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7章
2 ジャバウォックの恋
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2.
気が付くと僕は姿見の前に立っていた。高校指定のブレザー、膝丈より少し上のチェックのスカート。ハイソックスにネクタイを締めた、ボサボサの髪をした僕がそこにいる。
酷いうねり毛の黒い髪。毛量が多すぎて、手櫛しようがまるでまとまらない。ボリボリと頭を掻きながら僕は大きな欠伸をする。
何をしていたんだっけ。随分と長い夢を見ていたような気がする。
「明日香ちゃん!はやく降りてきなさい!」
「はーい」
部屋の向こうから母親の声。ああ、今日も学校か。嫌になるな。胃のあたりがムカムカして吐き気がする。
僕の高校のスカートは、これ以上生徒たちがスカートを短くしないようにとの計らいらしく、わざと短く指定されている。遠目から見れば可愛いのだが、僕みたいな毛深い女の子が着たって全然可愛くないし、僕は足を見せたくなかった。寒いし、スカートってすぐに中身が見えるし、スースーする。
ムダ毛の処理を毎日しているせいで、太ももがカサカサしていて荒れている。痛くて痒い。足を引っ掻きながら、僕はクロゼットの扉に引っかけたままにしてある学校指定の灰色をした厚手のトレンチコートを手に取る。
「明日香ちゃん!起きてんの!?」
「起きてるって!」
部屋の外から母親の怒鳴り声が聞こえる。いつもちゃんと返事をしているのに、どうしてこんなに怒鳴られなくてはならないのだろう。僕は急いでカバンを肩に担いで自室を出る。
階段を駆け降り、一階のリビングへと入る。今日も足元が寒い。これだから冬は嫌いだ。
「おはよう」
リビングに入ると不機嫌そうな母親が朝食を運びながら僕に言う。
今日も機嫌が悪いんだな。父親と喧嘩でもしたんだろうか。まあ、いつものことだ。
「おはよー」
出来るだけ自分の不満を隠して、明るい口調を心がける。すると、母親はツンとそっぽを向いてキッチンへと戻っていく。
「おい、お前のスカートしわしわじゃないか」
母親と入れ替わるようにキッチンから出てきたのは僕の父親だ。老眼鏡を掛けた彼は両手にマグカップを持ち、開口一番に僕に叱咤を飛ばす。
「ごめん…」
「ったく、お前は本当にだらしないな。いい加減、アイロンがけくらい出来るようになれ。嫁に行けないぞ」
そんなことを言われたって僕はあまり家事が出来るお嫁さんになどなりたくないのだが。そんな不満も飲み込んで、僕は食卓の席に着く。
席は母親の真正面、父親は僕の隣。引っ越しは学校が変わるタイミングで何度かあったが、この席配置だけは昔からずっと変わらない。
僕の隣に座った父親は、先ほどから手に持っていたマグカップの一つを僕の前に置く。ココアの香り。牛乳を飲んでいれば、絶対に骨粗鬆症にはならないという父親の考えの元で僕は小さい頃から毎朝、乳製品を飲むことを習慣づけられていた。
「もう少ししたら出る時間だろ。はやく飲め」
「はーい」
適当な返事を返しながら、僕はマグカップを手に取るが、そこに浮いている白い粒が目に止まる。
まただ。前にも言ったのに、父親はやっぱり変えてくれない。
「ねえ、これ虫沸いてる」
少し前から出るようになったココアには虫が沸いていた。白くて小指の爪ほどの大きさの白い何かの幼虫だ。カブトムシの幼虫にも、ウジ虫にも見えるそれは気持ち悪くて、飲みたくないとずっと訴えていた。
「沸いてないだろ」
「沸いてるよ!絶対幼虫だもんこれ!」
僕のコップの中身を見ようともしない父親に僕は自分のココアを突き出す。すると、父親は面倒臭そうにそれをチラと見るが、すぐに視線を戻して自分のコーヒーをすする。
「砂糖の塊だろ」
「違う!虫!ほら、頭ついてる!よく見てよ!」
僕はスプーンで虫をすくってピンポイントで父親に見せる。白い胴体の先についた茶色の頭は虫特融のそれだ。そんなものが僕のコップには沢山浮かんでいる。飲みたくない。危機を感じるほどの嫌悪感があった。
僕の必死の訴えに、父親はイライラとした様子でそれをまた見るが、大きな溜息を吐く。
「砂糖だ。飲みなさい」
「やだ!虫だよ!」
「好き嫌いするな!」
父親が僕の後頭部を引っぱたく。大きくて逞しい男性からの一撃は重たく、視界がグラつく。ズキズキと痛む頭に、僕は下唇を噛んで彼を睨む。
「あーもう朝からうるさい!いい加減にしなさい!」
キッチンから料理を手に母親が怒鳴りながらやって来る。彼女は乱暴に父親と僕の前に料理の皿を置くと、不機嫌そうに僕の正面に座って箸を並べた。
「急いでるんでしょ。さっさと飲んで、さっさと食べなさい」
「でも…」
「どうしてそうやって言うことに逆らうの!いいから早くご飯終わらせなさい!」
母親にまで怒鳴られ、僕は歯を食いしばる。
どうせ何を言い返しても無駄だ。毎日、ココアに虫が沸いてると訴えたって出てくるんだ。今更、抵抗したって叩かれる回数も怒鳴られる回数も増えるだけ。こんな無駄なこと、やめにしよう。
僕は虫の沸いたココアの水面を見つめる。白くてブツブツしたそれらを飲むなんて、頭できちんと理解していると胃がキリキリと痛んで吐き気がする。でも、飲まないと怒られるし叩かれる。僕はココアに浮いている虫を見なかったことにして、それを一気に飲み干した。
味なんて分からない。虫が沸いていると考えている方が心にダメージが入る。頭も心も無にして飲み切ると、口の中に小さな粒が残った。
口の中にいるものが何なのか、本当は分かっているから体中に鳥肌が立った。しかし、それを流し込むための水もココアも、もう僕の手元には残っていない。僕は慌てて母親が作ってくれた目玉焼きに手をつけ、ガツガツと飲み込むように口にかき込んで、口の中のものを処理する。
プチプチとした白身の触感。果たしてそれは、本当に白身の触感なのだろうか。それとも、虫の触感だったりするんじゃないだろうか。考えれば考えるほど恐ろしくなって、僕はまた脳味噌の処理を落とす。
もうやめだ。考えるだけ、いいことなんかない。これは全部目玉焼き。それでいいじゃないか。
「おい!こぼしてるだろう!背筋を伸ばして行儀良く食べなさい!」
バシンと父親に背中を強く叩かれて僕は咳き込む。せっかく飲み込もうとしていた目玉焼きと虫が逆流して食道につっかえる。ゲホゲホと口を押さえてむせていると、母親は呆れたように溜息を吐いた。
「本当にダラしない。朝から賑やかすぎて嫌になるわ」
そう言うと彼女はテレビでニュースを付ける。ニュースでは今の政治がどうのとか、今日の天気だとか、僕には全く興味のない内容が流れている。
「制服を洗いたかったら、早めに言え。洗うのは手間がかかるんだぞ」
目玉焼きを食べながら父親が言う。僕の父親は潔癖なのかと思うくらいに洗濯物にこだわりがあって、中学に上がって制服になってからは、僕の服を洗濯する人は彼になっていた。仕上がりはクリーニング顔負けなのだから、器用なのだろう。
「お父さんはいいわよね、働かないでパソコンばっかりやってて。そんなに暇ならクリーニング屋に持ってくくらいすれば、他の家事も出来るのに」
正面に座る母親がぼやく。それに対して父親は何も答えなかった。
答えられないのだ。僕の家は母親の経済力で成り立っている。一銭も稼げない僕らに発言権はない。
「…行ってきます!」
淀んだ空気の漂う食卓に耐えきれず、僕は残った目玉焼きをほとんど噛まずに飲み込み、胃に流し込む。逃げるように席を立つと、母親が目を丸くした。
「ちょっと、まだ早いんじゃない?パンでも食べたら?」
「いらない!大丈夫!」
急かしたり引き止めたり忙しい人だ。それに、食卓でご飯なんて食べてたらまた叩かれる。おちおち味も楽しめたもんじゃない。
僕はトレンチコートを着て、ローファーに足を入れる。もう随分長いこと新しい靴にしてもらえていない。靴底と本体の先は分離し、穴が空いている。
冬場に穴の空いた靴は寒い。足先が霜焼けになるのも慣れたものだ。
「待ちなさい。制服が汚い」
父親が粘着テープのローラーを片手に追いかけてくる。僕の腕を掴んで力づくで引き止めると、僕のトレンチコートにローラーを掛ける。父親の引き止める力が強くて、身体に指がくい込んで痛い。
「身だしなみはきちんとしなさい。そんなんじゃ社会に出られない。清潔感を保ちなさい」
僕の身体をくるくる回しながら、父親はトレンチコートの裏も表も腕も隙なくローラーを掛ける。
清潔感は確かに大事だが、それより穴の空いたローファーを何とかしてもらいたいものだ。しかし、ローファーを買う権限は母親のものであり、僕と父親じゃどうにもならない。
「もういいよー、バス停行くよ」
「しょうがないな…」
文句を言う僕に、父親は深いため息を吐き、玄関の棚に置きっぱなしだった僕のマフラー取って、僕の首に巻いた。
凍えるような寒さが、少しばかりそれで和らいだ。
「気を付けて行くんだぞ」
その後ろから遅れて母親が顔を出す。感情の読み取れない、口を真っ直ぐに結んだ表情で彼女は僕を見ている。
「行ってきます!」
彼らの視線が何だか気まずくて、僕は早々に背を向けて玄関を飛び出した。
慣れた日常。いつものこと。世にいる子供たちも、きっと同じような…いや、もっと劣悪な環境で頑張っているんだろう。僕はすでに嫌気がさしているのに、みんなは凄い。大人になるのは大変だ。
玄関を出ると、自分が吐く息が空気を白く染める。今にも雪が降り出しそうな灰色の空の下、僕は坂の下にあるバス停まで走っていく。
僕の通学路はバスからバスに乗り継ぐ、バスオンリーの道だ。片道2時間。遠いが、バスに乗っている時間は嫌いじゃないから、それほど苦でもなかった。
バスが来るより10分くらい早く辿り着く。マフラーに首を埋め、僕はコートのポケットに両手を入れた。
僕の家は東京にある。東京と言えば聞こえはいいが、周囲には寺と森しかない。道路が舗装されているだけマシかもしれないが、冬の冷え込みは都心より厳しい。
ポケットの中に冷えきった四角い機械が手に当たった。それを僕は中から引っ張り出す。父親に貰った、少し古い音楽プレーヤーだ。
イヤホンを耳に入れ、スイッチを入れる。耳の中へと入り込んでくるのは、聞きなれた男性ボーカルの声。中学時代からずっと聞いている、ロックバンドの楽曲だ。
僕はこのボーカルの人が好きだ。歌詞やメロディも好きだが、一番好きなのは容姿だった。
目を隠すほどに長い前髪をしたウルフカットの茶髪。切れ長で、一般的には地味だと言われる一重の瞳が男性的なシャープさがあって憧れた。皮下脂肪の少ない、骨ばった身体、ギターを弾きながら歌う姿が羨ましいと思った。
やがて、僕しかいないバス停にバスが来る。寒さで出てきた鼻水を吸い込み、僕はバスに乗車する。
1個目のバスはそんなに長くない。30分もすれば目的地。ガタゴトとゆられ、眠気に抗っていると到着する。バスを降り、バス停傍の駅にあるバスロータリーで次のバスを待つ。
2個目のバス停にはもうすでに何人か次のバスを待っている人がいる。スーツや私服の男女。皆、自分がいるべき居場所に向かうためにここでバスを待っているのだろう。
先頭に立つ人はサラリーマンらしき、黒髪の若い男性。社会人になりたてだろうか。パリッとスーツを着こなす彼の顔は眠そうだが、憂鬱などは読み取れない。
ベンチに座って眠っている女性はダッフルコートにマフラーを巻いて、ヘッドホンをしている。スカートから覗く膝が赤くなっていて寒そうだ。大学生だろうか。
僕はバス停に列ぶ一人一人の姿を見ては、彼らの生活を想像する。彼らの背景には色々なストーリーがあるのだろう。どんな家に生まれ、どんな生活を送り、どんな友人を作っているんだろう。
みんな上手くやってるんだろうな。こんな不自由な世界で、どうやって楽しく暮らすんだろう。いいなあ。いいなあ。僕にも物語が欲しいなあ。
僕を必要としてくれる場所はあるのかな。僕もいつか、外に出て1人で生きてみたいな。そしたら誰かが僕を見て、僕の背景を想像したりするのかな。そう考えると、なんだか不思議だ。
バス停の人たちを観察していると、ヒラヒラと白いものが鼻先に落ちた。
「…雪だ」
1人で僕は呟く。口元に笑みが浮かぶ。
時間が流れているんだなと感じる。一刻一刻と進むのその時間は、僕にとって希望だった。
大丈夫。辛かったとしても時間が解決してくれるよ。耐えればいいだけさ。高校だって時間が経てば勝手に終わる。僕の居場所は、きっとここじゃないだけだ。
バスが来る。排気ガスが白い煙になって空気を染めた。フワッと香る身体に悪そうな臭いが僕は好きだ。乗り物は、僕を遠くに連れてってくれるから。
列にならってバスに乗り込む。車内は冷えているが、風がないだけでかなり温かい。僕は真っ先に1番前の高い位置の席に登った。
馬鹿は高い所が好きとはよく言ったもんだ。僕も高い場所が好きだ。外が良く見える。
曇ったガラスを手で拭う。結露したそのガラスの水滴の隙間から街が見える。
僕は心の中で街に別れを告げる。結局ここに帰ってくるのだが、毎日ここでバイバイと心の中でいうだけで、少しばかり気分が晴れるのだ。
バスが走り出す。ガタガタと横にも縦に揺れながら走り出し、見慣れたバス停が離れていく。
このまま学校に行かないで、ずっとずっと遠くへ行きたいな。誰も僕を知らない場所へ行きたい。だけど、僕には遠くに行くお金などない。
ローファーの隙間から入り込む冷たい風で足の指先がかじかむ。赤くなった膝をすり合わせ、僕は自分の身体で暖を取る。
イヤホンの向こうでロックバンドの歌が聞こえる。才能がない僕なんか、眠っていたって誰も怒らないんだろう。そんな歌詞になんだか胸がジクジクと傷んだが、痛くないふりをした。
歌を聞いているうちに眠くなる。バスの中、1人で好きな曲を聞いているとすぐに寝てしまう。家にいると、いつまでも眠れないまま朝が来るのに。
バスに揺られて1時間と20分くらい。バスの中で聞く子守唄はあっという間に時間を進めてくれる。子守唄なんか、生まれて一度も聞いたことなんかないけれど。
眠い目を擦りながら、僕はバスに詰め込まれた人たちが出ていくのを待つ。早く行ったって、どうせいいことなんかない。学校なんか遅刻したい。休みたい。だけど、そんなことをすれば親からの叱責が怖いからしない。
バスを降り、一番近くの駅へと人波に乗って改札へ。定期を改札に触れさせ、奥へと入った。
辺鄙な場所にあるこの駅にいる人間など、そんなに多くはない。毎日乗る時間の電車はすぐにやって来て、僕はそれに乗り込む。
電車だけはあまり好きじゃない。すし詰めで苦しい。ぎゅうぎゅうに押し込まれる中、僕は自分の鞄を両腕で抱きかえる。隣の男性から汗のような臭いがする。僕の体臭に似ていると思った。良い臭いじゃないし、臭いけど、なんだか親近感があって安心した。
電車は1駅。5分も掛からず高校の最寄り駅へと辿り着く。
「降ります!」
まるで道を開けてくれない大人たちに声を上げる。何人かが外に出てくれたが、動かない人たちは肩で押しのける。
吐き出されるように電車を降り、僕は走り去る電車を見送る。
この電車の終点まで行ったら、どこに辿り着くんだろう。いくらのお金があれば、僕はそこに行けるんだろう。
「明日香」
不意に聞こえた声に、僕は振り返る。さっきまで隣の車両があった位置に黒髪の女の子が立っている。
同じ制服、僕よりやや背丈が低い女の子。彼女は密度の濃い、伏せ目がちなまつ毛に縁取られた瞳で、はにかむように微笑んだ。
「あっ!ミズ…」
おはよう、と。声を掛けようとして僕は彼女の名前を口にし掛けるが、違和感で僕は口を閉ざす。
あれ?今、僕は誰の名前を口にしようとしたんだっけ。
「水?喉乾いたの?」
僕の言葉に目の前の彼女が控えめに笑った。
いつも困ったように笑う彼女はとても可愛らしい。彼女のことを忘れる日なんてなかったのに、どうして僕は名前を間違えたりしたんだろう。
「あっ、鼻水で鼻詰まってた!おはよう、美奈子」
「鼻水って言おうとしてたの?ティッシュいる?」
駆け寄る僕に彼女は首を傾げながら、隣に並んだ。
彼女は鞄から取り出したティッシュを僕に差し出す。僕は笑いながら両手で有難く受け取った。
「有り難き幸せ…」
「大袈裟」
鼻水をティッシュでかんだ。盛大に鼻水が出た感じがする。スッキリとした鼻で空気を吸い込むと、冷たい空気が喉を通った。
美奈子は僕の様子をクスクスと笑いながら見ていたが、肩がぶつかるくらいに身を寄せて来る。
「それあげる」
そう言って、彼女は僕の手が入っているポケットに自分の手をねじ込んで来る。それに僕の心臓が一気に心拍数を上げた。
「ちょ、ま、鼻水ついたティッシュ入ってる」
「気にしないよ。それより温かいから、暖とらせろ~」
からかうように笑う彼女は、そう言いつつも決して僕の手を握ったりはしない。同じポケットの中に2人の手が入っただけの状態。そんな状況にヤキモキする自分がいた。
「…手、繋いた方がより暖かくない?」
僕は控えめに美奈子の手を握る。すると、美奈子は逃げるでもなく、僕の手を握り返してきた。
「明日香のポケットって、いつもあったかいよね」
彼女の言葉に僕は自分の平熱が高めであることに内心、感謝する。
冬になると、寒いからと美奈子のスキンシップが増えるのが僕にとっての唯一の喜びだった。
僕は多分、美奈子に特別な感情を抱いていた。彼女が笑うと世界が明るくて、彼女が泣けば暗闇だ。どんな時でも僕は彼女に笑っていて欲しかった。笑顔で、僕を一番近くに置いておいてくれるなら、それほど嬉しいことはない。
僕と美奈子は女の子同士なのに、おかしな話だ。彼女から見て、僕が女の子だからこんなに触れ合ってくれるのかもしれないのに、そんな感情を抱くのは少し罪悪感があった。
僕が男性として生まれていたら、こんな風に彼女を騙しているような気持ちにはならなかったんだろうか。
長い駅のホームを歩き、改札へ繋がる階段を手を繋いだまま降りた。改札を前にすると、美奈子はスッと手を離してポケットから手を抜いた。
彼女の体温が離れていくのが、酷く寂しい。でも、引き止めたりしたら気持ち悪いのかもしれない。彼女はあくまで僕の体温で暖を取りに来ているだけなのだから。
改札に定期を当て、2人並んで改札を抜けた。1人分だけになったポケットの中身が寒い。
「昨日ね、またお母さんに絵を捨てられちゃって…」
学校へ向かう坂を登りながら、美奈子が俯いて話し出す。その話題に僕の心臓が跳ねた。
「そう、なんだ…美奈子は凄く絵が上手なのに勿体ないな。僕がもらえば良かった!」
出来るだけ明るく言葉を返すが、それに対して美奈子は僕の顔をジッと見つめた。その表情から良いものは読み取れない。
「…明日香、いつから僕っ子になったの?」
「え?あ、えっ…」
何も違和感なく使っていた一人称に違和感を初めて覚える。訝しげに僕を見る美奈子の視線が怖い。
まずい。まずいまずいまずい。今の僕が生活出来る場所で、僕の唯一の居場所は美奈子の隣なのに。
機嫌を損ねた?僕の中身が男かもしれないと勘づかれた?気持ち悪かった?どうして?どうしてそんな目で僕を見るんだ?
