
「私は明日香ちゃんを娘だと思ってるし、そんなの汚い男装にしか見えない。そんな恥ずかしい格好で外を歩けるとでも?」
僕はただアマネを背負って歩く。
耳が痛い。聞きたくない。頭の端では分かっていて、先送りにしていたことが、母の口を通じて突きつけられる。
いや、前にどこかで聞いた。あの言葉を言われた時、僕は酷く後悔したんだ。
何を後悔した?頭が痛い。
僕は現実ではずっと女性でいた。女性でいなくてはならなかった。この姿は母親に見せてはならないはずなのに。
「明日香ちゃんがそんなんでも受け入れてくれた友達なら、もっと優しくしなさい。そんな明日香ちゃん、誰も好きになるわけないでしょ。もっとお母さんを見習って」
「うるせえんだよ!クソババア!!」
母の声を掻き消す怒号に僕は顔を上げる。自分の口から出たのかと思ったが、僕の肩に担がれていたアマネが肩で息をしながら僕の母を見ていた。
「こっちもお前たちに、生んでくれなんて一言も言ってねえんだよ!口出しすんじゃねえよバーーカッ!!」
腹にナイフが刺さったままだというのに、無遠慮にアマネが全力で怒鳴る。口の端から血が混ざった唾液を垂らしながら叫ぶ彼の腹からは、力を入れたせいでボタボタと血が滴った。
「アマネ!」
グラつくアマネの身体を支え直すと、アマネは濁った目で荒く息をしながら僕に視線だけ寄越した。
「いくぞ…アスカも悪くないんだろ…」
血の気が失せて真っ白になっているアマネの顔を見て、僕は慌てて頷いて歩き出す。
「信じられない、本当に酷い子。親を置いて行くなんて。血縁ですら恥ずかしいのに、そんな状態で自分を恥ずかしいと思わないの?私が一番愛しているのに…」
背後から母の声が遠ざかって行く。やがてその声は聞こえなくなり、僕の耳元で聞こえるのはアマネの苦しそうな呼吸と、森を抜ける風と草木の音だけになった。
アマネが僕の母に対して言ってくれた言葉が、ずっと頭の中で木霊していた。アマネはどうして僕の代わりに怒ってくれたのだろう。
僕の母親に対して反論してくれた人間は今までに傍にいなかった。甲斐性のない父は母に金銭面的な意味では強く出られない立場だったし、母は漫画家という立場から常に自分が一番上に立つ立場であった。職場に来るアシスタントたちにとっても、先生である母に何か反論をするような人間もいない。
母はいつもアシスタントの女性たちの前で僕を悪く言ったりもした。それに同調して笑う者もいた。僕が反論をすれば「子供だから」と更に笑われたり、諭されたりもした。父もいつも茶化して、苦笑いするだけだった。
仕方のないこともあったのだと思う。実際に僕が変なことを言っていたのかもしれないし、同調圧力がある職場環境だったのかもしれない。とは言え、そんな職場がある僕の自宅環境はいつも落ち着かなかったし、孤立無援のような空間であったことは間違いない。
そんな僕にとってアマネの言葉はあまりに乱暴ではあったが、同時に救いに思えてしまったのだ。
「…お前のママ、あんなんなのか」
僕の肩に上半身を委ねたまま、アマネが小さな声で言った。僕はそれに苦笑いする。
「アマネの環境に比べれば、それほど酷い人でもないよ。ご飯は出るし、学校にも通わせてもらったし、電気も通っててお風呂も入れる」
そうだ、僕の家はごくごく普通の家だった。いや、むしろ一般より裕福だった。紙面がよく売れるバブル時代の漫画家だった母の収入は、そこらへんのサラリーマンの収入を優に超えていた。
きちんとした衣食住、加えて私立の学校まで通わせてもらい、塾へ行き、たまには家族旅行があった。それを僕が本当に望んでいたかはさておきだが。
僕は塾で勉強したいこともなく、行きたい学校もないまま適当に親に勧められるままに進学した。父は教育熱心で、進路に妥協はしなかったし、頻繁に手を上げるから怖くて意見が言えなかった。母は逆らうと顔を真っ赤にして「どうしてあなたのためを思って言っているのに、言うことを聞かないの」と喚き散らすから、僕はそれが面倒で従うことに徹していた。
