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7章
3 舞台は繰り返される
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3.
足を引きずるように帰宅する。今日は特に疲れた気がする。穴の空いたローファー、風通しが良すぎてもう爪先の感覚がない。
巻いたマフラーを玄関の棚に適当に戻すと、私はリビングへと顔を出す。リビングでは母親がデスクに向かって漫画のカラーページを作成していた。
「おかえり。ただいまくらい言いなさいよ」
「ただいま…」
もう脳が疲弊しきっていて、眠気のように意識が朦朧としていた。私は適当に言われたことを復唱する。
「晩御飯は7時だから、ちゃんとそれまでに準備しなさいよ」
母親は私に背を向けたまま言う。
私の家の晩御飯はきっちり毎晩、頼んでもないのに7時に固定されている。7時までにはリビングに集合し、ご飯を1時間以内に完食しなければ叱責が待っている。1時間も猶予があるだけマシだが、体調不良や好き嫌いで苦戦したり、残したりした時は鳥肌モノだ。
「今日の晩御飯なに?」
「アンタの好きなオムライスよ」
私は母親の回答を聞いて心底安堵し、胸をなでおろした。オムライスなら付け合せが出る可能性も低いし、数少ない
私が好きなメニューでもある。勝ち確だ。
「アンタは好き嫌いが酷いから、お母さんがわざわざ嫌いなものを出さないようにしてあげてんのよ。優しいお母さんで良かったわね。感謝しなさい」
「ありがとう…」
母親に私は渋々と感謝を述べる。感謝しろと彼女が言う時に、茶化したり否定したりしてはならない。素直に感謝の言葉を言わなければ、人格否定の罵倒が始まる。
静かに息をしよう。機嫌を出来るだけ損ねないように。私は生かされている身。生きている事実に感謝しなくては。
ふと、目の端で母親のデスクの上に自分が印字した短編小説が置かれていることに気付く。
母親は漫画家。つまり、編集社にコネクションがある。私の作品の出来が良いならば、編集社に繋いでもいいと言われていた。
小説家になりたい。私の憧れは芥川賞だった。特段理由はないのだが、芥川龍之介が好きだから何となくだ。
「お母さん、私の小説って読んでくれた?」
自分の短編小説を手に取りながら、私は母親に尋ねる。
この作品は私を買ってくれている英語の教師に褒められたものなので、少しばかり自信がある。英語の教師は文芸部の顧問で、イラスト部と兼任している私を部長に推薦してくれるほど目をかけてくれていた。
私が書いた小説のあらすじは、食肉植物と悪夢アレルギーの獏の恋物語だ。肉が食べたい植物は獏を騙して仲良くなるが、健全な夢しか食べられない獏は自殺志願者だった。自分が健全な夢を食べてしまうせいで、周囲は悪夢しか見られなくなる。
だから、食肉植物に食べて欲しいと獏はお願いするのだが、獏の心優しい内面に恋をしてしまった植物は彼を食べることが出来ない。
ありふれているが、短い文字数でよくまとめたと思う。
母親はチラと私を見たが、すぐに視線をデスクに戻した。
「…読んでないけど、アンタが書いたんでしょ?小説もロクに読まないくせに、いい話なんて書けるわけないじゃない」
「そんな…自信作なんだよ。先生にも褒めてもらった」
「学校じゃ皆、何とでも褒めるのよ。プロの世界はそんなに甘くないから、先生の言葉なんて参考になんないわよ」
母親は私の顔を見もしない。私は自分が書いた小説を握りしめ、とぼとぼと上の階の自室に戻ろうとリビングの戸を開けた。
「小説家も漫画家もアンタみたいじゃなれないわよ。ちゃんと社会に出ても恥ずかしくないように勉強しなさい。後ろ指さされるんだから」
戸を開けたままの私の背中に母親の追撃。私はため息を吐いて、返事もしないまま自室へと帰った。
私の作品は、私みたいな人間が書いているという時点で読むのが無駄だとされてしまうらしい。私の中では映画やアニメやゲームが他の創作物に触れるものとして定番品だが、私は残念ながら人の小説を読むのは苦手なのだ。
小説が読める人間でないと、小説家になる資格はないのだろうか。文章など、書きながら学んでしまってもいいじゃないかと思うのだが…母親に編集社に繋いでもらう線はあまりにも希望が薄いように思えた。
本音を言えば、凄く期待していたのだ。先生に褒められるほどの出来であれば、母親にも認めて貰えるんじゃないだろうかって。そしたら、編集社にも行けて私は大人の仲間入りするんだって。そんな根拠のない夢ばかり見ていた。
まあ、仕方ない。私には何もないのだ。みんなが優しいから、お世辞として褒めてくれただけ。現実は甘くない。そう早く知れただけ良かったじゃないか。
自室に戻り、私はスマートフォンを手にベッドに座り込む。そこには文芸部の子からのメッセージ。
「明日香ちゃん、いつもお疲れ様。この間の獏とお花のお話、凄く面白かったよ~!先生が今回の文化祭で出す冊子の最後は明日香ちゃんのお話にするって話してた。私も賛成!いい冊子にしようね!」
メッセージを読み、私は少しだけ泣きそうになった。この文芸部の子は、私と同じ学年で文芸部の部長をしている。
最初は文芸部の部長には、私が推薦されていた。私が部長なんて出来る自信がないからと辞退したそれを、メッセージの送り主である彼女が快諾してくれたのだ。私は副部長という彼女の一つ下の立場だ。
何故、部長をやらなかったかというと、私はただ部長という肩書きが怖かったのだ。責任が伴うかもしれない肩書きなんて欲しくなかった。なのに、彼女は嫌な顔一つせずに部長としての責務を果たし、私にこんなメッセージまでくれる。
私は文芸部の彼女のことが広い意味で好きだった。仲良くなれたらと思っている。だけど、美奈子が泣いてしまうから、彼女と話す時間は文芸部の時かメッセージくらいなものだ。
「いつもありがとう!そう言って貰えて嬉しいな。私もあなたの新作を楽しみにしてる!文化祭では良い文芸雑誌にして、配布して回ろうね!」
私はメッセージにそう打ち込んで返信する。
美奈子にはこんなやりとりしたなんて言えないなあ。バレたら次は何をされるか分からない。私はため息を吐いた。
「何故、そんなに辛い道を進むの?」
ふと、聞き覚えのある声がした。私が周囲を見回すと、自分の勉強机には白い薔薇のモチーフで作られた陶器素材のペンダントがある。