僕は美奈子の機嫌を損ねないための回答を頭の中で探して回る。正解が分からない。どうしよう。どうしよう!
「あ、あはは…き、気分転換…みたいな…?」
乾いた笑いと共に苦し紛れな回答を出す。すると、美奈子はフウと大きなため息を吐いて、進行方向に視線を戻した。
「あんまりそういうのしない方がいいよ。オタクくさいって思われる」
「そ、そっか…」
一人称まで気を遣わなくちゃいけないのか。僕は内心、めんどくさいと思った。
「ありがとう、気を付けるね」
「うちの学校、なんて言うか…あまり治安良くないから、そんなことやってるとすぐハブられるよ。絵を描く時点でオタク扱いだし、オタクは白い目で見られるんだから」
美奈子の話は正直、共感できなかった。だけど、彼女は僕のことを思って言ってくれているんだろう。僕の父親が僕に手を上げる原理ときっと一緒だ。それが彼女の愛の形なのだとすれば、それを感謝して受け取るしかない。
僕の中学校では、別に美術学校でもないのに絵の技術でクラスのヒエラルキーが決まるという不思議な文化があった。だから、絵が上手ければどんなに性格が悪かろうと友達は出来たし、絵が下手だったらどんなにゴマを擦ろうが媚を売ろうが友達を作るのは難しかった。
僕の母親は漫画家だったが、僕は絵よりも物語を書く方がずっと好きだった。だから、絵にあまり興味はなかったのだが、中学時代にコミュニケーションスキルとして、少しだけ絵心があるくらいに描けるようになった。
なった…いや、なるしかなかった。中学校の僕は絵が下手で、描いたノートを取り上げられて、下手くそだと笑われるだけの人間だった。それが悔しくて、なんで人の絵をあざ笑うような奴がヒエラルキーの上にいるのかが納得いかなくて、僕は見返そうと思って絵を描き続けていた。
絵がここまで描けるようにした感情は、限りなく憎悪に近かった。復讐してやると毎日授業の合間も家にいる時間も絵に費やした。
それでも、所詮はそこまで好きでもないことだ。大して上手くなることもなく、今の高校にいる。
「ねえ、さっきの美奈子の話の続きなんだけど、絵…捨てられちゃったの?」
すっかり言葉を発さなくなってしまった美奈子に、僕は慌てて彼女の話したがった話題を振った。本当は聞きたくなんてなかったけど、機嫌を戻すにはそれしかないと思った。
僕の言葉に美奈子はチラと僕の顔を見ると、またいつもの困ったような笑顔を浮かべて口を開いた。
「私のお母さん、昔は画家を目指してた人って話したよね。あの人から見ると、私の絵なんてゴミでしかないみたい。私が頑張って書き溜めたスケッチブック捨てられちゃって…私の絵ってそんなに下手かな」
「そんなことないよ!美奈子の絵はみんな凄いって言うじゃんか!ぼ…っ私も美奈子の絵が大好きだよ!」
くそ、一人称が邪魔だな。舌を噛みながらも僕は彼女に言葉を尽くす。
僕の言葉に嘘はなかった。美奈子は本当に絵が上手かった。限りなく実力派で、うちのイラスト部でも美術部でも彼女は一目置かれる存在だったのだ。
ただ、彼女の絵に欠点を上げるとすれば…それは、センスの問題だった。彼女の絵は一般受けする絵ではない。それこそ、世界中の憎悪や憂鬱を詰め込んだような、汚くて、醜くて、おどろおどろしいものを描く。モチーフに用いられるのは乾いた血液や、死にかけた動物、枯れた木、廃墟。マイナスなイメージが付くものを彼女は好んで描き、それをいかに気持ち悪く描くかに命を掛けたような絵なのだ。
僕は、彼女のそんな醜悪さが沢山詰まった絵が本当に大好きだった。繊細かつダイナミックな力で描かれるその絵は、僕は類を見ない迫力を感じて、圧倒された。
高校で彼女に出会って、僕は初めて心から思ったのだ。絵が面白いと。
「みんな画力が上がってくると、私みたいな絵になるんだよ。美術の予備校には、私みたいなのが一杯いる。やっぱりゴミなんだよ、私の絵なんて」
「そんなこと言わないで。私は美奈子の絵が一番好きだよ。どんなに上手な人の絵を見たって、凄い画家の絵を見たって美奈子の絵が好き」
「そんなこと言ってくれるの、明日香だけだよ」
嘆いているようで、それでも満更でもないのか彼女は不意にまた僕の肩に自分の肩をくっつけてくる。突然来たスキンシップに僕の顔に熱が集まるのが分かった。
「ねえねえ、寒くなってきた。暖とらせろ」
そう言って美奈子は僕のポケットに手をねじ込んでくる。そんなこと、拒否できるわけがない。僕に拒否権はない。プライドも何もないのだ。純粋にその好意が嬉しくて仕方がなくて、僕の視界が明るくなる。
「鼻水つくよ」
「大丈夫」
僕の忠告など聞きもしないで、美奈子はポケットの中に手を入れたまま歩く。手は繋がない。美奈子はいつだって僕から手を繋がないと、触れ合ってなどくれないのだ。
学校の敷地内の辿りつくと、美奈子はまるで何もなかったようにポケットから手を引き抜いて下駄箱で靴を履き替える。彼女が履いているのはピカピカのローファー。僕はそれが羨ましくて、彼女の隣に並ぶ自分がちょっとだけ恥ずかしくなった。
「明日香はまた私が書き溜めたスケッチブック、もらってくれる?」
廊下を歩きながら、美奈子が言う。僕は大きく頷いて笑う。
「もちろん!お母さんに捨てられる前に私に頂戴!全部全部ファイリングして、大事に保管しとく!」
僕は美奈子の大ファンだ。それは自負している。彼女が授業中にしたためた、文章などあってないような絵の付いた手紙も、彼女が油性ペンで落書きしただけの冷え切ってしまった使い捨てカイロも、お菓子の箱も、どれも僕は宝物だと思って大事に家に保管していた。
最近、美奈子の絵で僕の家にある勉強机の引き出しが一杯になった。溢れそうなくらいのそれが、まるで気になる子からのラブレターのようで嬉しくなる。気持ち悪いかもしれないが、僕にとってはそれくらい美奈子の絵は大事なものだった。
「そんなゴミ、早く捨てたらいいのに」
「ゴミじゃないんだって!」
2年生の教室が並ぶ廊下まで来て、僕は美奈子に手を振る。
「じゃ、また休憩時間に!」
「うん、また手紙描くから受け取ってね?」
僕と美奈子はクラスが違うから、癒しの時間は一旦終了だ。予告された手紙の報酬に僕は満面の笑みを浮かべる。
「楽しみにしてる!僕も描くね!」
そう言って、僕らは解散する。それぞれに別れてクラスに入ると、僕は自分の席へと座った。
「てかさー、細川マジでクソじゃん。キャバやってんでしょー?」
「はあ?マジ?お似合いなんですけど!どーりで妊娠三回目だよ。いい加減避妊しろっての!」
クラスはいつも通り、下世話な話と下品な笑い声で溢れている。僕は頬杖をついて、ぼんやりと騒がしいクラスを眺める。
僕の高校は女子高だが、まるで動物園だ。いつもセックスだの避妊だのピルだのと、彼氏がいるとかいないとか、そんな話ばかりが耳に入ってくる。うんざりする。彼女たちの話は何が面白いんだろう。話の行き着く先はいつも誰かの悪口で、聞いているこっちの気が滅入った。
この学校に僕は編入で入学した。みんなが友達同士でグループを組んでいる中、新入りとして入るのは非常に難易度が高く、あっという間に僕はあぶれてしまった。
正確には、最初はちゃんとグループに所属出来たのだ。僕はこの動物園みたいな、名前を描けば誰でも入れるような学校では頭が良い方で、入学した時の試験では学年で2位だったと聞く。
しかし、化粧っけもなければアイドルにも興味はない、絵と小説ばかり書いている僕にはセックスと恋人の人数でステータスが決まる文化は馴染めず、今では根暗のオタクで陰キャ扱いだ。別にそれでいいし、何も間違ってなどいなかったが。
絵が上手くなれば、誰とでも仲良くなれると思っていた僕は井の中の蛙だった。この世界にはそんな文化はない。ちょっと学校が変わっただけなのに、まるで違う星に来たようだ。
「おい、細川が来たぞ」
「やだーウケる」
不意に入って来たクラスメイトに反応してクラスが静まり返る。そこにあるのは静かな嘲笑と無邪気な悪意。見世物小屋を見に来た観客のような視線がそのクラスメイトに降り注ぐ。
黒いストレートの髪をした、顔に沢山のニキビを作った女生徒が入ってくる。
彼女は僕が入学当時に同じグループにいた編入組の子だ。当時の成績は僕を上回っての堂々の1位。まあ、名前が書けたら入れるような学校でそんなことを争う気もないが。
彼女が席に着く、周囲の女生徒たちがクスクスと笑いながら席ごとを離れて避ける。それを細川と呼ばれる彼女は何も気にしていない顔で座る。彼女の精一杯のプライドだろう。
僕はそんな姿を見て、すぐに目を逸らす。どうとも思わない。みんな通る道だ。
僕と彼女は同じ、それも優秀クラスのヒエラルキー1位のグループに所属していた。成績が近かったことで、細川とはしばらく前後で隣の席だった。どうやって友達を作ろうかと悩んでいた僕に細川が声を掛けたのだ。
1位のグループに所属した時、正直な気持ちを言えば僕は勝ち組だと思った。今までずっと中学時代は絵が下手だとあざ笑われて、友達がほとんどいなかった僕にもついに青春が来るんだと思っていた。だけど、そんなのは夢物語だ。
僕はコミュニケーションツールとして自分が描いた絵を見せ、書いた物語をグループに共有したが、誰も興味を示さなかった。それよりもビジュアル系バンドのボーカルが恰好いいだとか、新しい化粧品がどうのとか、可愛いブラジャーがどこで売ってるとか、そんな話しかしない。興味がない僕は会話に入っていけなかった。
興味を持とうとしなかった僕も悪かったのかもしれないが、僕が唯一持ってる万人向けの話題はスポーツくらいだった。しかし、残念なことにスポーツすら好きな人は少数派だ。僕のグループにスポーツ好きはいなかった。セックスが好きな奴らは沢山いるようだが。
そのうち僕は勉強の成績の割りに脳みそ筋肉だとか、汚いとか、化粧っけがないとかで徐々に周囲が離れていき、決定打になったのは驚いたことにグループのうちの子の一人が好きなビジュアル系バンドについての話題だった。
その子はボーカルが好きで、カッコイイからとビデオクリップのデータを貰った。見たが、僕は地味な男性の方が憧れの対象だったのであまり興味は湧かなかった。綺麗な人なだとは思ったが、僕はそのバンドの中で一番地味な顔をしたギターが恰好良くて好きだと感想を言った。
それだけだ。
たったそれだけだ。次の日から僕はグループの輪から外されて、今の細川みたいに嘲笑の対象になった時はさすがにがっかりしたが、僕もなんだかバカバカしくなって考えるのをやめた。
その時に僕を率先してハブろうとグループメッセージで指令を出したのが細川だ。そんな彼女が蔑まれている現状に、こうやって順番にヒエラルキーの順位が巡るのだと思うと、特段驚くことなどなかった。
そんな高校生活開始数カ月にしてクラスでは逸れ者の位置にいる僕には、唯一の救いがあった。それが美奈子だ。
彼女は違うクラスの子で、僕が持ち歩いていた自作のイラストを他人に見せているのをたまたま全体集会の時に見かけたのだと言う。グループの子に見せたはずだったのに、間接的に美奈子に見せることになるとは思ってもみなかった。
この世に神様はいるんだなと思った。廊下で彼女が所属するイラスト部の人に声を掛けられ、美奈子が気になっている子だと告げられた時は本当に嬉しかった。
あの時も美奈子は自分からは声を掛けて来なかった。ただ周囲が僕と美奈子を繋げるまで、困ったように笑いながら見ていた。
直接声を掛けてくれれば良かったのに。美奈子は引っ込み思案で大人しい。それでも周囲が放っておかないほどの才能と魅力があるのだろう。彼女の周囲には常に人が絶えなかった。
「おはよー、朝礼始めるよー」
クラスに担任の先生が入ってくる。細川を嘲笑していた声が止み、各自がぞろぞろと自分の席へと帰っていく。いつもの光景。あと何日繰り返したら、この不毛な日々が終わるのだろう。
時間なんか飛んでしまえばいい。早く僕を大人にしてくれ。この動物園みたいな牢獄も、ゆっくりとご飯を食べる時間もない窮屈な城も全部いらない。自由になりたい。
適当に起立と礼をこなし、興味のない連絡事項を教師が話しているのを聞き流す。廊下を挟んだ廊下の窓には灰色の空が見える。雪が降る。今年は積もるだろうか。
一限目の授業は現国だった。国語の授業ほど無意味に感じるものはない。何故、日本人なのに日本語を学ばなくてはならないのだろう。
「登場人物の心情を文章中から30文字で抜き出しなさい」
こんなのやる必要があるだろうか。文章中に解答が書いてある。そんなの、抜き出さなくたって分かるだろう。改めてこちらに問う意味などあるのだろうか。そんなにみんなは人の気持ちが分からないのだろうか。
自分が嫌だって思うことを人にしたら嫌に決まっている。自分が嬉しいことは人にしてあげたい。そんなことすら分かっていないのなら、みんなはどうやって周囲の機嫌を取っているのだろう。
僕は問題集に答えを早々にかき込んで、ノートと教科書の下に隠したルーズリーフに絵を描く。今日は誰を描こうかな。美奈子が好きなゲームのキャラクターでも描こうかな。
1時間めいっぱい使って、僕は美奈子が好きなキャラクターを一心不乱に描いた。だけど、僕はどうやったら絵が上手くなるのか良く知らない。デッサンなんてまともにやったことがないし、人間の顔は目と鼻と口が線対象についているってことくらいしか理解できていない。
思うように描けない。思っているようなものが紙の上は創れない。いびつな投身の男性が紙の上に描きあがる。1時間も掛けて、僕はいつだって大したものが描けない。
授業の終わりを告げる鐘が鳴る。僕は早く美奈子の手紙が欲しくてそわそわとルーズリーフを四つ折りにする。
号令に合わせて起立、礼。僕は駆け出すように廊下に出る。
皆がクラスの中で談笑している中、僕は美奈子の教室の前で彼女が出てくるのを待つ。ややしばらくして、美奈子が教室から出てくると、彼女ははにかんだで笑った。
「お待たせ。これ…」
そう言われて渡された彼女からの手紙は可愛らしいひし形に折られている。宛名の部分にはちゃんと僕の名前が書かれていて、僕は大好きな作家から名指しのサインを貰ったような気持ちでそれを受け取った。
「ありがとう!次の授業中の楽しみにする!」
「明日香はいつも授業中に読むんだね」
「一番美味しいオカズを最後にとっておくのと同じ感覚…みたいな?」
照れながら僕は美奈子の手紙を大事にポケットにしまう。それから、僕も自分なりに頑張って描いた手紙を彼女に手渡した。
味気ない四つ折りのルーズリーフ。もっと女の子らしく、折り方とか勉強したら良かったのかな。だけど、なんだか可愛くしたくない自分がいた。
「明日香も描いてくれたの?」
「うん、下手だけど…」
別に彼女と同じくらい上手いなんて驕った気持ちはない。素直な感想をそのまま口にした。美奈子はそれを受け取ると、変わらない笑顔を貼り付けたまま僕のルーズリーフを見てから顔を上げた。
「ありがとう。後で読むね」
「うん!」
美奈子の言葉に僕は強く頷く。美奈子の誉め言葉が欲しかった。別に自分が上手いなんて思っていないけど、彼女が僕の絵を好きだと嘘でも言ってくれればそれで充分嬉しい。少なくとも、彼女は僕の絵に興味を持って声を掛けてくれたはずなんだから、それくらい強請っても許されると僕は思っていた。
そこまで思ってから、僕はふと思い出す。
あれ、でも…美奈子から声を掛けたわけじゃないぞ。美奈子の周りにいた子たちが僕に声を掛けて言ったんだ。美奈子が気になっている子だって。
そんなの些細な問題か。僕は自分の疑問に蓋をした。
「美奈子ー!見てみて!私も絵を描いてきたの!」
別のクラスから他のイラスト部の子たちが顔を出す。彼女たちはこぞって美奈子の傍へと集まると、それぞれが描いた絵を彼女に見せる。
「うん、すごいね。人魚?」
「そう!人魚!ねえねえ、明日香も見て!」
眼鏡の子が美奈子の次に僕にスケッチブックを見せる。そこには美奈子ほどではないものの、綺麗な人魚の絵が描かれている。少なくとも、僕よりは上手い。ただ、彼女の絵は…申し訳ないが僕の好みではない。
彼女の技術は非常に高かったが、なんとも形容しがたい絵を描く。綺麗とか、可愛いとか、醜いとか、繊細とか、そういう尖った言葉を当てはめることが出来ない。正しい位置に目と鼻と口があって、整った投身の模範解答であり、ありふれた個性のない絵柄だった。
美奈子は彼女が苦手だった。彼女は技術力でマウントを取る子だったから、僕もあまり得意ではなかった。イラスト部に入ったばかりの頃、美奈子の隣には彼女がいたので、美奈子が気に入っているという僕を毛嫌いしていたのは薄々感じてはいたのだ。
人柄でなのか、絵柄でなのか知らないが、美奈子は僕がイラスト部に入ってから程なくして隣に僕を置くようになった。最初こそ僕の絵を見て下手だとか、デッサンが狂っているだとか言っていた眼鏡の彼女は、美奈子が選んだのが僕だと理解すると僕の絵を笑うのをやめて、こうして絵の評価を僕にはまで求めるようになっている。
「身体のラインが綺麗だね。さすがだなあ」
そんな前のことを掘り返したって仕方がない。僕は当たり障りのない賞賛を述べる。すると、彼女は得意げな笑みを浮かべて美奈子に押し付けるように絵を渡す。
「ほら、美奈子!明日香が誉めてくれたよ!これ、私の自信作だから美奈子にあげる!」
こうなるとは何となく分かっていた。彼女は僕を通して、美奈子の評価を貰いたいだけ。僕の評価なんて最初からどうでもいいのだ。
美奈子の隣にいたいという気持ちが嫌というほど伝わってくる。僕がいなければ、美奈子の隣はきっとずっと彼女のものだっただろうに、僕がいるせいで彼女の居場所が減ってしまった。だから仕方ない。そう頭で理解していても、ちくちくと何故か胸が痛んだ。
「えっ、あー…」
絵を押し付けられている美奈子は困ったように笑顔を浮かべ、僕へチラチラと視線を送る。
ああ、知っている。この目は僕に要求しているんだ。
私はいらない。あなたが受け取って。
言われてもいないのに、彼女の言葉がありありと僕の脳内で再生される。仕方ない。美奈子は引っ込み思案なんだから、僕が前に立たなきゃ。彼女のか弱い心を守ってあげられるのは、僕だけ。
僕だけでいい。僕だけがいい。僕が守るんだ。それが、僕がこの世にいてもいいと言う免罪符。
「あっ、ねえ、それ凄く素敵だから私が貰いたいな!いいかな?」
眼鏡の彼女と美奈子の話に割って入るように僕は言うと、眼鏡の子は目を丸くした。驚きと困惑で見開かれたが、その表情は一瞬だけ曇ってから、何かを思いついたように彼女はニヤニヤと笑った。
「えー、そんなに?しょうがないなあ…じゃあ、美奈子と明日香でジャンケンして、勝った方にあげる」
うわ、いらんこと言うな。美奈子を守れる確率が二分の一に落ちるだろ。
そう思いつつ、僕と美奈子は顔を見合わせて苦笑いする。全力で美奈子にジャンケンで勝つしかない。
「じゃあ、そうしよっか!負けないぞー!」
台本を読むように僕は言葉を吐く。困ったような笑顔を浮かべたまま、美奈子は渋々とジャンケンの姿勢に入る。
最初はグー。ジャンケンで僕はパーを出す。美奈子はグーだった。
「勝った!貰った!」
眼鏡の子から人魚の絵を奪い取ると、丁度よくチャイムが鳴った。安心したように笑う美奈子と、何故だか満足顔の眼鏡の子は頷いた。
「明日香、おめでとう!また何か描いてくるね!」
そう言い残し、眼鏡の子は嵐のように走り去っていく。美奈子はその背中を見送ってから、ふうと息を吐く。
「明日香、またね」
「うん」
僕は美奈子に手を振り、彼女が教室へと戻っていくのを見守る。
ポケットには美奈子からの手紙。片手には人魚の絵。
欲しくもない絵を貰うのは、本当は心苦しかった。欲しくもないのに貰って、力作だと言う彼女の絵を僕は大事にすることが出来ない。きっと失くしてしまうし、美奈子の評価が欲しかった彼女の願望は何も達成されない。
だからって、捨てることも出来ない。下心はどうあれ、これは眼鏡の子が頑張って描いた作品なのだから。僕は人魚の絵を鞄の中にあるクリアファイルに挟んだ。
僕って何なんだろう。評価も求められていないのに、誰かの力作である絵も大事に出来ないのに。絵も上手くないくせに美奈子の隣にいて。人望もないくせに美奈子が認めてくれたからってイラスト部であぐらかいて、何やってんだ。
じわじわと心の奥が黒く淀んでいくのが分かった。そんな淀む心に僕はいつもの魔法の言葉を唱える。
僕は美奈子を守ったんだ。だから、これでいい。これで美奈子が嫌な思いをしないで済んだんだ。身代わりでいいじゃないか。これは、僕を拾ってくれた美奈子への恩返し。
クラスに戻り、僕は席に着く。次は数学だ。もう数学なんて記号の名前くらいしか分からない。
教師が教室に入ってきて、恒例行事を終える。僕は美奈子からもらった手紙を開き、教師の言葉を聞き流しながら目を通す。
そこに描かれた絵は花畑の中で花冠を付けた女性が座り込み、悲痛な表情で泣いていた。女性の身体はガリガリにやせ細り、衣類の隙間から見える肌には痛々しい引っ掻き傷がある。
「もうこんな毎日いやだ。はやく消えてなくなりたい」
絵に添えられた文字を読み、僕は恐怖に背筋が凍った。
また美奈子に何かあったんだ。それとも、僕が何かした?僕はまた美奈子を守れなかった?
