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4章
3 父親
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3.
「上空から何かが来ます!」
「誰か!リーダーを呼んで来てくれ!」
集落へたどり着き、上空から地面へと降りていくと、集落の外にいた人たちが驚いたように声を上げる。一部の人達は慌てふためいたように洞窟の中へとイディオットを探しに駆け出した。
僕がこの集落に来て、立ち去るまでの2週間と少しの間、僕は自らの配役を名乗らなければ分からない人間と変わりない姿をしていた。しかし、今はここまで容姿が変わってしまっている。会ったことがあろうがなかろうが、上空から来る謎の生き物を僕だと認識するのは難しいだろう。
警戒する人々の前で、僕は敵意がないことを示す意味で両手を上げたまま地面に静かに降り立つ。集落の人々は警戒したように遠巻きに僕を取り囲む。武器になる物を持った人を先頭に彼らはまばらな陣形を作り、目を細めて僕を睨む。暗闇で僕のことがよく見えないのだろう。
「アスカです。オットーさんに会い来ました」
両手を上げたまま僕が名乗ると、人々がザワつく。陣形を作っていた人々のうち、ランタンを持った男性がそれを空へ掲げ、僕の方へと歩み出る。
「…アスカ!本当にアスカだ!」
白目と黒目が反転した瞳をしたその男性は明るく笑い、僕の名前を呼びながら駆け寄って来た。
「メアさん!」
彼はこの集落でお世話になったトゥルーの恋人だ。懐かしい顔に僕も思わず笑う。
メアは僕のすぐ目の前まで来ると、目を丸くして僕の姿を上から下までまじまじと見つめた。
「ああ、凄い…強くなって帰って来ると、確かに君は言っていたけど、正直ここまで様変わりするとは…。歓迎するよ!オットーさんも喜ぶに違いない」
メアの言葉に集落の人々は武器を降ろすが、同時に困惑でかざわめきが大きくなる。
メアは歓迎すると言ってくれてはいるが、そもそも僕はこの集落から半ば追放されたような身だ。メアを含む、イディオットとトゥルーの3人は喜んでくれるかもしれないが、ほとんどの人間は僕を歓迎しないだろう。
「メア、勝手に話を進めるなよ。アスカって、あのお騒がせジャバウォックだろ?また面倒事を持って来たんじゃないか?」
武器を構えていた男が僕を見つめ、吐き捨てるように言った。
正直、面倒事を持ってきたか否かと言われれば図星だ。当初はそんなつもりはなかったが、今はアマネの命が最優先だと思って僕はここにいる。集落をめちゃくちゃにしたアマネを助けて欲しいだなんて、面倒事にも程があるだろう。
男の言葉にメアは眉をしかめる。
「そんな言い方はないだろう。アスカがいてくれたから助かったこともあるんじゃないか?」
「いいんです、面倒事を持って来たのは本当なので」
彼の擁護を僕は苦笑いで止める。メアは困ったように僕と男を交互に見つめ、鼻でため息を吐いた。
「面倒事を持って来たって?」
不意に人垣の向こうから飛び込んで来た懐かしい声に僕は顔を上げる。人々の奥から頭一つ抜けて背の高い男性が、こちらに向かって人をかき分けてやって来た。
スポーツ刈りに神父のような服を着た彼は、今日も変わらず眉間に深いしわを刻んでいる。初めて出会った時と違うのは、メガネの下の片目に黒い眼帯を巻いていることと、口元に薄らと笑みが浮かんでいることだ。
「おかえり、アスカ。随分と幅と奥行が出たな」
「オットーさん!」
メアと同様に再会で顔がほころぶ。
圧倒的に好意より敵意が渦巻くその空間が、イディオットの出現で和らぐのが肌で分かった。傍で困ったように眉を寄せていたメアも顔を明るくして道を開ける。
相変わらず皆に慕われているのがこの短い時間だけで分かるが、あの時の襲撃で負った目の怪我はやはり完治しなかったのだろう。眼帯が傷の深さを物語っていて、申し訳なさに胸が傷んだが、イディオットはまるで気にしていないように僕の前で肩を竦めて見せた。
「面倒事にせよ何にせよ、立ち話もなんだ。とりあえず中に入ったらどうだ」
「ありがとうございます。でも、予定外ではあるんですが、急ぎなのでこの場でもお願いしても良いですか?」
再会をじっくりと噛み締めたい気持ちもあるが、今もアマネは1人で傷に苦しんでいる。できる限り早くその傷を塞いでやりたい。
だとするならば、一刻も早くすぐに用件を伝えなくてはならないし、イディオットに助力の許可を貰わないといけなかった。
僕は次に発する言葉に悩む。イディオットの片目を奪ったアマネを助けて欲しいだなんて、今この人数を前に伝えるのは愚策にもほどがあるだろう。できる限り曖昧に、尚且つ後で説得出来なくてはならない。
僕は大きく息を吸い、慎重に声を出す。
「…僕はアリスに至る情報を得てきました。白兎から最初のお茶会についても聞けました。これら全て、オットーさんにお伝えしますので、怪我をしている僕の友人の命を助けて頂けませんか」
僕の言葉に集落の人々が顔を見合わせる。メアもイディオットの顔を見て、その視線を受けているイディオットは訝しげに首を傾げた。
「その情報は喉から手が出るほど欲しいが…それに引き換えで友人を救って欲しいとはまた変な話だな。お前の友人なんだろう?そんな取引みたいな言い方しなくても助力くらい…」
そこまで言ってから、イディオットはふと何か思いついたように言葉を止める。周囲を見回し、集落の人々の様子を見ながら、彼は片手を小さく上げた。
「お前たちはここの警備に当たってくれ。それから、救急用の道具をここに。俺は彼の友人の元へ行く。明日には戻る」
彼の指示に集落の人々が僕を見る。その視線には疑惑の念があるのはよく分かる。突然現れて取引など…それも追放された人間の提案なのだから、すぐに飲み込めなくて当然だ。
それに、僕自身も少し驚いていた。僕が宛にしていたのは、今はイディオットではなく集落にいる救護班たちの助力だったからだ。
「あの…出来れば救護班の方々にお手伝い願えたらと…友人は酷い怪我を負っているので…」
「そんなにお前の友人は大勢なのか?1人、2人なら俺でも手当できる。なんなら、ここの救護班よりも1番俺が手馴れてる」
イディオットは集落の人たちの方を見ながら、振り返らずに返答を返した。
イディオットの指示に集落の1人が救急キットのような箱を手に、彼の元へと走り寄る。彼はそれを受け取り、険しい顔のまま森の方へと歩き出した。
「人命がかかってるんだろう?詳しい話は歩きながら聞こう」
「あ、ありがとうございます…!」
イディオットがまさか応急手当が得意だとは知らなかったが、確かに命が危ういのはアマネ1人だけだ。イディオットの言葉を信じるのであれば、救護班が出る幕でもないのだろう。
「後でトゥルーにも挨拶しに行くとお伝え下さい」
イディオットの背中を追いながら、僕はメアに頭を下げる。すると、メアは何故か気まずそうに曖昧に笑って手を振った。
「ああ…また…。後で是非、話を聞いて欲しい」
メアの歯切れ悪い回答に僕は首を斜めに振る。話を僕に聞いてほしいと言うあたり、もしかするとトゥルーに何かあったのかもしれない。
別れ際の彼女は随分と思い悩んでいるようだったし、何か助けになれるならなりたいところだ。
「ここからどう向かう?」
イディオットの質問に僕は我に返り、早歩きでイディオットの前に出た。
「すみません、こっちです!」
早足で来た道を戻ると、イディオットは静かに僕に続いた。
暗い森の中、僕とイディオットが地面の草木を踏む音だけが空気中に響く。しばらく僕らは黙々と歩き続けたが、集落が遠く見えなくなる頃にイディオットが先に沈黙を破った。
「…それで、取引を持ちかけないといけないほど、厄介なお前の友人は誰だ?わざとお前は友人の正体を伏せているだろう」
「さすが、お見通しなんですね」
単刀直入に痛いところを突いてくるイディオットに僕は苦笑いする。隠しても無駄だし、なんなら彼はこの先の展開のことをある程度予測して一人で出てきてくれている。これ以上隠すのは逆に悪いだろう。
「…助けて欲しいのは、村人の配役持ちのアマネです」
観念して正体を告げると、イディオットが立ち止まる。振り返ると、彼は今まで以上に険しい表情をして僕を見ていた。
その表情はただ険しいだけではない。驚きと失望。まさに落胆したという負の感情そのままだっただろう。元より深い眉間の皺をさらに深く刻み込み、彼は口元をキツく結んだ。
「アマネだと?お前、もしかして眠り鼠に加担したのか?あんな殺人鬼、むしろ殺してしまった方がいいに決まっている」
「違うんです。眠り鼠の仲間になったわけではないんです。ただ、アマネも理由があって…」
「理由があれば大勢を殺していいとでも?あれだけの人数を殺めておいて、自分だけ救われようなんて甘いんじゃないのか?俺は反対だ」
大体予想はしていたが、やはり芳しい反応ではない。すっかり足を止めて、歩く気をなくしてしまっている彼に僕は歩み寄る。
「僕は集落を出て、あれからずっと自分の足で各地をめぐって来ました。眠り鼠にも会いましたし、おかしな話と思われると思いますが、僕は眠り鼠からも追放されてここにいます。彼女の考えには心からの賛同はできませんし、僕が一番尊敬しているのはオットーさんであることだけは信じて欲しいです」
「じゃあ、なんでアマネと共に行動しているんだ。俺を貶める気はないと言いたいのかもしれないが、それなら何故俺の集落をめちゃくちゃにした人間と仲良くできる。俺は帰るぞ。見殺しにしてやれ。むしろ、いなくなってくれた方が清々する」
淡々と、それでも怒気を含んだそのイディオットの口調から放たれる意思は堅い。僕は慌ててイディオットの正面に回り込み、彼の退路をふさいだ。
「待って下さい!イディオットさんも他の人の意見も聞いた上で判断して欲しいんです」
「もう俺は眠り鼠たちとも話をした。アイツらは現実と向き合いもしないで、夢に逃げてばかりの臆病者だ。そのくせ、その夢を正義として俺たちに押し付けてくる。分かり合えない。分かり合いたくもないな」
イディオットはきっぱりとそう言い切ると、僕の肩を押しのけて再び帰ろうとする。
やれ頭が硬いだの、分からずやだのと湖の向こうで散々な言われようだったイディオットの悪い部分がこうして見ると良く分かる。彼には彼の正義があり、その信念が確固たるものだからこそ意見が絶対に曲がらない。悪く言えば、頑固なのだ。
しかしここで、はいそうですかと引き下がるわけにはいかない。
僕はアマネに言ったんだ。アマネが現実で大人になった姿が見たいと。その気持ちはミズキと一緒に現実に帰りたいことや、イディオットを尊敬している気持ちと同じように変わらない。イディオットに正義があるように、僕にも理想はある。簡単には曲げられない。
「アマネがやったことは何も擁護できません。だけど、彼はまだ幼い。過ちを犯しても成長出来る見込みはある人を見殺しにするのは、僕は反対です」
再び僕はイディオットの前をふさぐ。イディオットは不愉快そうに顔をしかめ。僕の顔を見下ろした。
「若いって言っても、アイツはもう大人だろう」
「あれは彼の現実の父親を模した姿であって、彼自身は9歳の少年です。まだ倫理観もしっかりしていませんし、彼なりに人を殺すことに意味があってやっています。命を奪ってきた事実は変わりませんが…」
「9歳だからって許されないことをしたことに変わりはないだろう。俺の仲間たちが一体何人殺されたのかと思っている。10人は軽く超えるぞ。この世界に法律はない。未成年だからと許さなくてはならないという規則はどこにもないんだ。俺は認めない」
イディオットの変わらない返答に僕は言葉に詰まる。彼が言うことも最もなのだ。人の命を殺めてきてしまったことは、年齢に関係なく人道的に間違っている。
それでも、そうだとしても、望まない親の元で生まれ育った彼に僕は救いが欲しかった。僕と少しずつでも歩み寄ろうとしてくれているアマネを放っておけなかった。
「人は変わります。良い意味でも、悪い意味でも。彼は現実でずっと両親から酷い体罰を受けて育ったので、人の愛し方が分からないだけだと思うんです。実際に、僕が眠り鼠に追放されても、彼は僕を殺さなかった。変わっている途中だと思うんです。だから、どうか最後に一度だけチャンスを貰えませんか」
僕は彼の前に正座をすると、そのまま地面に頭をつける。
アマネを救うには、もうこうするしかない。プライドなどない。いや、いらないプライドなど捨ててしまうべきだ。
アマネにこの世に生まれて良かったと思える日が来て欲しいだけ。ただそれだけだ。両親から疎まれて、暴力を受けて、人を殺すことしか出来ずにずっと嫌われ者のまま生きていくアマネを思うと、切なくてたまらなかった。
僕は偽善者だ。アマネが殺した人間のことを深く知らないから、自分が深くかかわった人間の命の方が尊く思えてしまう。イディオットは殺された仲間たちのことを、僕よりずっと知っているから許せないだけなのに、僕はどうしても今のアマネを彼に見てほしかったのだ。
「おい、なんでお前が頭を下げるんだ。顔を上げろ」
イディオットが溜息を吐く。僕の頭を上げさせようと目の前に屈み、僕の肩を掴んで持ち上げる。それでも、僕は意地でも地面から顔を上げない。
「これは僕の我が儘なんです。ただ、アマネの人生がこのままで終わるのが嫌で仕方がないんです。彼には現実と向き合えるだけの意思があります。連れて帰って、大人になる彼を僕は見たい。だから、だからお願いします」
一向に顔を上げない僕に、イディオットは困ったように眉間に手を当てて溜息を吐く。彼は黙ってしばらく僕を見つめていたが、また大きく息を吐いてから立ち上がった。
「…それなら、とりあえず会うだけ会う。助けるとは約束できないが」
彼の言葉に僕は勢いよく顔を上げる。相変わらず威圧感のある難しい表情を浮かべたままのイディオットだったが、観念したように彼は首を横に振って立ち上がった。
「ほら、行くぞ。さっさと案内しろ」
「ありがとうございます!」
イディオットの心の広さに感謝しながら僕も続いて立ち上がる。彼は僕がまた前に出るのを待ってから、僕の斜め後ろについて歩き出した。