私はあまり衣服に興味がなかったが、珍しくこのペンダントは欲しくてお小遣いから買ったアクセサリーだった。あまり可愛らしすぎず、むしろ陶器特有の茶錆まで描き込まれた白い薔薇は不気味で、それが逆に良かった。
「そんなに辛いところにいるのなんて馬鹿らしくない?君にはもっと楽しい場所があるのに」
薔薇がクスクスと笑う。ペンダントが言葉を話すなんて、現実的に考えれば有り得ない。私は周囲を見回す。部屋に置かれたオーディオコンポに電源は入っておらず、ラジオがついている風でもない。
私は薔薇のペンダントを手に持って、自分の目線まで持ち上げて観察する。くるくると回るそのペンダントヘッドは喋らない。喋るわけがない。
「明日香ちゃん!そろそろご飯!」
下の階から聞こえた母親の声に私は飛ぶように立ち上がる。いけない、ぼうっとしていて着替えていない。早く行かなくては怒られるし、制服のままでも怒られる。ペンダントを適当に勉強机に放った。
「はーい!」
返事をしながら私は慌てて制服を脱いで、適当な部屋着になる。この部屋着はもう何日洗っていないのかも思い出せない。
古くなってプリントの薄れた白地のパーカー。蜘蛛の柄が描いてある原宿の安物だ。ズボンはカーゴパンツだが、代わりのカーゴパンツを永遠に買ってもらえないので、片膝が丸見えになるまで穴が空いて裂けてしまっている。
臭いとか汚いとかは分からないが、服装としては気に入っている。女の子なのに、と母親に辟易されるギリギリ手前で済んでいるから。
「明日香!」
「後ちょっと!」
ズボンを片足に通したまま、もう片足を通そうとして跳ねながら私は返事をする。何とか着替えを済ませ、駆け足で階段を降りると父親と母親が喧嘩していた。
「アンタはいつになったら働くの!家事くらいやんなさいよ!」
「やっているだろう!どこまで仕事させる気だ!」
「何様よ!一銭も家に入れないくせに!」
母親の言葉に、父親がバンッと机を叩く。ガタガタと食卓の食器が激しく揺れ、私は思わず身をすくめた。
またやっているのか。お金がないのに母親に逆らおうなど無駄だというのに、父親はたまに限界まで来ると怒鳴り散らして怒ってしまう。そして、母親の叱責に耐えかねて、最後は撤退していくのだ。
「…2階で食べる」
父親はそう言うと、食卓に並べられた夕食一人前を手にリビングを出ていく。明らかに怒気を含んだ足音でドスドスと父親が2階に上がり、足音が消えると母親はフウと大きなため息を吐いて自分の席に着いた。
こんな空気になった時、次のサンドバッグは自分だと相場が決まっている。全力で逃げ出したいし、なんなら自分だって2階でご飯を食べたいが、そんなことを言えば何十倍にも嫌味を言われるだろう。
ここは静かに笑顔を浮かべて、丁寧ないただきますだ。私は席に何事もなかったかのように着席し、両手を合わせた。
「わー、オムライス美味しそう!いただきます!」
「明日香ちゃん」
いただきますの呼応が、いただきますじゃないあたりで概ね察しはつく。私は笑顔を貼り付けたまま母親を見る。
母親は頭を抱え、私がオムライスに手をつけようとしている私の姿を蔑むような目で見ていた。
「今の聞いてたでしょ?」
「えっ、あー…」
さっきの光景を前にして、聞いていないとは答えられない。無視したいが、タイミングがあまりに悪すぎた。私はオムライスを口に入れることも出来ず苦笑いする。
「お、お父さんがまた何か言ったのかな…?」
ヘラヘラしながら尋ねる。ヘラヘラしてないとやってらんない。2人の痴話喧嘩なんか、本当はどうでもいいのだ。
離婚も別居も好きにしてくれ。私のことなんか、気にしなくていいからさ。
「あの人、アンタをまた塾にやりたいって言うのよ。大学受験が近いから、テストに備えさせたいって」
「あー、そうなんだ…」
うんざりしたようにため息を吐く母親に私は首を斜めにしながら返答する。
テスト勉強は嫌いだし、受験など二度とごめんだが、正直なところ美奈子が通う美術の予備校には興味があった。美大を受けると言えば、そちらの塾に通わせて貰えるんじゃないかという期待が淡く胸の中に浮かび上がる。
いや、でもこの話って父親に対する批判なんだよな?なんで私の勉強の話から入るんだろう。
母親は腕を組み、同じように足を組んだ。
「アンタって頭悪いでしょう?お母さん、アンタにお金かけるのも期待するのも無駄って分かったの。だから、お金を出さないって言ったのよ。そしたらあの人ってば、あんなに怒って本当に信じられない。自分で働きなさいよ」
至極当たり前のようにスラスラと述べられた喧嘩の理由に、私の脳が処理落ちする。言われた理由が飲み込めなかった。
つまり、父親は私の将来のためにお金を要求したが、母親はそれを無駄だと判断しているからお金を出さなかった。その愚痴を聞いているのが私。
私が聞くべき内容なのか?私が出来損ないで、期待するだけ無駄だと面と向かって言われている。どんなフォローを私は彼女に求められているのだろう。
「ご、ごめんね、頭悪くってさ…でも、絵は興味あるし、頑張りたいから、絵の予備校とかなら…」
「こんな技術で受かるわけないでしょ」
そう言って母親が食卓の隣に置いてあった紙束を掴み取る。乱雑に目の前に広げられたのは、私が友達と作りたいと話していたノベルゲームのキャラクターデザイン一覧だ。
文芸部の子と一緒に考えたノベルゲームで、絵が描けるのが私だけだったから、私が絵を担当することになっていた。自分の絵があまり上手くないとは自覚していたが、文芸部の子たちは喜んでくれた。
それを前に母親に見せたのだ。その時の紙束。紙には見覚えのない赤線が沢山引かれ、まるで間違いだらけのテストの答案用紙みたいに私の絵の上から、母親の絵が描き込まれていた。
「ほら、等身がおかしい。顔もデカい。目の位置離れすぎ、足の間接はこうじゃない。本当にデッサンやる気あるの?美大に行く子たちはもっと前から勉強してるのに、今更習って何になるの」
渡された紙束を見ながら、僕は呆然と描き込まれたそれを見つめる。
私が描けるようになりたい絵は、決して母親のような絵ではない。美奈子に憧れようとも、母親に対しては憧れなど微塵もない。
上手いのだろう、あなたは美大を卒業した。凄いのだろう、売れる漫画を描き続けている。