繊細で力強いその絵から絶望が伝わってくる。どうしようもない苦しみ。そぎそぎと肌が剥がれ落ちるような感覚がした。
美奈子はいつも人前では明るく、僕の前でだけ弱音を吐く。明日香しかいないんだと泣いてすがって、どこにも行かないでと泣く。
こんなに何もない僕に、彼女だけが意味を求めてくれる。彼女の求めるのが弱音を吐く場所で、僕を盾にすることならば、僕はそれをするしかない。僕にはそれしか価値がない。たとえ彼女の汚い感情のゴミ箱だろうと、僕がイラスト部に受け入れられているのは美奈子が隣にいてくれるからだ。
知ってるんだ、本当は。強がってクラスメイトをバカにして、達観したフリしたって本当は居場所が欲しい。この狭い世界の中で、僕の居場所は美奈子の隣だけ。あの眼鏡の子から奪い取ってまで手に入れた居場所を守るために、美奈子のためだって言い訳しながら、僕は毎日惨めたらしくすがりついている。
僕は醜い。中身も外見も何もかも。
「明日香と二人で話したい」
手紙の端に書かれたその一言で僕は我に返る。
僕には弱音なんか吐いている暇はない。美奈子が弱っている。僕を頼ってくれているんだ。早くこんな場所から抜け出して、美奈子に会いに行かなくちゃ。
僕の気持ちばかり急くが、時間は簡単には進んでくれない。ソワソワとしてばかりで絵を描く気にもなれない僕はただ、頭の中で美奈子の身に起きた恐ろしい出来事を想定し、対策を練る。
美術の予備校で彼女の絵を酷くけなす子がいたのだろうか。家族に何か言われたんだろうか。そういえば、昔に一緒に同人活動をしていた女性が酷い彼氏に掴まって、気を病んで精神病院に入ってしまったとも聞いた。その関係だろうか。
美奈子の周囲の話は聞けば聞くほど、恐ろしく不幸が頻発していた。彼女が描いた絵が原因でネットにスレッドが立って炎上したとか、毎日みたいに電車で痴漢に会ったり、お母さんが彼女に絵が下手なんだから美術系に進むなと反対するとか…些細なことから大きなことまで、僕は毎日毎日毎日、美奈子の不幸話を聞いていた。
僕はあくまでそれらを美奈子の口からしか聞いていないが、美奈子が言うんだからそうなんだろう。
僕にとって彼女は世界で一番不幸な少女だった。才能豊かで見た目も可愛らしく、話も上手で人気者な彼女は表の顔。本当は裏で才能を認められず、苦悩し、日々襲い来る不幸と彼女は戦っている。その戦いで彼女が傷ついて、帰ってくる場所が僕なのだと彼女は話していた。
凄い人なのだ。非才で何もない僕とは違う。だから、何者にもなれない僕は、彼女が飛び立つための土台になれれば、それだけで充分に感じていた。
いや、待てよ。おかしくないか?
頭の中でもう1人の自分が首を傾げる。
何で僕の世界なのに、彼女を中心に回る必要がある?僕はゴミ箱でもなければ、彼女が話す事象を目の当たりにしたこともない。
何故、そう易々と信じるんだ。もっと考えろ。
頭に亀裂が入るような痛みがする。僕は自分の席に座ったまま首を横に振る。
僕にある世界は学校と家だけだ。そんな狭い世界から抜け出す術はない。世界の中心が言う言葉に、どうして疑いを持てようか。
そう考えると、脳みそが過度な処理を止める。考えたって無駄なんだ。頭痛が少しずつ遠のいて、僕は落ち着きを取り戻す。
「では、82ページの問題は宿題だ」
終業のチャイムで僕は顔を上げる。駆け足気味に起立と礼を済ませて僕は急いで教室を出た。
美奈子の教室の前で立っていると、暗い顔をした美奈子が姿を現す。彼女は僕の顔を見るとすぐに駆け寄ってきて、困ったような笑顔を伏せて、控えめに僕の袖を引っ張った。
「さっきの子来ちゃうから、ちょっと下の階に行こう。明日香」
断る権利を持たない僕は従順な犬のように彼女に従い、連れられるままに下の階へと降りた。
階段の途中で美奈子は顔を覆い隠すようにして三角座りでその場にうずくまった。
「…もうやだ…あの子のこと嫌いなのに、いつもいつも絵を押し付けてくる。どういう神経してるんだろ。下手くそのくせに」
あの子とは恐らく眼鏡の彼女だろう。確かに彼女は自信過剰な面はあるし、僕も今までいびられてきた多少の恨みはあれど、彼女の絵は詰られるほど下手ではないと思う。
単純に技術で上手い下手で計るならば…僕の方が下手まである。
「美奈子の好みの絵柄じゃないもんね」
苦笑いしながら、僕は彼女の隣に座る。すると、彼女は顔を上げて今にも泣き出しそうな瞳を拭った。
「だって、さっきの人魚もおかしいじゃん。人魚の下半身は魚なのに、なんで人間の下半身の関節を考えて描いてんの?キグルミじゃないんだから…」
言わんとしてることは分かる。だけど、そんなに美奈子を追い詰めるような内容だろうか。むしろ、人間の関節すらよく分からない僕からすれば、考えてるだけ凄いような気もする。
返答に困っていると、彼女は僕の方を見て睨むような目をした。
「あの子は私の絵を見ると、自分が下手すぎて描く気をなくすって言うの。私が楽しくて描いてるだけなのに、人から何かを奪いたくて描いているわけじゃないのに。それなのに私の絵が欲しいとか、絵を貰って欲しいとか…意味わかんない…」
美奈子の話を聞きながら、僕はどちらの気持ちも分かると思ってしまう。
美奈子の画力は高校生という枠組みで見れば、頭一つ飛び抜けて上手かった。絵を本気で志す者なら、彼女の画力を前に圧倒されるのも仕方ないような気がした。口に出すべきかは別ではあるが。
僕だって、本当は美奈子の絵の隣に自分の絵が飾られたりすると恥ずかしい。僕は美奈子に影響を受けて絵を描いているのだから、自ずと僕の絵は彼女の劣化品になる。
僕に絵のセンスなどない。技術もない。だから、いずれも美奈子の真似事だ。
「彼女は美奈子の絵が好きなんだよ。私も好きだし」
「じゃあ、あの子はなんであんなこと言うの?酷い」
僕の言葉に美奈子がついに泣き出す。僕はどうしたらいいか分からなくなって、慌てて彼女の背中をさすった。
「美奈子は絵が上手だから、羨ましくなっちゃうんだよ!私は美奈子の絵を見ていると、もっと描いてみたいなって思うけど!」
フォローを入れながら、自分が言った言葉に吐き気がした。
あの子の悪評をダシに、美奈子の中の僕の評価を上げようとした。いらない言葉を言ったと思った。自分の胸が締め上げられるようにギリギリと痛む。
我慢。我慢だ。僕だけが彼女を癒せる。癒すために言っただけだ。
本当に?
「ほら!さっきの手紙の絵も素敵だった!辛そうな泣顔とか迫真に迫ってて…美奈子の絵は本当に繊細で美しいよね!僕はこういうの好きだなあ!」
自分の中で湧き上がるモヤモヤとした感情に蓋をするように、僕は急いで褒め言葉を羅列する。
貰った絵をポケットから取り出し、美奈子の前で彼女の絵のどこが素晴らしいか、丁寧に一つ一つ指さして褒める。
恨めしさと憂鬱で涙を零す彼女の瞳が、僕の言葉で少しづつ明るくなる。良かった、機嫌が治ってきた。
「どうせゴミだよ…」
「そんなことないよ!ほら、花の一つ一つの描き込みなんか凄いしさ!」
笑って、美奈子。
「それに、見てよ!この涙とか凄く質感あって綺麗!こんな表現出来るの美奈子だけ」
笑って。笑ってくれ。
「私なんか絶対無理!でも、すっごい憧れる!いいなあ!これ1時間で描いちゃったんでしょ?もっと大きな絵で改めて描いて貰いたいなあ!」
笑え。笑えよ。頼むから、笑ってくれ。
身体が変な震え方をするのに、僕の顔は真逆に満面の笑みを浮かべている。
笑わなきゃいけない。僕が辛がってはいけない。美奈子が泣いてても、弱音を吐いても、僕だけは立っていなくちゃ。呼吸が苦しくなる。早く彼女に笑ってもらわなきゃ、笑顔にしなきゃ。じゃなきゃ、僕が呼吸が出来なくなる。
「どうして人の顔色ばかり伺うんだ?」
低い男性の声が僕の頭の中で響く。
「どうしてお前は怯えてばかりいるんだ?」
そう言ったのは誰の声だ。頭が痛い。ガンガンと割れるように痛い。シルエットだけが思い出せるのに、顔と名前が思い出せない。
僕を見つめていた美奈子が、徐々に笑顔になる。それと同時に僕は安堵する。苦しくなっていた呼吸が楽になり、バクバクと脈打つ心臓の音が落ち着いていく。
「…ありがとう。やっぱり私には明日香だけだね」
予鈴が鳴る。それを聞いた美奈子が立ち上がった。
「いつもごめんね。また次の時間も手紙書くね」
「あっ、うん…」
彼女の笑顔に僕は笑って頷くが、僕は何故だか寂しい気持ちになる。
美奈子は僕の手紙を読んでくれたのだろうか。僕の絵を見てくれたんだろうか。
美奈子を教室まで送り、僕は自分の席に戻る。
3限目は倫理の授業。僕はノートと教科書を開いて、授業が始まるのを待った。
倫理の授業は隔週でしかない、ちょっと珍しい授業だ。僕は唯一、倫理の授業だけは好きだった。偉人たちの言葉はとても難しく、多くが困難と直面して生み出した言葉だ。
彼らのバックグラウンドがまるで、1本の映画のようで聞いていてワクワクする。頭の悪い僕でも倫理のテストだけはいつも上位にいたが、隔週のこの授業はあまり成績に反映されないので、他の多くは授業を聞くのを放棄しているせいで平均点が低いのもあるだろう。
眼鏡を掛けた四角い顔の男性教師が入ってくる。2限目までよりも教室がザワザワしている。皆、自習みたいなものだとタカを括っているからだろう。
起立と礼。着席。
僕は今日の授業の範囲に指定されたページを開く。今日の偉人はデカルトだ。
「さて、授業を始める」
男性教師が話し始めてもなお、クラスのざわめきはおさまらない。おさめようとしたって、おさまらないことを彼は知っているからか注意はしない。
賑やかな話し声が溢れる中で男性教師は教科書を読み上げ、黒板に解説を書いていく。
「デカルトは数学者であり、哲学者であった。彼の母は病弱で、デカルトを産むとその13か月後に死んでしまう。10歳になるとデカルトは…」
騒がしいクラスの中、僕はノートに彼の板書を写していく。デカルトの生涯はやはり複雑で、よくわからない地名や関係者が出てきて難解ではあったが、興味深く聞けた。
「我思う故に我ありと彼は気付く」
デカルトの名言についての解説を前に、半端に授業を聞いているクラスメイトたちから野次が跳ぶ。
「意味わかんねー!」
「天才って頭おかしーもんね!」
ゲラゲラと笑う彼女たちに男性教師はまるで考えることを諦めてしまっているのか、やはり注意はしなかった。
デカルトは終日、炉部屋の中でただひとり閉じこもったのを機に哲学に目覚めたと言う。確かに僕の理解の範疇を超えてはいたが、どうしてそのような思想に至ったのかとても気になった。
デカルトがもし生きていたのなら、たくさん話をしてみたいと思った。どうしてそう思ったのか、順序立てて詳しく教えて欲しい。天才は頭がおかしいと決めつけるのは、飽きるほど話してからでもいいんじゃないだろうか。
…あれ?誰かに僕はそう言ったことはなかっただろうか。
終業の鐘が鳴る。待ってましたと言わんばかりにクラスメイトたちは立ち上がる。
「次回はソクラテスをやる。名言である『無知は罪』について勉強す」
「きりーつ」
男性教師にまるで興味を示さず、日直は被せるように号令をかけた。恒例のそれを終え、クラスメイトたちは欠伸や背伸びをしながら各自のノートを教卓に持っていく。倫理の授業は毎回、ノートを提出すると決まっているのだ。
人混みがなくなるまで僕は席に着いたまま待ち、最後になってノートを提出した。
「鮫島」
苗字を呼ばれ、僕は振り返る。男性教師が僕のノートを見ながら、彼は優しく微笑む。
「倫理は面白いか?」
彼に話しかけられるのは今日が初めてだった。いつも感情が死んだみたいに授業中をする人だが、笑ったりするんだな。僕はどんな表情をしたらいいのか分からずに、首を傾げながら斜めに頷いた。
「…面白いです」
「成績に大きな影響は出ないが、興味があるならよく勉強しておくといい。この間のテストも鮫島が1番良く出来ていた。私は倫理が好きだから、鮫島にもそう思って貰えたら嬉しい」
そう言う彼は何故だか嬉しそうで、僕は少しばかり面を食らった。
「大学では倫理もだし、哲学とかもいいんじゃないか?鮫島には向いていると思う」
「はあ…そうですかね」
哲学、と言われてもピンと来なかった。哲学者って何をしている人なのか分からないし、僕はデカルトみたいに丸一日部屋にこもって考えごと出来るほど頭が良いとも思えない。
部屋にこもってて突然「我思う故に我あり」なんて普通に思いつかない。思いつかないことを言うから、偉人で哲学者なんだろう。
ふと、教室の外を見ると廊下で眼鏡の子やイラスト部の子たちに絡まれている美奈子が僕の方を見て待っていた。目が合うと、彼女は視線だけで僕に言う。
はやくこっちに来て何とかして、と。
「哲学をやるからと、哲学者になる必要はない。やっておけば見聞は広がるし、それだけでも…」
「あっ、はい!分かりました!考えてみます!」
男性教師の言葉を打ち切り、僕は廊下に飛び出す。本当は彼の言葉の続きが気になっていたが、それよりも美奈子の救出が最優先だ。
「お待たせー!何してんの?」
「あ!明日香だ!美奈子が待ってたよー!」
美奈子を含めた6人ほど集まったグループに僕はいそいで入っていく。背後をチラと見ると、男性教師は何かを言いかけたように僕を見つめ、残念そうに肩を下げて教卓のノートを束ねた。
そうやって自分の可能性も知らんぷりするんだ。
もう1人の自分が怒っている声がした。
だって、僕は天才になんてなれない。僕は凡人、非才な女子高校生。哲学なんか学んだって、僕は何者にもなれやしない。
「明日香、これ」
美奈子がはにかんで僕に新しい手紙を渡す。
「ありがとう」
「いーなー!私も美奈子の絵が欲しい!」
手紙を受け取る僕にイラスト部の子たちが声を上げる。
「ありがとう、大したものじゃないよ」
美奈子はニコニコと笑いながら彼女たちからの賞賛の言葉を浴びる。その様子に、僕は美奈子が穏やかであると判断して胸を撫で下ろす。
僕は美奈子に集中する話題をまとめ、美奈子が傷つかない話題だけを美奈子に繋げた。純粋な褒め言葉や明るい話題は彼女へ。クラスメイトへの愚痴や家族への不満は僕が捌いて、僕でおしまいにする。
僕は美奈子の盾であり、フィルターだ。悪いものを越しとって、綺麗なものだけを美奈子に供給する。
笑顔を貼り付けたまま、私は美奈子を見る。美奈子は私のことを見もしない。
ねえ、美奈子。私が書いた手紙って本当に読んでくれてるの?
私の絵が好きって、本当に思ってる?