「全く、理解に苦しむな…お前こそアマネに命を狙われて怯えていたのに、どういう風の吹き回しだ。そんな天敵を救って、また殺されるかもしれんのに」
「そりゃそうですよね…話すとちょっと長くなってしまうんですが」
イディオットの意見は最もだ。僕は彼の言葉に苦笑いしながら、端的にアマネとあったことを話した。
ミズキについては後に詳しく話すと前置きをし、彼女を通して湖の向こうの人々と接触できたこと。ミズキと喧嘩別れをして、その時にアマネと一戦を交えて、ハンデ付きではあったが自分がその勝負に勝ったこと。アマネの父親や、この世界でのアマネの立場などを一通り説明した。
イディオットは時折、理解に苦しむような唸り声を交えつつも、黙って全ての話を聞いてくれた。彼は整えられた短い顎髭を指でなぞりながら、話を飲み込もうと頷く。
「まあ、大体のことは分かった。だが、アマネは信用出来ないという俺の意見は変わらない。俺は散々うちの集落を荒らしてくれたアイツの姿しか知らないからな」
そこまで言ってから、彼は僕の顔を見つめた。
「だけど、お前は本当にアマネが良い方向に変われると思ってるんだな?変わらなければ、お前の命どころか俺や、俺の集落の人間の命が危ぶまれるかもしれない。それを賭けてでも、アマネの命を救いたいと思うのか?」
鋭い彼の視線に僕は息を飲む。彼の言っていることは何も間違いではなかった。
アマネは1人の戦力で戦況を大きく変えることができるだけの力を持っている。そんな相手を敵に回すことがどれだけの脅威かは、実際に僕はこの身で体感している。
途方もない絶望感、敗北感。戦いの最中に頭が真っ白になるほど、手も足も出ない圧倒的な殺傷力をアマネは秘めている。この世界での彼は、帽子屋による攻撃さえなければ、生物兵器と呼称しても過言ではないほどに強いのだ。
僕はイディオットの瞳を見つめる。大きく息を吸って、僕は拳を握りしめる。
「…もし、アマネがまた集落を無差別に攻撃するようなことがあるなら、僕が命に代えても止めます」
「その時はお前の手でアマネを殺せる覚悟はあるのか」
僕の言葉にイディオットは間髪入れずに問いを重ねた。
「身内の不祥事はお前の不祥事だ。アマネを身内として庇い、その身内が重罪を犯したならケツを拭うのはお前になる。責任は取れるんだろうな?」
責任、という重たい言葉がのしかかる。
生きていれば、何事も責任の連続だ。現実で起こるそれから逃れたくて、僕は何度だって決断を先送りにして、曖昧に笑って誤魔化して、諦めてきた。
だけど、今の僕は違う。もう違う。自分が悔いなく全力を尽くして生きたと、胸を張っていきたい。
それなら、責任はきちんと負うべきだ。負うしか選択肢などないだろう。
「その時は僕がアマネを殺します」
イディオットと目を合したまま頷く僕に、イディオットは相変わらず眉間にしわを深く刻んだままであったが、視線を行先に戻してからフッと小さく笑った。
「…言うようになったな」
「そうですか?」
「ああ、驚くほどハキハキと話すようになった。身体の付属品まで増えて、男前になったんじゃないか?」
イディオットはガシガシと僕の頭を乱暴に撫でる。力強くて髪がぐしゃぐしゃになってしまったが、そうしていたイディオットが難しい顔のまま口元だけ嬉しそうに綻ばせていてくれたことが、何より嬉しかった。
なんだか父親に褒められている息子のような気持ちだ。
…父親?そう言えば、イディオットは僕の父親の良いところを煮詰めたような人だ。今更のようにそう気が付く。
そんなことを考えている僕の隣で、イディオットは言葉を続けた。
「育っていく人間を応援したくなる気持ちは正直、分かるよ。俺はお前が初めてここに来た時がそうだった。挨拶すらまともにできなくて、何の意見も言えない、人の顔色見て怯えてばかりいるくせに、少し手を伸ばせば必死に掴んで立ち上がろうとするお前を見ているのが俺は楽しかった」
イディオットの話に僕は目を丸くして見つめる。彼はチラと僕を見てから、少し照れたように頬を掻いて目を逸らした。
挨拶すらまともにできなくて、何の意見も言えない、人の顔色見て怯えてばかり…どれもその通りすぎてぐうの音も出ないのだが、そんな僕の面倒を見ることをイディオットが楽しいと感じてくれているなんて思ってもなかったのだ。
イディオットはそこまで話すと、深いため息を吐いた。
「ただ、お前とアマネは違う。俺はお前に命を救われたが、アマネはただ俺たちの集落を荒らしただけだ。でも、俺はお前を信じたいし、お前はアマネを信じたいんだよな。本当に面倒な話を持って来てくれたもんだ」
「すみません…」
苦笑いする僕にイディオットは眉間にしわを寄せたまま、ふんと鼻を鳴らす。
「俺もお前に責任を丸投げにする気はない。一緒にアマネの言い分を聞いて決める。だが、アマネがお前に何か不利益をもたらすようなら、俺は見殺しにする気でいるから、それだけは分かっておいてくれ」
「分かりました。むしろ、ここまで譲歩してくれてありがとうございます」
「アマネはともかく、お前のことは信じてるからな。大事なことだから、繰り返し言っておくぞ」
見上げる僕にイディオットは難しい顔のまま言う。彼はあまり笑う人ではないから、何となく冗談めかして言おうとしてはいるが口調で分かるが、照れが勝ってしまったのかもしれなかった。
そこからほどなく、茂みの奥に僕のキャンプ地が見えてきた。ベッドにはちゃんとアマネが約束通り、眠っているのが遠くから分かった。
あまりうるさくしてしまわないよう静かに、それでも足早にアマネの元へと近付く。僕の少し後にイディオットが続き、彼はアマネの顔を覗き込んで険しい表情を浮かべた。
アマネは僕らにまだ気付いていないのか、苦しそうに身体を震わせながら呼吸を繰り返している。腹に刺さったままのナイフと身体の隙間から漏れ出す血液でベッドの真ん中はすっかり赤くなってしまっていた。
「あれだけの化け物具合を見せていたのに、本当に刺傷1つでここまで弱るんだな」
ベッドの脇に屈み、イディオットが持ってきていた救急キットの箱を開く。救急キットの中は思っていたよりも本格的で、僕が知らないような医療器具や薬が入っていたが、彼は手馴れた手つきでそれらを地面に置いた蓋の上に並べていく。
「あ!椅子とテーブルありますよ!今持って来ます!」
ミズキと暮らしていた時に使っていた丸テーブルと椅子が木陰にあったことを思い出し、僕は慌ててそれらを取りに走る。
椅子とテーブルは昔に比べて随分軽く…いや、僕の力が強くなったのかもしれないが、僕はそれらを一対、小脇に抱えてイディオットの元へと運ぶ。
「テントがあるわけじゃないのに、家具だけある不思議な場所だな」
「僕の友人のミズキが作ってくれたんです。家もあったんですけどね」
キョロキョロと周囲を見回すイディオットの前に椅子とテーブルを並べながら僕は目を伏せる。あの日々は本当に楽しかった。温かかった。僕が見た生きてて1番甘い夢は何かと聞かれたら、僕はきっとミズキと過ごしたあの日々だと答えるだろう。
抜け出したくなんてなかったけれど、きっといつかは抜け出さなくてはならなかったんだろう。夢は終わりがあるから夢なのだ。そう分かっていても、ここにいるとミズキの姿を目の端で探してしまう自分がいる。
彼女のことを思い出すと、寂しさで胸がチクチクと痛んだ。
「この量の家具を作った…?凄いな。そのミズキって子は大工か何かか?」
「いえ…後で詳しく話しますね!」
イディオットの質問に僕は我に返る。イディオットが探していたアリスは彼女だ。その話をするには今はあまりに時間がない。
僕らが治療の準備を整えている物音で、アマネが薄らと目を開ける。僕はイディオットの道具をテーブルに置きながらアマネに笑いかけた。
「アマネ!もう少しだよ、頑張って!」
アマネは相変わらず濁った瞳で僕をぼんやりと見つめていたが、首を少しだけ起こしてイディオットを見つけると、脱力したように再びベッドに頭を沈めた。
「…本当に来たのか…バカ兎…」
「それは人にものを頼む態度じゃないんじゃないか?」
イディオットはセットに入っていたゴム手袋を装着しながら、アマネの顔を見ずに淡々と答える。
「なんで俺が来たか分かるか?俺はお前なんか助からなくていいと思っているが、アスカが必死にお前を助けて欲しいと頭を下げたからだ。アスカはお前を信じてるから、俺の手を借りてまで助けようとしてるんだ」
イディオットは傷口を縫う糸と針を手にアマネを見下ろす。アマネは眉を寄せて彼を見つめていたが、それに対してただ黙って耳を傾けていた。
「だから約束しろ。アスカが困ることはやるな、彼の言うことを聞け。9歳だと聞いたが、人が嫌がることはやるなと小学校で習うだろ。お前が約束するまで治療はしない」
アマネは悔しそうに顔を歪める。悔しそうに歯を見せてはいるものの、珍しくイディオットに何かを反論するでもなく、彼は僕の方を見た。
「なんで本当に戻って来たんだよ…」
「僕もアマネに約束したじゃないか。約束を守るっていう約束」
ややこしい約束だが、大人に約束を守られたことがない彼にとって、初めて約束を守ってみせると言った。その約束は果たしたと思う。
僕はアマネに可能な限り穏やかな笑みを浮かべて話しかける。
「彼の話は、僕の言うこと全部聞けって話じゃないよ。僕も人間だから間違えるしさ。ただ、無闇に人を殺さないで欲しいのと、僕の友達が嫌がることをしないで欲しいだけ。アマネが何か良くない方向に行きそうなら口出しすることもあるだろうけど、その時は耳を貸して欲しいんだ」
「俺はアスカの言うことそのまま全部聞いてくれる方が安心するんだがな」
アマネに話しかける僕の隣でイディオットはため息混じりに言葉を付け加える。
それを聞きながら、アマネは少し黙って僕を見ていたが、彼は再び空へと視線を投げて、そのまま眠るように目を閉じた。
「…分かった」
「分かったってことは、アスカの言うことを聞くんだな?」
イディオットが尋ねると、アマネは不愉快そうに鼻を鳴らした。
「うるせえなあ…聞きゃあいいんだろお。アスカの知り合いは殺さない」
「知らない人も殺さないで欲しいな」
「帽子屋は殺す」
苦笑いしながら僕が言うと、アマネが少しずつ譲歩していくが、これだけの怪我を負わされたことを根に持っているのか、帽子屋については譲る気がないようだった。
帽子屋に関してばかりは正直、彼は生き物ではないし、アマネの気持ちも分からなくはない。
それでも、帽子屋についてまだ何も知らないイディオットは怒ったように眉を吊り上げた。
「帽子屋?補充されたのか?また無益な殺生をする気か」
「あ、いや、帽子屋にはちょっと訳があって…後で詳しく説明させて下さい」
イディオットの頭に血が登る前に僕は早口で説明する。彼はまた僕を訝しげに見つめたが、鼻から大きく息を吐いて渋々と頷いた。
「…まあ、アスカとコイツの間にそれなりに信頼関係があるのは分かった。後でキッチリ説明してもらう」
イディオットはアマネの腹に刺さったナイフに手を掛ける。
「麻酔はないぞ。準備はいいか」
「別に…痛くない」
アマネの言葉にイディオットは頷くと、ナイフをゆっくりと慎重に引き抜く。
「現実なら汚物がナイフに付着していたりして、点滴や術後の内服が必要になるんだが、この世界はこの辺りはご都合主義なのか、化膿した例はない。念の為、衛生面には細心の注意は払っているが、排便も存在しないんだから、汚物という概念は存在しないのかもな」
引き抜かれた衝撃にアマネが小さく呻く。痛くないと口では言えど、やはり多少は痛いのだろう。
腹からジワジワと溢れ出す傷口の中が見えそうになって、僕は思わず両目を手で覆う。
昔からあまり流血は好きではない。アマネと戦うに当たってかなり鍛えられた節はあるが、やはり好んで見たくはない。
指の隙間から見るイディオットはピンセットで傷口を調べながらテキパキと傷口を縫合していく。それは素人が裁縫を勉強したとかいうレベルではなく、医療関係の人を思わせる動きだった。
「凄い回復力だ。縫い合わせる必要がある部分も多いが、治療していく端からどんどん回復していく。逆に治療の仕方が分からなくなるな」
指の隙間からでしか見えてないので、僕の視界からでは生々しい肉が擦り合わさるような音と鉄臭い匂いだけが鮮明伝わってくる。時折、それに混ざるアマネの辛そうな呻き声は完全にスプラッタ映画のそれだ。いつも戦闘中で怖がっている暇もないが、ただ見ているだけとなるとアマネの痛みを勝手に想像してしまう。
僕はベッドの脇に膝をついて痛がるアマネの手を握って目をつぶる。情けないことに、痛くないはずの僕の手の方が震えていた。
「…オットーさん、詳しいんですね」
「現実では外科医をしているからな」
頭の中で勝手に作り上げてしまうグロテスクな映像をかき消そうと、関係ない話をイディオットに振ると、予想の斜め上の答えが返ってきた。驚きに思わず目を開くと、メガネ越しの彼と目が合った。
「なんだ、鳩が豆鉄砲食らったような顔して」
「いや、僕てっきりオットーさんって軍人系の人かなって思ってて…厳格だし、戦闘も強いし…」
「戦闘はどう考えても強くないだろ。戦闘知識の方が付け焼き刃だ。アマネにあれだけボコボコにされていた俺を見て、よくそれだけリスペクトできるな」
眉間にしわを寄せたまま、喉を鳴らすようにイディオットが笑う。傷口は大部分が塞がり始めていて、自分が思っていたようなグロテスクな惨状ではないことに僕は安堵した。
大分痛みも引いてきているのか、アマネはベッドに横になったまま息を漏らすように笑う。
「そうだぞお、この兎はクソザコナメクジだぞ」
「お前は自分が言って良いことと悪いことを学べ」
イディオットが傷口を完全に縫い合わせると、アマネの服がそれを覆うように再生されていく。それに驚いてイディオットが手を引っ込めた。
そういえば、彼にはアマネの身体は洋服も含むことを伝えていなかった。つまり、縫合糸はアマネの体内に持っていかれてしまうのだろうか…根本が夢とは言え、イレギュラーなことが多すぎて未来がまるで予想出来ない。
「なんだこれ?お前の洋服、皮膚みたいだな」
訝しげにイディオットがアマネの服を指先でつまむ。それを迷惑そうにアマネは見つめていたが、横になったままポケットからいつものように棒付きキャンディーを取り出して自分の口に含んだ。