僕も悪いのだ。僕はそこで考えることを放棄してしまった。だから、あの時から僕はずっと中身が空っぽのまま、自分が本当になりたい姿さえ分からないまま年を重ねて今がある。
母は元より、父にまでゴマをすって、両親の顔色ばかり見て生きてきた僕の報いなのだ。
「これ、抜きたい…」
腹に刺さったままのナイフを、アマネが引っ張りだそうとするのを僕は慌てて手で優しく止める。
傷口に刺さったものを抜くと出血が酷くなる。今のアマネの回復力がどこまであるのか分からないのに、手当する道具もないままナイフを抜くのはリスキーだ。
「だめだめ!ちゃんと手当できる場所に、三月兎の集落に着いてからにしよう」
「あの兎が…アマネのこと助けるとでも、思ってんのかよ…バカか…」
アマネはいつものように悪態を吐くが、弱ってるのもあってか強い抵抗は示さなかった。足を引きずるように歩くアマネを支えながら、僕はイディオットの集落に向かって歩き続ける。
彼の集落はここからまだもう少しかかる。それまでアマネがもってくれればいいのだが。
夜が更け、月が空に上がる頃になると、僕は懐かしい場所へと辿りつく。
ミズキと共に過ごした僕の特製キャンプ地だ。そこには幸いなことにミズキが作ったまま残していってくれた家具がいくつか残っている。僕は急いでアマネをミズキが作ってくれたベッドに運ぶ。
ゆっくりとアマネをそこに寝かせると、アマネは小さく呻く。ベッドにじんわりと血がにじむ。なんとか早く止血したいところだ。
「アマネはここで待っててくれる?僕は三月兎を呼んでくる。急がないと、そのままじゃ傷が悪化して、下手したら命を落としてしまうかもしれない。すぐ戻ってくるから」
ここからイディオットの集落まで、走れば数時間…いや、今なら空も飛べる。一人で行けばもっと早く辿り着けるはずだ。
急いで飛び立とうとする僕の手をアマネが掴んで引き止める。振り返ると、彼は僕を濁った黒い目で睨むように見上げていた。
「…本当に、戻ってくんのか?見捨てる気じゃねえだろうなあ…?」
荒く呼吸を繰り返すアマネに、僕はその手を握って傍に屈む。
見たことがある光景だった。幼い日に肺炎で入院した時に、面会から帰ろうとする親にすがる自分にアマネは良く似ていた。
不安なのだ。当たり前だろう。僕らの間に信頼関係はほとんどないし、彼は酷い傷を負っている。見た目はこれだが、9歳であることを加味すれば良い子にしている方だろう。
「大丈夫、絶対に戻ってくる」
「絶対って言う大人はすぐ嘘吐く」
「僕がアマネにとっての初めて約束を守る大人になるよ」
握手をするようにギュッと彼の手を握る。アマネは僕の顔を険しい表情でしばらく見つめていたが、目を閉じてゆっくりと自ら手を離した。
「…寝てる。早く帰って来い。帰ってこなかったら…いつか殺しに行くから」
彼はそう言うと傷を庇うように横向きにうずくまり、僕から背を向ける。殺してやる、と言うのは彼の常套句だが、いつもより覇気のないそれはあまり殺意を感じなかった。
「アマネは強いから、大丈夫って信じてるよ。だから、生きて待っててね」
「うっせ…」
頭を撫でると、彼は小さく悪態を吐いてから間もなく気を失うように寝息を立て始める。
アマネは元々あれだけのスペックを発揮できる程の強い意志の持ち主だ。気を強く持っていてくれれば死なないだろうが、傷を負わされたのが彼のトラウマである父親であることが心配だ。夢だからこそ何が起きるか分からない。早く処置してやりたい。
僕は地面を蹴飛ばし、翼を羽ばたかせて上空へ舞い上がる。空を飛ぶのは下手だと思っていたが、アマネをぶら下げて湖を渡るという試練を超えたおかげか、最初に比べてかなり安定して飛べた。
上空から森を見下ろすと、今や懐かしいイディオットたちの集落が遠くに見える。
ふと、自分の下に落ちる自分の影がしっかりトカゲのようなシルエットになっていることに気づいた。みんなに言われてばかりであまり自覚はなかったが、こうして空を飛ぶ自分は本当にジャバウォックになってしまったんだな。そう考えると、少しばかり感慨深い。
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