フィルターで越しとった黒いものが、心の底へと沈んで溜まっていく。黒くてざらざらしたその感情が私の感情を殺していく。
考えるの、やめなくちゃ。
予鈴が鳴る。それを聞いたみんなが次の授業を受けに、各自のクラスへと散っていく。
「明日香、昼休みいつもの場所で」
美奈子の言葉に私は笑顔を貼り付ける。
「うん!」
昼休み、行きたくないな。美奈子はきっとまた私に悩み事をたくさん話すに違いない。
なんて返そう。笑ってるの疲れたな。でも、私より美奈子の方が不幸なんだ。私が疲れたなんて言ってたら、良くないよね。
4限目は化学だ。覚える気もない暗号を唱える担任教師を横目に、僕は美奈子から貰った手紙を読む。
空を泳ぐグッピーと、足を怪我した犬の絵だった。
手紙には何かを黒く塗りつぶした跡があって、読みづらかったが、強い筆圧で書かれた筆跡は光に当てると何とか読めた。
「私があげたものを返して。私のものなのに、あなたはもらってばかり。返して」
読み解いた瞬間、目眩がした。ああ、読まなきゃ良かった。読まなきゃ良かったのに。
美奈子はきっと、私が彼女の真似をして絵を描いていることを良く思っていない。彼女は唯一無二でいたい人。だから、私がどんなに尊敬してるからと言って影響受けたと言えど、内心は納得してないんだろう。
分かってる。分かってた。私は何者にもなれないから、劣化品しか生み出せないから、創作なんて向いていない。私には絵もなければ、大した話も書けないのだ。
私の中身は空っぽだ。空っぽな私には絵柄がない。だから、誰かの真似をするしかない。真似をするなら、美奈子が良かっただけ。
「アスカさん、絵を描くんですか?どうりで!綺麗なものいっぱい作る人だなあって思ってました!」
どこかからそんな声が聞こえた気がして、僕は顔を上げる。振り返ると、授業を聞いているクラスメイトたちが黒板を見つめていた。
今、誰か僕の名前を呼ばなかっただろうか。いや、気の所為か。
僕は再び前を向く。昼休みが近付く。こんな手紙を貰った後でも、僕は美奈子の前で笑っていないといけない。
ああ、嫌だ。笑っていたくない。ヘラヘラしながら、手紙読んだよごめんね、なんて言えない。美奈子が僕に求めている回答が分からない。
機嫌とらなきゃ。守らなきゃ。自分の感情よりも、美奈子の感情を優先しなきゃ。考えるのはやめよう。脳みそを殺せ、思考を止めろ。
「私もアスカみたいになれるなら、本当はそうなりたい。私ずっとあなたの姿に憧れていたの」
再び声が聞こえて、僕はまた後ろを振り返る。
「…ミズキ?」
口から誰かの名前が出た。
ミズキ?ミズキって誰だろう。
「…鮫島さん、聞いてますか?」
先生に呼ばれて私は我に返る。正面へ向き直ってみると、クラスのみんなが僕を見ていた。
「大丈夫ですか?授業を進めますよ。手紙の交換とかはダメですからね」
「す、すみません…」
苦笑いする担任教師に私は肩を竦め、小さな声で謝罪した。クラスからクスクスと笑い声が上がり、私はますます恥ずかしくなって身を縮ませた。
何をやっているんだろう、授業中に。私の名前を呼んで、素敵だなんて言ってくれる人はこの世にいない。私の話を聞きたいなんて、誰が言うものか。
「アイツ、頭おかしくなったんじゃね?」
「ちょーウケる。つか、あんなのに手紙渡す相手とかいないじゃんね」
黒板を叩く音の合間にクラスメイトが私を嗤う声がひそひそと聞こえた。
頭おかしくなったのかな。なくはない話だなあ。
私はそのまま、ぼんやりと時間が過ぎるのを待った。時計の進みが遅い。だけど、絵を描く気力はもうなかった。
美奈子は怒っているのかな。会いたくないな。
終業のチャイム。本日5回目の起立と礼。私は重たい足で教室を出た。
お弁当はない。母親は高校に入ってから、私のお弁当を作るのをやめた。良かったと思う。残すと親不孝だと罵られるから。
残すくらいなら、食べない方がいい。食べなければ誰も不幸にならない。私も痛い目を見ないで済む。
手ぶらのまま、トボトボと屋上へと向かう。屋上には鍵が掛かっているが、その手前の踊り場が私と美奈子が集まるいつもの場所だ。
踊り場に辿り着くと、美奈子が膝の上にお弁当を広げて待っていた。明らかに機嫌は良くない彼女の顔を見て、私は笑顔を貼り付ける。
「お待たせ。お弁当、美味しそうだね」
彼女の膝の上に乗ったお弁当は手の込んだ、綺麗な盛り付けのご飯だ。何なのか、見ただけではよく分からない。私の母親が中学時代に持たせてくれたお弁当はいつも冷凍食品だったから、創作料理は詳しくない。
「あの人、無駄に料理上手だから」
美奈子は不愉快そうに言いながら、お弁当に箸をつける。
「明日香は今日もお昼抜き?」
「うん、私あんまりご飯食べるの好きじゃないから」
笑いながら、私は美奈子の隣に座った。嘘じゃない。食べて肉がつけば、私の身体はどんどん女性になってしまう。私は自分が好きなロックバンドのボーカルのような、骨ばった身体になりたい。食べない方が気持ちに優しい。
美奈子は苦笑いすると、静かにお弁当を食べ進めた。
「…あの、さ…美奈子もしかして、怒ってるかな」
私は先程の手紙を思い出しながら、もじもじと自分の指をいじる。彼女の顔は怖くて見られなかった。
「返してってその…私、美奈子の絵が好きすぎて、沢山真似しちゃうから、嫌だったかなって!ごめんね、気を付ける」
意を決して美奈子を見ると、美奈子はお弁当を咀嚼しながら不思議そうに私を見ていた。
「うん、明日香だけは私の絵を凄く好きなの知ってるよ」
「えっ…」
思っていた答えと違った。美奈子が眼鏡のあの子を嫌ったのは、自分の絵柄やモチーフを真似するからだと言っていたから、てっきり私もそうなのだと思っていた。
「明日香には自分の絵柄がちゃんとあるよ。私なんかとは違う」
そう言って彼女は笑う。その笑顔に安心して、安心していたくて、私はその話の続きが出来なかった。
それなら、どうしてあんなことを書いて私に渡したの?
美奈子は私に何を奪われたと思っているの?
言葉を飲み込んで、私はただ道化師のように笑った。
「あっ、そういえば、明日香が書いた小説読んだよ」
思い出したように美奈子は傍に置いてあった紙の束を私に返す。それは私が一生懸命書いて、コピー用紙に印字した小説だ。
内容は不思議の国のアリスをモチーフにしたオムニバス形式の物語だ。でも、主人公は何者にもなれない高校生。不思議の国の住民たちの悲劇を目撃し、大きな力を前にねじ伏せられながらも、ハッピーエンドへと向かっていく。
私はこの世界のエキストラにしかなれない。脇役ですらないから、不思議の国のようなキラキラした登場人物を身近に描くことが出来なかった。
それでも、私は伝えたいことを沢山その物語に詰め込んだつもりだった。私の中では力作の部類だ。
私は不思議の国のアリスに込められた思想も、出版までの背景も、作者の生い立ちまで込みで大好きな作品なのだ。
「ど、どうだった?」
期待半分、不安半分で私が尋ねると、美奈子は苦笑いしながら次のお弁当のオカズを口に運んだ。
「うーん…いいんじゃない?不思議の国のアリスってオタク受けいいしね」
その言葉に私は笑顔のまま落胆する。
美奈子はオタクと言う言葉が大嫌いだ。つまり、面白くなかったということ。
そりゃそうだ。こんなに圧倒的な画力と美的センスを持った人に、私みたいな凡人が書いた話を面白いと言って貰えるわけがない。
美奈子はそれ以上、私の小説について話さなかった。私はただ笑顔のまま、美奈子がお弁当を食べるのを見ていた。
ふと、制服のシャツから覗く美奈子の左手首に赤い線があることに気付く。頭から血の気が引く。
「また切ったの!?どうして…何か辛いことがあったの?」
思わず声を上げると、美奈子はまるで予想してたかのように驚きもせず、柔らかく微笑んだ。
「あっ、これ…スケッチブックを母親に捨てられた時にカッとなっちゃって。大したことないよ」
「大したことあるんだよ」
私は美奈子の左手を取る。無数につけられたそのリストカット跡はどれも浅くて擦り傷のようなものだ。だけど、自分の身体を痛めつけなくてはいけないほど、彼女は追い詰められているという事実が辛かった。
可哀想な美奈子。こんなに才能も人望もあるのに、どうして不幸が彼女を襲い続けるんだろう。
美奈子がリストカットをするのは日常茶飯事ではあった。幸い、彼女の傷はいつも跡にならない程度に浅いものばかり。だから、綺麗に治ってくれるのだけが救いだ。
「私で良かったら、話聞くよ」
彼女の手を撫でながら言う。本当は聞きたくなんかなかった。そんな自分が嫌になる。
でも、そう言わないと美奈子が泣いてしまう。美奈子が泣かないように、私は彼女の話に耳を傾けるしか選択肢がない。
美奈子は私の言葉に嬉しそうに目を細めた。
「大丈夫。それより、また明日香の絵が欲しいな」
「そんなの全然!いくらでもあげるよ!」
見もしないのに、本当に私の絵なんかいる?
首を傾げる自分の声を私は無視する。
美奈子は満足度そうに微笑むと、膝の上にあったお弁当の箱を丁寧にしまって立ち上がった。
「次から放課後まで2時間とも選択授業の美術だね。また隣で一緒に描こうよ」
「もちろん!」
私も一緒に立ち上がり、2人で階段を下る。
誰もいない階段の途中で美奈子が私の手を取った。繋いだ手を滑らせ、恋人のように絡める。美奈子は何も言わない。
美奈子は誰もいない場所でだけ、たまに手を繋いでくる。それは私が女性で、彼女も女の子だから、周りの目が気になるのかもしれない。世間体を気にする彼女は、自分が同性愛者だと思われたくなかったのかもしれなかった。
それでも、私の顔は熱くなってしまう。ドキドキと胸が高鳴って、先程までの憂鬱など吹き飛んでしまいそうな程に嬉しい。このまま手が熔けて一体化すればいいのにとすら思う。
友愛表現で手を繋いでくれているなら、申し訳ないな。こんな感情を抱いてしまう自分が恥ずかしい。
だけど、もし私が男の子に生まれていたら…美奈子は私を男性として見て、彼氏にしてくれたんだろうか。もっと手を繋いでくれたんだろうか。考えても無駄なことが頭を巡った。
人通りのある廊下に出ると、美奈子はまた手を解いて離れていく。
「授業の準備してくる。またここで」
美奈子を教室まで送り、私は笑顔で手を振る。自分も画材道具を取りに戻ろうとすると、見知った顔と鉢合わせした。
「よっ!」
真ん中分けの長い髪をした背の高い女性。イラスト部の部長である、親しい先輩だった。
「こんにちは!」
私は彼女のハツラツとした笑顔に釣られて笑う。僕のこの鬱屈とした生活の中で、彼女は気を張らずに接することが出来る数少ない存在だった。
彼女はフッフッフと含み笑いをすると、おもむろに背中に隠していた紙を私に差し出した。
「鮫島氏~、約束通りにイラストを描いてきたぞ!交換だ!貴様も拙者に絵をよこしやがれ!」
「待ってました~!私も描いてきたんスよ!」
先輩とは前々から力作を交換しようと約束をしていた。私は純粋に彼女の絵が好きだ。技術面では美奈子に劣るが、シャープで男性的な絵柄を持つ先輩の力作は素直に欲しかったし、何より接していて楽しい。裏表がない先輩の言葉は、気を使って勘ぐったりしなくていいからだ。
「ちょっと待ってて下さい!先輩のは交換してからサプライズで!」
「あたぼーよ!等価交換しないなら渡さんわ!」
快活に笑うと彼女の言葉を背中に、私は教室に駆け込んで自分の席へと向かう。鞄の中に入れて置いた自分の絵を取り出し、ついでに画材も片手に駆け足で戻った。
「お待たしました!これが約束の品で…」
「よろしい、これを主にさずけよう」
私が絵を差し出すと、彼女は裏返したままの紙を私に差し出した。交換し、いっせーので一緒に絵を見る。
画用紙の中にあったのはコピックで描かれたゲームキャラクターのボーイズラブ作品だ。私はこのカップリングはよく知らないし、ボーイズラブもよく知らなかったが、仲睦まじくご飯を食べさせ合う男性2人のイラストは普通に可愛いと思った。
コピックの滲みが綺麗だ。繊細すぎない、ダイナミックな塗り。丁寧なペン入れを済ませた後に、時間との勝負をしてきたのが、それだけで伝わるし、コピックが使えない私からすれば憧れしかない。
「わー!すげー!先輩コピックうめー!」
「おおー!カラーインクじゃん!鮫島氏、相変わらず色合い渋くてカッコイイわあ!」
私とほぼ同時に先輩が声を上げ、拍手を送ってくれる。
私も先輩が好きなゲームは知っていたので、同じキャラクターを単品で鉛筆画の上からカラーインクで塗った。ペン入れの工程がない分、私の方が手抜きになってしまったような気がして申しないような気がしたが、渋い色合いを出すために苦心したので、褒め言葉がとても嬉しかった。
「あっ、先輩」
不意に聞こえた美奈子の声に、先輩の視線が横に逸れる。美奈子も先輩とは仲がいい。彼女も先輩に駆け寄ると、紙を1枚差し出した。
「これ、先輩の好きなキャラクター描いたので…」
はにかんで笑う美奈子から先輩は紙を受け取ると、それを見て目を見開いた。
「はっ!?えっ!?うま!何これ!相変わらずバケモンかよ~、すげーな!」
先程よりもさらに声を大きくして先輩が美奈子の絵を褒める。その様子を見ながら、私はただ笑顔を作る。
美奈子が先輩に渡した紙には、私が描いたキャラクターと同じキャラクター。画力が全く違う。私なんかじゃ及ばない。
「喜んで貰えて良かったね、美奈子」
会話が弾む2人の隣にいるのが、急激に寂しくなる。
同じタイミングじゃなかったら、もっと先輩と話せたのにな。美奈子の絵と並べられるのは、モチーフまで同じだから恥ずかしいと思った。
「2人ともありがとー!大事にするよー!!」
先輩は細い目をさらに細めて笑うと、手を振って3年のクラスがある階へと戻って行った。予鈴が鳴った。
「…行こう、明日香」
美奈子に促され、私は先輩に手を振りながら美術室へと向かう。
美術室は選択授業なので、クラスが違う美奈子とも一緒に授業が受けられる数少ない時間だ。美術室へと入り、私たちは前に描いた途中になったままのデッサンのキャンバスを回収する。
始業のチャイムが鳴る。美術の教師は奔放すぎて、よくいないので生徒たちが各々で開始する。
キャンバススタンドを立て、大体前と同じ位置に設置して美奈子と並ぶ。美奈子と並んでキャンバスに鉛筆を走らせていると、美奈子が突然自分のキャンバスに鉛筆を突き刺した。
ブスッと紙を貫通する音。驚いて私が顔を上げると、美奈子は鉛筆をキャンバスに突き刺したまま泣いていた。
「えっ、な…」
「明日香が先輩に絵をあげてた…」
何を言われたのか理解出来ず、私は沈黙してしまう。
私が大好きな美奈子の作品に穴が空いている。美奈子自身が突き立てた鉛筆のせいで、真っ黒な穴が空いている。
「明日香は私に絵をくれるって言ったのに…」
ボロボロと泣き出す彼女が絞り出すような声で言う。周囲の生徒たちが私たちを見て、ひそひそと何かを囁いている。
これではまるで、私が美奈子を泣かせたようだ。私は慌てて美奈子の背中をさすった。
「えっ、ごめんね!?先輩とは前々から約束してて、それでさっき廊下でたまたま…」
「明日香が頑張って描いた絵なら私が貰う。先輩なんかにあげないで」
私の言葉を美奈子は上から塗りつぶしていく。
「やっぱり明日香は私のことなんか好きじゃないんだ…ごめんね、いつも隣にいて。ごめんね、いつも付きまとって。ごめんね、絵もいらないよね、ゴミだよね。押し付けてごめんね…ごめんね…」
嵐のような謝罪の連呼。何故、こんなに彼女を謝らせなくてはならないのか分からずに、私はただ首を横に振る。
私が彼女を傷つけた。絵を先輩にあげたから。私がもっと美奈子のことを考えてあげられていたら、美奈子の気持ちを察せていたら。
本当に美奈子は私の絵に価値を感じてるの?見もしない、感想もないそれをどう受け止めたらいい?
美奈子は皆に絵をあげるのに、私には誰かと絵を交換する権利もないのか?