だけど、私はあなたになりたいとは思わないのだ。私は顔に笑顔を貼り付けたまま、膝の上で拳を作った。ギリギリと握りしめた手の平に爪がくい込んで痛んだ。
「全く、アンタってなんでこんなに気持ち悪い絵ばかり描くのかしら。お母さんみたいに清潔感があって、ノリがパリッと効いてそうな絵柄とは正反対。よれよれで、汚らしくて、みんな不健康そうな顔をしてる」
「その方が…私は好きだから…」
「美奈子ちゃんだっけ?アンタが盲信してる子。確かに上手だけど、暗い絵描くわよね。気持ち悪いものが好きな者同士だから上手くいくのかしら。お母さんには分からないわね」
私の言葉など聞こえていないのか、母親は得意げに鼻を鳴らす。
「まあ、アンタはお父さんの子だから仕方ないわ。せめて、お父さんの顔面だけは似て欲しかったけど、女の子だから仕方ないし。女の子なら結婚すればいいんだから、アンタ本当にラッキーよね」
この話は、元を辿れば父親と母親の喧嘩だっただろう。だけど、脱線した話は戻ったりなどしない。母親が気の向くまま、彼女が気持ちがよくなるように話は気まぐれに変わり、気まぐれが来ない限り終わったりなどしない。
母親は自分で作ったオムライスに手を付ける。機嫌が良くなってきたのだろう。私も震える手でスプーンを手にする。
気にしちゃだめだ。いつものこと。母親は私のことを愛してなどいない。仕方ない、愛される資格が自分にはないのだから。
「アンタの前にお兄ちゃんがいなくて良かったわね。元々、2人産む気だったのよ。でも、あんまりお父さんがアンタを叩くから怖くてねえ…アンタが男の子だったら、今頃お父さんに殺されてたかもしれない。だから、私は産むのをやめたの」
オムライスを口に入れる。ケチャップの味がいつもより薄く感じる。
嫌な話題だ。母親がよく口にする、空想の私の兄の話。この話をされると、私は胃がキリキリと傷む。
「私には今頃、親孝行でお父さんに良く似た容姿端麗な息子がいてね。彼は毎日、私の肩を揉んで優しく言うのよ。『お母さん、いつもありがとう』ってね。食器も洗わず、汚い服ばかり着てるアンタとは違う」
知るかよそんなの。じゃあ、先に産んでれば良かっただろ、お父さんによく似た息子をさ。私は言葉を飲み込む。
空想でしかない兄の存在。その兄は母親が頭で描いただけの理想図だから、勝てるわけが無い。それでも、母親はその兄を愛してやまない。
兄と私をいつも比較する。私はその兄の顔すら知らないと言うのに。
「お兄ちゃんは凄く気が利く子で、お母さんが元気がないとずっと傍で話を聞いててくれるのよ。大企業に勤めて、可愛いお嫁さんを連れてくる。お嫁さんも私のことを優しいお義母さんだって慕うの」
オムライスをくちゃくちゃと食べる母親の唇が醜くておぞましい。この世の何よりも醜くて、目に入れているのが嫌になって目を逸らした。
「アンタ、その後に生まれていたら耐えられなかったでしょ?成績優秀で容姿端麗の兄がいたんじゃ、ヒステリー起こして笑ってなんかいられなかったわね。だけど、私は優しいから、こんな出来損ないの娘も大事に育ててあげてるの。お母さんじゃなかったら、アンタはとっくに死んでんのよ、感謝しなさい」
口に笑顔を貼り付けたまま、私はオムライスを飲み込んだ。まるで泥のような食感だ。粘土でも食べてしまったんじゃないかと錯覚するくらいに、舌が麻痺していた。
満足そうに笑う母親。私も一緒になって笑う。
一緒になって笑って、命令に従うこと。それがこの家を支配する母親のルールだ。
「そうだね、お兄ちゃんがいなくて良かった」
笑いながら、口の端がぴくぴくと痙攣した。それを咀嚼で誤魔化しながら、私はなんとかオムライスを完食する。
完食すると、先ほど入れたばかりのオムライスが逆流してくる。それを唾で飲み込み、せり上がってきてはまた飲み込んだ。
「ご馳走様でした」
なんとか母親の機嫌を取り、私は夕飯を終える。すると、ほぼ同時に私のカーゴパンツに入れたスマートホンが振動していることに気付いた。
あの文芸部の子に送ったメッセージの返信だろうか。何にせよ、ゆっくりと読みたいので食卓からは退散すべきだろう。
食器を洗い場までまとめて運ぶ。そのまま、私は2階へと逃げるように駆け上がった。
洗い物を手伝わない馬鹿な娘だと母親は言うだろうが、私が洗っても汚いだのなんだとの言って洗い直すのだ。評価が変わらないものをやっても意味がない。
自室にたどり着き、ベッドに座る。スマートホンをポケットから取り出し、着信を見ると美奈子だった。
美奈子とは普段あまり、手紙以外ではやりとりしていなかった。美奈子は妙にデジタルが嫌いで、そういったものより手紙でのやりとりを好んでいた。
何となく、届いたメッセージを開きたくないなと思った。だけど、美奈子が呼んでいるのだ。
人望、話術、知性、美貌、運動神経、何もかもが私にはない。母親さえもが同情する出来損ない。誰も求めてくれないなら、美奈子だけが必要としてくれるなら、それに応えなかった時に私の価値は何もなくなってしまう。
そう思い、意を決して私はメッセージを開く。内容はあまりに完結だった。
「ガスを用意したから、今から一緒に死のう」
その完結な文章を前に、私はベッドに背中から倒れ込む。
ああ、そうか。私の命ってこのためだけに存在してたのか。美奈子とガスで心中するためだけに、私は生まれてきたのか。
なんだか笑えてきた。どこにも私の居場所なんかない。寂しいから一緒に死んでと言える程度の存在だ。心中相手なんか、誰でもいいんだろうと今になって知る。
だって、私なら美奈子にそんなことは絶対に言わない。あなたの新しい作品が遺せないなんて、そんなに悲しいことはない。
私は美奈子の未来が見たい。だけど、美奈子は私の未来になど興味なんかないんだ。
「そんな辛いばっかりの世界、やめちゃおうよ」
さっきも聞こえた、聞き慣れた声がした。
「やめちゃおう。忘れちゃおう。逃げたっていいんだ」
私はベッドから起き上がる。周囲を見回すと、私の勉強机で何かが動いた気がした。
勉強机に散らばった大量の紙。修正だらけのキャラクターデザイン画と、書き終わった小説。そして、美奈子から返してもらった原稿中の不思議の国のアリス。
私はその原稿の上に手を置いた。ずらすように上へと手で滑らせると、原稿の下には先ほどの白い薔薇のペンダントがあった。