「…助かった」
ボソリと微かに、キャンディーを口の中で転がす音に混ざってアマネの声が聞こえた。
僕とイディオットは顔を見合せる。イディオットが「お前が言ったのか?」と言いたげに険しい顔で僕をジッと見つめるが、僕は首を横に振る。アマネが礼を述べたのだと気付いたのは、その後だった。
「なんだよ」
キャンディーを口の中で転がしながら、アマネが不愉快そうに口を曲げる。僕はそれに笑い、イディオットは肩を竦めた。
「…アスカを大事にするんだな。彼の頼みでなければ、いくら有益な情報を報酬にされようと、仲間を殺した人間など絶対に治療しなかった」
「本当に助かりました、ありがとうございます」
イディオットに僕は深く頭を下げる。
治療の一部始終は見ていたが、おそらくアマネの怪我は手助けを得たからすぐに治ったのだろうが、それがなかったらあの凄まじい出血量の傷をどう癒せたか想像もつかない。イディオットがいなければ、やはりアマネは死んでいた可能性は依然あったに違いなかった。自分の仲間を殺した相手の命を救って欲しいなんて無理難題を叶えてくれた彼には感謝しかない。
イディオットは腕を組んで僕を見下ろすと、口元を微かに上げて微笑む。
「代わりに報酬はしっかりと貰うからな。アリスと初期の茶会についての話を早速…」
そこまで言いかけて、彼は周囲を見回す。いつもの険しい表情で彼は何かを思案すると、再び僕の方を見た。
「…ここは誰が来るか分からないから、出来れば集落内で話をしたいが、俺はアマネを集落に連れて行くのはごめんだぞ」
「あー…」
そりゃそうだ。当たり前だ。前に集落を荒らした人間を再び招き入れるなんて無理だ。こればかりは僕も反論出来ない。
返答に詰まる僕にアマネはキャンディーをガリガリと齧りながら不思議そうに首をかしげ、小指で耳の輪舞をかいた。
「なんでだ?フロージィはアマネの味方だぞ。お前らが何してんのか、アマネは見てるし、隠しても意味ねえだろ」
「お前たちの情報を俺に共有してもらったとして、こちらの手の内まで共有する気はない。ババ抜きで手札を相手に見せるのと同じだ」
アマネが9歳と知ってたからか、いつも難しい言い回しをしがちなイディオットの比喩が随分と分かりやすくなっている。相手が子供という認識を持ってくれたのだろう。
アマネは詳しい意味をあまり理解していないようで、ガリガリと歯でキャンディーを挟んだまま眉間にしわを寄せた。
「はあ?よく分かんねえ…手札見せたらゲームが不利になんのは分かるけど…どうしてもダメなのか?アマネはもうお前の仲間を殺す気はないぞ」
「それで信用出来たら警察はいらない。信用は築き上げるのはただでさえ時間がかかるんだ。お前のような素行じゃ、信用が得られるわけがないだろ。俺からすれば、お前はまたいつ集落を荒らすかも分からない殺人鬼だ。みんながアスカのように寛大だと思うな」
アマネにイディオットはピシャリと言い返す。その高圧的な口調は出会った当時のまま。言っていることもぐうの音が出ないほどに正しかった。
イディオットがこうしてアマネの怪我を治療してくれただけでも本当に凄い譲歩なのはよく分かっている。こればかりは僕も何も言い返せない。
「アマネ、怪我は治してもらったんだから、どうかオットーさんの言うことに従ってくれないかな。アマネは確かに大勢を殺してきてしまっただろ?なら、まずは1回ちゃんとアマネが僕の言うことを聞けるところを彼に見せて欲しいんだ。信用って、そうやって地道に築いていかなきゃならないからさ」
イディオットがアマネを治療するに当たって提示した交換条件は、アマネが僕の言葉に従うということだ。ここでそれを証明する必要があるだろう。
優しく諭すようにアマネに僕が言うと、アマネは不満そうに僕を見た。
「ここにいろってことか?アマネは暇だぞ。アスカは顔を出してくれんのか?本当に迎えに来てくれんのかよ」
「約束は守るよ。毎日ここに顔を出すし、帽子屋を止めに行く時は無断で置いてったりはしないから」
僕は小指を立ててアマネに差し出す。アマネはそれをじっと見つめ、しばらくの沈黙の末に渋々と僕の小指に自分の小指を絡めた。
「…分かった。約束だ。破ったら、当初の予定通りにアスカをめちゃくちゃに苦しめて殺してやる」
「大丈夫だよ。僕はアマネとも一緒に現実に帰りたいから」
僕はアマネに微笑み、指切りをする。離れていく小指を見守り、アマネはまたしばらく沈黙していたが、ふんと鼻を鳴らして再びベッドに横になった。
「ここで待ってる。早く帰ってこい」
「もちろん!」
アマネに僕は笑顔で手を振る。その姿を見てから、アマネは僕に背を向けるように寝返りをうった。
「…話がついたなら行くぞ」
ずっと黙って僕らのやりとりを見ていたイディオットが集落の方角に顎をしゃくった。僕はそれに頷き、彼に続く。
アマネに関しては正直、もうあまり不安に思うことはなかった。あの暴君がこれだけ聞き分けが良くなったというのは、当時の僕が考えれば信じ難い事象なのだろうが、アマネの生い立ちや価値観を理解した今では信じられる自分がいた。
アマネは信用しない人間の言うことを決してきかない。ここまで言うことを聞いてくれるのは、アマネなりに僕を信じてくれているからなのだろう。
「…しかしまあ、とんだ怪物を飼い慣らしたもんだ。どんな手品を使った?」
アマネの姿が見えなくなったあたりでイディオットが眉間にしわを寄せたまま苦笑いする。僕はそんな彼に肩を竦めて見せた。
「飼い慣らしてなんかないですよ。僕は彼のことを良く知ろうと思って話しかけただけです。会話が出来る相手なら、嫌いになるのは相手と飽きるほど会話してからでいいかなと」
「お前はそれを当たり前のように話すが、普通は出来ないもんだ。俺は確かに仲間たちをアマネに殺されたが、お前だって元を辿ればアマネに殺されかけて、身を寄せた集落を襲われて、お前のせいだなんて言いがかりで集落を離れたじゃないか。恨むのが当たり前だと思うがなあ」
彼に言われて僕は自分の唇に指を当てて考え込む。確かに僕は最初、アマネがとても苦手だったし、お近付きになど絶対になりたくないと思っていたものだ。
しかし、現在はこうしてイディオットの手を借りてまで彼を生かしたいと思っている。それは凄い心境の変化だと思われて仕方ないのかもしれない。
「普通はそうなんだろうと思います。でも、アマネって湖の向こうでは結構慕われてるんですよ。双子のこと、ちゃんと面倒見て可愛がっていて、眠り鼠に従順なんです。それを見ていたら、自分が集落で見たアマネだけが、彼の全てではないように思えて…話してみたいなと思ったんです」
ドゥエルを優しく抱き上げてお菓子をあげたりするアマネは、ちゃんとお兄ちゃんをしていた。その様子はとてもただのサイコパスには見えなかったのをよく覚えている。
その時のことを出来るだけ丁寧に言葉にすると、イディオットは難しい顔をしたまま、自分の顎髭を撫でた。
「信じられんが…お前が自分の目で見てきたことなら確かなんだろう。俺も自分の目で確認しようという気概はあったが、いかんせん俺は眠り鼠と仲が悪い。顔を合わせれば戦争になる」
彼はそう言って珍しく俯くと、少しだけ声量を落とした。
「…そうなる前に、俺もお前みたいによく相手を知れば和解出来たんだろうか」
「オットーさんがもし和解を望むなら、遅くなんてないと思いますよ」
僕は彼に笑いかける。
僕はイディオットのことが好きだし、アマネに至っては少しばかり信頼し始めている。双子は憎めないし、シュラーフロージィだって別に嫌いではない。
そんな僕からすれば、彼らが和解してくれるならこれ以上にないハッピーエンドだった。
「どうだか」
少しばかりイディオットは自虐的に笑うと、それ以上の話はしてこなかった。
集落に到着すると、集落の人たちは僕を奇異な目で見てはひそひそと何かを話す。何人かがイディオットを迎えながら、何があったかを尋ねて来たが、彼はただ僕の友人を助けただけとしか話さなかった。アマネの名前は出さずに済ませようとしているのだろう。
確かに名前を出すだけ不安を煽るだけだ。知るべきことと、知らない方が良いことは存在する。彼の判断は賢明だと思う。
集落はあれから少しばかり変化していて、イディオットがいたから引っかからなかったが、歩いて集落に入るルート周囲に罠が張り巡らされていた。
糸に引っかかると大量の鈴やベルが鳴る原始的な物を中心に、中には落とし穴や丸太が落ちてくる殺意の高いものもある。
罠を抜けた先にある集落の近辺には大掛かりな木製の道具が作られており、それらは巨大な岩を飛ばす物や、爆弾、火炎放射器などの兵器であることがなんとなく伺える。本格的にフロージィの城を攻める兵器を作り始めていたのだろう。こうやって見ると、戦争へのカウントダウンは着々と迫っていた。
イディオットに連れられて前に僕が使っていた部屋へと案内された。彼の話に寄ると、彼はずっと僕が帰ってくると信じて部屋を残しておいてくれたのだと言う。
「部屋、残しておいてくれてありがとうございます。こんな部外者なのに…」
部屋に通され、礼を述べるとイディオットは難しい顔をしたまま肩を竦めた。
「何言ってんだ、家族みたいなもんだろ。家族の部屋はいつ帰って来ても良いように残して然るべきだ。立派になって帰って来たと思ったが、その辺の自己肯定感の低さは相変わらずだな」
「家族…出ていった家族の部屋って残しておくものですか?」
「残さないのか?俺が親なら残すが」
ふと口をついて出た僕の疑問にイディオットはますます眉間に深くシワを刻む。彼はその険しい顔のまま部屋に入ると、部屋に置かれた簡素なベッドに腰掛けて膝を組んだ。
「まあ、アリスの情報も必要だが積もる話もあるだろ。座れ」
「あっ、はい」
座って話すとなれば背もたれのある椅子を僕に勧めてくる彼は相変わらずだ。威圧感と繊細な気配りを持ち合わせているのが、とても不思議で憧れた。
おずおずと椅子に座る。座ってみると、少し自分の翼が邪魔だ。これはもう、就寝時はうつ伏せで寝るしかないかもしれない。
「アスカはどうやって育ったんだ?」
「ん?え?」
アリスについて話すんだと思っていたら、全く違う質問に面を食らう。思わず聞き返すと、イディオットは首を傾げてから、また眉間のシワを深くした。
「ん?ただの世間話だ。興味から聞いただけで、別に尋問とかではないから、話したくないなら構わないが…導入が下手だったか?」
導入もクソもあっただろうか。急な話題に僕が口を半開きにして黙っていると、彼は眉間を押さえながら俯き、大きく溜息を吐いた。
「いや、悪かった。どうにも話し方が威圧的だと言われる。気を付けてはいるんだ」
一瞬、彼の機嫌を損ねたのかと心配したが、どうやら違ったようで僕はホッと胸を撫で下ろす。むしろ、威圧的に見えることを彼が気にしていたとは知らなかった。
彼も悩みがあるのだと思うと、少しばかり親近感が湧く。僕は思わず笑った。
そんな僕を見て、イディオットは眉を八の字に寄せて笑う。それはいつも難しい顔をしている彼の中で1番優しい表情だと僕は思っている。
「…アスカはしっかり者に見えて、やっぱり気にしいだな」
彼の表情について考えていたのに、ふと自分の様子を指摘されて僕は首を傾げる。
「僕ですか?」
「そうだ。お前は自分の意見もちゃんと持っているのに、初めて会った時からずっと人の顔色を伺ってばかりいるだろう。怯えているようで、こちらから歩み寄ると露骨に安心が顔に出る。安心した後は伸び伸びと話し出すし、誰かのためなら自己犠牲を厭わないような強い意志を持っている。お前は何をそんなに気にしてるんだ?」
そう言われて、僕は固まる。身体が硬直した。戦慄と言う言葉が近かったのかもしれない。
理由は分からなかった。ただ、脳に亀裂が入るような衝撃が、違和感が、そこにあった。
「久しぶりに会ったお前は見た目も中身も随分逞しくなっていると思ったよ。もうお前を見て喧嘩を売ろうとする奴もいないだろう。アマネまで手懐けたなら、お前は実質この世界で最強だ。弱さからくる怯えなら理解出来る。なのに、何故そんなに強くなってまで、怯えて俺の顔色を伺う?」
困ったように笑うイディオットは優しい。何も僕に害をなす人ではない。むしろ、守ってくれた。僕の命も、アマネの命も、僕の望みを聞いて、意見を交わしながら話を聞いてくれた。
なのに、言葉の続きが出なかった。ミズキを前にすればスラスラと出てくる言葉も、アマネと命懸けで交わした声も、彼を前にすると萎縮する。
彼は凄い人なのだ。集落をまとめて、みんなを守る誰よりも強い人だ。親しくありたいのに、気持ちと裏腹に怯える自分が確かにいた。
「根底に何かあるなら、聞きたいと思っただけだ。先にも言ったが、俺はお前が思うような強い人間ではない。悔しいがアマネの言う通り、今のお前には物理的にどう向かおうと勝てはしないだろう。安心していいぞ」
イディオットはフンと鼻で笑うと、組んでいた膝を解いて前のめりになる。
「…それだけ俺を前にすると怯えるくらいだ。お前は俺を誰かに重ねてたりするんじゃないか?」
彼の真剣な眼差しが刺さる。
言葉に詰まる。イディオットの問に対する答えを僕は確かに持っていた。だけど、それを口に出すことが酷く恥ずかしくて、彼に申し訳ない気持ちになってしまう。
口を開け、閉める。空気が喉を通って、声帯を震わせずに出ていく。それを言葉にしてはいけない気がした。
そうだ、僕はずっと彼を自分の父親に見立てている。知っているのだ、自分が彼に求めているものが。でも、口にしてはいけない。自分の父親とあなたが似ているとすぐに言えなかった。
僕の父親は、僕が大好きな父親は、彼に似て非なるものだから。
「…すまないな、やっぱり尋問のようになってしまう。ちょっとした世間話のつもりだったんだが、やはり威圧的なのかもしれない。誰かに指示を出したりする以外の話はこの世界に来てから随分減った。会話スキルも落ちるものだな」
イディオットはまた眉間に手を当ててため息を吐く。
それは落胆のため息だ。きっと、彼は自分に向かって言っている。だけど、それは僕に向けられたもののように思えてしまう。
被害妄想だ。僕は自分の思考をそこで終わらせる。
「オットーさんのこと、怖いなんて思ってませんし、大した人生は生きてないですよ。僕の周囲はみんないい人でした」