そう疑問が頭を掠めた。いや、そんなのおこがましい。私と美奈子では、美奈子の方がずっと傷ついてる。元気な私が察してあげられなかったことに落ち度がある。
「全部痛えんだよ!痛えって言ってんだから、それを認めてくれよ!度合いとか知るか!」
どこかで子供が喧嘩しているのか、怒鳴り声が聞こえた。それは私の耳を通り抜けていく。
「ごっ、ごめんね!もう美奈子にしか絵は渡さないよ…私は美奈子のことが1番好きだから…」
「嘘吐かなくていいよ」
美奈子が鉛筆をキャンバスに立て、出来上がりつつあった作品をガリガリと塗りつぶしていく。黒く、黒く、深淵のように塗りつぶされ、キャンバスは毛羽立ち、穴が空く。
やめてくれ。私が好きな作品をそんなにしないでくれ。ボロボロになっていく彼女のキャンバスを見ていたら涙が込み上げてきた。
「嘘じゃないよ!本当だから、お願いだから、もうそんなことしないで…」
美奈子の腕を掴んで無理やり止めると、彼女は泣きながら私を睨んだ。
「いいよ、気を遣わなくて」
「本当のこと言ってるのに…信じてよ…」
何故、いつも私の言葉は無視されてしまうんだろう。心の底から賞賛して、愛して、それを言葉で伝えているつもりなのに、美奈子はいつだって受け取ってくれない。
彼女のキャンバスを人質に取られているようだ。私が美奈子に納得してもらえるまで、値上がりを続ける身代金を用意しなくては、あの作品は開放してもらえない。私が身代金を用意出来ないと彼女が判断すれば、あれは塗りつぶされ、破り捨てられてしまう。
なんだか私の好意みたいだと思った。見合わないと思ったら、ぐちゃぐちゃにして捨てられる。純粋な褒め言葉すら、物足りないと捨てられる。
なんで捨ててしまうんだろう。あなたが欲しいと言ったのに。
「本当に私のことが1番好き?」
美奈子が鉛筆を下げて尋ねる。もうなんだか疲れてしまった私は項垂れたまま、力なく頷いた。
「大好きだよ…」
本当に私が好きなのは彼女なのだろうか。私は彼女の才能が好きなだけなんじゃないだろうか。
美奈子の傍にいるのが、これ以上になく苦しかった。早く逃げ出したい。朝の食卓と同じくらいに、美奈子の視線が辛い。
俯いたままの私に美奈子は嬉しそうに微笑むと、私の背中を撫でた。
「困らせちゃってごめんね。一緒に描こう?」
美奈子はそう言うと、キャンバスから絵を剥がしてビリビリに破く。ボコボコで、毛羽立つまで塗りつぶされたキャンバスが散り散りになり、僕の目の前で破片になっていった。
驚きのあまり、僕はすぐに声が出なかった。
「なんで…」
「ん?」
呆然とする私に、美奈子は不思議そうに首を傾げた。
「上手く描けなかったから、最初からにしようと思っただけだよ。これくらいなら、すぐにやり直せるから」
ビリビリに破かれた絵がゴミ箱に乱雑に詰め込まれる。手をパンパンと叩き、美奈子は新しい画用紙に水を貼り、テキパキとキャンバスを新しくした。
それを見ながら、私の中でぐるぐると黒い感情が湧き上がる。
あなたはいいよね。私がひっくり返っても描けないような絵に穴を空けて、ビリビリに引き裂いて、ゴミ箱に捨てたって、もっともっと良い物が生み出せるんだから。私が必死に守ろうとしたそれさえも、何の悪意もなく捨てられるんだから。
あなたはどう答えるんだろう。私の小説を読んでも、何も答えてなんてくれないけれど。
文章中から鮫島 明日香の心情を30文字以内で抜き出しなさい。
さあ、答えを教えてよ。
気が付くと僕は姿見の前に立っていた。高校指定のブレザー、膝丈より少し上のチェックのスカート。ハイソックスにネクタイを締めた、ボサボサの髪をした僕がそこにいる。
酷いうねり毛の黒い髪。毛量が多すぎて、手櫛しようがまるでまとまらない。ボリボリと頭を掻きながら僕は大きな欠伸をする。
何をしていたんだっけ。随分と長い夢を見ていたような気がする。
「明日香ちゃん!はやく降りてきなさい!」
「はーい」
部屋の向こうから母親の声。ああ、今日も学校か。嫌になるな。胃のあたりがムカムカして吐き気がする。
僕の高校のスカートは、これ以上生徒たちがスカートを短くしないようにとの計らいらしく、わざと短く指定されている。遠目から見れば可愛いのだが、僕みたいな毛深い女の子が着たって全然可愛くないし、僕は足を見せたくなかった。寒いし、スカートってすぐに中身が見えるし、スースーする。
ムダ毛の処理を毎日しているせいで、太ももがカサカサしていて荒れている。痛くて痒い。足を引っ掻きながら、僕はクロゼットの扉に引っかけたままにしてある学校指定の灰色をした厚手のトレンチコートを手に取る。
「明日香ちゃん!起きてんの!?」
「起きてるって!」
部屋の外から母親の怒鳴り声が聞こえる。いつもちゃんと返事をしているのに、どうしてこんなに怒鳴られなくてはならないのだろう。僕は急いでカバンを肩に担いで自室を出る。
階段を駆け降り、一階のリビングへと入る。今日も足元が寒い。これだから冬は嫌いだ。
「おはよう」
リビングに入ると不機嫌そうな母親が朝食を運びながら僕に言う。
今日も機嫌が悪いんだな。父親と喧嘩でもしたんだろうか。まあ、いつものことだ。
「おはよー」
出来るだけ自分の不満を隠して、明るい口調を心がける。すると、母親はツンとそっぽを向いてキッチンへと戻っていく。
「おい、お前のスカートしわしわじゃないか」
母親と入れ替わるようにキッチンから出てきたのは僕の父親だ。老眼鏡を掛けた彼は両手にマグカップを持ち、開口一番に僕に叱咤を飛ばす。
「ごめん…」
「ったく、お前は本当にだらしないな。いい加減、アイロンがけくらい出来るようになれ。嫁に行けないぞ」
そんなことを言われたって僕はあまり家事が出来るお嫁さんになどなりたくないのだが。そんな不満も飲み込んで、僕は食卓の席に着く。
席は母親の真正面、父親は僕の隣。引っ越しは学校が変わるタイミングで何度かあったが、この席配置だけは昔からずっと変わらない。
僕の隣に座った父親は、先ほどから手に持っていたマグカップの一つを僕の前に置く。ココアの香り。牛乳を飲んでいれば、絶対に骨粗鬆症にはならないという父親の考えの元で僕は小さい頃から毎朝、乳製品を飲むことを習慣づけられていた。
「もう少ししたら出る時間だろ。はやく飲め」
「はーい」
適当な返事を返しながら、僕はマグカップを手に取るが、そこに浮いている白い粒が目に止まる。
まただ。前にも言ったのに、父親はやっぱり変えてくれない。
「ねえ、これ虫沸いてる」
少し前から出るようになったココアには虫が沸いていた。白くて小指の爪ほどの大きさの白い何かの幼虫だ。カブトムシの幼虫にも、ウジ虫にも見えるそれは気持ち悪くて、飲みたくないとずっと訴えていた。
「沸いてないだろ」
「沸いてるよ!絶対幼虫だもんこれ!」
僕のコップの中身を見ようともしない父親に僕は自分のココアを突き出す。すると、父親は面倒臭そうにそれをチラと見るが、すぐに視線を戻して自分のコーヒーをすする。
「砂糖の塊だろ」
「違う!虫!ほら、頭ついてる!よく見てよ!」
僕はスプーンで虫をすくってピンポイントで父親に見せる。白い胴体の先についた茶色の頭は虫特融のそれだ。そんなものが僕のコップには沢山浮かんでいる。飲みたくない。危機を感じるほどの嫌悪感があった。
僕の必死の訴えに、父親はイライラとした様子でそれをまた見るが、大きな溜息を吐く。
「砂糖だ。飲みなさい」
「やだ!虫だよ!」
「好き嫌いするな!」
父親が僕の後頭部を引っぱたく。大きくて逞しい男性からの一撃は重たく、視界がグラつく。ズキズキと痛む頭に、僕は下唇を噛んで彼を睨む。
「あーもう朝からうるさい!いい加減にしなさい!」
キッチンから料理を手に母親が怒鳴りながらやって来る。彼女は乱暴に父親と僕の前に料理の皿を置くと、不機嫌そうに僕の正面に座って箸を並べた。
「急いでるんでしょ。さっさと飲んで、さっさと食べなさい」
「でも…」
「どうしてそうやって言うことに逆らうの!いいから早くご飯終わらせなさい!」
母親にまで怒鳴られ、僕は歯を食いしばる。
どうせ何を言い返しても無駄だ。毎日、ココアに虫が沸いてると訴えたって出てくるんだ。今更、抵抗したって叩かれる回数も怒鳴られる回数も増えるだけ。こんな無駄なこと、やめにしよう。
僕は虫の沸いたココアの水面を見つめる。白くてブツブツしたそれらを飲むなんて、頭できちんと理解していると胃がキリキリと痛んで吐き気がする。でも、飲まないと怒られるし叩かれる。僕はココアに浮いている虫を見なかったことにして、それを一気に飲み干した。
味なんて分からない。虫が沸いていると考えている方が心にダメージが入る。頭も心も無にして飲み切ると、口の中に小さな粒が残った。
口の中にいるものが何なのか、本当は分かっているから体中に鳥肌が立った。しかし、それを流し込むための水もココアも、もう僕の手元には残っていない。僕は慌てて母親が作ってくれた目玉焼きに手をつけ、ガツガツと飲み込むように口にかき込んで、口の中のものを処理する。
プチプチとした白身の触感。果たしてそれは、本当に白身の触感なのだろうか。それとも、虫の触感だったりするんじゃないだろうか。考えれば考えるほど恐ろしくなって、僕はまた脳味噌の処理を落とす。
もうやめだ。考えるだけ、いいことなんかない。これは全部目玉焼き。それでいいじゃないか。
「おい!こぼしてるだろう!背筋を伸ばして行儀良く食べなさい!」
バシンと父親に背中を強く叩かれて僕は咳き込む。せっかく飲み込もうとしていた目玉焼きと虫が逆流して食道につっかえる。ゲホゲホと口を押さえてむせていると、母親は呆れたように溜息を吐いた。
「本当にダラしない。朝から賑やかすぎて嫌になるわ」
そう言うと彼女はテレビでニュースを付ける。ニュースでは今の政治がどうのとか、今日の天気だとか、僕には全く興味のない内容が流れている。
「制服を洗いたかったら、早めに言え。洗うのは手間がかかるんだぞ」
目玉焼きを食べながら父親が言う。僕の父親は潔癖なのかと思うくらいに洗濯物にこだわりがあって、中学に上がって制服になってからは、僕の服を洗濯する人は彼になっていた。仕上がりはクリーニング顔負けなのだから、器用なのだろう。
「お父さんはいいわよね、働かないでパソコンばっかりやってて。そんなに暇ならクリーニング屋に持ってくくらいすれば、他の家事も出来るのに」
正面に座る母親がぼやく。それに対して父親は何も答えなかった。
答えられないのだ。僕の家は母親の経済力で成り立っている。一銭も稼げない僕らに発言権はない。
「…行ってきます!」
淀んだ空気の漂う食卓に耐えきれず、僕は残った目玉焼きをほとんど噛まずに飲み込み、胃に流し込む。逃げるように席を立つと、母親が目を丸くした。
「ちょっと、まだ早いんじゃない?パンでも食べたら?」
「いらない!大丈夫!」
急かしたり引き止めたり忙しい人だ。それに、食卓でご飯なんて食べてたらまた叩かれる。おちおち味も楽しめたもんじゃない。
僕はトレンチコートを着て、ローファーに足を入れる。もう随分長いこと新しい靴にしてもらえていない。靴底と本体の先は分離し、穴が空いている。
冬場に穴の空いた靴は寒い。足先が霜焼けになるのも慣れたものだ。
「待ちなさい。制服が汚い」
父親が粘着テープのローラーを片手に追いかけてくる。僕の腕を掴んで力づくで引き止めると、僕のトレンチコートにローラーを掛ける。父親の引き止める力が強くて、身体に指がくい込んで痛い。
「身だしなみはきちんとしなさい。そんなんじゃ社会に出られない。清潔感を保ちなさい」
僕の身体をくるくる回しながら、父親はトレンチコートの裏も表も腕も隙なくローラーを掛ける。
清潔感は確かに大事だが、それより穴の空いたローファーを何とかしてもらいたいものだ。しかし、ローファーを買う権限は母親のものであり、僕と父親じゃどうにもならない。
「もういいよー、バス停行くよ」
「しょうがないな…」
文句を言う僕に、父親は深いため息を吐き、玄関の棚に置きっぱなしだった僕のマフラー取って、僕の首に巻いた。
凍えるような寒さが、少しばかりそれで和らいだ。
「気を付けて行くんだぞ」
その後ろから遅れて母親が顔を出す。感情の読み取れない、口を真っ直ぐに結んだ表情で彼女は僕を見ている。
「行ってきます!」
彼らの視線が何だか気まずくて、僕は早々に背を向けて玄関を飛び出した。
慣れた日常。いつものこと。世にいる子供たちも、きっと同じような…いや、もっと劣悪な環境で頑張っているんだろう。僕はすでに嫌気がさしているのに、みんなは凄い。大人になるのは大変だ。
玄関を出ると、自分が吐く息が空気を白く染める。今にも雪が降り出しそうな灰色の空の下、僕は坂の下にあるバス停まで走っていく。
僕の通学路はバスからバスに乗り継ぐ、バスオンリーの道だ。片道2時間。遠いが、バスに乗っている時間は嫌いじゃないから、それほど苦でもなかった。
バスが来るより10分くらい早く辿り着く。マフラーに首を埋め、僕はコートのポケットに両手を入れた。
僕の家は東京にある。東京と言えば聞こえはいいが、周囲には寺と森しかない。道路が舗装されているだけマシかもしれないが、冬の冷え込みは都心より厳しい。
ポケットの中に冷えきった四角い機械が手に当たった。それを僕は中から引っ張り出す。父親に貰った、少し古い音楽プレーヤーだ。
イヤホンを耳に入れ、スイッチを入れる。耳の中へと入り込んでくるのは、聞きなれた男性ボーカルの声。中学時代からずっと聞いている、ロックバンドの楽曲だ。
僕はこのボーカルの人が好きだ。歌詞やメロディも好きだが、一番好きなのは容姿だった。
目を隠すほどに長い前髪をしたウルフカットの茶髪。切れ長で、一般的には地味だと言われる一重の瞳が男性的なシャープさがあって憧れた。皮下脂肪の少ない、骨ばった身体、ギターを弾きながら歌う姿が羨ましいと思った。
やがて、僕しかいないバス停にバスが来る。寒さで出てきた鼻水を吸い込み、僕はバスに乗車する。
1個目のバスはそんなに長くない。30分もすれば目的地。ガタゴトとゆられ、眠気に抗っていると到着する。バスを降り、バス停傍の駅にあるバスロータリーで次のバスを待つ。
2個目のバス停にはもうすでに何人か次のバスを待っている人がいる。スーツや私服の男女。皆、自分がいるべき居場所に向かうためにここでバスを待っているのだろう。
先頭に立つ人はサラリーマンらしき、黒髪の若い男性。社会人になりたてだろうか。パリッとスーツを着こなす彼の顔は眠そうだが、憂鬱などは読み取れない。
ベンチに座って眠っている女性はダッフルコートにマフラーを巻いて、ヘッドホンをしている。スカートから覗く膝が赤くなっていて寒そうだ。大学生だろうか。
僕はバス停に列ぶ一人一人の姿を見ては、彼らの生活を想像する。彼らの背景には色々なストーリーがあるのだろう。どんな家に生まれ、どんな生活を送り、どんな友人を作っているんだろう。
みんな上手くやってるんだろうな。こんな不自由な世界で、どうやって楽しく暮らすんだろう。いいなあ。いいなあ。僕にも物語が欲しいなあ。
僕を必要としてくれる場所はあるのかな。僕もいつか、外に出て1人で生きてみたいな。そしたら誰かが僕を見て、僕の背景を想像したりするのかな。そう考えると、なんだか不思議だ。
バス停の人たちを観察していると、ヒラヒラと白いものが鼻先に落ちた。
「…雪だ」
1人で僕は呟く。口元に笑みが浮かぶ。
時間が流れているんだなと感じる。一刻一刻と進むのその時間は、僕にとって希望だった。
大丈夫。辛かったとしても時間が解決してくれるよ。耐えればいいだけさ。高校だって時間が経てば勝手に終わる。僕の居場所は、きっとここじゃないだけだ。
バスが来る。排気ガスが白い煙になって空気を染めた。フワッと香る身体に悪そうな臭いが僕は好きだ。乗り物は、僕を遠くに連れてってくれるから。
列にならってバスに乗り込む。車内は冷えているが、風がないだけでかなり温かい。僕は真っ先に1番前の高い位置の席に登った。
馬鹿は高い所が好きとはよく言ったもんだ。僕も高い場所が好きだ。外が良く見える。
曇ったガラスを手で拭う。結露したそのガラスの水滴の隙間から街が見える。
僕は心の中で街に別れを告げる。結局ここに帰ってくるのだが、毎日ここでバイバイと心の中でいうだけで、少しばかり気分が晴れるのだ。
バスが走り出す。ガタガタと横にも縦に揺れながら走り出し、見慣れたバス停が離れていく。
このまま学校に行かないで、ずっとずっと遠くへ行きたいな。誰も僕を知らない場所へ行きたい。だけど、僕には遠くに行くお金などない。
ローファーの隙間から入り込む冷たい風で足の指先がかじかむ。赤くなった膝をすり合わせ、僕は自分の身体で暖を取る。
イヤホンの向こうでロックバンドの歌が聞こえる。才能がない僕なんか、眠っていたって誰も怒らないんだろう。そんな歌詞になんだか胸がジクジクと傷んだが、痛くないふりをした。
歌を聞いているうちに眠くなる。バスの中、1人で好きな曲を聞いているとすぐに寝てしまう。家にいると、いつまでも眠れないまま朝が来るのに。
バスに揺られて1時間と20分くらい。バスの中で聞く子守唄はあっという間に時間を進めてくれる。子守唄なんか、生まれて一度も聞いたことなんかないけれど。
眠い目を擦りながら、僕はバスに詰め込まれた人たちが出ていくのを待つ。早く行ったって、どうせいいことなんかない。学校なんか遅刻したい。休みたい。だけど、そんなことをすれば親からの叱責が怖いからしない。
バスを降り、一番近くの駅へと人波に乗って改札へ。定期を改札に触れさせ、奥へと入った。
辺鄙な場所にあるこの駅にいる人間など、そんなに多くはない。毎日乗る時間の電車はすぐにやって来て、僕はそれに乗り込む。
電車だけはあまり好きじゃない。すし詰めで苦しい。ぎゅうぎゅうに押し込まれる中、僕は自分の鞄を両腕で抱きかえる。隣の男性から汗のような臭いがする。僕の体臭に似ていると思った。良い臭いじゃないし、臭いけど、なんだか親近感があって安心した。
電車は1駅。5分も掛からず高校の最寄り駅へと辿り着く。
「降ります!」
まるで道を開けてくれない大人たちに声を上げる。何人かが外に出てくれたが、動かない人たちは肩で押しのける。
吐き出されるように電車を降り、僕は走り去る電車を見送る。
この電車の終点まで行ったら、どこに辿り着くんだろう。いくらのお金があれば、僕はそこに行けるんだろう。
「明日香」
不意に聞こえた声に、僕は振り返る。さっきまで隣の車両があった位置に黒髪の女の子が立っている。
同じ制服、僕よりやや背丈が低い女の子。彼女は密度の濃い、伏せ目がちなまつ毛に縁取られた瞳で、はにかむように微笑んだ。
「あっ!ミズ…」
おはよう、と。声を掛けようとして僕は彼女の名前を口にし掛けるが、違和感で僕は口を閉ざす。
あれ?今、僕は誰の名前を口にしようとしたんだっけ。
「水?喉乾いたの?」
僕の言葉に目の前の彼女が控えめに笑った。
いつも困ったように笑う彼女はとても可愛らしい。彼女のことを忘れる日なんてなかったのに、どうして僕は名前を間違えたりしたんだろう。
「あっ、鼻水で鼻詰まってた!おはよう、美奈子」
「鼻水って言おうとしてたの?ティッシュいる?」
駆け寄る僕に彼女は首を傾げながら、隣に並んだ。
彼女は鞄から取り出したティッシュを僕に差し出す。僕は笑いながら両手で有難く受け取った。
「有り難き幸せ…」
「大袈裟」
鼻水をティッシュでかんだ。盛大に鼻水が出た感じがする。スッキリとした鼻で空気を吸い込むと、冷たい空気が喉を通った。
美奈子は僕の様子をクスクスと笑いながら見ていたが、肩がぶつかるくらいに身を寄せて来る。
「それあげる」
そう言って、彼女は僕の手が入っているポケットに自分の手をねじ込んで来る。それに僕の心臓が一気に心拍数を上げた。
「ちょ、ま、鼻水ついたティッシュ入ってる」
「気にしないよ。それより温かいから、暖とらせろ~」
からかうように笑う彼女は、そう言いつつも決して僕の手を握ったりはしない。同じポケットの中に2人の手が入っただけの状態。そんな状況にヤキモキする自分がいた。
「…手、繋いた方がより暖かくない?」
僕は控えめに美奈子の手を握る。すると、美奈子は逃げるでもなく、僕の手を握り返してきた。
「明日香のポケットって、いつもあったかいよね」
彼女の言葉に僕は自分の平熱が高めであることに内心、感謝する。
冬になると、寒いからと美奈子のスキンシップが増えるのが僕にとっての唯一の喜びだった。
僕は多分、美奈子に特別な感情を抱いていた。彼女が笑うと世界が明るくて、彼女が泣けば暗闇だ。どんな時でも僕は彼女に笑っていて欲しかった。笑顔で、僕を一番近くに置いておいてくれるなら、それほど嬉しいことはない。
僕と美奈子は女の子同士なのに、おかしな話だ。彼女から見て、僕が女の子だからこんなに触れ合ってくれるのかもしれないのに、そんな感情を抱くのは少し罪悪感があった。
僕が男性として生まれていたら、こんな風に彼女を騙しているような気持ちにはならなかったんだろうか。
長い駅のホームを歩き、改札へ繋がる階段を手を繋いだまま降りた。改札を前にすると、美奈子はスッと手を離してポケットから手を抜いた。
彼女の体温が離れていくのが、酷く寂しい。でも、引き止めたりしたら気持ち悪いのかもしれない。彼女はあくまで僕の体温で暖を取りに来ているだけなのだから。
改札に定期を当て、2人並んで改札を抜けた。1人分だけになったポケットの中身が寒い。
「昨日ね、またお母さんに絵を捨てられちゃって…」
学校へ向かう坂を登りながら、美奈子が俯いて話し出す。その話題に僕の心臓が跳ねた。
「そう、なんだ…美奈子は凄く絵が上手なのに勿体ないな。僕がもらえば良かった!」
出来るだけ明るく言葉を返すが、それに対して美奈子は僕の顔をジッと見つめた。その表情から良いものは読み取れない。
「…明日香、いつから僕っ子になったの?」
「え?あ、えっ…」
何も違和感なく使っていた一人称に違和感を初めて覚える。訝しげに僕を見る美奈子の視線が怖い。
まずい。まずいまずいまずい。今の僕が生活出来る場所で、僕の唯一の居場所は美奈子の隣なのに。
機嫌を損ねた?僕の中身が男かもしれないと勘づかれた?気持ち悪かった?どうして?どうしてそんな目で僕を見るんだ?