陶器で出来ているはずの白い薔薇が蠢く。まるで蕾を咲かせるように剥かれた中央にはエメラルドグリーンの瞳が現れ、それは優しく微笑むように私を見た。
「おいで、僕らが君を受け入れるよ」
その様子に不思議と驚きはなかった。私はペンダントに手を伸ばす。
「アスカ、君はこうして私の世界へとやってきた」
パッと目の前が暗くなる。真っ暗な空間の中、椅子などないはずの場所でルイスが足を組んで座っている。
彼の手には不思議の国のアリス。それに目を通していたようだったが、彼は本を閉じて私を見た。
「最初はリストカットから…いや、アームカットと言うべきか?」
すぐに脳みそが追いつかないままの私を前に、彼はただギザギザの歯を見せて笑っていた。
「17歳の時、君は初めてリストカットで自殺を試みた」
ルイスがつま先で存在するかも怪しい床を叩いた。すると、黒い波紋が起こり、私の周囲に大量のカッターナイフが現れた。
地面に落ちたそれらはどれも血にまみれ、物によっては刃を替えすぎて中身がほぼないものまである。数は10を軽く超え、一体何本あるのかはパッと見で判断が付かなかった。
ルイスは続ける。
「だが、現実は非情だ。そんな生ぬるいやり方じゃ人間は死なない。君もそう理解するまで時間はかからなかった」
自分の左手首に次々と深い切り傷が現れる。しかし、血を流すその手首より、首にもっと鋭い痛みがあることに気づいて手を当てる。
ぬるぬるとした生暖かい液体が首から肩を伝い、胸まで流れる。頭が痛い。ジクジクとした鈍い痛み。
「君は腕での試し切りを経て、肉を切り裂くコツを学び、どんどんと切り方をエスカレートさせた。ネットの知識で、手首より首だと君は考えたようだね」
彼の言葉に私の周囲に突然、轟音と共に檻が下ろされる。私は驚いて檻の鉄格子を掴み、揺らす。ガシャガシャとそれは金属音を鳴らすが、一向に開く気配はない。
「君の両親は、自殺未遂を繰り返す君を精神異常者だと判断した」
私は背後を振り返る。そこには患者服を着た女性たちと、ベッドが散らばるように入っていた。
「鮫島さん、イケメンだよね。一緒にお散歩しよう」
「鮫島さん、一緒にご飯食べよう?」
「あなたのこと気になってたの」
女性たちは虚ろな目で私を取り囲み、私の手を、肩を、服を掴んで引っ張った。彼女たちが何を求めているか、その目を見ればすぐに分かる。
愛だ。
私を愛してと、みんなが私を見ている。
「明日香は友達じゃないから」
檻の向こうに美奈子が見えた。彼女はそう言って私から背を向ける。
「待って!美奈子!待って!置いてかないで!」
美奈子に向かって叫び、檻の外へ出ようとするが患者服の女性たちが邪魔をする。美奈子を追いかければ追いかけただけ、彼女たちの輪へと誘導される。海のように波打つその人だかりは生ぬるく、気持ち悪かった。
「君は美奈子の心中を拒否し、美奈子はそんな君を捨てた」
私はその場でしゃがみこむ。それを覆うように女性たちは私を取り囲み、笑い、各々が私を取り合うように引っ張ったり押し込んだりする。
怖い。皆が私から愛を搾取する。機嫌を取れと、自分の気持ちを共有しようと、皆が私を身体の一部に取り込もうとする。
彼女たちも私の母親と同じだ。自分に信者を作ろうとする。カルト宗教の勧誘にも似た、押しつけがましくて無邪気な愛。
愛して。愛さないで。あなたの愛じゃない。それでも、私は愛されたい。
わがままなのは私も同じ。愛して欲しいのに、欲しい愛はそれじゃない。
「その後に君が送られたのは精神科にある閉鎖の女性病棟。中性的な見た目をした君の容姿は奇異な目で見られ、好意を寄せられたね。多くから愛を求められ、君には病棟ですらプライベートはなかった」
ジリリリリリとけたたましいベルが鳴る。私を取り囲んでいた女性たちが逃げるように去り、看護師たちが走り込んでくる。
「アンタたち、いい加減にしなさい!頭おかしいくせにどこほっつき歩いてんのよ!」
看護師は私の手を取り、無理やり立たせる。私の首からは大量の血が流れているのに、彼女たちはまるで気にしない。
「汚いガーゼ」
私の首に貼ってあったガーゼを乱暴に取り払うと、看護師はそのままゴミ箱に捨て、私の腕を無理やり掴んでベッドへと押し込んだ。
「優しいお父さんとお母さん、親戚の方がいるのに何に文句あるの。恵まれた身分、幸せなくせに、ないものねだり。本当に呆れるわ」
「ガーゼ…」
私は首を押さえながら声をひねり出す。
「ガーゼを下さい…」
「死にたかったんでしょ?」
私の言葉に看護師は鼻で嗤うと立ち去っていく。手を伸ばすが、その背中は黒い背景に溶け込むように消えた。
「君の怪我は20針もの大怪我だった。病院に運ばれた時、傷を縫った外科医からは2日に1回のガーゼの交換が指示された紙があったのに、閉鎖病棟でガーゼを替えてくれる人などいなかったね」
檻の向こうでルイスはまるで実験動物を見るように、興味深そうに私を見ていた。
「汚れた血まみれのガーゼ、週1回だけ15分間のみ許されたシャワー。臭い便所に、便が出ていないと知られると無理やり飲まされる下剤。そこは家畜みたいな暮らししかない地獄だった。君は頭がおかしいからと、外出すら許されない。インターネットは禁止。あるのは本と喧騒、看護師からの罵倒と罹患者たちからのラブコールだ」
ベッドに座る私の両手の肌が、次第に黒くなっていく。着ている服は黒い燕尾服になり、自分が座るベッド以外の物体が消えてなくなった。
「君は耐えきれなかった」
浅黒いその肌はどこか既視感がある。私はベッドから立ち上がり、ルイスに向き直る。
彼は私の姿を見て、ギザギザの歯を鳴らすように笑った。
「そして、初めて来たんだ。私が作った不思議の国へと」
ルイスがつま先で床を叩くと、パッと世界が明るくなる。私の目の前に大勢の人が膝まづいている。彼らは祈るように両手を折り、私に頭を垂れていた。
「お願いします、辛いことを忘れさせて下さい」
私の身体は何の迷いもなく、そう願った人の手を握る。そして、同じように願う。この人の苦しみがなくなりますようにと。
「君は眠り鼠だった。何十人もの記憶を消した。皆にとって自分は逃げ込めるような救いであるべく、君は大勢に尽くした。大勢が辛い出来事を忘れ、笑顔になった」
手を握った人は笑顔を浮かべて立ち上がる。その笑顔を見て、私も笑った。
でも、本当にこれでいいのか?
本当に幸せなのか?