笑顔を作って僕は、自分が思い描くテンプレートを口にする。僕は幸せな家庭で育った。普通の学校生活を送った。特筆すべき点など何もない。あってはならないのだ。
イディオットは僕の顔を覗き込み、訝しむように片眉だけを上げたが、小さく溜息を吐いてから場を仕切り直すように手を叩いた。
「なら、この話はおしまいだな。お前が俺に怯えたりしてないならいいんだ。変なことを聞いて悪かった。アリスの話をしよう」
眉間にシワを寄せたまま彼は笑う。僕はそれに胸を撫で下ろしながら、どこか寂しく思う自分がいた。
本当は話したかった。話したかったのに、どうしても自分の家族の話が口に出せない。口に出せないものを人に伝えられるわけがない。
ずっとこの世界に来てから口八丁で乗り越えてきた。ありとあらゆることを伝える努力をして、明確にしなくてはならないところは伝えて、曖昧でありたい部分を濁してきた。良好な人間関係とはそうやって築くのだと、旅をしてきて学んだつもりだった。言葉がいかに大事なのかを僕は理解している。
なのに、どうして口から声が出ないのか。まるで呪いのように喉の奥で言葉が絡めとられて、そのまま消えてしまう。想いは胸の中につっかえて溜まるだけ。
僕はそれを悟られないように笑った。心配をかけては彼に申し訳がない。
僕とイディオットはそれから長い時間、僕が見てきた出来事を伝えた。ミズキという大事な友達に出会ったこと、ミズキを通して成長できたこと、彼女がアリスだったこと。
アマネの協力で彼女とは完全な喧嘩別れにならずに済んだ話も、帽子屋がアマネに何をしたのか。重要な箇所を掻い摘んで、出来るだけ端的に話したつもりなのに、思った以上に情報量が多くて時間がかかってしまった。
「帽子屋はアリスを、ミズキをこの世界に留めるためなら手段を問わないと思います。ミズキと帽子屋が会うまでに食い止めたいです」
ずっとイディオットは僕の話を難しい顔で聞いていたが、僕の話が終わると悩んだように自分の顎髭を撫でた。
「…状況が一刻を争うことも、ミズキという子が眠り鼠サイドであることもよく分かった。だが、帽子屋はアマネが負けるような化け物なんだろう?お前なら勝ち目があるのは分かるが、俺に出来る協力ってなんだろうな」
「オットーさんは強いから…」
「だから、俺はそんなに強くないと言っている。ただの外科医だぞ」
イディオットの言葉に僕は口を結ぶ。確かにイディオットに協力を仰いで良い方向に転ぶ確証などなかった。なかったが、何故か彼なら大丈夫だと思っていた。
沈黙がその場に訪れ、僕は下を向く。見えない視界でイディオットが座り直す音が聞こえた。
「…アスカはなんで帽子屋に負けたんだ?アマネがやられたから、アマネを治療する。アマネを置いて改めて挑む。その流れなら分かる。だけど、お前は俺に助力を求めている。物理的な話だけすれば、俺はただの足でまといになるぞ。集落の者も訓練されているにしても、アマネを前に起きた惨状はお前も見ただろう。数で押して何とかなる話じゃない」
「それは…」
帽子屋が僕の母親に化けたから。そう言っていいのか、僕は悩んでまた口を噤む。
何故、そんなに僕は自分の母親が怖いのか、自分でも分からない。確かに物理的な力だけで言えば、帽子屋とジャバウォックは圧倒的にジャバウォックが有利なはずだ。
でも、立ち向かえる気がしない。またあの姿で詰られるのが、身の毛もよだつほどに恐ろしい。
「なあ、俺が協力できるなら力を貸す気でいるんだ。お前に出来なくて、俺に出来ることがあるならやらせてくれ。現実に帰るって目的は同じなんだろう?」
イディオットの声が困っていた。僕は顔を上げる。
伝えないといけない。伝えないと、ここに来た意味がなくなってしまう。ミズキがまた記憶を捨ててしまう前に、僕がいた記憶が彼女の中からなくなってしまう前に、止めなくちゃ誰も助からない。
「…帽子屋は、僕の母親に姿を変えるんです」
唇が震えた。続きを言うのが怖い。
だって、僕が母親の話をしたら、何も良かったことなんか出てこない。口を開けば、彼女を悪く言ってしまう。
悪く言ったら、僕は僕をもっと嫌いになってしまう。
「母親?」
イディオットは僕の顔を見つめる。訝しげに首を傾げ、視線を宙にさ迷わせてから、もう一度僕を見た。
「…ああ、身内を殺すようで怖い類のやつか?確かに気分悪いよな。それなら確かに何か俺でも…」
「いえ、違います。違うんです」
僕は首を横に振る。
「母親に…何を言われるのかと思うと、あ、足がすくんで…」
途中から言葉が上手く出てこなくなる。
みっともない。こんなデカい図体して、ミズキやアマネに偉そうな口を叩いてこのザマだ。
母親くらい何とかしろ。立ち向かえ。頭の中で僕が、僕自身に野次を飛ばす。
立派になった気でいたのか?人として育ったつもりか?思い上がりも甚だしい!僕はミズキに慕われるような人間でも、イディオットにこんなに時間を割いて貰えるような人間でも何でもない。
僕は弱虫だ。虚勢張って、ミズキにいいところ見せたくて、褒められたくて、ただそれだけの欲求に従って動いてきただけだ。愚か者は自分みたいな奴を言うんだろ。
手が震える。膝が笑う。ずっと忘れていた、忘れていたかった、アマネと対峙した時よりも巨大な腹の底から冷えるような恐怖だ。
僕の様子にイディオットは驚いたように眉間のシワを深くすると、彼は側まで駆け寄って僕の震える手を取った。
「大丈夫か?悪かった、そんなに…」
彼が悩むように唸る。眉間をおさえて目を瞑り、言葉を選ぶように慎重に口を開く。
「そんなにお前が…家族に大事にされていなかったなんて知らなかったんだ」
「そんな!」
僕は思わず立ち上がる。息が上がる。呼吸が浅くなる。目眩がする。
「だっ、大事にされてました!お金かけてもらって、ごっ、ご飯食べさせてもらって、学校通って…」
「体罰は?」
イディオットが床に膝を着いて座ったまま、僕を見上げる。僕は息を飲む。
「た、体罰って言うほど…父が躾で…僕が悪いから…ちょっと痣になったりはしましたけど…。ほら、タバコ押し付けられたりとか、灰皿で殴られたりとかはなかった…」
「普通、子供の躾で痣になるような力で叩かないんだ」
僕の目をまっすぐ見据えたまま、イディオットが首を振る。
「お父さんは他に何をしたんだ?お母さんも叩いたのか?」
僕の頭がぐるぐると回る。
僕の父親は、大好きな父親は、幼い僕を確かに叩いた。小さい頃は叩いていいんだって、躾だって叩いた。
泣いたら叩かれる。抗議しても叩かれる。九九が言えるようになるまでご飯を貰えなかった。食べている時に何かをこぼしたら叩く。初めて見る式が出た算数を前に、分からないから答えられないと言う叩く。
もっと自分の頭で考えろ。なんで出来ないんだ。泣くなんて当てつけか。テストで100点取れて当たり前。食べ物をこぼすな。姿勢を崩すな。不機嫌になるな。ため息を吐くな。泣くな。騒ぐな。
血走った目で父親が怒鳴る。仕事もしないで僕の勉強にかかりきり。家にいると父親がいつもいて、機嫌がいいと可愛がってくれて、機嫌が悪いとすぐに手を上げた。
でも、でも、どれも僕のためを思ってしたんだろう?僕は愛されていたのに、それを体罰だなんて形容していいわけがない。だから、愛だったのだと納得した。
厳しさは愛だ。愛があるから厳しくする。僕がイディオットを父親に見立てて慕うのは、きっと根底にそう考える自分がいるからだ。
「父はそれ以外は何も…仲良い方だと思うんです。母から僕を庇ってくれます」
父親が僕を叩いた時、母親は最初こそ叩くのをやめろと言った。でも、言っただけだ。庇ってくれなかった。母親は父親が怖いと言って、僕が叩かれている時に2階に姿を消した。散々叩かれて泣いた後、母親は僕を見てアンタはなんでそんなにうるさいのと僕を蔑んだ。
「父親からは体罰について深く謝罪されたんです。本当に申し訳なかった、もっとのびのび育ててやれれば良かったと。それからは僕が生きているだけでいいんだって、世界で一番可愛い子供だと」
まるで僕の口から言い訳のように言葉が溢れ出す。僕が何かをしたわけではないのに、とても恥ずかしい。彼をそんな父親と並べていることが申し訳ない。その感情で頭はいっぱいだった。
父親は本当に本当に、言葉を尽くして僕に謝罪してくれた。後悔ばかりだと、こんな窮屈な想いをさせる気はなかったと。
僕は父親が好きだ。だって、僕の話を聞いてくれる。機嫌さえ良ければ、彼は家族の中で1番優しい。
子育てなんて、最初はみんな失敗するものだろう?愛がそこにあったなら、仕方ない。そう思わないと、やってられないだろう。
イディオットは、僕が思い描いた理想の父親だ。厳しいけど、体罰はない。話を聞いてくれて、外敵から僕を守ってくれた。彼が僕に理不尽を強いたことはないし、機嫌の善し悪しで対応を変えたりしない。
父親というシンボルは僕にとって、守護者の代表なのだ。イディオットに比べたら、自分の父親が出来の悪い人なのは分かっている。分かっているけど、僕を現実から守ってくれたのは父親だけだった。
だから、イディオットが僕の父親であったらいいのにと、彼の顔色に怯えながらも願わずにはいられないのだ。
「お父さんはお母さんの何から、お前を守ってくれるんだ?」
イディオットが僕の目を覗き込んで問う。声が驚くほど僕を心配してくれている。
「…は、母は…」
声が上手く出ない。背中のよく分からない部分が震える。寒くないのに悪寒がした。
「僕を…生んだことを、ずっと後悔してると…。お金が掛かるだけで優しくなくて、不細工な子を生んでしまった。僕は出来損ないで、何者にもなれない。僕の父はロクデナシだから、父親選びから間違えたって…」
出来るだけ母親を悪く言わないように、事実を口にする。
「母が毎日言うんです…僕を汚いと。親孝行も出来ない、期待する価値もない残念な子供だと。父は僕が母の言葉に傷ついて、もう嫌だと泣きわめいた時に唯一否定しないで聞いてくれたんです」
そう、現実で僕が母の不満を吐き出せるのは父しかいなかった。金銭面的な援助も、いざって時に母を頼ると後が怖いから父にしかお願いできなかった。
父親は母親に何かを言ったり、止めたりはしなかった。だけど、唯一父親が言ってくれる「生きているだけで世界で一番可愛い私の子供」と言う言葉は確かに僕の命を繋いでくれていたのだ。
「父親は話を聞いて、母親を止めたのか?」
「いえ…父親も母親には頭が上がらないので、何も」
「アスカ…それは…」
僕の話を聞いていたイディオットは口を噤むと、目を閉じて首を横に振った。
「守ったって言わないんだ。彼は何も行動してないだろう。話を否定しないで聞くなんて、普通のことだ」
「でも!でも自分が本当に出来が悪かったからなんですよ!勉強できなくて、友達も上手く作れなくて、お金ばっかり掛けさせて、受験したって落第ばっかして、だからきっと両親とも仕方なく」
「もういい」
言い訳のように連ねた言葉をイディオットが一蹴する。立ったままの僕の手を握って、彼はもう一度首を横に振った。
「もういい、悪かった。必要な情報はもう聞けた。充分、分かったから。お前がどれだけ帽子屋を恐れているのか、なんで挑めないのか、分かったから…」
彼は立ち上がると、優しく僕の頭を撫でた。頭から伝わるその手の平の体温がとても温かくて、ボロボロと涙が出た。
僕は父親にこうして欲しかった。僕が機嫌をとらなくても、ただ寄り添っていて欲しかった。叩かないで、撫でて。僕が口を開いたら、怒鳴らないで。否定から入らないで。機嫌を悪くしないで、僕の話を聞いて。
暴力を伴わない、ただ触れただけの体温は暖かい。僕は両親に撫でてもらうことも、抱きしめてもらったことも、ほとんどなかったことを思い出した。
「よく生きててくれたな。お前は出来損ないでもなければ、醜くもない。立派に男前に育ったと胸を張れ。お前が俺を信用してくれてるなら、俺からのお墨付きだと思えばいい」
唇が震えて、声にならなくて、僕は鼻をすする。服の袖で涙を拭って、グッと息を飲み込んだ。
深呼吸して、目をつぶる。ただそれだけでも、少しだけ気持ちが晴れた。再び開けた視界でイディオットは口元だけで微笑んだ。
「すぐ泣き止むなんて強いじゃないか」
「そんなこと…」
「そんなことあるんだ」
ぐしゃぐしゃと頭を撫で回し、彼が歯を見せて笑う。いつも通り眉間にしわは寄ったままだが、それは威圧感のない明るい笑顔だ。
「俺も少し面倒な家庭で育ったから、窮屈さは分かるつもりだ。俺の家には敵が1人しかいなかったから、お前ほど精神的に削れたりしなかったがな」
「敵…」
家族を敵と呼称したことを僕はしたことがない。血が繋がっているから、愛するのだと僕の母親は言っていた。
僕の家族は血縁を重んじる、血縁絶対信者だ。そんな価値観が当たり前だった僕からすれば、家族をそのように呼ぶのは抵抗がある。
イディオットの言葉を復唱する僕がどんな顔をしていたかは分からないが、彼は片目だけ目を細めて悪戯っぽく笑った。
「子供にそんな罵詈雑言を毎日言って聞かせるような大人は敵でいいだろ。お前が顔色を伺ってやる必要はない。愛があるからと、言葉の凶器や体罰を向けて良い理由にはならん。お前の両親が目の前にいるなら、愛を免罪符にするなと俺は言ってやりたいとこだ。そんな奴ら地獄行きだ」
「神父さんの見た目でそう言われると迫力が違いますね」
聖書片手に十字架を胸にぶら下げた彼の口から出てくる言葉は相変わらず厳しいが、珍しくユーモアが効いていて僕ら少し笑う。本人がユーモアを求めて言ったかは分からないが。
僕の笑みにイディオットも釣られるように笑った。
「まあ、俺は自分にも他人にも厳しい自覚はあるが…厳しさはたまに人を追い詰めて傷つける。俺は頭が硬いから、そうそう柔軟にはなれないが、これでも厳しする相手やタイミングを見て、相手が傷ついてないかケアをしている気ではいるんだ。お前はまだ若いんだから、俺みたいに頭が硬くなる前に柔らかくしとくといい」
そう言われ、僕の脳裏にミズキの顔が浮かんだ。
僕はミズキのことが好きで、広い意味で愛している。厳しさの愛だと彼女に色々なことを強いてきた気がした。
でも、それは僕の現実の父親と同じことを彼女にしてしまったんじゃないだろうか。彼女を知らないところで追い詰めて、傷つけたんじゃないか?