僕は美奈子の機嫌を損ねないための回答を頭の中で探して回る。正解が分からない。どうしよう。どうしよう!
「あ、あはは…き、気分転換…みたいな…?」
乾いた笑いと共に苦し紛れな回答を出す。すると、美奈子はフウと大きなため息を吐いて、進行方向に視線を戻した。
「あんまりそういうのしない方がいいよ。オタクくさいって思われる」
「そ、そっか…」
一人称まで気を遣わなくちゃいけないのか。僕は内心、めんどくさいと思った。
「ありがとう、気を付けるね」
「うちの学校、なんて言うか…あまり治安良くないから、そんなことやってるとすぐハブられるよ。絵を描く時点でオタク扱いだし、オタクは白い目で見られるんだから」
美奈子の話は正直、共感できなかった。だけど、彼女は僕のことを思って言ってくれているんだろう。僕の父親が僕に手を上げる原理ときっと一緒だ。それが彼女の愛の形なのだとすれば、それを感謝して受け取るしかない。
僕の中学校では、別に美術学校でもないのに絵の技術でクラスのヒエラルキーが決まるという不思議な文化があった。だから、絵が上手ければどんなに性格が悪かろうと友達は出来たし、絵が下手だったらどんなにゴマを擦ろうが媚を売ろうが友達を作るのは難しかった。
僕の母親は漫画家だったが、僕は絵よりも物語を書く方がずっと好きだった。だから、絵にあまり興味はなかったのだが、中学時代にコミュニケーションスキルとして、少しだけ絵心があるくらいに描けるようになった。
なった…いや、なるしかなかった。中学校の僕は絵が下手で、描いたノートを取り上げられて、下手くそだと笑われるだけの人間だった。それが悔しくて、なんで人の絵をあざ笑うような奴がヒエラルキーの上にいるのかが納得いかなくて、僕は見返そうと思って絵を描き続けていた。
絵がここまで描けるようにした感情は、限りなく憎悪に近かった。復讐してやると毎日授業の合間も家にいる時間も絵に費やした。
それでも、所詮はそこまで好きでもないことだ。大して上手くなることもなく、今の高校にいる。
「ねえ、さっきの美奈子の話の続きなんだけど、絵…捨てられちゃったの?」
すっかり言葉を発さなくなってしまった美奈子に、僕は慌てて彼女の話したがった話題を振った。本当は聞きたくなんてなかったけど、機嫌を戻すにはそれしかないと思った。
僕の言葉に美奈子はチラと僕の顔を見ると、またいつもの困ったような笑顔を浮かべて口を開いた。
「私のお母さん、昔は画家を目指してた人って話したよね。あの人から見ると、私の絵なんてゴミでしかないみたい。私が頑張って書き溜めたスケッチブック捨てられちゃって…私の絵ってそんなに下手かな」
「そんなことないよ!美奈子の絵はみんな凄いって言うじゃんか!ぼ…っ私も美奈子の絵が大好きだよ!」
くそ、一人称が邪魔だな。舌を噛みながらも僕は彼女に言葉を尽くす。
僕の言葉に嘘はなかった。美奈子は本当に絵が上手かった。限りなく実力派で、うちのイラスト部でも美術部でも彼女は一目置かれる存在だったのだ。
ただ、彼女の絵に欠点を上げるとすれば…それは、センスの問題だった。彼女の絵は一般受けする絵ではない。それこそ、世界中の憎悪や憂鬱を詰め込んだような、汚くて、醜くて、おどろおどろしいものを描く。モチーフに用いられるのは乾いた血液や、死にかけた動物、枯れた木、廃墟。マイナスなイメージが付くものを彼女は好んで描き、それをいかに気持ち悪く描くかに命を掛けたような絵なのだ。
僕は、彼女のそんな醜悪さが沢山詰まった絵が本当に大好きだった。繊細かつダイナミックな力で描かれるその絵は、僕は類を見ない迫力を感じて、圧倒された。
高校で彼女に出会って、僕は初めて心から思ったのだ。絵が面白いと。
「みんな画力が上がってくると、私みたいな絵になるんだよ。美術の予備校には、私みたいなのが一杯いる。やっぱりゴミなんだよ、私の絵なんて」
「そんなこと言わないで。私は美奈子の絵が一番好きだよ。どんなに上手な人の絵を見たって、凄い画家の絵を見たって美奈子の絵が好き」
「そんなこと言ってくれるの、明日香だけだよ」
嘆いているようで、それでも満更でもないのか彼女は不意にまた僕の肩に自分の肩をくっつけてくる。突然来たスキンシップに僕の顔に熱が集まるのが分かった。
「ねえねえ、寒くなってきた。暖とらせろ」
そう言って美奈子は僕のポケットに手をねじ込んでくる。そんなこと、拒否できるわけがない。僕に拒否権はない。プライドも何もないのだ。純粋にその好意が嬉しくて仕方がなくて、僕の視界が明るくなる。
「鼻水つくよ」
「大丈夫」
僕の忠告など聞きもしないで、美奈子はポケットの中に手を入れたまま歩く。手は繋がない。美奈子はいつだって僕から手を繋がないと、触れ合ってなどくれないのだ。
学校の敷地内の辿りつくと、美奈子はまるで何もなかったようにポケットから手を引き抜いて下駄箱で靴を履き替える。彼女が履いているのはピカピカのローファー。僕はそれが羨ましくて、彼女の隣に並ぶ自分がちょっとだけ恥ずかしくなった。
「明日香はまた私が書き溜めたスケッチブック、もらってくれる?」
廊下を歩きながら、美奈子が言う。僕は大きく頷いて笑う。
「もちろん!お母さんに捨てられる前に私に頂戴!全部全部ファイリングして、大事に保管しとく!」
僕は美奈子の大ファンだ。それは自負している。彼女が授業中にしたためた、文章などあってないような絵の付いた手紙も、彼女が油性ペンで落書きしただけの冷え切ってしまった使い捨てカイロも、お菓子の箱も、どれも僕は宝物だと思って大事に家に保管していた。
最近、美奈子の絵で僕の家にある勉強机の引き出しが一杯になった。溢れそうなくらいのそれが、まるで気になる子からのラブレターのようで嬉しくなる。気持ち悪いかもしれないが、僕にとってはそれくらい美奈子の絵は大事なものだった。
「そんなゴミ、早く捨てたらいいのに」
「ゴミじゃないんだって!」
2年生の教室が並ぶ廊下まで来て、僕は美奈子に手を振る。
「じゃ、また休憩時間に!」
「うん、また手紙描くから受け取ってね?」
僕と美奈子はクラスが違うから、癒しの時間は一旦終了だ。予告された手紙の報酬に僕は満面の笑みを浮かべる。
「楽しみにしてる!僕も描くね!」
そう言って、僕らは解散する。それぞれに別れてクラスに入ると、僕は自分の席へと座った。
「てかさー、細川マジでクソじゃん。キャバやってんでしょー?」
「はあ?マジ?お似合いなんですけど!どーりで妊娠三回目だよ。いい加減避妊しろっての!」
クラスはいつも通り、下世話な話と下品な笑い声で溢れている。僕は頬杖をついて、ぼんやりと騒がしいクラスを眺める。
僕の高校は女子高だが、まるで動物園だ。いつもセックスだの避妊だのピルだのと、彼氏がいるとかいないとか、そんな話ばかりが耳に入ってくる。うんざりする。彼女たちの話は何が面白いんだろう。話の行き着く先はいつも誰かの悪口で、聞いているこっちの気が滅入った。
この学校に僕は編入で入学した。みんなが友達同士でグループを組んでいる中、新入りとして入るのは非常に難易度が高く、あっという間に僕はあぶれてしまった。
正確には、最初はちゃんとグループに所属出来たのだ。僕はこの動物園みたいな、名前を描けば誰でも入れるような学校では頭が良い方で、入学した時の試験では学年で2位だったと聞く。
しかし、化粧っけもなければアイドルにも興味はない、絵と小説ばかり書いている僕にはセックスと恋人の人数でステータスが決まる文化は馴染めず、今では根暗のオタクで陰キャ扱いだ。別にそれでいいし、何も間違ってなどいなかったが。
絵が上手くなれば、誰とでも仲良くなれると思っていた僕は井の中の蛙だった。この世界にはそんな文化はない。ちょっと学校が変わっただけなのに、まるで違う星に来たようだ。
「おい、細川が来たぞ」
「やだーウケる」
不意に入って来たクラスメイトに反応してクラスが静まり返る。そこにあるのは静かな嘲笑と無邪気な悪意。見世物小屋を見に来た観客のような視線がそのクラスメイトに降り注ぐ。
黒いストレートの髪をした、顔に沢山のニキビを作った女生徒が入ってくる。
彼女は僕が入学当時に同じグループにいた編入組の子だ。当時の成績は僕を上回っての堂々の1位。まあ、名前が書けたら入れるような学校でそんなことを争う気もないが。
彼女が席に着く、周囲の女生徒たちがクスクスと笑いながら席ごとを離れて避ける。それを細川と呼ばれる彼女は何も気にしていない顔で座る。彼女の精一杯のプライドだろう。
僕はそんな姿を見て、すぐに目を逸らす。どうとも思わない。みんな通る道だ。
僕と彼女は同じ、それも優秀クラスのヒエラルキー1位のグループに所属していた。成績が近かったことで、細川とはしばらく前後で隣の席だった。どうやって友達を作ろうかと悩んでいた僕に細川が声を掛けたのだ。
1位のグループに所属した時、正直な気持ちを言えば僕は勝ち組だと思った。今までずっと中学時代は絵が下手だとあざ笑われて、友達がほとんどいなかった僕にもついに青春が来るんだと思っていた。だけど、そんなのは夢物語だ。
僕はコミュニケーションツールとして自分が描いた絵を見せ、書いた物語をグループに共有したが、誰も興味を示さなかった。それよりもビジュアル系バンドのボーカルが恰好いいだとか、新しい化粧品がどうのとか、可愛いブラジャーがどこで売ってるとか、そんな話しかしない。興味がない僕は会話に入っていけなかった。
興味を持とうとしなかった僕も悪かったのかもしれないが、僕が唯一持ってる万人向けの話題はスポーツくらいだった。しかし、残念なことにスポーツすら好きな人は少数派だ。僕のグループにスポーツ好きはいなかった。セックスが好きな奴らは沢山いるようだが。
そのうち僕は勉強の成績の割りに脳みそ筋肉だとか、汚いとか、化粧っけがないとかで徐々に周囲が離れていき、決定打になったのは驚いたことにグループのうちの子の一人が好きなビジュアル系バンドについての話題だった。
その子はボーカルが好きで、カッコイイからとビデオクリップのデータを貰った。見たが、僕は地味な男性の方が憧れの対象だったのであまり興味は湧かなかった。綺麗な人なだとは思ったが、僕はそのバンドの中で一番地味な顔をしたギターが恰好良くて好きだと感想を言った。
それだけだ。
たったそれだけだ。次の日から僕はグループの輪から外されて、今の細川みたいに嘲笑の対象になった時はさすがにがっかりしたが、僕もなんだかバカバカしくなって考えるのをやめた。
その時に僕を率先してハブろうとグループメッセージで指令を出したのが細川だ。そんな彼女が蔑まれている現状に、こうやって順番にヒエラルキーの順位が巡るのだと思うと、特段驚くことなどなかった。
そんな高校生活開始数カ月にしてクラスでは逸れ者の位置にいる僕には、唯一の救いがあった。それが美奈子だ。
彼女は違うクラスの子で、僕が持ち歩いていた自作のイラストを他人に見せているのをたまたま全体集会の時に見かけたのだと言う。グループの子に見せたはずだったのに、間接的に美奈子に見せることになるとは思ってもみなかった。
この世に神様はいるんだなと思った。廊下で彼女が所属するイラスト部の人に声を掛けられ、美奈子が気になっている子だと告げられた時は本当に嬉しかった。
あの時も美奈子は自分からは声を掛けて来なかった。ただ周囲が僕と美奈子を繋げるまで、困ったように笑いながら見ていた。
直接声を掛けてくれれば良かったのに。美奈子は引っ込み思案で大人しい。それでも周囲が放っておかないほどの才能と魅力があるのだろう。彼女の周囲には常に人が絶えなかった。
「おはよー、朝礼始めるよー」
クラスに担任の先生が入ってくる。細川を嘲笑していた声が止み、各自がぞろぞろと自分の席へと帰っていく。いつもの光景。あと何日繰り返したら、この不毛な日々が終わるのだろう。
時間なんか飛んでしまえばいい。早く僕を大人にしてくれ。この動物園みたいな牢獄も、ゆっくりとご飯を食べる時間もない窮屈な城も全部いらない。自由になりたい。
適当に起立と礼をこなし、興味のない連絡事項を教師が話しているのを聞き流す。廊下を挟んだ廊下の窓には灰色の空が見える。雪が降る。今年は積もるだろうか。
一限目の授業は現国だった。国語の授業ほど無意味に感じるものはない。何故、日本人なのに日本語を学ばなくてはならないのだろう。
「登場人物の心情を文章中から30文字で抜き出しなさい」
こんなのやる必要があるだろうか。文章中に解答が書いてある。そんなの、抜き出さなくたって分かるだろう。改めてこちらに問う意味などあるのだろうか。そんなにみんなは人の気持ちが分からないのだろうか。
自分が嫌だって思うことを人にしたら嫌に決まっている。自分が嬉しいことは人にしてあげたい。そんなことすら分かっていないのなら、みんなはどうやって周囲の機嫌を取っているのだろう。
僕は問題集に答えを早々にかき込んで、ノートと教科書の下に隠したルーズリーフに絵を描く。今日は誰を描こうかな。美奈子が好きなゲームのキャラクターでも描こうかな。
1時間めいっぱい使って、僕は美奈子が好きなキャラクターを一心不乱に描いた。だけど、僕はどうやったら絵が上手くなるのか良く知らない。デッサンなんてまともにやったことがないし、人間の顔は目と鼻と口が線対象についているってことくらいしか理解できていない。
思うように描けない。思っているようなものが紙の上は創れない。いびつな投身の男性が紙の上に描きあがる。1時間も掛けて、僕はいつだって大したものが描けない。
授業の終わりを告げる鐘が鳴る。僕は早く美奈子の手紙が欲しくてそわそわとルーズリーフを四つ折りにする。
号令に合わせて起立、礼。僕は駆け出すように廊下に出る。
皆がクラスの中で談笑している中、僕は美奈子の教室の前で彼女が出てくるのを待つ。ややしばらくして、美奈子が教室から出てくると、彼女ははにかんだで笑った。
「お待たせ。これ…」
そう言われて渡された彼女からの手紙は可愛らしいひし形に折られている。宛名の部分にはちゃんと僕の名前が書かれていて、僕は大好きな作家から名指しのサインを貰ったような気持ちでそれを受け取った。
「ありがとう!次の授業中の楽しみにする!」
「明日香はいつも授業中に読むんだね」
「一番美味しいオカズを最後にとっておくのと同じ感覚…みたいな?」
照れながら僕は美奈子の手紙を大事にポケットにしまう。それから、僕も自分なりに頑張って描いた手紙を彼女に手渡した。
味気ない四つ折りのルーズリーフ。もっと女の子らしく、折り方とか勉強したら良かったのかな。だけど、なんだか可愛くしたくない自分がいた。
「明日香も描いてくれたの?」
「うん、下手だけど…」
別に彼女と同じくらい上手いなんて驕った気持ちはない。素直な感想をそのまま口にした。美奈子はそれを受け取ると、変わらない笑顔を貼り付けたまま僕のルーズリーフを見てから顔を上げた。
「ありがとう。後で読むね」
「うん!」
美奈子の言葉に僕は強く頷く。美奈子の誉め言葉が欲しかった。別に自分が上手いなんて思っていないけど、彼女が僕の絵を好きだと嘘でも言ってくれればそれで充分嬉しい。少なくとも、彼女は僕の絵に興味を持って声を掛けてくれたはずなんだから、それくらい強請っても許されると僕は思っていた。
そこまで思ってから、僕はふと思い出す。
あれ、でも…美奈子から声を掛けたわけじゃないぞ。美奈子の周りにいた子たちが僕に声を掛けて言ったんだ。美奈子が気になっている子だって。
そんなの些細な問題か。僕は自分の疑問に蓋をした。
「美奈子ー!見てみて!私も絵を描いてきたの!」
別のクラスから他のイラスト部の子たちが顔を出す。彼女たちはこぞって美奈子の傍へと集まると、それぞれが描いた絵を彼女に見せる。
「うん、すごいね。人魚?」
「そう!人魚!ねえねえ、明日香も見て!」
眼鏡の子が美奈子の次に僕にスケッチブックを見せる。そこには美奈子ほどではないものの、綺麗な人魚の絵が描かれている。少なくとも、僕よりは上手い。ただ、彼女の絵は…申し訳ないが僕の好みではない。
彼女の技術は非常に高かったが、なんとも形容しがたい絵を描く。綺麗とか、可愛いとか、醜いとか、繊細とか、そういう尖った言葉を当てはめることが出来ない。正しい位置に目と鼻と口があって、整った投身の模範解答であり、ありふれた個性のない絵柄だった。
美奈子は彼女が苦手だった。彼女は技術力でマウントを取る子だったから、僕もあまり得意ではなかった。イラスト部に入ったばかりの頃、美奈子の隣には彼女がいたので、美奈子が気に入っているという僕を毛嫌いしていたのは薄々感じてはいたのだ。
人柄でなのか、絵柄でなのか知らないが、美奈子は僕がイラスト部に入ってから程なくして隣に僕を置くようになった。最初こそ僕の絵を見て下手だとか、デッサンが狂っているだとか言っていた眼鏡の彼女は、美奈子が選んだのが僕だと理解すると僕の絵を笑うのをやめて、こうして絵の評価を僕にはまで求めるようになっている。
「身体のラインが綺麗だね。さすがだなあ」
そんな前のことを掘り返したって仕方がない。僕は当たり障りのない賞賛を述べる。すると、彼女は得意げな笑みを浮かべて美奈子に押し付けるように絵を渡す。
「ほら、美奈子!明日香が誉めてくれたよ!これ、私の自信作だから美奈子にあげる!」
こうなるとは何となく分かっていた。彼女は僕を通して、美奈子の評価を貰いたいだけ。僕の評価なんて最初からどうでもいいのだ。
美奈子の隣にいたいという気持ちが嫌というほど伝わってくる。僕がいなければ、美奈子の隣はきっとずっと彼女のものだっただろうに、僕がいるせいで彼女の居場所が減ってしまった。だから仕方ない。そう頭で理解していても、ちくちくと何故か胸が痛んだ。
「えっ、あー…」
絵を押し付けられている美奈子は困ったように笑顔を浮かべ、僕へチラチラと視線を送る。
ああ、知っている。この目は僕に要求しているんだ。
私はいらない。あなたが受け取って。
言われてもいないのに、彼女の言葉がありありと僕の脳内で再生される。仕方ない。美奈子は引っ込み思案なんだから、僕が前に立たなきゃ。彼女のか弱い心を守ってあげられるのは、僕だけ。
僕だけでいい。僕だけがいい。僕が守るんだ。それが、僕がこの世にいてもいいと言う免罪符。
「あっ、ねえ、それ凄く素敵だから私が貰いたいな!いいかな?」
眼鏡の彼女と美奈子の話に割って入るように僕は言うと、眼鏡の子は目を丸くした。驚きと困惑で見開かれたが、その表情は一瞬だけ曇ってから、何かを思いついたように彼女はニヤニヤと笑った。
「えー、そんなに?しょうがないなあ…じゃあ、美奈子と明日香でジャンケンして、勝った方にあげる」
うわ、いらんこと言うな。美奈子を守れる確率が二分の一に落ちるだろ。
そう思いつつ、僕と美奈子は顔を見合わせて苦笑いする。全力で美奈子にジャンケンで勝つしかない。
「じゃあ、そうしよっか!負けないぞー!」
台本を読むように僕は言葉を吐く。困ったような笑顔を浮かべたまま、美奈子は渋々とジャンケンの姿勢に入る。
最初はグー。ジャンケンで僕はパーを出す。美奈子はグーだった。
「勝った!貰った!」
眼鏡の子から人魚の絵を奪い取ると、丁度よくチャイムが鳴った。安心したように笑う美奈子と、何故だか満足顔の眼鏡の子は頷いた。
「明日香、おめでとう!また何か描いてくるね!」
そう言い残し、眼鏡の子は嵐のように走り去っていく。美奈子はその背中を見送ってから、ふうと息を吐く。
「明日香、またね」
「うん」
僕は美奈子に手を振り、彼女が教室へと戻っていくのを見守る。
ポケットには美奈子からの手紙。片手には人魚の絵。
欲しくもない絵を貰うのは、本当は心苦しかった。欲しくもないのに貰って、力作だと言う彼女の絵を僕は大事にすることが出来ない。きっと失くしてしまうし、美奈子の評価が欲しかった彼女の願望は何も達成されない。
だからって、捨てることも出来ない。下心はどうあれ、これは眼鏡の子が頑張って描いた作品なのだから。僕は人魚の絵を鞄の中にあるクリアファイルに挟んだ。
僕って何なんだろう。評価も求められていないのに、誰かの力作である絵も大事に出来ないのに。絵も上手くないくせに美奈子の隣にいて。人望もないくせに美奈子が認めてくれたからってイラスト部であぐらかいて、何やってんだ。
じわじわと心の奥が黒く淀んでいくのが分かった。そんな淀む心に僕はいつもの魔法の言葉を唱える。
僕は美奈子を守ったんだ。だから、これでいい。これで美奈子が嫌な思いをしないで済んだんだ。身代わりでいいじゃないか。これは、僕を拾ってくれた美奈子への恩返し。
クラスに戻り、僕は席に着く。次は数学だ。もう数学なんて記号の名前くらいしか分からない。
教師が教室に入ってきて、恒例行事を終える。僕は美奈子からもらった手紙を開き、教師の言葉を聞き流しながら目を通す。
そこに描かれた絵は花畑の中で花冠を付けた女性が座り込み、悲痛な表情で泣いていた。女性の身体はガリガリにやせ細り、衣類の隙間から見える肌には痛々しい引っ掻き傷がある。
「もうこんな毎日いやだ。はやく消えてなくなりたい」
絵に添えられた文字を読み、僕は恐怖に背筋が凍った。
また美奈子に何かあったんだ。それとも、僕が何かした?僕はまた美奈子を守れなかった?