「君は楽園を築いた。白と黒のチェスの国。皆が君を慕い、辛いことがあるたびに君に頼った。この楽園では君が神だ。君が耳を傾ければ、皆は笑顔になる。元気になる。君もそれでいいと思ったはずだ」
白黒のチェス盤の上で、大勢の人たちが笑い合う。
誰も辛くない。誰も私を詰らない。私を必要としてくれる。寂しくない。現実と違ってここには私の居場所がある。
そう思って笑うと、何故か目から涙が出た。
「でも、誰しもが君を頼るのに、君が泣いても誰も耳を貸さなかったね」
涙が一つ零れると、続けざまに涙がどんどんと溢れてくる。それは次第に嗚咽に変わり、気付くと私はしゃくりあげて泣いていた。
周囲はみんな笑っている。みんなが想う人と手を取り合って踊っているのに、私の手を取ってくれる人はいない。
ああ、そうだ。この時に私は気付いてしまったんだ。私には何も魅力がない。どんなに人に尽くそうが、私が周囲に媚びているだけだから、周囲は私自身に興味がない。
いや、違う。私が空っぽなのだから、周囲だって私が何者なのか分からない。
私はそこにいるだけの偶像だ。都合よく手を差し伸べてくれるだけの、無宗教者が危機の時にだけ縋る都合がいいだけの神様と変わらない。
実態の分からぬ神など、いてもいなくても同じなのだ。
どうしようもなく息苦しくなり、私は、自分の首を掻きむしる。引っ掻き回し、咳き込み、止まらぬ嗚咽にえづいた。
痛い。痛い。痛い。痛い。だけど、喉にでも穴を空けない限り、呼吸など出来やしない。私の口はとうに呼吸することを諦めていたのだ。
「君は選んだんだ。自分から、自分の辛い記憶を消し去ることを」
私は自分の頭に手を当てて、しゃがみこみ、そして祈る。
どうか、どうか、全部忘れさせて下さい。私の過ちも、苦しみも、この世界での出来事も、全てなかったことにして下さい。
「面白い結末を見せてもらったから、私は君に現実に帰る鍵をこっそりと渡した。全てを忘れた君は、不思議そうな顔をしながらもすぐに現実へと帰ったよ」
ルイスの言葉に、私は自分の手の平を見る。そこには金色の手のひら大の鍵があった。
重厚で重みのあるそれは、どこか懐かしさを感じた。
「夢を忘れた君は現実に帰ったが、帰れば夢以外は全て思い出す。生きずらさを抱えたままの君は、閉鎖病棟から抜け出してなお、自殺未遂を続けた」
顔を上げると、ルイスは見世物小屋の珍獣を見るように私を見ていた。
「そして、24歳にして君はついに周囲に発信する。自分の性自認が男であると、男性として振る舞うことへの許しを乞うた」
気付くと私は、僕は目の前の鏡を見ていた。鏡に映る赤茶色のウルフカットの中性的な容姿の男性。彼の首には、大きな切り傷。ダクダクと流れ出る血液を見て、彼は安心したように微笑んだ。
「初めて君は親と戦うことを選んだんだ。確固たる意思で、君は自分らしくあるために、男性になるために様々なこと調べて証拠を集めた。だけど、現実はそう簡単に好転しない」
ルイスは人差し指を立てる。
「一つ、君の親は古い人だ。性同一性障害は染色体異常でしかならないと信じていた。君を娘として育てた母親は、自分の子育てを愚弄されたと激怒し、父親は気の迷いだと笑った」
ルイスは続いて中指を立てる。
「二つ、君は閉鎖病棟に入った精神患者だ。性同一性障害の診断を貰うための専門病院を受診するには、現在の担当精神科医から気の迷いではないと診断してもらう必要があった。担当医は君を信じず、紹介状を書くことを拒否した」
ルイスはそのまま薬指を立てる。
「三つ、君が自分を信じられなくなった。気の所為なんじゃないかと、大勢に反対されているうちに迷いが生じた。疑いは自己嫌悪になり、微かに差し込んだ光明すらもかき消していく」
血が流れ出る首に、鏡に写った男性は更に刃物を突き立てて抉った。抉った痛みに彼は笑い、薬を飲み、再び傷をえぐる。
何度も何度も何度も何度も懲りずに飽きずに刃物を突き立てる。傷が深くなる度に彼は泣きながら笑う。死が近づくことが嬉しくて、誰にも認められなかったのが悔しくて、大嫌いな自分が苦しむ姿が面白おかしくて笑った。
「君はそこから更に3年間戦い、なんとか性同一性障害の診断書は勝ち取ったが、戦争は終わらない。家族を含めた周囲は君を女性の枠にしまい込む。中身が空っぽなだけの、何もない君に意思などないと操ろうとする」
僕の背後に立ち、ルイスは鏡に映る男性の耳元に口を寄せる。ギザギザの歯を見せて、笑った。
「そう…性別が問題なんじゃない。問題なのは、君の中身が空っぽなことだ」
彼の言葉に、僕は目の前の鏡を拳で叩き割る。バキンッと激しい音を立てて鏡は砕け散り、僕の足元に散らばった。
えも言われぬ不快感。それは怒り。違う、自己嫌悪だ。心臓がバクバクと音を立て、僕は自分の胸を掴んだ。
苦しい。呼吸が早くなる。全部全部思い出した。ルイスの言葉に何も嘘はなかった。
僕は、僕自身を信じてあげなかった。だから、僕の現実は何も進んでなどいない。帽子屋が模した母親が僕に言った言葉は、僕が忘れたくて記憶から消してしまっただけだ。
僕はあの時に初めて母親と怒鳴り合いの喧嘩をした。僕の生き方を認めてくれ。僕はあなたの考える理想の娘にはなれないから、もう強要しないでくれと。
「そんな恥ずかしいことやめて。親戚にどんな顔をしたらいいか分からない」
母親はそう言って、泣きながら僕を詰った。
「ただでさえ恥ずかしい娘なのに、ついに頭までおかしくなったなんて、ママはみんなに思われたくない。お願いだから、ジェンダーだろうが何だろうが、もう精神病院になんて行かないでちょうだい。これ以上、変なことを言わないで。私の明日香ちゃんを返して」
その言葉に僕の心が折れたのを思い出す。
男装を始めた僕を見た母親は、ついに僕が自分の子供であると認識することをやめてしまったんだと思った。それだけ、自分が自分らしく振る舞うことが、人を傷つけてしまうのだと思ったのだ。
馬鹿らしい。何が「私の明日香ちゃん」だ。改めて思い出すと虫唾が走った。
ルイスはキシキシと歯を鳴らして笑った。
「ああ、その反応、たまらないね。逃げてばかりの君は、過ぎ行く時間に全ての希望を委ねた君は、27歳にもなって初めて時間が経つことを恐れた。だから、また自殺を計ったのさ。何者にもなれず、何もなし得ずに老いていくのが怖かった。臆病者の君にはぴったりさ。薄っぺらな君の意思は脆弱で、ジャバウォックなんて荷が重い。だからこそ、私は君にジャバウォックを割り当てたのさ」
「何故だ」
僕は鏡に拳を突き立てたまま尋ねる。声が震えていた。
「何故、僕が臆病者だと分かっていて、弱いと知っていてジャバウォックなんて配役を与えたんだ」
「すぐ村人に殺されると思ったからさ。そうでないなら、逃走のプロである君はどう逃げ続けるのかとかね。逃走劇も興味があった」
すぐ村人に殺された数多のジャバウォックたち。彼らも僕と同じだったのだろうか。