僕が憧れるイディオットすら、厳しくあることを難しいと考えているのだ。僕はまだきっと彼のように他人にどうこう言えるような器用さは持っていない。自分の在り方を見直さないといけないのだろう。
ミズキは僕の身体の一部ではない。自分のことのように厳しさを彼女に求めている僕は、きっと間違っている。ミズキは、ミズキという1人の別の人間なのだから。
「しかし、話を聞く限りじゃ帽子屋は相手のトラウマに成りすますってとこか…」
イディオットはそう呟き、また難しい顔をする。
しかし、それは悲観的ではない。思考し、模索し、閃いたように彼は宙を見た。
「俺のトラウマを見たいか?」
チラと僕を一瞥し、彼が言う。
何と答えたらいいだろう。トラウマなんてみんな対峙したくないに決まっているのに、見たいなんて言えるわけがない。
それなのに、イディオットはフンと鼻を鳴らして自信ありげにニヤリと笑う。
「俺にトラウマなどない。あったとして、もうかなり昔の話だ。ケリはすでについてる。これは勝ち戦だな」
余裕すら感じるその謎の笑みを残し、彼は部屋の出口へと向かった。
「明日か明後日、集落の物に仕事の引き継ぎや指示を出し終えたらに出発する。お前が手懐けたあの怪物の面倒は任せたぞ」
「はっ、はい!」
いつもの強い語気で放たれた指示に、僕は慌てて背筋を伸ばす。彼はそれに満足そうに頷いて背を向けた。
「…アスカ」
去り際に彼は振り返る。
「話してくれてありがとう。嬉しかった。今日、明日はゆっくり休んでくれ。そして、これからもよろしく頼む」
彼は相変わらず眉間にシワを寄せたままだったが、僕は思わず笑う。
「はい!こちらこそ!」
威勢よく返事をすると、イディオットは頷いて部屋から出て行った。
僕はまだ彼のように両親については割り切れていないが、あとはきっと僕が自分の中で整理をつけるしかない。整理をつけることで、ミズキともっと向き合えるようになるのかもしれない。
母親のことを僕はまだ恐れるだろう。人の顔色はきっと気になり続けるだろう。だけど、イディオットに言われた言葉が胸の中で木霊している。僕を鼓舞するように、それは何度も耳の中で響き続けた。
僕はまだ大丈夫。ミズキが隣にいなくても、寂しくても、先にあるかもしれない彼女との未来のために、まだ歩いていける気がした。
「上空から何かが来ます!」
「誰か!リーダーを呼んで来てくれ!」
集落へたどり着き、上空から地面へと降りていくと、集落の外にいた人たちが驚いたように声を上げる。一部の人達は慌てふためいたように洞窟の中へとイディオットを探しに駆け出した。
僕がこの集落に来て、立ち去るまでの2週間と少しの間、僕は自らの配役を名乗らなければ分からない人間と変わりない姿をしていた。しかし、今はここまで容姿が変わってしまっている。会ったことがあろうがなかろうが、上空から来る謎の生き物を僕だと認識するのは難しいだろう。
警戒する人々の前で、僕は敵意がないことを示す意味で両手を上げたまま地面に静かに降り立つ。集落の人々は警戒したように遠巻きに僕を取り囲む。武器になる物を持った人を先頭に彼らはまばらな陣形を作り、目を細めて僕を睨む。暗闇で僕のことがよく見えないのだろう。
「アスカです。オットーさんに会い来ました」
両手を上げたまま僕が名乗ると、人々がザワつく。陣形を作っていた人々のうち、ランタンを持った男性がそれを空へ掲げ、僕の方へと歩み出る。
「…アスカ!本当にアスカだ!」
白目と黒目が反転した瞳をしたその男性は明るく笑い、僕の名前を呼びながら駆け寄って来た。
「メアさん!」
彼はこの集落でお世話になったトゥルーの恋人だ。懐かしい顔に僕も思わず笑う。
メアは僕のすぐ目の前まで来ると、目を丸くして僕の姿を上から下までまじまじと見つめた。
「ああ、凄い…強くなって帰って来ると、確かに君は言っていたけど、正直ここまで様変わりするとは…。歓迎するよ!オットーさんも喜ぶに違いない」
メアの言葉に集落の人々は武器を降ろすが、同時に困惑でかざわめきが大きくなる。
メアは歓迎すると言ってくれてはいるが、そもそも僕はこの集落から半ば追放されたような身だ。メアを含む、イディオットとトゥルーの3人は喜んでくれるかもしれないが、ほとんどの人間は僕を歓迎しないだろう。
「メア、勝手に話を進めるなよ。アスカって、あのお騒がせジャバウォックだろ?また面倒事を持って来たんじゃないか?」
武器を構えていた男が僕を見つめ、吐き捨てるように言った。
正直、面倒事を持ってきたか否かと言われれば図星だ。当初はそんなつもりはなかったが、今はアマネの命が最優先だと思って僕はここにいる。集落をめちゃくちゃにしたアマネを助けて欲しいだなんて、面倒事にも程があるだろう。
男の言葉にメアは眉をしかめる。
「そんな言い方はないだろう。アスカがいてくれたから助かったこともあるんじゃないか?」
「いいんです、面倒事を持って来たのは本当なので」
彼の擁護を僕は苦笑いで止める。メアは困ったように僕と男を交互に見つめ、鼻でため息を吐いた。
「面倒事を持って来たって?」
不意に人垣の向こうから飛び込んで来た懐かしい声に僕は顔を上げる。人々の奥から頭一つ抜けて背の高い男性が、こちらに向かって人をかき分けてやって来た。
スポーツ刈りに神父のような服を着た彼は、今日も変わらず眉間に深いしわを刻んでいる。初めて出会った時と違うのは、メガネの下の片目に黒い眼帯を巻いていることと、口元に薄らと笑みが浮かんでいることだ。
「おかえり、アスカ。随分と幅と奥行が出たな」
「オットーさん!」
メアと同様に再会で顔がほころぶ。
圧倒的に好意より敵意が渦巻くその空間が、イディオットの出現で和らぐのが肌で分かった。傍で困ったように眉を寄せていたメアも顔を明るくして道を開ける。
相変わらず皆に慕われているのがこの短い時間だけで分かるが、あの時の襲撃で負った目の怪我はやはり完治しなかったのだろう。眼帯が傷の深さを物語っていて、申し訳なさに胸が傷んだが、イディオットはまるで気にしていないように僕の前で肩を竦めて見せた。
「面倒事にせよ何にせよ、立ち話もなんだ。とりあえず中に入ったらどうだ」
「ありがとうございます。でも、予定外ではあるんですが、急ぎなのでこの場でもお願いしても良いですか?」
再会をじっくりと噛み締めたい気持ちもあるが、今もアマネは1人で傷に苦しんでいる。できる限り早くその傷を塞いでやりたい。
だとするならば、一刻も早くすぐに用件を伝えなくてはならないし、イディオットに助力の許可を貰わないといけなかった。
僕は次に発する言葉に悩む。イディオットの片目を奪ったアマネを助けて欲しいだなんて、今この人数を前に伝えるのは愚策にもほどがあるだろう。できる限り曖昧に、尚且つ後で説得出来なくてはならない。
僕は大きく息を吸い、慎重に声を出す。
「…僕はアリスに至る情報を得てきました。白兎から最初のお茶会についても聞けました。これら全て、オットーさんにお伝えしますので、怪我をしている僕の友人の命を助けて頂けませんか」
僕の言葉に集落の人々が顔を見合わせる。メアもイディオットの顔を見て、その視線を受けているイディオットは訝しげに首を傾げた。
「その情報は喉から手が出るほど欲しいが…それに引き換えで友人を救って欲しいとはまた変な話だな。お前の友人なんだろう?そんな取引みたいな言い方しなくても助力くらい…」
そこまで言ってから、イディオットはふと何か思いついたように言葉を止める。周囲を見回し、集落の人々の様子を見ながら、彼は片手を小さく上げた。
「お前たちはここの警備に当たってくれ。それから、救急用の道具をここに。俺は彼の友人の元へ行く。明日には戻る」
彼の指示に集落の人々が僕を見る。その視線には疑惑の念があるのはよく分かる。突然現れて取引など…それも追放された人間の提案なのだから、すぐに飲み込めなくて当然だ。
それに、僕自身も少し驚いていた。僕が宛にしていたのは、今はイディオットではなく集落にいる救護班たちの助力だったからだ。
「あの…出来れば救護班の方々にお手伝い願えたらと…友人は酷い怪我を負っているので…」
「そんなにお前の友人は大勢なのか?1人、2人なら俺でも手当できる。なんなら、ここの救護班よりも1番俺が手馴れてる」
イディオットは集落の人たちの方を見ながら、振り返らずに返答を返した。
イディオットの指示に集落の1人が救急キットのような箱を手に、彼の元へと走り寄る。彼はそれを受け取り、険しい顔のまま森の方へと歩き出した。
「人命がかかってるんだろう?詳しい話は歩きながら聞こう」
「あ、ありがとうございます…!」
イディオットがまさか応急手当が得意だとは知らなかったが、確かに命が危ういのはアマネ1人だけだ。イディオットの言葉を信じるのであれば、救護班が出る幕でもないのだろう。
「後でトゥルーにも挨拶しに行くとお伝え下さい」
イディオットの背中を追いながら、僕はメアに頭を下げる。すると、メアは何故か気まずそうに曖昧に笑って手を振った。
「ああ…また…。後で是非、話を聞いて欲しい」
メアの歯切れ悪い回答に僕は首を斜めに振る。話を僕に聞いてほしいと言うあたり、もしかするとトゥルーに何かあったのかもしれない。
別れ際の彼女は随分と思い悩んでいるようだったし、何か助けになれるならなりたいところだ。
「ここからどう向かう?」
イディオットの質問に僕は我に返り、早歩きでイディオットの前に出た。
「すみません、こっちです!」
早足で来た道を戻ると、イディオットは静かに僕に続いた。
暗い森の中、僕とイディオットが地面の草木を踏む音だけが空気中に響く。しばらく僕らは黙々と歩き続けたが、集落が遠く見えなくなる頃にイディオットが先に沈黙を破った。
「…それで、取引を持ちかけないといけないほど、厄介なお前の友人は誰だ?わざとお前は友人の正体を伏せているだろう」
「さすが、お見通しなんですね」
単刀直入に痛いところを突いてくるイディオットに僕は苦笑いする。隠しても無駄だし、なんなら彼はこの先の展開のことをある程度予測して一人で出てきてくれている。これ以上隠すのは逆に悪いだろう。
「…助けて欲しいのは、村人の配役持ちのアマネです」
観念して正体を告げると、イディオットが立ち止まる。振り返ると、彼は今まで以上に険しい表情をして僕を見ていた。
その表情はただ険しいだけではない。驚きと失望。まさに落胆したという負の感情そのままだっただろう。元より深い眉間の皺をさらに深く刻み込み、彼は口元をキツく結んだ。
「アマネだと?お前、もしかして眠り鼠に加担したのか?あんな殺人鬼、むしろ殺してしまった方がいいに決まっている」
「違うんです。眠り鼠の仲間になったわけではないんです。ただ、アマネも理由があって…」
「理由があれば大勢を殺していいとでも?あれだけの人数を殺めておいて、自分だけ救われようなんて甘いんじゃないのか?俺は反対だ」
大体予想はしていたが、やはり芳しい反応ではない。すっかり足を止めて、歩く気をなくしてしまっている彼に僕は歩み寄る。
「僕は集落を出て、あれからずっと自分の足で各地をめぐって来ました。眠り鼠にも会いましたし、おかしな話と思われると思いますが、僕は眠り鼠からも追放されてここにいます。彼女の考えには心からの賛同はできませんし、僕が一番尊敬しているのはオットーさんであることだけは信じて欲しいです」
「じゃあ、なんでアマネと共に行動しているんだ。俺を貶める気はないと言いたいのかもしれないが、それなら何故俺の集落をめちゃくちゃにした人間と仲良くできる。俺は帰るぞ。見殺しにしてやれ。むしろ、いなくなってくれた方が清々する」
淡々と、それでも怒気を含んだそのイディオットの口調から放たれる意思は堅い。僕は慌ててイディオットの正面に回り込み、彼の退路をふさいだ。
「待って下さい!イディオットさんも他の人の意見も聞いた上で判断して欲しいんです」
「もう俺は眠り鼠たちとも話をした。アイツらは現実と向き合いもしないで、夢に逃げてばかりの臆病者だ。そのくせ、その夢を正義として俺たちに押し付けてくる。分かり合えない。分かり合いたくもないな」
イディオットはきっぱりとそう言い切ると、僕の肩を押しのけて再び帰ろうとする。
やれ頭が硬いだの、分からずやだのと湖の向こうで散々な言われようだったイディオットの悪い部分がこうして見ると良く分かる。彼には彼の正義があり、その信念が確固たるものだからこそ意見が絶対に曲がらない。悪く言えば、頑固なのだ。
しかしここで、はいそうですかと引き下がるわけにはいかない。
僕はアマネに言ったんだ。アマネが現実で大人になった姿が見たいと。その気持ちはミズキと一緒に現実に帰りたいことや、イディオットを尊敬している気持ちと同じように変わらない。イディオットに正義があるように、僕にも理想はある。簡単には曲げられない。
「アマネがやったことは何も擁護できません。だけど、彼はまだ幼い。過ちを犯しても成長出来る見込みはある人を見殺しにするのは、僕は反対です」
再び僕はイディオットの前をふさぐ。イディオットは不愉快そうに顔をしかめ。僕の顔を見下ろした。
「若いって言っても、アイツはもう大人だろう」
「あれは彼の現実の父親を模した姿であって、彼自身は9歳の少年です。まだ倫理観もしっかりしていませんし、彼なりに人を殺すことに意味があってやっています。命を奪ってきた事実は変わりませんが…」
「9歳だからって許されないことをしたことに変わりはないだろう。俺の仲間たちが一体何人殺されたのかと思っている。10人は軽く超えるぞ。この世界に法律はない。未成年だからと許さなくてはならないという規則はどこにもないんだ。俺は認めない」
イディオットの変わらない返答に僕は言葉に詰まる。彼が言うことも最もなのだ。人の命を殺めてきてしまったことは、年齢に関係なく人道的に間違っている。
それでも、そうだとしても、望まない親の元で生まれ育った彼に僕は救いが欲しかった。僕と少しずつでも歩み寄ろうとしてくれているアマネを放っておけなかった。
「人は変わります。良い意味でも、悪い意味でも。彼は現実でずっと両親から酷い体罰を受けて育ったので、人の愛し方が分からないだけだと思うんです。実際に、僕が眠り鼠に追放されても、彼は僕を殺さなかった。変わっている途中だと思うんです。だから、どうか最後に一度だけチャンスを貰えませんか」
僕は彼の前に正座をすると、そのまま地面に頭をつける。
アマネを救うには、もうこうするしかない。プライドなどない。いや、いらないプライドなど捨ててしまうべきだ。
アマネにこの世に生まれて良かったと思える日が来て欲しいだけ。ただそれだけだ。両親から疎まれて、暴力を受けて、人を殺すことしか出来ずにずっと嫌われ者のまま生きていくアマネを思うと、切なくてたまらなかった。
僕は偽善者だ。アマネが殺した人間のことを深く知らないから、自分が深くかかわった人間の命の方が尊く思えてしまう。イディオットは殺された仲間たちのことを、僕よりずっと知っているから許せないだけなのに、僕はどうしても今のアマネを彼に見てほしかったのだ。
「おい、なんでお前が頭を下げるんだ。顔を上げろ」
イディオットが溜息を吐く。僕の頭を上げさせようと目の前に屈み、僕の肩を掴んで持ち上げる。それでも、僕は意地でも地面から顔を上げない。