繊細で力強いその絵から絶望が伝わってくる。どうしようもない苦しみ。そぎそぎと肌が剥がれ落ちるような感覚がした。
美奈子はいつも人前では明るく、僕の前でだけ弱音を吐く。明日香しかいないんだと泣いてすがって、どこにも行かないでと泣く。
こんなに何もない僕に、彼女だけが意味を求めてくれる。彼女の求めるのが弱音を吐く場所で、僕を盾にすることならば、僕はそれをするしかない。僕にはそれしか価値がない。たとえ彼女の汚い感情のゴミ箱だろうと、僕がイラスト部に受け入れられているのは美奈子が隣にいてくれるからだ。
知ってるんだ、本当は。強がってクラスメイトをバカにして、達観したフリしたって本当は居場所が欲しい。この狭い世界の中で、僕の居場所は美奈子の隣だけ。あの眼鏡の子から奪い取ってまで手に入れた居場所を守るために、美奈子のためだって言い訳しながら、僕は毎日惨めたらしくすがりついている。
僕は醜い。中身も外見も何もかも。
「明日香と二人で話したい」
手紙の端に書かれたその一言で僕は我に返る。
僕には弱音なんか吐いている暇はない。美奈子が弱っている。僕を頼ってくれているんだ。早くこんな場所から抜け出して、美奈子に会いに行かなくちゃ。
僕の気持ちばかり急くが、時間は簡単には進んでくれない。ソワソワとしてばかりで絵を描く気にもなれない僕はただ、頭の中で美奈子の身に起きた恐ろしい出来事を想定し、対策を練る。
美術の予備校で彼女の絵を酷くけなす子がいたのだろうか。家族に何か言われたんだろうか。そういえば、昔に一緒に同人活動をしていた女性が酷い彼氏に掴まって、気を病んで精神病院に入ってしまったとも聞いた。その関係だろうか。
美奈子の周囲の話は聞けば聞くほど、恐ろしく不幸が頻発していた。彼女が描いた絵が原因でネットにスレッドが立って炎上したとか、毎日みたいに電車で痴漢に会ったり、お母さんが彼女に絵が下手なんだから美術系に進むなと反対するとか…些細なことから大きなことまで、僕は毎日毎日毎日、美奈子の不幸話を聞いていた。
僕はあくまでそれらを美奈子の口からしか聞いていないが、美奈子が言うんだからそうなんだろう。
僕にとって彼女は世界で一番不幸な少女だった。才能豊かで見た目も可愛らしく、話も上手で人気者な彼女は表の顔。本当は裏で才能を認められず、苦悩し、日々襲い来る不幸と彼女は戦っている。その戦いで彼女が傷ついて、帰ってくる場所が僕なのだと彼女は話していた。
凄い人なのだ。非才で何もない僕とは違う。だから、何者にもなれない僕は、彼女が飛び立つための土台になれれば、それだけで充分に感じていた。
いや、待てよ。おかしくないか?
頭の中でもう1人の自分が首を傾げる。
何で僕の世界なのに、彼女を中心に回る必要がある?僕はゴミ箱でもなければ、彼女が話す事象を目の当たりにしたこともない。
何故、そう易々と信じるんだ。もっと考えろ。
頭に亀裂が入るような痛みがする。僕は自分の席に座ったまま首を横に振る。
僕にある世界は学校と家だけだ。そんな狭い世界から抜け出す術はない。世界の中心が言う言葉に、どうして疑いを持てようか。
そう考えると、脳みそが過度な処理を止める。考えたって無駄なんだ。頭痛が少しずつ遠のいて、僕は落ち着きを取り戻す。
「では、82ページの問題は宿題だ」
終業のチャイムで僕は顔を上げる。駆け足気味に起立と礼を済ませて僕は急いで教室を出た。
美奈子の教室の前で立っていると、暗い顔をした美奈子が姿を現す。彼女は僕の顔を見るとすぐに駆け寄ってきて、困ったような笑顔を伏せて、控えめに僕の袖を引っ張った。
「さっきの子来ちゃうから、ちょっと下の階に行こう。明日香」
断る権利を持たない僕は従順な犬のように彼女に従い、連れられるままに下の階へと降りた。
階段の途中で美奈子は顔を覆い隠すようにして三角座りでその場にうずくまった。
「…もうやだ…あの子のこと嫌いなのに、いつもいつも絵を押し付けてくる。どういう神経してるんだろ。下手くそのくせに」
あの子とは恐らく眼鏡の彼女だろう。確かに彼女は自信過剰な面はあるし、僕も今までいびられてきた多少の恨みはあれど、彼女の絵は詰られるほど下手ではないと思う。
単純に技術で上手い下手で計るならば…僕の方が下手まである。
「美奈子の好みの絵柄じゃないもんね」
苦笑いしながら、僕は彼女の隣に座る。すると、彼女は顔を上げて今にも泣き出しそうな瞳を拭った。
「だって、さっきの人魚もおかしいじゃん。人魚の下半身は魚なのに、なんで人間の下半身の関節を考えて描いてんの?キグルミじゃないんだから…」
言わんとしてることは分かる。だけど、そんなに美奈子を追い詰めるような内容だろうか。むしろ、人間の関節すらよく分からない僕からすれば、考えてるだけ凄いような気もする。
返答に困っていると、彼女は僕の方を見て睨むような目をした。
「あの子は私の絵を見ると、自分が下手すぎて描く気をなくすって言うの。私が楽しくて描いてるだけなのに、人から何かを奪いたくて描いているわけじゃないのに。それなのに私の絵が欲しいとか、絵を貰って欲しいとか…意味わかんない…」
美奈子の話を聞きながら、僕はどちらの気持ちも分かると思ってしまう。
美奈子の画力は高校生という枠組みで見れば、頭一つ飛び抜けて上手かった。絵を本気で志す者なら、彼女の画力を前に圧倒されるのも仕方ないような気がした。口に出すべきかは別ではあるが。
僕だって、本当は美奈子の絵の隣に自分の絵が飾られたりすると恥ずかしい。僕は美奈子に影響を受けて絵を描いているのだから、自ずと僕の絵は彼女の劣化品になる。
僕に絵のセンスなどない。技術もない。だから、いずれも美奈子の真似事だ。
「彼女は美奈子の絵が好きなんだよ。私も好きだし」
「じゃあ、あの子はなんであんなこと言うの?酷い」
僕の言葉に美奈子がついに泣き出す。僕はどうしたらいいか分からなくなって、慌てて彼女の背中をさすった。
「美奈子は絵が上手だから、羨ましくなっちゃうんだよ!私は美奈子の絵を見ていると、もっと描いてみたいなって思うけど!」
フォローを入れながら、自分が言った言葉に吐き気がした。
あの子の悪評をダシに、美奈子の中の僕の評価を上げようとした。いらない言葉を言ったと思った。自分の胸が締め上げられるようにギリギリと痛む。
我慢。我慢だ。僕だけが彼女を癒せる。癒すために言っただけだ。
本当に?
「ほら!さっきの手紙の絵も素敵だった!辛そうな泣顔とか迫真に迫ってて…美奈子の絵は本当に繊細で美しいよね!僕はこういうの好きだなあ!」
自分の中で湧き上がるモヤモヤとした感情に蓋をするように、僕は急いで褒め言葉を羅列する。
貰った絵をポケットから取り出し、美奈子の前で彼女の絵のどこが素晴らしいか、丁寧に一つ一つ指さして褒める。
恨めしさと憂鬱で涙を零す彼女の瞳が、僕の言葉で少しづつ明るくなる。良かった、機嫌が治ってきた。
「どうせゴミだよ…」
「そんなことないよ!ほら、花の一つ一つの描き込みなんか凄いしさ!」
笑って、美奈子。
「それに、見てよ!この涙とか凄く質感あって綺麗!こんな表現出来るの美奈子だけ」
笑って。笑ってくれ。
「私なんか絶対無理!でも、すっごい憧れる!いいなあ!これ1時間で描いちゃったんでしょ?もっと大きな絵で改めて描いて貰いたいなあ!」
笑え。笑えよ。頼むから、笑ってくれ。
身体が変な震え方をするのに、僕の顔は真逆に満面の笑みを浮かべている。
笑わなきゃいけない。僕が辛がってはいけない。美奈子が泣いてても、弱音を吐いても、僕だけは立っていなくちゃ。呼吸が苦しくなる。早く彼女に笑ってもらわなきゃ、笑顔にしなきゃ。じゃなきゃ、僕が呼吸が出来なくなる。
「どうして人の顔色ばかり伺うんだ?」
低い男性の声が僕の頭の中で響く。
「どうしてお前は怯えてばかりいるんだ?」
そう言ったのは誰の声だ。頭が痛い。ガンガンと割れるように痛い。シルエットだけが思い出せるのに、顔と名前が思い出せない。
僕を見つめていた美奈子が、徐々に笑顔になる。それと同時に僕は安堵する。苦しくなっていた呼吸が楽になり、バクバクと脈打つ心臓の音が落ち着いていく。
「…ありがとう。やっぱり私には明日香だけだね」
予鈴が鳴る。それを聞いた美奈子が立ち上がった。
「いつもごめんね。また次の時間も手紙書くね」
「あっ、うん…」
彼女の笑顔に僕は笑って頷くが、僕は何故だか寂しい気持ちになる。
美奈子は僕の手紙を読んでくれたのだろうか。僕の絵を見てくれたんだろうか。
美奈子を教室まで送り、僕は自分の席に戻る。
3限目は倫理の授業。僕はノートと教科書を開いて、授業が始まるのを待った。
倫理の授業は隔週でしかない、ちょっと珍しい授業だ。僕は唯一、倫理の授業だけは好きだった。偉人たちの言葉はとても難しく、多くが困難と直面して生み出した言葉だ。
彼らのバックグラウンドがまるで、1本の映画のようで聞いていてワクワクする。頭の悪い僕でも倫理のテストだけはいつも上位にいたが、隔週のこの授業はあまり成績に反映されないので、他の多くは授業を聞くのを放棄しているせいで平均点が低いのもあるだろう。
眼鏡を掛けた四角い顔の男性教師が入ってくる。2限目までよりも教室がザワザワしている。皆、自習みたいなものだとタカを括っているからだろう。
起立と礼。着席。
僕は今日の授業の範囲に指定されたページを開く。今日の偉人はデカルトだ。
「さて、授業を始める」
男性教師が話し始めてもなお、クラスのざわめきはおさまらない。おさめようとしたって、おさまらないことを彼は知っているからか注意はしない。
賑やかな話し声が溢れる中で男性教師は教科書を読み上げ、黒板に解説を書いていく。
「デカルトは数学者であり、哲学者であった。彼の母は病弱で、デカルトを産むとその13か月後に死んでしまう。10歳になるとデカルトは…」
騒がしいクラスの中、僕はノートに彼の板書を写していく。デカルトの生涯はやはり複雑で、よくわからない地名や関係者が出てきて難解ではあったが、興味深く聞けた。
「我思う故に我ありと彼は気付く」
デカルトの名言についての解説を前に、半端に授業を聞いているクラスメイトたちから野次が跳ぶ。
「意味わかんねー!」
「天才って頭おかしーもんね!」
ゲラゲラと笑う彼女たちに男性教師はまるで考えることを諦めてしまっているのか、やはり注意はしなかった。
デカルトは終日、炉部屋の中でただひとり閉じこもったのを機に哲学に目覚めたと言う。確かに僕の理解の範疇を超えてはいたが、どうしてそのような思想に至ったのかとても気になった。
デカルトがもし生きていたのなら、たくさん話をしてみたいと思った。どうしてそう思ったのか、順序立てて詳しく教えて欲しい。天才は頭がおかしいと決めつけるのは、飽きるほど話してからでもいいんじゃないだろうか。
…あれ?誰かに僕はそう言ったことはなかっただろうか。
終業の鐘が鳴る。待ってましたと言わんばかりにクラスメイトたちは立ち上がる。
「次回はソクラテスをやる。名言である『無知は罪』について勉強す」
「きりーつ」
男性教師にまるで興味を示さず、日直は被せるように号令をかけた。恒例のそれを終え、クラスメイトたちは欠伸や背伸びをしながら各自のノートを教卓に持っていく。倫理の授業は毎回、ノートを提出すると決まっているのだ。
人混みがなくなるまで僕は席に着いたまま待ち、最後になってノートを提出した。
「鮫島」
苗字を呼ばれ、僕は振り返る。男性教師が僕のノートを見ながら、彼は優しく微笑む。
「倫理は面白いか?」
彼に話しかけられるのは今日が初めてだった。いつも感情が死んだみたいに授業中をする人だが、笑ったりするんだな。僕はどんな表情をしたらいいのか分からずに、首を傾げながら斜めに頷いた。
「…面白いです」
「成績に大きな影響は出ないが、興味があるならよく勉強しておくといい。この間のテストも鮫島が1番良く出来ていた。私は倫理が好きだから、鮫島にもそう思って貰えたら嬉しい」
そう言う彼は何故だか嬉しそうで、僕は少しばかり面を食らった。
「大学では倫理もだし、哲学とかもいいんじゃないか?鮫島には向いていると思う」
「はあ…そうですかね」
哲学、と言われてもピンと来なかった。哲学者って何をしている人なのか分からないし、僕はデカルトみたいに丸一日部屋にこもって考えごと出来るほど頭が良いとも思えない。
部屋にこもってて突然「我思う故に我あり」なんて普通に思いつかない。思いつかないことを言うから、偉人で哲学者なんだろう。
ふと、教室の外を見ると廊下で眼鏡の子やイラスト部の子たちに絡まれている美奈子が僕の方を見て待っていた。目が合うと、彼女は視線だけで僕に言う。
はやくこっちに来て何とかして、と。
「哲学をやるからと、哲学者になる必要はない。やっておけば見聞は広がるし、それだけでも…」
「あっ、はい!分かりました!考えてみます!」
男性教師の言葉を打ち切り、僕は廊下に飛び出す。本当は彼の言葉の続きが気になっていたが、それよりも美奈子の救出が最優先だ。
「お待たせー!何してんの?」
「あ!明日香だ!美奈子が待ってたよー!」
美奈子を含めた6人ほど集まったグループに僕はいそいで入っていく。背後をチラと見ると、男性教師は何かを言いかけたように僕を見つめ、残念そうに肩を下げて教卓のノートを束ねた。
そうやって自分の可能性も知らんぷりするんだ。
もう1人の自分が怒っている声がした。
だって、僕は天才になんてなれない。僕は凡人、非才な女子高校生。哲学なんか学んだって、僕は何者にもなれやしない。
「明日香、これ」
美奈子がはにかんで僕に新しい手紙を渡す。
「ありがとう」
「いーなー!私も美奈子の絵が欲しい!」
手紙を受け取る僕にイラスト部の子たちが声を上げる。
「ありがとう、大したものじゃないよ」
美奈子はニコニコと笑いながら彼女たちからの賞賛の言葉を浴びる。その様子に、僕は美奈子が穏やかであると判断して胸を撫で下ろす。
僕は美奈子に集中する話題をまとめ、美奈子が傷つかない話題だけを美奈子に繋げた。純粋な褒め言葉や明るい話題は彼女へ。クラスメイトへの愚痴や家族への不満は僕が捌いて、僕でおしまいにする。
僕は美奈子の盾であり、フィルターだ。悪いものを越しとって、綺麗なものだけを美奈子に供給する。
笑顔を貼り付けたまま、私は美奈子を見る。美奈子は私のことを見もしない。
ねえ、美奈子。私が書いた手紙って本当に読んでくれてるの?
私の絵が好きって、本当に思ってる?