最強と名ばかりの配役。配役を貰うからには命を狙われ続けるだけの化け物。その最強の称号は誰が与えた。
僕はただ面白そうにこちらを見ているルイスを睨む。彼だ。配役を決めた彼が、勝手にその設定を作っただけ。そんなこと、ここまで来て気付かないほどの馬鹿ではない。
ルイスは僕の顔を見て、パチパチと拍手を送った。
「しかし、君は変わったね。多くを見つけ、逃げることをやめて戦った。賞賛するよ。何度も世界を創り直したけど、ここまで戦った人はあまりいない。非常に面白かった。ありがとう」
「お前は何なんだ」
拳にくい込んだ鏡の破片が抜け落ち、僕の肌を再生していく。早くボロボロになってしまえと、何度も願った僕の身体はこうも容易く治ってしまう。
「言っただろう。私は面白い話が読みたいだけ」
ルイスはそう言うと、片手に持った不思議の国のアリスの原作を開いて目を落とした。
「私は生まれた時から、耳と触角以外の身体全てが人としてまともに機能しなかった。寝たまま動けない。だけど、脳だけが正常に動いた。これほど退屈なことがあるかい?私は面白おかしく生きていたいのさ」
「だからって、人を弄ぶ免罪符になるとでも?人を貶めるのも大概にしろ!」
「君は勘違いしている」
僕の怒鳴り声をかき消すように、ルイスは言葉を被せて笑った。
「私は人々にチャンスを与えているのさ。この世界は、寝たきりのままでしか生きられない私だけが受けるべき恩恵。私が暗闇に向かい続け、ようやく考え出した人と共有できる夢の世界だ。そんなものに寄生しているのは誰だい?君たちだろう」
本を閉じ、ルイスは笑うのをやめて僕を見る。暗闇で僕を見つめるルイスの瞳は、獲物を狙う猛禽類のように青く淡く光を反射する。
「私が得られなかった全てを持ち得ながら、逃げ回る君たちが私は憎い。どんな生きずらさも、不自由さも、私には体感できる術がない。試練を前にして逃げ回る君たちは愚かだ。歩ける足も、動く手も、何かを見る目も、話せる口もあるくせに、あれこれ理由をつけて逃げ回る。羨ましいよ。嫉妬する。私には一生かかっても得られない権利だ」
「それはお前の感性の話だろ」
彼に僕は失笑する。
ああ、そうさ。僕はどうしようもない臆病者で、逃げてばかりで思考をやめ、助かりたくて、楽をしたくて、ずっとずっと道化をやってきた。
僕の価値を無にしたのは、他ならぬ僕だ。声を掛けてくれる人は確かにいたはずなのに、僕がそれを拒絶した。全部全部、僕が悪い。
だけど、父親からの体罰を最初から恐れないでいられたか。母親の支配から逃れる術が幼い僕にはあっただろうか。「あなたは恵まれている」と誰が洗脳してきた。
世界だ。沢山の呪いを吸い込んだ大人たちが、次世代の子供たちにその価値観を刷り込んでいく。念入りに刷り込まれた呪いを自力で解けるなら、こんなに大勢がルイスの世界に迷い込むだろうか。
これからは僕が選ぶ選択をする。過去も、誤ちも、後悔も、全部受け止めた上で僕は道を歩くのだ。息を吸い込み、僕は口を開いた。
「同じ言葉を返すよ。暗闇と向き合い続けて、こんな世界まで生み出したなんて、まるでデカルトだ。お前の才能が羨ましいよ。こんな世界が自分1人で作れるんだ。嫉妬する」
僕はルイスに向かって拍手を送る。拍手をされたルイスは訝しげに僕を見て、嫌悪に顔を歪ませた。
僕の頭の隅で笑う声がする。煽り方を教えてやるよ。黒髪をした大きな子供の顔が浮かぶ。大丈夫、今はもう彼の名前も顔も分かる。アマネに負けじと僕は中指を立てて、歯を見せて笑った。
「共感性がなさすぎて、お前はこの世界にいる人がどんな気持ちで足掻いて、苦しんで、立ち向かっているのかを知らない。誰の心も理解出来ないから、こんなことが出来るんだろ。お前は世間一般の『可哀想』の枠にすがることしか出来ない。お前の生い立ちに同情するよ。せいぜい、自分が世界で1番哀れなことに酔いしれたらいいさ!同情は気持ちいいか?人を貶めて支配欲は満たされるか?本当に哀れだな!」
痛みは他人と比べてはならないと教えてくれた悪友がいる。人の機嫌を伺うなと叱咤激励してくれた師がいる。僕の正解を見たいと見守ってくれる助言者がいて、世界を維持しようと努力を惜しまない好敵手がいる。
そして、僕の隣を居場所としてくれる大事な友人が僕を待っている。僕の居場所になって欲しい、大事な人。
みんなみんな、覚えている。ルイスが見せた記憶の中ですら、彼らがくれた言葉たちが僕を支えてくれた。彼らの顔が思い出せる限り、僕はもうくじけたりしない。
ルイスは僕の言葉で顔を赤くする。怒りか羞恥か、顔にしわを寄せて歯ぎしりをする彼の顔が面白くて僕は笑う。
ルイスの気持ちは分かる。図星を突かれた時ほど恥ずかしいものなどない。だけど、僕は彼に感情移入などしない。僕は誰でもなく、僕でしかないんだから。
「強気に出たもんだな。私はこの世界の創造主だぞ」
「嫌なものや事実を散々僕に突きつけておきながら、傲慢なもんだ。僕のことを追い出すかい?」
口の端を釣り上げて笑うと、ルイスは自分の気持ちを落ち着けるように大きく息を吸って吐いた。
「ジャバウォック、君のその恥ずかしくて愚かな過去は、君自身がずっとひた隠しにしてきたんだろう。それを隠し通せるからと強気に出てるとすれば、残念ながら後悔になるぞ」
そう言うと、彼はまた床をつま先で叩く。再び黒い波紋が地面を走り、空間が歪んだ。
紫色の光が天井から差し込む。何かと上を見上げると、モヤがかかるほど遥か天空までその紫色の空が続いていた。
何かがゆっくりと落ちてくる。くるくる、ふわふわと落ちてくるそれが僕を見る。目が合い、僕は目を丸くした。
「アスカ!」
落ちてくる水色のスカートの女の子。金色の髪をなびかせて、アリスは僕の名前を呼びながら、ゆっくりとこちらへと落ちてきた。
「ずっと彼女は私と一緒に君の過去の出来事を見ていたよ。声が届かないように、遠くに隔離してね」
ふわふわと落ちてきたミズキを抱きとめる。彼女は僕の顔を見つめる。伏せ目がちなまつ毛に囲まれた水色の瞳で。
ルイスはまた何もないはずの場所で何かに腰掛けるように座った。
「アリスは君の過去に出てくる美奈子によく似ているね。だから、君は彼女を選んだのかい?」
僕は胸に抱いた彼女を見つめる。金色の髪をしているが、彼女の顔は確かに美奈子によく似ていた。
僕を捨てて行った美奈子。引っ込み思案で大人しい、素敵な絵を描く、僕の大事だった人。
「それとも、美奈子を思い出すから君はアリスを直視出来ないのかい?」
彼の言葉に僕はハッとする。彼の言う通り、僕はいつもミズキの顔が直視できなかった。
僕はミズキが好きだ。好きなのに、彼女ほど僕を大事にしてくれる人はいないと分かっているのに、心から信じられない。僕は彼女が少しでも離れていくと感じると恐ろしくなる。僕を捨てて、いつかどこかへ消えてしまうんだろうと、警戒してしまう。
怖いから、必要以上に近寄らない。離れられれば、疑い続ける。僕とこの世界に残りたいとミズキが言った時、僕は何を感じた?