「これは僕の我が儘なんです。ただ、アマネの人生がこのままで終わるのが嫌で仕方がないんです。彼には現実と向き合えるだけの意思があります。連れて帰って、大人になる彼を僕は見たい。だから、だからお願いします」
一向に顔を上げない僕に、イディオットは困ったように眉間に手を当てて溜息を吐く。彼は黙ってしばらく僕を見つめていたが、また大きく息を吐いてから立ち上がった。
「…それなら、とりあえず会うだけ会う。助けるとは約束できないが」
彼の言葉に僕は勢いよく顔を上げる。相変わらず威圧感のある難しい表情を浮かべたままのイディオットだったが、観念したように彼は首を横に振って立ち上がった。
「ほら、行くぞ。さっさと案内しろ」
「ありがとうございます!」
イディオットの心の広さに感謝しながら僕も続いて立ち上がる。彼は僕がまた前に出るのを待ってから、僕の斜め後ろについて歩き出した。
「全く、理解に苦しむな…お前こそアマネに命を狙われて怯えていたのに、どういう風の吹き回しだ。そんな天敵を救って、また殺されるかもしれんのに」
「そりゃそうですよね…話すとちょっと長くなってしまうんですが」
イディオットの意見は最もだ。僕は彼の言葉に苦笑いしながら、端的にアマネとあったことを話した。
ミズキについては後に詳しく話すと前置きをし、彼女を通して湖の向こうの人々と接触できたこと。ミズキと喧嘩別れをして、その時にアマネと一戦を交えて、ハンデ付きではあったが自分がその勝負に勝ったこと。アマネの父親や、この世界でのアマネの立場などを一通り説明した。
イディオットは時折、理解に苦しむような唸り声を交えつつも、黙って全ての話を聞いてくれた。彼は整えられた短い顎髭を指でなぞりながら、話を飲み込もうと頷く。
「まあ、大体のことは分かった。だが、アマネは信用出来ないという俺の意見は変わらない。俺は散々うちの集落を荒らしてくれたアイツの姿しか知らないからな」
そこまで言ってから、彼は僕の顔を見つめた。
「だけど、お前は本当にアマネが良い方向に変われると思ってるんだな?変わらなければ、お前の命どころか俺や、俺の集落の人間の命が危ぶまれるかもしれない。それを賭けてでも、アマネの命を救いたいと思うのか?」
鋭い彼の視線に僕は息を飲む。彼の言っていることは何も間違いではなかった。
アマネは1人の戦力で戦況を大きく変えることができるだけの力を持っている。そんな相手を敵に回すことがどれだけの脅威かは、実際に僕はこの身で体感している。
途方もない絶望感、敗北感。戦いの最中に頭が真っ白になるほど、手も足も出ない圧倒的な殺傷力をアマネは秘めている。この世界での彼は、帽子屋による攻撃さえなければ、生物兵器と呼称しても過言ではないほどに強いのだ。
僕はイディオットの瞳を見つめる。大きく息を吸って、僕は拳を握りしめる。
「…もし、アマネがまた集落を無差別に攻撃するようなことがあるなら、僕が命に代えても止めます」
「その時はお前の手でアマネを殺せる覚悟はあるのか」
僕の言葉にイディオットは間髪入れずに問いを重ねた。
「身内の不祥事はお前の不祥事だ。アマネを身内として庇い、その身内が重罪を犯したならケツを拭うのはお前になる。責任は取れるんだろうな?」
責任、という重たい言葉がのしかかる。
生きていれば、何事も責任の連続だ。現実で起こるそれから逃れたくて、僕は何度だって決断を先送りにして、曖昧に笑って誤魔化して、諦めてきた。
だけど、今の僕は違う。もう違う。自分が悔いなく全力を尽くして生きたと、胸を張っていきたい。
それなら、責任はきちんと負うべきだ。負うしか選択肢などないだろう。
「その時は僕がアマネを殺します」
イディオットと目を合したまま頷く僕に、イディオットは相変わらず眉間にしわを深く刻んだままであったが、視線を行先に戻してからフッと小さく笑った。
「…言うようになったな」
「そうですか?」
「ああ、驚くほどハキハキと話すようになった。身体の付属品まで増えて、男前になったんじゃないか?」
イディオットはガシガシと僕の頭を乱暴に撫でる。力強くて髪がぐしゃぐしゃになってしまったが、そうしていたイディオットが難しい顔のまま口元だけ嬉しそうに綻ばせていてくれたことが、何より嬉しかった。
なんだか父親に褒められている息子のような気持ちだ。
…父親?そう言えば、イディオットは僕の父親の良いところを煮詰めたような人だ。今更のようにそう気が付く。
そんなことを考えている僕の隣で、イディオットは言葉を続けた。
「育っていく人間を応援したくなる気持ちは正直、分かるよ。俺はお前が初めてここに来た時がそうだった。挨拶すらまともにできなくて、何の意見も言えない、人の顔色見て怯えてばかりいるくせに、少し手を伸ばせば必死に掴んで立ち上がろうとするお前を見ているのが俺は楽しかった」
イディオットの話に僕は目を丸くして見つめる。彼はチラと僕を見てから、少し照れたように頬を掻いて目を逸らした。
挨拶すらまともにできなくて、何の意見も言えない、人の顔色見て怯えてばかり…どれもその通りすぎてぐうの音も出ないのだが、そんな僕の面倒を見ることをイディオットが楽しいと感じてくれているなんて思ってもなかったのだ。
イディオットはそこまで話すと、深いため息を吐いた。
「ただ、お前とアマネは違う。俺はお前に命を救われたが、アマネはただ俺たちの集落を荒らしただけだ。でも、俺はお前を信じたいし、お前はアマネを信じたいんだよな。本当に面倒な話を持って来てくれたもんだ」
「すみません…」
苦笑いする僕にイディオットは眉間にしわを寄せたまま、ふんと鼻を鳴らす。
「俺もお前に責任を丸投げにする気はない。一緒にアマネの言い分を聞いて決める。だが、アマネがお前に何か不利益をもたらすようなら、俺は見殺しにする気でいるから、それだけは分かっておいてくれ」
「分かりました。むしろ、ここまで譲歩してくれてありがとうございます」
「アマネはともかく、お前のことは信じてるからな。大事なことだから、繰り返し言っておくぞ」
見上げる僕にイディオットは難しい顔のまま言う。彼はあまり笑う人ではないから、何となく冗談めかして言おうとしてはいるが口調で分かるが、照れが勝ってしまったのかもしれなかった。
そこからほどなく、茂みの奥に僕のキャンプ地が見えてきた。ベッドにはちゃんとアマネが約束通り、眠っているのが遠くから分かった。
あまりうるさくしてしまわないよう静かに、それでも足早にアマネの元へと近付く。僕の少し後にイディオットが続き、彼はアマネの顔を覗き込んで険しい表情を浮かべた。
アマネは僕らにまだ気付いていないのか、苦しそうに身体を震わせながら呼吸を繰り返している。腹に刺さったままのナイフと身体の隙間から漏れ出す血液でベッドの真ん中はすっかり赤くなってしまっていた。
「あれだけの化け物具合を見せていたのに、本当に刺傷1つでここまで弱るんだな」
ベッドの脇に屈み、イディオットが持ってきていた救急キットの箱を開く。救急キットの中は思っていたよりも本格的で、僕が知らないような医療器具や薬が入っていたが、彼は手馴れた手つきでそれらを地面に置いた蓋の上に並べていく。
「あ!椅子とテーブルありますよ!今持って来ます!」
ミズキと暮らしていた時に使っていた丸テーブルと椅子が木陰にあったことを思い出し、僕は慌ててそれらを取りに走る。
椅子とテーブルは昔に比べて随分軽く…いや、僕の力が強くなったのかもしれないが、僕はそれらを一対、小脇に抱えてイディオットの元へと運ぶ。
「テントがあるわけじゃないのに、家具だけある不思議な場所だな」
「僕の友人のミズキが作ってくれたんです。家もあったんですけどね」
キョロキョロと周囲を見回すイディオットの前に椅子とテーブルを並べながら僕は目を伏せる。あの日々は本当に楽しかった。温かかった。僕が見た生きてて1番甘い夢は何かと聞かれたら、僕はきっとミズキと過ごしたあの日々だと答えるだろう。
抜け出したくなんてなかったけれど、きっといつかは抜け出さなくてはならなかったんだろう。夢は終わりがあるから夢なのだ。そう分かっていても、ここにいるとミズキの姿を目の端で探してしまう自分がいる。
彼女のことを思い出すと、寂しさで胸がチクチクと痛んだ。
「この量の家具を作った…?凄いな。そのミズキって子は大工か何かか?」
「いえ…後で詳しく話しますね!」
イディオットの質問に僕は我に返る。イディオットが探していたアリスは彼女だ。その話をするには今はあまりに時間がない。
僕らが治療の準備を整えている物音で、アマネが薄らと目を開ける。僕はイディオットの道具をテーブルに置きながらアマネに笑いかけた。
「アマネ!もう少しだよ、頑張って!」
アマネは相変わらず濁った瞳で僕をぼんやりと見つめていたが、首を少しだけ起こしてイディオットを見つけると、脱力したように再びベッドに頭を沈めた。
「…本当に来たのか…バカ兎…」
「それは人にものを頼む態度じゃないんじゃないか?」
イディオットはセットに入っていたゴム手袋を装着しながら、アマネの顔を見ずに淡々と答える。
「なんで俺が来たか分かるか?俺はお前なんか助からなくていいと思っているが、アスカが必死にお前を助けて欲しいと頭を下げたからだ。アスカはお前を信じてるから、俺の手を借りてまで助けようとしてるんだ」
イディオットは傷口を縫う糸と針を手にアマネを見下ろす。アマネは眉を寄せて彼を見つめていたが、それに対してただ黙って耳を傾けていた。
「だから約束しろ。アスカが困ることはやるな、彼の言うことを聞け。9歳だと聞いたが、人が嫌がることはやるなと小学校で習うだろ。お前が約束するまで治療はしない」
アマネは悔しそうに顔を歪める。悔しそうに歯を見せてはいるものの、珍しくイディオットに何かを反論するでもなく、彼は僕の方を見た。
「なんで本当に戻って来たんだよ…」
「僕もアマネに約束したじゃないか。約束を守るっていう約束」
ややこしい約束だが、大人に約束を守られたことがない彼にとって、初めて約束を守ってみせると言った。その約束は果たしたと思う。
僕はアマネに可能な限り穏やかな笑みを浮かべて話しかける。
「彼の話は、僕の言うこと全部聞けって話じゃないよ。僕も人間だから間違えるしさ。ただ、無闇に人を殺さないで欲しいのと、僕の友達が嫌がることをしないで欲しいだけ。アマネが何か良くない方向に行きそうなら口出しすることもあるだろうけど、その時は耳を貸して欲しいんだ」
「俺はアスカの言うことそのまま全部聞いてくれる方が安心するんだがな」
アマネに話しかける僕の隣でイディオットはため息混じりに言葉を付け加える。
それを聞きながら、アマネは少し黙って僕を見ていたが、彼は再び空へと視線を投げて、そのまま眠るように目を閉じた。
「…分かった」
「分かったってことは、アスカの言うことを聞くんだな?」
イディオットが尋ねると、アマネは不愉快そうに鼻を鳴らした。
「うるせえなあ…聞きゃあいいんだろお。アスカの知り合いは殺さない」
「知らない人も殺さないで欲しいな」
「帽子屋は殺す」
苦笑いしながら僕が言うと、アマネが少しずつ譲歩していくが、これだけの怪我を負わされたことを根に持っているのか、帽子屋については譲る気がないようだった。
帽子屋に関してばかりは正直、彼は生き物ではないし、アマネの気持ちも分からなくはない。
それでも、帽子屋についてまだ何も知らないイディオットは怒ったように眉を吊り上げた。
「帽子屋?補充されたのか?また無益な殺生をする気か」
「あ、いや、帽子屋にはちょっと訳があって…後で詳しく説明させて下さい」
イディオットの頭に血が登る前に僕は早口で説明する。彼はまた僕を訝しげに見つめたが、鼻から大きく息を吐いて渋々と頷いた。
「…まあ、アスカとコイツの間にそれなりに信頼関係があるのは分かった。後でキッチリ説明してもらう」
イディオットはアマネの腹に刺さったナイフに手を掛ける。
「麻酔はないぞ。準備はいいか」
「別に…痛くない」
アマネの言葉にイディオットは頷くと、ナイフをゆっくりと慎重に引き抜く。
「現実なら汚物がナイフに付着していたりして、点滴や術後の内服が必要になるんだが、この世界はこの辺りはご都合主義なのか、化膿した例はない。念の為、衛生面には細心の注意は払っているが、排便も存在しないんだから、汚物という概念は存在しないのかもな」
引き抜かれた衝撃にアマネが小さく呻く。痛くないと口では言えど、やはり多少は痛いのだろう。
腹からジワジワと溢れ出す傷口の中が見えそうになって、僕は思わず両目を手で覆う。
昔からあまり流血は好きではない。アマネと戦うに当たってかなり鍛えられた節はあるが、やはり好んで見たくはない。
指の隙間から見るイディオットはピンセットで傷口を調べながらテキパキと傷口を縫合していく。それは素人が裁縫を勉強したとかいうレベルではなく、医療関係の人を思わせる動きだった。
「凄い回復力だ。縫い合わせる必要がある部分も多いが、治療していく端からどんどん回復していく。逆に治療の仕方が分からなくなるな」
指の隙間からでしか見えてないので、僕の視界からでは生々しい肉が擦り合わさるような音と鉄臭い匂いだけが鮮明伝わってくる。時折、それに混ざるアマネの辛そうな呻き声は完全にスプラッタ映画のそれだ。いつも戦闘中で怖がっている暇もないが、ただ見ているだけとなるとアマネの痛みを勝手に想像してしまう。
僕はベッドの脇に膝をついて痛がるアマネの手を握って目をつぶる。情けないことに、痛くないはずの僕の手の方が震えていた。
「…オットーさん、詳しいんですね」
「現実では外科医をしているからな」
頭の中で勝手に作り上げてしまうグロテスクな映像をかき消そうと、関係ない話をイディオットに振ると、予想の斜め上の答えが返ってきた。驚きに思わず目を開くと、メガネ越しの彼と目が合った。
「なんだ、鳩が豆鉄砲食らったような顔して」
「いや、僕てっきりオットーさんって軍人系の人かなって思ってて…厳格だし、戦闘も強いし…」
「戦闘はどう考えても強くないだろ。戦闘知識の方が付け焼き刃だ。アマネにあれだけボコボコにされていた俺を見て、よくそれだけリスペクトできるな」
眉間にしわを寄せたまま、喉を鳴らすようにイディオットが笑う。傷口は大部分が塞がり始めていて、自分が思っていたようなグロテスクな惨状ではないことに僕は安堵した。
大分痛みも引いてきているのか、アマネはベッドに横になったまま息を漏らすように笑う。
「そうだぞお、この兎はクソザコナメクジだぞ」
「お前は自分が言って良いことと悪いことを学べ」
イディオットが傷口を完全に縫い合わせると、アマネの服がそれを覆うように再生されていく。それに驚いてイディオットが手を引っ込めた。
そういえば、彼にはアマネの身体は洋服も含むことを伝えていなかった。つまり、縫合糸はアマネの体内に持っていかれてしまうのだろうか…根本が夢とは言え、イレギュラーなことが多すぎて未来がまるで予想出来ない。
「なんだこれ?お前の洋服、皮膚みたいだな」
訝しげにイディオットがアマネの服を指先でつまむ。それを迷惑そうにアマネは見つめていたが、横になったままポケットからいつものように棒付きキャンディーを取り出して自分の口に含んだ。
「…助かった」
ボソリと微かに、キャンディーを口の中で転がす音に混ざってアマネの声が聞こえた。