フィルターで越しとった黒いものが、心の底へと沈んで溜まっていく。黒くてざらざらしたその感情が私の感情を殺していく。
考えるの、やめなくちゃ。
予鈴が鳴る。それを聞いたみんなが次の授業を受けに、各自のクラスへと散っていく。
「明日香、昼休みいつもの場所で」
美奈子の言葉に私は笑顔を貼り付ける。
「うん!」
昼休み、行きたくないな。美奈子はきっとまた私に悩み事をたくさん話すに違いない。
なんて返そう。笑ってるの疲れたな。でも、私より美奈子の方が不幸なんだ。私が疲れたなんて言ってたら、良くないよね。
4限目は化学だ。覚える気もない暗号を唱える担任教師を横目に、僕は美奈子から貰った手紙を読む。
空を泳ぐグッピーと、足を怪我した犬の絵だった。
手紙には何かを黒く塗りつぶした跡があって、読みづらかったが、強い筆圧で書かれた筆跡は光に当てると何とか読めた。
「私があげたものを返して。私のものなのに、あなたはもらってばかり。返して」
読み解いた瞬間、目眩がした。ああ、読まなきゃ良かった。読まなきゃ良かったのに。
美奈子はきっと、私が彼女の真似をして絵を描いていることを良く思っていない。彼女は唯一無二でいたい人。だから、私がどんなに尊敬してるからと言って影響受けたと言えど、内心は納得してないんだろう。
分かってる。分かってた。私は何者にもなれないから、劣化品しか生み出せないから、創作なんて向いていない。私には絵もなければ、大した話も書けないのだ。
私の中身は空っぽだ。空っぽな私には絵柄がない。だから、誰かの真似をするしかない。真似をするなら、美奈子が良かっただけ。
「アスカさん、絵を描くんですか?どうりで!綺麗なものいっぱい作る人だなあって思ってました!」
どこかからそんな声が聞こえた気がして、僕は顔を上げる。振り返ると、授業を聞いているクラスメイトたちが黒板を見つめていた。
今、誰か僕の名前を呼ばなかっただろうか。いや、気の所為か。
僕は再び前を向く。昼休みが近付く。こんな手紙を貰った後でも、僕は美奈子の前で笑っていないといけない。
ああ、嫌だ。笑っていたくない。ヘラヘラしながら、手紙読んだよごめんね、なんて言えない。美奈子が僕に求めている回答が分からない。
機嫌とらなきゃ。守らなきゃ。自分の感情よりも、美奈子の感情を優先しなきゃ。考えるのはやめよう。脳みそを殺せ、思考を止めろ。
「私もアスカみたいになれるなら、本当はそうなりたい。私ずっとあなたの姿に憧れていたの」
再び声が聞こえて、僕はまた後ろを振り返る。
「…ミズキ?」
口から誰かの名前が出た。
ミズキ?ミズキって誰だろう。
「…鮫島さん、聞いてますか?」
先生に呼ばれて私は我に返る。正面へ向き直ってみると、クラスのみんなが僕を見ていた。
「大丈夫ですか?授業を進めますよ。手紙の交換とかはダメですからね」
「す、すみません…」
苦笑いする担任教師に私は肩を竦め、小さな声で謝罪した。クラスからクスクスと笑い声が上がり、私はますます恥ずかしくなって身を縮ませた。
何をやっているんだろう、授業中に。私の名前を呼んで、素敵だなんて言ってくれる人はこの世にいない。私の話を聞きたいなんて、誰が言うものか。
「アイツ、頭おかしくなったんじゃね?」
「ちょーウケる。つか、あんなのに手紙渡す相手とかいないじゃんね」
黒板を叩く音の合間にクラスメイトが私を嗤う声がひそひそと聞こえた。
頭おかしくなったのかな。なくはない話だなあ。
私はそのまま、ぼんやりと時間が過ぎるのを待った。時計の進みが遅い。だけど、絵を描く気力はもうなかった。
美奈子は怒っているのかな。会いたくないな。
終業のチャイム。本日5回目の起立と礼。私は重たい足で教室を出た。
お弁当はない。母親は高校に入ってから、私のお弁当を作るのをやめた。良かったと思う。残すと親不孝だと罵られるから。
残すくらいなら、食べない方がいい。食べなければ誰も不幸にならない。私も痛い目を見ないで済む。
手ぶらのまま、トボトボと屋上へと向かう。屋上には鍵が掛かっているが、その手前の踊り場が私と美奈子が集まるいつもの場所だ。
踊り場に辿り着くと、美奈子が膝の上にお弁当を広げて待っていた。明らかに機嫌は良くない彼女の顔を見て、私は笑顔を貼り付ける。
「お待たせ。お弁当、美味しそうだね」
彼女の膝の上に乗ったお弁当は手の込んだ、綺麗な盛り付けのご飯だ。何なのか、見ただけではよく分からない。私の母親が中学時代に持たせてくれたお弁当はいつも冷凍食品だったから、創作料理は詳しくない。
「あの人、無駄に料理上手だから」
美奈子は不愉快そうに言いながら、お弁当に箸をつける。
「明日香は今日もお昼抜き?」
「うん、私あんまりご飯食べるの好きじゃないから」
笑いながら、私は美奈子の隣に座った。嘘じゃない。食べて肉がつけば、私の身体はどんどん女性になってしまう。私は自分が好きなロックバンドのボーカルのような、骨ばった身体になりたい。食べない方が気持ちに優しい。
美奈子は苦笑いすると、静かにお弁当を食べ進めた。
「…あの、さ…美奈子もしかして、怒ってるかな」
私は先程の手紙を思い出しながら、もじもじと自分の指をいじる。彼女の顔は怖くて見られなかった。
「返してってその…私、美奈子の絵が好きすぎて、沢山真似しちゃうから、嫌だったかなって!ごめんね、気を付ける」
意を決して美奈子を見ると、美奈子はお弁当を咀嚼しながら不思議そうに私を見ていた。
「うん、明日香だけは私の絵を凄く好きなの知ってるよ」
「えっ…」
思っていた答えと違った。美奈子が眼鏡のあの子を嫌ったのは、自分の絵柄やモチーフを真似するからだと言っていたから、てっきり私もそうなのだと思っていた。
「明日香には自分の絵柄がちゃんとあるよ。私なんかとは違う」
そう言って彼女は笑う。その笑顔に安心して、安心していたくて、私はその話の続きが出来なかった。
それなら、どうしてあんなことを書いて私に渡したの?
美奈子は私に何を奪われたと思っているの?
言葉を飲み込んで、私はただ道化師のように笑った。
「あっ、そういえば、明日香が書いた小説読んだよ」
思い出したように美奈子は傍に置いてあった紙の束を私に返す。それは私が一生懸命書いて、コピー用紙に印字した小説だ。
内容は不思議の国のアリスをモチーフにしたオムニバス形式の物語だ。でも、主人公は何者にもなれない高校生。不思議の国の住民たちの悲劇を目撃し、大きな力を前にねじ伏せられながらも、ハッピーエンドへと向かっていく。
私はこの世界のエキストラにしかなれない。脇役ですらないから、不思議の国のようなキラキラした登場人物を身近に描くことが出来なかった。
それでも、私は伝えたいことを沢山その物語に詰め込んだつもりだった。私の中では力作の部類だ。
私は不思議の国のアリスに込められた思想も、出版までの背景も、作者の生い立ちまで込みで大好きな作品なのだ。
「ど、どうだった?」
期待半分、不安半分で私が尋ねると、美奈子は苦笑いしながら次のお弁当のオカズを口に運んだ。
「うーん…いいんじゃない?不思議の国のアリスってオタク受けいいしね」
その言葉に私は笑顔のまま落胆する。
美奈子はオタクと言う言葉が大嫌いだ。つまり、面白くなかったということ。
そりゃそうだ。こんなに圧倒的な画力と美的センスを持った人に、私みたいな凡人が書いた話を面白いと言って貰えるわけがない。
美奈子はそれ以上、私の小説について話さなかった。私はただ笑顔のまま、美奈子がお弁当を食べるのを見ていた。
ふと、制服のシャツから覗く美奈子の左手首に赤い線があることに気付く。頭から血の気が引く。
「また切ったの!?どうして…何か辛いことがあったの?」
思わず声を上げると、美奈子はまるで予想してたかのように驚きもせず、柔らかく微笑んだ。
「あっ、これ…スケッチブックを母親に捨てられた時にカッとなっちゃって。大したことないよ」
「大したことあるんだよ」
私は美奈子の左手を取る。無数につけられたそのリストカット跡はどれも浅くて擦り傷のようなものだ。だけど、自分の身体を痛めつけなくてはいけないほど、彼女は追い詰められているという事実が辛かった。
可哀想な美奈子。こんなに才能も人望もあるのに、どうして不幸が彼女を襲い続けるんだろう。
美奈子がリストカットをするのは日常茶飯事ではあった。幸い、彼女の傷はいつも跡にならない程度に浅いものばかり。だから、綺麗に治ってくれるのだけが救いだ。
「私で良かったら、話聞くよ」
彼女の手を撫でながら言う。本当は聞きたくなんかなかった。そんな自分が嫌になる。
でも、そう言わないと美奈子が泣いてしまう。美奈子が泣かないように、私は彼女の話に耳を傾けるしか選択肢がない。
美奈子は私の言葉に嬉しそうに目を細めた。
「大丈夫。それより、また明日香の絵が欲しいな」
「そんなの全然!いくらでもあげるよ!」
見もしないのに、本当に私の絵なんかいる?
首を傾げる自分の声を私は無視する。
美奈子は満足度そうに微笑むと、膝の上にあったお弁当の箱を丁寧にしまって立ち上がった。
「次から放課後まで2時間とも選択授業の美術だね。また隣で一緒に描こうよ」
「もちろん!」
私も一緒に立ち上がり、2人で階段を下る。
誰もいない階段の途中で美奈子が私の手を取った。繋いだ手を滑らせ、恋人のように絡める。美奈子は何も言わない。
美奈子は誰もいない場所でだけ、たまに手を繋いでくる。それは私が女性で、彼女も女の子だから、周りの目が気になるのかもしれない。世間体を気にする彼女は、自分が同性愛者だと思われたくなかったのかもしれなかった。
それでも、私の顔は熱くなってしまう。ドキドキと胸が高鳴って、先程までの憂鬱など吹き飛んでしまいそうな程に嬉しい。このまま手が熔けて一体化すればいいのにとすら思う。
友愛表現で手を繋いでくれているなら、申し訳ないな。こんな感情を抱いてしまう自分が恥ずかしい。
だけど、もし私が男の子に生まれていたら…美奈子は私を男性として見て、彼氏にしてくれたんだろうか。もっと手を繋いでくれたんだろうか。考えても無駄なことが頭を巡った。
人通りのある廊下に出ると、美奈子はまた手を解いて離れていく。
「授業の準備してくる。またここで」
美奈子を教室まで送り、私は笑顔で手を振る。自分も画材道具を取りに戻ろうとすると、見知った顔と鉢合わせした。
「よっ!」
真ん中分けの長い髪をした背の高い女性。イラスト部の部長である、親しい先輩だった。
「こんにちは!」
私は彼女のハツラツとした笑顔に釣られて笑う。僕のこの鬱屈とした生活の中で、彼女は気を張らずに接することが出来る数少ない存在だった。
彼女はフッフッフと含み笑いをすると、おもむろに背中に隠していた紙を私に差し出した。
「鮫島氏~、約束通りにイラストを描いてきたぞ!交換だ!貴様も拙者に絵をよこしやがれ!」
「待ってました~!私も描いてきたんスよ!」
先輩とは前々から力作を交換しようと約束をしていた。私は純粋に彼女の絵が好きだ。技術面では美奈子に劣るが、シャープで男性的な絵柄を持つ先輩の力作は素直に欲しかったし、何より接していて楽しい。裏表がない先輩の言葉は、気を使って勘ぐったりしなくていいからだ。
「ちょっと待ってて下さい!先輩のは交換してからサプライズで!」
「あたぼーよ!等価交換しないなら渡さんわ!」
快活に笑うと彼女の言葉を背中に、私は教室に駆け込んで自分の席へと向かう。鞄の中に入れて置いた自分の絵を取り出し、ついでに画材も片手に駆け足で戻った。
「お待たしました!これが約束の品で…」
「よろしい、これを主にさずけよう」
私が絵を差し出すと、彼女は裏返したままの紙を私に差し出した。交換し、いっせーので一緒に絵を見る。
画用紙の中にあったのはコピックで描かれたゲームキャラクターのボーイズラブ作品だ。私はこのカップリングはよく知らないし、ボーイズラブもよく知らなかったが、仲睦まじくご飯を食べさせ合う男性2人のイラストは普通に可愛いと思った。
コピックの滲みが綺麗だ。繊細すぎない、ダイナミックな塗り。丁寧なペン入れを済ませた後に、時間との勝負をしてきたのが、それだけで伝わるし、コピックが使えない私からすれば憧れしかない。
「わー!すげー!先輩コピックうめー!」
「おおー!カラーインクじゃん!鮫島氏、相変わらず色合い渋くてカッコイイわあ!」
私とほぼ同時に先輩が声を上げ、拍手を送ってくれる。
私も先輩が好きなゲームは知っていたので、同じキャラクターを単品で鉛筆画の上からカラーインクで塗った。ペン入れの工程がない分、私の方が手抜きになってしまったような気がして申しないような気がしたが、渋い色合いを出すために苦心したので、褒め言葉がとても嬉しかった。
「あっ、先輩」
不意に聞こえた美奈子の声に、先輩の視線が横に逸れる。美奈子も先輩とは仲がいい。彼女も先輩に駆け寄ると、紙を1枚差し出した。
「これ、先輩の好きなキャラクター描いたので…」
はにかんで笑う美奈子から先輩は紙を受け取ると、それを見て目を見開いた。
「はっ!?えっ!?うま!何これ!相変わらずバケモンかよ~、すげーな!」
先程よりもさらに声を大きくして先輩が美奈子の絵を褒める。その様子を見ながら、私はただ笑顔を作る。
美奈子が先輩に渡した紙には、私が描いたキャラクターと同じキャラクター。画力が全く違う。私なんかじゃ及ばない。
「喜んで貰えて良かったね、美奈子」
会話が弾む2人の隣にいるのが、急激に寂しくなる。
同じタイミングじゃなかったら、もっと先輩と話せたのにな。美奈子の絵と並べられるのは、モチーフまで同じだから恥ずかしいと思った。
「2人ともありがとー!大事にするよー!!」
先輩は細い目をさらに細めて笑うと、手を振って3年のクラスがある階へと戻って行った。予鈴が鳴った。
「…行こう、明日香」
美奈子に促され、私は先輩に手を振りながら美術室へと向かう。
美術室は選択授業なので、クラスが違う美奈子とも一緒に授業が受けられる数少ない時間だ。美術室へと入り、私たちは前に描いた途中になったままのデッサンのキャンバスを回収する。
始業のチャイムが鳴る。美術の教師は奔放すぎて、よくいないので生徒たちが各々で開始する。
キャンバススタンドを立て、大体前と同じ位置に設置して美奈子と並ぶ。美奈子と並んでキャンバスに鉛筆を走らせていると、美奈子が突然自分のキャンバスに鉛筆を突き刺した。
ブスッと紙を貫通する音。驚いて私が顔を上げると、美奈子は鉛筆をキャンバスに突き刺したまま泣いていた。
「えっ、な…」
「明日香が先輩に絵をあげてた…」
何を言われたのか理解出来ず、私は沈黙してしまう。
私が大好きな美奈子の作品に穴が空いている。美奈子自身が突き立てた鉛筆のせいで、真っ黒な穴が空いている。
「明日香は私に絵をくれるって言ったのに…」
ボロボロと泣き出す彼女が絞り出すような声で言う。周囲の生徒たちが私たちを見て、ひそひそと何かを囁いている。
これではまるで、私が美奈子を泣かせたようだ。私は慌てて美奈子の背中をさすった。
「えっ、ごめんね!?先輩とは前々から約束してて、それでさっき廊下でたまたま…」
「明日香が頑張って描いた絵なら私が貰う。先輩なんかにあげないで」
私の言葉を美奈子は上から塗りつぶしていく。
「やっぱり明日香は私のことなんか好きじゃないんだ…ごめんね、いつも隣にいて。ごめんね、いつも付きまとって。ごめんね、絵もいらないよね、ゴミだよね。押し付けてごめんね…ごめんね…」
嵐のような謝罪の連呼。何故、こんなに彼女を謝らせなくてはならないのか分からずに、私はただ首を横に振る。
私が彼女を傷つけた。絵を先輩にあげたから。私がもっと美奈子のことを考えてあげられていたら、美奈子の気持ちを察せていたら。
本当に美奈子は私の絵に価値を感じてるの?見もしない、感想もないそれをどう受け止めたらいい?
美奈子は皆に絵をあげるのに、私には誰かと絵を交換する権利もないのか?
そう疑問が頭を掠めた。いや、そんなのおこがましい。私と美奈子では、美奈子の方がずっと傷ついてる。元気な私が察してあげられなかったことに落ち度がある。
「全部痛えんだよ!痛えって言ってんだから、それを認めてくれよ!度合いとか知るか!」
どこかで子供が喧嘩しているのか、怒鳴り声が聞こえた。それは私の耳を通り抜けていく。
「ごっ、ごめんね!もう美奈子にしか絵は渡さないよ…私は美奈子のことが1番好きだから…」
「嘘吐かなくていいよ」
美奈子が鉛筆をキャンバスに立て、出来上がりつつあった作品をガリガリと塗りつぶしていく。黒く、黒く、深淵のように塗りつぶされ、キャンバスは毛羽立ち、穴が空く。
やめてくれ。私が好きな作品をそんなにしないでくれ。ボロボロになっていく彼女のキャンバスを見ていたら涙が込み上げてきた。
「嘘じゃないよ!本当だから、お願いだから、もうそんなことしないで…」
美奈子の腕を掴んで無理やり止めると、彼女は泣きながら私を睨んだ。
「いいよ、気を遣わなくて」
「本当のこと言ってるのに…信じてよ…」
何故、いつも私の言葉は無視されてしまうんだろう。心の底から賞賛して、愛して、それを言葉で伝えているつもりなのに、美奈子はいつだって受け取ってくれない。
彼女のキャンバスを人質に取られているようだ。私が美奈子に納得してもらえるまで、値上がりを続ける身代金を用意しなくては、あの作品は開放してもらえない。私が身代金を用意出来ないと彼女が判断すれば、あれは塗りつぶされ、破り捨てられてしまう。
なんだか私の好意みたいだと思った。見合わないと思ったら、ぐちゃぐちゃにして捨てられる。純粋な褒め言葉すら、物足りないと捨てられる。
なんで捨ててしまうんだろう。あなたが欲しいと言ったのに。
「本当に私のことが1番好き?」
美奈子が鉛筆を下げて尋ねる。もうなんだか疲れてしまった私は項垂れたまま、力なく頷いた。
「大好きだよ…」
本当に私が好きなのは彼女なのだろうか。私は彼女の才能が好きなだけなんじゃないだろうか。
美奈子の傍にいるのが、これ以上になく苦しかった。早く逃げ出したい。朝の食卓と同じくらいに、美奈子の視線が辛い。
俯いたままの私に美奈子は嬉しそうに微笑むと、私の背中を撫でた。
「困らせちゃってごめんね。一緒に描こう?」
美奈子はそう言うと、キャンバスから絵を剥がしてビリビリに破く。ボコボコで、毛羽立つまで塗りつぶされたキャンバスが散り散りになり、僕の目の前で破片になっていった。
驚きのあまり、僕はすぐに声が出なかった。
「なんで…」
「ん?」
呆然とする私に、美奈子は不思議そうに首を傾げた。
「上手く描けなかったから、最初からにしようと思っただけだよ。これくらいなら、すぐにやり直せるから」
ビリビリに破かれた絵がゴミ箱に乱雑に詰め込まれる。手をパンパンと叩き、美奈子は新しい画用紙に水を貼り、テキパキとキャンバスを新しくした。
それを見ながら、私の中でぐるぐると黒い感情が湧き上がる。
あなたはいいよね。私がひっくり返っても描けないような絵に穴を空けて、ビリビリに引き裂いて、ゴミ箱に捨てたって、もっともっと良い物が生み出せるんだから。私が必死に守ろうとしたそれさえも、何の悪意もなく捨てられるんだから。
あなたはどう答えるんだろう。私の小説を読んでも、何も答えてなんてくれないけれど。
文章中から鮫島 明日香の心情を30文字以内で抜き出しなさい。
さあ、答えを教えてよ。
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