裏切りだ。心中を断られて、僕を捨てて去った美奈子の姿も、僕は裏切りだと感じた。
こんなに想っていたのに。あなたの未来が見たいと思っていたのに。機嫌を取ったのに。尽くしたのに。手を貸したのに。
恩着せがましい愛着と執着。見返りを求めた末の不信感。僕が何よりも恐れた母親と同じ愛情の恐喝を、僕は彼女にしてきてしまったのでないだろうか。
曖昧な僕の現実の話はミズキにしてきた。だけど、そんなのは僕にとって都合よく切り抜きした思い出話でしかない。
僕を立派だと慕ってくれたミズキは、過去まで見て僕をどう思うだろう。一抹の不安が胸を掠める。
いや、過ちは認めなくてはいけない。それがあるから、僕は今こうして立っている。それならば、ミズキに見せた過去を恥じてなんていられない。
ルイスは僕の胸に抱かれたままのミズキに問いかける。
「君が大好きなジャバウォックの全てを見て、君はまだジャバウォックを慕えるかい?」
彼の問に僕は唾を飲み込む。ミズキはルイスを見つめ、口を開いた。
「何も変なところはなかったよ」
予想だにしていなかった彼女の言葉に、僕は彼女を見る。彼女は不思議そうに首を傾げてから、目を細めて笑うと僕の頬を撫でた。
「アスカは凄いね!あんなに大変だったのに、こんなに大きくなっちゃったんだ!カッコイイ!」
そこにいたのは、初めてキャンプ地で出会った時のままのミズキだ。一緒に絵を描いて、作品を作って、笑い合った時のままと変わらない。
思わず僕は笑う。こんなに無様に逃げ回って、一度はこの世界に逃げ込んで、それでも死を望んだ僕を彼女は褒めてくれる。
そうだ、僕はこの世界に来てから何度だって彼女に救われてきた。
誰も価値を見出さなかった僕の絵を見て、話を聞いて、弱音を受け止めて、僕が何度腐ろうと、くすぶろうと、彼女だけはずっと傍にいた。
恐喝にも似た僕の愛情を彼女は受け取ってくれた。嬉しいと笑ってくれた。喧嘩しても、彼女は決して僕の言葉に耳を貸さない日などなかった。
僕が存在する意味を彼女がくれた。本当の意味での僕を彼女が見付けてくれた。ずっとそばにいてくれたから、僕は戦えた。
愛して欲しい。愛されたい。誰でもいいんじゃない。
僕はミズキがいいんだ。
「美奈子に被せて見ていたかもしれないのに、許してくれるの?言い訳つけて逃げ回ったり、恰好悪いところ沢山あったでしょ」
「うーん」
僕の質問にミズキは首を傾げ、また笑った。
「顔が似てるのはどうしようもないし…でも、別にアスカが恰好悪いとは私は思わないかな。頑張って無理してでも笑って、生き抜いて、ここまで戦ってるあなたもカッコイイと思うけど…逃げてるのもちょっと親近感があって、いいと思う!私は好きだよ!」
「なんでも肯定してくれるんだから…」
相変わらず僕を全肯定するミズキに僕は苦笑する。
逃げんなと言い張ってた時期があった僕が、あんな腰抜けだったなんて知れば見損ないそうなものだが、彼女がそう思わないならそれほど有難いことはない。
ミズキが感じたことと、僕が感じたことにズレがあるのは当たり前だ。それで噛み合うなら、それが健全だ。
押し付ける必要なんかない。同一化なんてしなくていい。僕はミズキと別々の人間で、別々だからより一層大事にして尊重したい。
愛情の恐喝はおしまいだ。その因果も、連鎖も、もう終わりにしよう。
ミズキの顔をよく見ると、彼女は目元以外はまるで美奈子に似ていなかったのだと気付く。ミズキはこんな顔をしていたっけ。美奈子に比べて、ミズキの方が大人のはずなのに、美奈子より幼くて可愛らしい顔をしていると初めて思った。
「なら、条件クリアだ。ここから更に君たちの話を掘り下げよう」
興味深そうに僕らの会話を聞いていたルイスは、自身の膝に腕を置いて前のめりになる。
「アリス、君はまだ自分の記憶をよく知らないね。ここからは君の過去の上映会といこう」
「悪趣味だぞ」
「報酬はつける」
僕が唸ると、ルイスは握った拳を掲げ、人差し指と親指以外を開いて見せる。少ない光を反射させて輝くのは、先ほど僕の過去で見たのと同じ、金色の重厚な鍵。
夢から現実へ帰る門を開く、扉の鍵だ。
「私がこの世界の門を開く条件は一つ。上質で濃厚な物語を見たと感じた時だけだ。アリス次第では、使い捨てのこの鍵をわけてあげてもいい」
ミズキの水色の瞳が揺らぐ。透き通るようなその瞳の中で、反射する鍵がキラキラと儚く輝いて見えた。
足を引きずるように帰宅する。今日は特に疲れた気がする。穴の空いたローファー、風通しが良すぎてもう爪先の感覚がない。
巻いたマフラーを玄関の棚に適当に戻すと、私はリビングへと顔を出す。リビングでは母親がデスクに向かって漫画のカラーページを作成していた。
「おかえり。ただいまくらい言いなさいよ」
「ただいま…」
もう脳が疲弊しきっていて、眠気のように意識が朦朧としていた。私は適当に言われたことを復唱する。
「晩御飯は7時だから、ちゃんとそれまでに準備しなさいよ」
母親は私に背を向けたまま言う。
私の家の晩御飯はきっちり毎晩、頼んでもないのに7時に固定されている。7時までにはリビングに集合し、ご飯を1時間以内に完食しなければ叱責が待っている。1時間も猶予があるだけマシだが、体調不良や好き嫌いで苦戦したり、残したりした時は鳥肌モノだ。
「今日の晩御飯なに?」
「アンタの好きなオムライスよ」