僕とイディオットは顔を見合せる。イディオットが「お前が言ったのか?」と言いたげに険しい顔で僕をジッと見つめるが、僕は首を横に振る。アマネが礼を述べたのだと気付いたのは、その後だった。
「なんだよ」
キャンディーを口の中で転がしながら、アマネが不愉快そうに口を曲げる。僕はそれに笑い、イディオットは肩を竦めた。
「…アスカを大事にするんだな。彼の頼みでなければ、いくら有益な情報を報酬にされようと、仲間を殺した人間など絶対に治療しなかった」
「本当に助かりました、ありがとうございます」
イディオットに僕は深く頭を下げる。
治療の一部始終は見ていたが、おそらくアマネの怪我は手助けを得たからすぐに治ったのだろうが、それがなかったらあの凄まじい出血量の傷をどう癒せたか想像もつかない。イディオットがいなければ、やはりアマネは死んでいた可能性は依然あったに違いなかった。自分の仲間を殺した相手の命を救って欲しいなんて無理難題を叶えてくれた彼には感謝しかない。
イディオットは腕を組んで僕を見下ろすと、口元を微かに上げて微笑む。
「代わりに報酬はしっかりと貰うからな。アリスと初期の茶会についての話を早速…」
そこまで言いかけて、彼は周囲を見回す。いつもの険しい表情で彼は何かを思案すると、再び僕の方を見た。
「…ここは誰が来るか分からないから、出来れば集落内で話をしたいが、俺はアマネを集落に連れて行くのはごめんだぞ」
「あー…」
そりゃそうだ。当たり前だ。前に集落を荒らした人間を再び招き入れるなんて無理だ。こればかりは僕も反論出来ない。
返答に詰まる僕にアマネはキャンディーをガリガリと齧りながら不思議そうに首をかしげ、小指で耳の輪舞をかいた。
「なんでだ?フロージィはアマネの味方だぞ。お前らが何してんのか、アマネは見てるし、隠しても意味ねえだろ」
「お前たちの情報を俺に共有してもらったとして、こちらの手の内まで共有する気はない。ババ抜きで手札を相手に見せるのと同じだ」
アマネが9歳と知ってたからか、いつも難しい言い回しをしがちなイディオットの比喩が随分と分かりやすくなっている。相手が子供という認識を持ってくれたのだろう。
アマネは詳しい意味をあまり理解していないようで、ガリガリと歯でキャンディーを挟んだまま眉間にしわを寄せた。
「はあ?よく分かんねえ…手札見せたらゲームが不利になんのは分かるけど…どうしてもダメなのか?アマネはもうお前の仲間を殺す気はないぞ」
「それで信用出来たら警察はいらない。信用は築き上げるのはただでさえ時間がかかるんだ。お前のような素行じゃ、信用が得られるわけがないだろ。俺からすれば、お前はまたいつ集落を荒らすかも分からない殺人鬼だ。みんながアスカのように寛大だと思うな」
アマネにイディオットはピシャリと言い返す。その高圧的な口調は出会った当時のまま。言っていることもぐうの音が出ないほどに正しかった。
イディオットがこうしてアマネの怪我を治療してくれただけでも本当に凄い譲歩なのはよく分かっている。こればかりは僕も何も言い返せない。
「アマネ、怪我は治してもらったんだから、どうかオットーさんの言うことに従ってくれないかな。アマネは確かに大勢を殺してきてしまっただろ?なら、まずは1回ちゃんとアマネが僕の言うことを聞けるところを彼に見せて欲しいんだ。信用って、そうやって地道に築いていかなきゃならないからさ」
イディオットがアマネを治療するに当たって提示した交換条件は、アマネが僕の言葉に従うということだ。ここでそれを証明する必要があるだろう。
優しく諭すようにアマネに僕が言うと、アマネは不満そうに僕を見た。
「ここにいろってことか?アマネは暇だぞ。アスカは顔を出してくれんのか?本当に迎えに来てくれんのかよ」
「約束は守るよ。毎日ここに顔を出すし、帽子屋を止めに行く時は無断で置いてったりはしないから」
僕は小指を立ててアマネに差し出す。アマネはそれをじっと見つめ、しばらくの沈黙の末に渋々と僕の小指に自分の小指を絡めた。
「…分かった。約束だ。破ったら、当初の予定通りにアスカをめちゃくちゃに苦しめて殺してやる」
「大丈夫だよ。僕はアマネとも一緒に現実に帰りたいから」
僕はアマネに微笑み、指切りをする。離れていく小指を見守り、アマネはまたしばらく沈黙していたが、ふんと鼻を鳴らして再びベッドに横になった。
「ここで待ってる。早く帰ってこい」
「もちろん!」
アマネに僕は笑顔で手を振る。その姿を見てから、アマネは僕に背を向けるように寝返りをうった。
「…話がついたなら行くぞ」
ずっと黙って僕らのやりとりを見ていたイディオットが集落の方角に顎をしゃくった。僕はそれに頷き、彼に続く。
アマネに関しては正直、もうあまり不安に思うことはなかった。あの暴君がこれだけ聞き分けが良くなったというのは、当時の僕が考えれば信じ難い事象なのだろうが、アマネの生い立ちや価値観を理解した今では信じられる自分がいた。
アマネは信用しない人間の言うことを決してきかない。ここまで言うことを聞いてくれるのは、アマネなりに僕を信じてくれているからなのだろう。
「…しかしまあ、とんだ怪物を飼い慣らしたもんだ。どんな手品を使った?」
アマネの姿が見えなくなったあたりでイディオットが眉間にしわを寄せたまま苦笑いする。僕はそんな彼に肩を竦めて見せた。
「飼い慣らしてなんかないですよ。僕は彼のことを良く知ろうと思って話しかけただけです。会話が出来る相手なら、嫌いになるのは相手と飽きるほど会話してからでいいかなと」
「お前はそれを当たり前のように話すが、普通は出来ないもんだ。俺は確かに仲間たちをアマネに殺されたが、お前だって元を辿ればアマネに殺されかけて、身を寄せた集落を襲われて、お前のせいだなんて言いがかりで集落を離れたじゃないか。恨むのが当たり前だと思うがなあ」
彼に言われて僕は自分の唇に指を当てて考え込む。確かに僕は最初、アマネがとても苦手だったし、お近付きになど絶対になりたくないと思っていたものだ。
しかし、現在はこうしてイディオットの手を借りてまで彼を生かしたいと思っている。それは凄い心境の変化だと思われて仕方ないのかもしれない。
「普通はそうなんだろうと思います。でも、アマネって湖の向こうでは結構慕われてるんですよ。双子のこと、ちゃんと面倒見て可愛がっていて、眠り鼠に従順なんです。それを見ていたら、自分が集落で見たアマネだけが、彼の全てではないように思えて…話してみたいなと思ったんです」
ドゥエルを優しく抱き上げてお菓子をあげたりするアマネは、ちゃんとお兄ちゃんをしていた。その様子はとてもただのサイコパスには見えなかったのをよく覚えている。
その時のことを出来るだけ丁寧に言葉にすると、イディオットは難しい顔をしたまま、自分の顎髭を撫でた。
「信じられんが…お前が自分の目で見てきたことなら確かなんだろう。俺も自分の目で確認しようという気概はあったが、いかんせん俺は眠り鼠と仲が悪い。顔を合わせれば戦争になる」
彼はそう言って珍しく俯くと、少しだけ声量を落とした。
「…そうなる前に、俺もお前みたいによく相手を知れば和解出来たんだろうか」
「オットーさんがもし和解を望むなら、遅くなんてないと思いますよ」
僕は彼に笑いかける。
僕はイディオットのことが好きだし、アマネに至っては少しばかり信頼し始めている。双子は憎めないし、シュラーフロージィだって別に嫌いではない。
そんな僕からすれば、彼らが和解してくれるならこれ以上にないハッピーエンドだった。
「どうだか」
少しばかりイディオットは自虐的に笑うと、それ以上の話はしてこなかった。
集落に到着すると、集落の人たちは僕を奇異な目で見てはひそひそと何かを話す。何人かがイディオットを迎えながら、何があったかを尋ねて来たが、彼はただ僕の友人を助けただけとしか話さなかった。アマネの名前は出さずに済ませようとしているのだろう。
確かに名前を出すだけ不安を煽るだけだ。知るべきことと、知らない方が良いことは存在する。彼の判断は賢明だと思う。
集落はあれから少しばかり変化していて、イディオットがいたから引っかからなかったが、歩いて集落に入るルート周囲に罠が張り巡らされていた。
糸に引っかかると大量の鈴やベルが鳴る原始的な物を中心に、中には落とし穴や丸太が落ちてくる殺意の高いものもある。
罠を抜けた先にある集落の近辺には大掛かりな木製の道具が作られており、それらは巨大な岩を飛ばす物や、爆弾、火炎放射器などの兵器であることがなんとなく伺える。本格的にフロージィの城を攻める兵器を作り始めていたのだろう。こうやって見ると、戦争へのカウントダウンは着々と迫っていた。
イディオットに連れられて前に僕が使っていた部屋へと案内された。彼の話に寄ると、彼はずっと僕が帰ってくると信じて部屋を残しておいてくれたのだと言う。
「部屋、残しておいてくれてありがとうございます。こんな部外者なのに…」
部屋に通され、礼を述べるとイディオットは難しい顔をしたまま肩を竦めた。
「何言ってんだ、家族みたいなもんだろ。家族の部屋はいつ帰って来ても良いように残して然るべきだ。立派になって帰って来たと思ったが、その辺の自己肯定感の低さは相変わらずだな」
「家族…出ていった家族の部屋って残しておくものですか?」
「残さないのか?俺が親なら残すが」
ふと口をついて出た僕の疑問にイディオットはますます眉間に深くシワを刻む。彼はその険しい顔のまま部屋に入ると、部屋に置かれた簡素なベッドに腰掛けて膝を組んだ。
「まあ、アリスの情報も必要だが積もる話もあるだろ。座れ」
「あっ、はい」
座って話すとなれば背もたれのある椅子を僕に勧めてくる彼は相変わらずだ。威圧感と繊細な気配りを持ち合わせているのが、とても不思議で憧れた。
おずおずと椅子に座る。座ってみると、少し自分の翼が邪魔だ。これはもう、就寝時はうつ伏せで寝るしかないかもしれない。
「アスカはどうやって育ったんだ?」
「ん?え?」
アリスについて話すんだと思っていたら、全く違う質問に面を食らう。思わず聞き返すと、イディオットは首を傾げてから、また眉間のシワを深くした。
「ん?ただの世間話だ。興味から聞いただけで、別に尋問とかではないから、話したくないなら構わないが…導入が下手だったか?」
導入もクソもあっただろうか。急な話題に僕が口を半開きにして黙っていると、彼は眉間を押さえながら俯き、大きく溜息を吐いた。
「いや、悪かった。どうにも話し方が威圧的だと言われる。気を付けてはいるんだ」
一瞬、彼の機嫌を損ねたのかと心配したが、どうやら違ったようで僕はホッと胸を撫で下ろす。むしろ、威圧的に見えることを彼が気にしていたとは知らなかった。
彼も悩みがあるのだと思うと、少しばかり親近感が湧く。僕は思わず笑った。
そんな僕を見て、イディオットは眉を八の字に寄せて笑う。それはいつも難しい顔をしている彼の中で1番優しい表情だと僕は思っている。
「…アスカはしっかり者に見えて、やっぱり気にしいだな」
彼の表情について考えていたのに、ふと自分の様子を指摘されて僕は首を傾げる。
「僕ですか?」
「そうだ。お前は自分の意見もちゃんと持っているのに、初めて会った時からずっと人の顔色を伺ってばかりいるだろう。怯えているようで、こちらから歩み寄ると露骨に安心が顔に出る。安心した後は伸び伸びと話し出すし、誰かのためなら自己犠牲を厭わないような強い意志を持っている。お前は何をそんなに気にしてるんだ?」
そう言われて、僕は固まる。身体が硬直した。戦慄と言う言葉が近かったのかもしれない。
理由は分からなかった。ただ、脳に亀裂が入るような衝撃が、違和感が、そこにあった。
「久しぶりに会ったお前は見た目も中身も随分逞しくなっていると思ったよ。もうお前を見て喧嘩を売ろうとする奴もいないだろう。アマネまで手懐けたなら、お前は実質この世界で最強だ。弱さからくる怯えなら理解出来る。なのに、何故そんなに強くなってまで、怯えて俺の顔色を伺う?」
困ったように笑うイディオットは優しい。何も僕に害をなす人ではない。むしろ、守ってくれた。僕の命も、アマネの命も、僕の望みを聞いて、意見を交わしながら話を聞いてくれた。
なのに、言葉の続きが出なかった。ミズキを前にすればスラスラと出てくる言葉も、アマネと命懸けで交わした声も、彼を前にすると萎縮する。
彼は凄い人なのだ。集落をまとめて、みんなを守る誰よりも強い人だ。親しくありたいのに、気持ちと裏腹に怯える自分が確かにいた。
「根底に何かあるなら、聞きたいと思っただけだ。先にも言ったが、俺はお前が思うような強い人間ではない。悔しいがアマネの言う通り、今のお前には物理的にどう向かおうと勝てはしないだろう。安心していいぞ」
イディオットはフンと鼻で笑うと、組んでいた膝を解いて前のめりになる。
「…それだけ俺を前にすると怯えるくらいだ。お前は俺を誰かに重ねてたりするんじゃないか?」
彼の真剣な眼差しが刺さる。
言葉に詰まる。イディオットの問に対する答えを僕は確かに持っていた。だけど、それを口に出すことが酷く恥ずかしくて、彼に申し訳ない気持ちになってしまう。
口を開け、閉める。空気が喉を通って、声帯を震わせずに出ていく。それを言葉にしてはいけない気がした。
そうだ、僕はずっと彼を自分の父親に見立てている。知っているのだ、自分が彼に求めているものが。でも、口にしてはいけない。自分の父親とあなたが似ているとすぐに言えなかった。
僕の父親は、僕が大好きな父親は、彼に似て非なるものだから。
「…すまないな、やっぱり尋問のようになってしまう。ちょっとした世間話のつもりだったんだが、やはり威圧的なのかもしれない。誰かに指示を出したりする以外の話はこの世界に来てから随分減った。会話スキルも落ちるものだな」
イディオットはまた眉間に手を当ててため息を吐く。
それは落胆のため息だ。きっと、彼は自分に向かって言っている。だけど、それは僕に向けられたもののように思えてしまう。
被害妄想だ。僕は自分の思考をそこで終わらせる。
「オットーさんのこと、怖いなんて思ってませんし、大した人生は生きてないですよ。僕の周囲はみんないい人でした」
笑顔を作って僕は、自分が思い描くテンプレートを口にする。僕は幸せな家庭で育った。普通の学校生活を送った。特筆すべき点など何もない。あってはならないのだ。
イディオットは僕の顔を覗き込み、訝しむように片眉だけを上げたが、小さく溜息を吐いてから場を仕切り直すように手を叩いた。
「なら、この話はおしまいだな。お前が俺に怯えたりしてないならいいんだ。変なことを聞いて悪かった。アリスの話をしよう」
眉間にシワを寄せたまま彼は笑う。僕はそれに胸を撫で下ろしながら、どこか寂しく思う自分がいた。
本当は話したかった。話したかったのに、どうしても自分の家族の話が口に出せない。口に出せないものを人に伝えられるわけがない。
ずっとこの世界に来てから口八丁で乗り越えてきた。ありとあらゆることを伝える努力をして、明確にしなくてはならないところは伝えて、曖昧でありたい部分を濁してきた。良好な人間関係とはそうやって築くのだと、旅をしてきて学んだつもりだった。言葉がいかに大事なのかを僕は理解している。
なのに、どうして口から声が出ないのか。まるで呪いのように喉の奥で言葉が絡めとられて、そのまま消えてしまう。想いは胸の中につっかえて溜まるだけ。
僕はそれを悟られないように笑った。心配をかけては彼に申し訳がない。
僕とイディオットはそれから長い時間、僕が見てきた出来事を伝えた。ミズキという大事な友達に出会ったこと、ミズキを通して成長できたこと、彼女がアリスだったこと。
アマネの協力で彼女とは完全な喧嘩別れにならずに済んだ話も、帽子屋がアマネに何をしたのか。重要な箇所を掻い摘んで、出来るだけ端的に話したつもりなのに、思った以上に情報量が多くて時間がかかってしまった。
「帽子屋はアリスを、ミズキをこの世界に留めるためなら手段を問わないと思います。ミズキと帽子屋が会うまでに食い止めたいです」
ずっとイディオットは僕の話を難しい顔で聞いていたが、僕の話が終わると悩んだように自分の顎髭を撫でた。
「…状況が一刻を争うことも、ミズキという子が眠り鼠サイドであることもよく分かった。だが、帽子屋はアマネが負けるような化け物なんだろう?お前なら勝ち目があるのは分かるが、俺に出来る協力ってなんだろうな」
「オットーさんは強いから…」
「だから、俺はそんなに強くないと言っている。ただの外科医だぞ」
イディオットの言葉に僕は口を結ぶ。確かにイディオットに協力を仰いで良い方向に転ぶ確証などなかった。なかったが、何故か彼なら大丈夫だと思っていた。
沈黙がその場に訪れ、僕は下を向く。見えない視界でイディオットが座り直す音が聞こえた。
「…アスカはなんで帽子屋に負けたんだ?アマネがやられたから、アマネを治療する。アマネを置いて改めて挑む。その流れなら分かる。だけど、お前は俺に助力を求めている。物理的な話だけすれば、俺はただの足でまといになるぞ。集落の者も訓練されているにしても、アマネを前に起きた惨状はお前も見ただろう。数で押して何とかなる話じゃない」
「それは…」
帽子屋が僕の母親に化けたから。そう言っていいのか、僕は悩んでまた口を噤む。
何故、そんなに僕は自分の母親が怖いのか、自分でも分からない。確かに物理的な力だけで言えば、帽子屋とジャバウォックは圧倒的にジャバウォックが有利なはずだ。
でも、立ち向かえる気がしない。またあの姿で詰られるのが、身の毛もよだつほどに恐ろしい。
「なあ、俺が協力できるなら力を貸す気でいるんだ。お前に出来なくて、俺に出来ることがあるならやらせてくれ。現実に帰るって目的は同じなんだろう?」
イディオットの声が困っていた。僕は顔を上げる。
伝えないといけない。伝えないと、ここに来た意味がなくなってしまう。ミズキがまた記憶を捨ててしまう前に、僕がいた記憶が彼女の中からなくなってしまう前に、止めなくちゃ誰も助からない。
「…帽子屋は、僕の母親に姿を変えるんです」
唇が震えた。続きを言うのが怖い。
だって、僕が母親の話をしたら、何も良かったことなんか出てこない。口を開けば、彼女を悪く言ってしまう。
悪く言ったら、僕は僕をもっと嫌いになってしまう。
「母親?」
イディオットは僕の顔を見つめる。訝しげに首を傾げ、視線を宙にさ迷わせてから、もう一度僕を見た。
「…ああ、身内を殺すようで怖い類のやつか?確かに気分悪いよな。それなら確かに何か俺でも…」
「いえ、違います。違うんです」
僕は首を横に振る。
「母親に…何を言われるのかと思うと、あ、足がすくんで…」
途中から言葉が上手く出てこなくなる。
みっともない。こんなデカい図体して、ミズキやアマネに偉そうな口を叩いてこのザマだ。
母親くらい何とかしろ。立ち向かえ。頭の中で僕が、僕自身に野次を飛ばす。
立派になった気でいたのか?人として育ったつもりか?思い上がりも甚だしい!僕はミズキに慕われるような人間でも、イディオットにこんなに時間を割いて貰えるような人間でも何でもない。
僕は弱虫だ。虚勢張って、ミズキにいいところ見せたくて、褒められたくて、ただそれだけの欲求に従って動いてきただけだ。愚か者は自分みたいな奴を言うんだろ。
手が震える。膝が笑う。ずっと忘れていた、忘れていたかった、アマネと対峙した時よりも巨大な腹の底から冷えるような恐怖だ。
僕の様子にイディオットは驚いたように眉間のシワを深くすると、彼は側まで駆け寄って僕の震える手を取った。
「大丈夫か?悪かった、そんなに…」
彼が悩むように唸る。眉間をおさえて目を瞑り、言葉を選ぶように慎重に口を開く。
「そんなにお前が…家族に大事にされていなかったなんて知らなかったんだ」
「そんな!」
僕は思わず立ち上がる。息が上がる。呼吸が浅くなる。目眩がする。
「だっ、大事にされてました!お金かけてもらって、ごっ、ご飯食べさせてもらって、学校通って…」
「体罰は?」
イディオットが床に膝を着いて座ったまま、僕を見上げる。僕は息を飲む。
「た、体罰って言うほど…父が躾で…僕が悪いから…ちょっと痣になったりはしましたけど…。ほら、タバコ押し付けられたりとか、灰皿で殴られたりとかはなかった…」
「普通、子供の躾で痣になるような力で叩かないんだ」
僕の目をまっすぐ見据えたまま、イディオットが首を振る。
「お父さんは他に何をしたんだ?お母さんも叩いたのか?」
僕の頭がぐるぐると回る。
僕の父親は、大好きな父親は、幼い僕を確かに叩いた。小さい頃は叩いていいんだって、躾だって叩いた。
泣いたら叩かれる。抗議しても叩かれる。九九が言えるようになるまでご飯を貰えなかった。食べている時に何かをこぼしたら叩く。初めて見る式が出た算数を前に、分からないから答えられないと言う叩く。
もっと自分の頭で考えろ。なんで出来ないんだ。泣くなんて当てつけか。テストで100点取れて当たり前。食べ物をこぼすな。姿勢を崩すな。不機嫌になるな。ため息を吐くな。泣くな。騒ぐな。
血走った目で父親が怒鳴る。仕事もしないで僕の勉強にかかりきり。家にいると父親がいつもいて、機嫌がいいと可愛がってくれて、機嫌が悪いとすぐに手を上げた。
でも、でも、どれも僕のためを思ってしたんだろう?僕は愛されていたのに、それを体罰だなんて形容していいわけがない。だから、愛だったのだと納得した。
厳しさは愛だ。愛があるから厳しくする。僕がイディオットを父親に見立てて慕うのは、きっと根底にそう考える自分がいるからだ。
「父はそれ以外は何も…仲良い方だと思うんです。母から僕を庇ってくれます」
父親が僕を叩いた時、母親は最初こそ叩くのをやめろと言った。でも、言っただけだ。庇ってくれなかった。母親は父親が怖いと言って、僕が叩かれている時に2階に姿を消した。散々叩かれて泣いた後、母親は僕を見てアンタはなんでそんなにうるさいのと僕を蔑んだ。
「父親からは体罰について深く謝罪されたんです。本当に申し訳なかった、もっとのびのび育ててやれれば良かったと。それからは僕が生きているだけでいいんだって、世界で一番可愛い子供だと」
まるで僕の口から言い訳のように言葉が溢れ出す。僕が何かをしたわけではないのに、とても恥ずかしい。彼をそんな父親と並べていることが申し訳ない。その感情で頭はいっぱいだった。
父親は本当に本当に、言葉を尽くして僕に謝罪してくれた。後悔ばかりだと、こんな窮屈な想いをさせる気はなかったと。
僕は父親が好きだ。だって、僕の話を聞いてくれる。機嫌さえ良ければ、彼は家族の中で1番優しい。
子育てなんて、最初はみんな失敗するものだろう?愛がそこにあったなら、仕方ない。そう思わないと、やってられないだろう。
イディオットは、僕が思い描いた理想の父親だ。厳しいけど、体罰はない。話を聞いてくれて、外敵から僕を守ってくれた。彼が僕に理不尽を強いたことはないし、機嫌の善し悪しで対応を変えたりしない。
父親というシンボルは僕にとって、守護者の代表なのだ。イディオットに比べたら、自分の父親が出来の悪い人なのは分かっている。分かっているけど、僕を現実から守ってくれたのは父親だけだった。
だから、イディオットが僕の父親であったらいいのにと、彼の顔色に怯えながらも願わずにはいられないのだ。
「お父さんはお母さんの何から、お前を守ってくれるんだ?」
イディオットが僕の目を覗き込んで問う。声が驚くほど僕を心配してくれている。
「…は、母は…」
声が上手く出ない。背中のよく分からない部分が震える。寒くないのに悪寒がした。
「僕を…生んだことを、ずっと後悔してると…。お金が掛かるだけで優しくなくて、不細工な子を生んでしまった。僕は出来損ないで、何者にもなれない。僕の父はロクデナシだから、父親選びから間違えたって…」
出来るだけ母親を悪く言わないように、事実を口にする。
「母が毎日言うんです…僕を汚いと。親孝行も出来ない、期待する価値もない残念な子供だと。父は僕が母の言葉に傷ついて、もう嫌だと泣きわめいた時に唯一否定しないで聞いてくれたんです」
そう、現実で僕が母の不満を吐き出せるのは父しかいなかった。金銭面的な援助も、いざって時に母を頼ると後が怖いから父にしかお願いできなかった。
父親は母親に何かを言ったり、止めたりはしなかった。だけど、唯一父親が言ってくれる「生きているだけで世界で一番可愛い私の子供」と言う言葉は確かに僕の命を繋いでくれていたのだ。
「父親は話を聞いて、母親を止めたのか?」
「いえ…父親も母親には頭が上がらないので、何も」
「アスカ…それは…」
僕の話を聞いていたイディオットは口を噤むと、目を閉じて首を横に振った。
「守ったって言わないんだ。彼は何も行動してないだろう。話を否定しないで聞くなんて、普通のことだ」
「でも!でも自分が本当に出来が悪かったからなんですよ!勉強できなくて、友達も上手く作れなくて、お金ばっかり掛けさせて、受験したって落第ばっかして、だからきっと両親とも仕方なく」
「もういい」
言い訳のように連ねた言葉をイディオットが一蹴する。立ったままの僕の手を握って、彼はもう一度首を横に振った。
「もういい、悪かった。必要な情報はもう聞けた。充分、分かったから。お前がどれだけ帽子屋を恐れているのか、なんで挑めないのか、分かったから…」
彼は立ち上がると、優しく僕の頭を撫でた。頭から伝わるその手の平の体温がとても温かくて、ボロボロと涙が出た。
僕は父親にこうして欲しかった。僕が機嫌をとらなくても、ただ寄り添っていて欲しかった。叩かないで、撫でて。僕が口を開いたら、怒鳴らないで。否定から入らないで。機嫌を悪くしないで、僕の話を聞いて。
暴力を伴わない、ただ触れただけの体温は暖かい。僕は両親に撫でてもらうことも、抱きしめてもらったことも、ほとんどなかったことを思い出した。
「よく生きててくれたな。お前は出来損ないでもなければ、醜くもない。立派に男前に育ったと胸を張れ。お前が俺を信用してくれてるなら、俺からのお墨付きだと思えばいい」
唇が震えて、声にならなくて、僕は鼻をすする。服の袖で涙を拭って、グッと息を飲み込んだ。
深呼吸して、目をつぶる。ただそれだけでも、少しだけ気持ちが晴れた。再び開けた視界でイディオットは口元だけで微笑んだ。
「すぐ泣き止むなんて強いじゃないか」
「そんなこと…」
「そんなことあるんだ」
ぐしゃぐしゃと頭を撫で回し、彼が歯を見せて笑う。いつも通り眉間にしわは寄ったままだが、それは威圧感のない明るい笑顔だ。
「俺も少し面倒な家庭で育ったから、窮屈さは分かるつもりだ。俺の家には敵が1人しかいなかったから、お前ほど精神的に削れたりしなかったがな」
「敵…」
家族を敵と呼称したことを僕はしたことがない。血が繋がっているから、愛するのだと僕の母親は言っていた。
僕の家族は血縁を重んじる、血縁絶対信者だ。そんな価値観が当たり前だった僕からすれば、家族をそのように呼ぶのは抵抗がある。
イディオットの言葉を復唱する僕がどんな顔をしていたかは分からないが、彼は片目だけ目を細めて悪戯っぽく笑った。
「子供にそんな罵詈雑言を毎日言って聞かせるような大人は敵でいいだろ。お前が顔色を伺ってやる必要はない。愛があるからと、言葉の凶器や体罰を向けて良い理由にはならん。お前の両親が目の前にいるなら、愛を免罪符にするなと俺は言ってやりたいとこだ。そんな奴ら地獄行きだ」
「神父さんの見た目でそう言われると迫力が違いますね」
聖書片手に十字架を胸にぶら下げた彼の口から出てくる言葉は相変わらず厳しいが、珍しくユーモアが効いていて僕ら少し笑う。本人がユーモアを求めて言ったかは分からないが。
僕の笑みにイディオットも釣られるように笑った。
「まあ、俺は自分にも他人にも厳しい自覚はあるが…厳しさはたまに人を追い詰めて傷つける。俺は頭が硬いから、そうそう柔軟にはなれないが、これでも厳しする相手やタイミングを見て、相手が傷ついてないかケアをしている気ではいるんだ。お前はまだ若いんだから、俺みたいに頭が硬くなる前に柔らかくしとくといい」
そう言われ、僕の脳裏にミズキの顔が浮かんだ。
僕はミズキのことが好きで、広い意味で愛している。厳しさの愛だと彼女に色々なことを強いてきた気がした。
でも、それは僕の現実の父親と同じことを彼女にしてしまったんじゃないだろうか。彼女を知らないところで追い詰めて、傷つけたんじゃないか?
僕が憧れるイディオットすら、厳しくあることを難しいと考えているのだ。僕はまだきっと彼のように他人にどうこう言えるような器用さは持っていない。自分の在り方を見直さないといけないのだろう。
ミズキは僕の身体の一部ではない。自分のことのように厳しさを彼女に求めている僕は、きっと間違っている。ミズキは、ミズキという1人の別の人間なのだから。
「しかし、話を聞く限りじゃ帽子屋は相手のトラウマに成りすますってとこか…」
イディオットはそう呟き、また難しい顔をする。
しかし、それは悲観的ではない。思考し、模索し、閃いたように彼は宙を見た。
「俺のトラウマを見たいか?」
チラと僕を一瞥し、彼が言う。
何と答えたらいいだろう。トラウマなんてみんな対峙したくないに決まっているのに、見たいなんて言えるわけがない。
それなのに、イディオットはフンと鼻を鳴らして自信ありげにニヤリと笑う。
「俺にトラウマなどない。あったとして、もうかなり昔の話だ。ケリはすでについてる。これは勝ち戦だな」
余裕すら感じるその謎の笑みを残し、彼は部屋の出口へと向かった。
「明日か明後日、集落の物に仕事の引き継ぎや指示を出し終えたらに出発する。お前が手懐けたあの怪物の面倒は任せたぞ」
「はっ、はい!」
いつもの強い語気で放たれた指示に、僕は慌てて背筋を伸ばす。彼はそれに満足そうに頷いて背を向けた。
「…アスカ」
去り際に彼は振り返る。
「話してくれてありがとう。嬉しかった。今日、明日はゆっくり休んでくれ。そして、これからもよろしく頼む」
彼は相変わらず眉間にシワを寄せたままだったが、僕は思わず笑う。
「はい!こちらこそ!」
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母親のことを僕はまだ恐れるだろう。人の顔色はきっと気になり続けるだろう。だけど、イディオットに言われた言葉が胸の中で木霊している。僕を鼓舞するように、それは何度も耳の中で響き続けた。
僕はまだ大丈夫。ミズキが隣にいなくても、寂しくても、先にあるかもしれない彼女との未来のために、まだ歩いていける気がした。
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