私は母親の回答を聞いて心底安堵し、胸をなでおろした。オムライスなら付け合せが出る可能性も低いし、数少ない
私が好きなメニューでもある。勝ち確だ。
「アンタは好き嫌いが酷いから、お母さんがわざわざ嫌いなものを出さないようにしてあげてんのよ。優しいお母さんで良かったわね。感謝しなさい」
「ありがとう…」
母親に私は渋々と感謝を述べる。感謝しろと彼女が言う時に、茶化したり否定したりしてはならない。素直に感謝の言葉を言わなければ、人格否定の罵倒が始まる。
静かに息をしよう。機嫌を出来るだけ損ねないように。私は生かされている身。生きている事実に感謝しなくては。
ふと、目の端で母親のデスクの上に自分が印字した短編小説が置かれていることに気付く。
母親は漫画家。つまり、編集社にコネクションがある。私の作品の出来が良いならば、編集社に繋いでもいいと言われていた。
小説家になりたい。私の憧れは芥川賞だった。特段理由はないのだが、芥川龍之介が好きだから何となくだ。
「お母さん、私の小説って読んでくれた?」
自分の短編小説を手に取りながら、私は母親に尋ねる。
この作品は私を買ってくれている英語の教師に褒められたものなので、少しばかり自信がある。英語の教師は文芸部の顧問で、イラスト部と兼任している私を部長に推薦してくれるほど目をかけてくれていた。
私が書いた小説のあらすじは、食肉植物と悪夢アレルギーの獏の恋物語だ。肉が食べたい植物は獏を騙して仲良くなるが、健全な夢しか食べられない獏は自殺志願者だった。自分が健全な夢を食べてしまうせいで、周囲は悪夢しか見られなくなる。
だから、食肉植物に食べて欲しいと獏はお願いするのだが、獏の心優しい内面に恋をしてしまった植物は彼を食べることが出来ない。
ありふれているが、短い文字数でよくまとめたと思う。
母親はチラと私を見たが、すぐに視線をデスクに戻した。
「…読んでないけど、アンタが書いたんでしょ?小説もロクに読まないくせに、いい話なんて書けるわけないじゃない」
「そんな…自信作なんだよ。先生にも褒めてもらった」
「学校じゃ皆、何とでも褒めるのよ。プロの世界はそんなに甘くないから、先生の言葉なんて参考になんないわよ」
母親は私の顔を見もしない。私は自分が書いた小説を握りしめ、とぼとぼと上の階の自室に戻ろうとリビングの戸を開けた。
「小説家も漫画家もアンタみたいじゃなれないわよ。ちゃんと社会に出ても恥ずかしくないように勉強しなさい。後ろ指さされるんだから」
戸を開けたままの私の背中に母親の追撃。私はため息を吐いて、返事もしないまま自室へと帰った。
私の作品は、私みたいな人間が書いているという時点で読むのが無駄だとされてしまうらしい。私の中では映画やアニメやゲームが他の創作物に触れるものとして定番品だが、私は残念ながら人の小説を読むのは苦手なのだ。
小説が読める人間でないと、小説家になる資格はないのだろうか。文章など、書きながら学んでしまってもいいじゃないかと思うのだが…母親に編集社に繋いでもらう線はあまりにも希望が薄いように思えた。
本音を言えば、凄く期待していたのだ。先生に褒められるほどの出来であれば、母親にも認めて貰えるんじゃないだろうかって。そしたら、編集社にも行けて私は大人の仲間入りするんだって。そんな根拠のない夢ばかり見ていた。
まあ、仕方ない。私には何もないのだ。みんなが優しいから、お世辞として褒めてくれただけ。現実は甘くない。そう早く知れただけ良かったじゃないか。
自室に戻り、私はスマートフォンを手にベッドに座り込む。そこには文芸部の子からのメッセージ。
「明日香ちゃん、いつもお疲れ様。この間の獏とお花のお話、凄く面白かったよ~!先生が今回の文化祭で出す冊子の最後は明日香ちゃんのお話にするって話してた。私も賛成!いい冊子にしようね!」
メッセージを読み、私は少しだけ泣きそうになった。この文芸部の子は、私と同じ学年で文芸部の部長をしている。
最初は文芸部の部長には、私が推薦されていた。私が部長なんて出来る自信がないからと辞退したそれを、メッセージの送り主である彼女が快諾してくれたのだ。私は副部長という彼女の一つ下の立場だ。
何故、部長をやらなかったかというと、私はただ部長という肩書きが怖かったのだ。責任が伴うかもしれない肩書きなんて欲しくなかった。なのに、彼女は嫌な顔一つせずに部長としての責務を果たし、私にこんなメッセージまでくれる。
私は文芸部の彼女のことが広い意味で好きだった。仲良くなれたらと思っている。だけど、美奈子が泣いてしまうから、彼女と話す時間は文芸部の時かメッセージくらいなものだ。
「いつもありがとう!そう言って貰えて嬉しいな。私もあなたの新作を楽しみにしてる!文化祭では良い文芸雑誌にして、配布して回ろうね!」
私はメッセージにそう打ち込んで返信する。
美奈子にはこんなやりとりしたなんて言えないなあ。バレたら次は何をされるか分からない。私はため息を吐いた。
「何故、そんなに辛い道を進むの?」
ふと、聞き覚えのある声がした。私が周囲を見回すと、自分の勉強机には白い薔薇のモチーフで作られた陶器素材のペンダントがある。
私はあまり衣服に興味がなかったが、珍しくこのペンダントは欲しくてお小遣いから買ったアクセサリーだった。あまり可愛らしすぎず、むしろ陶器特有の茶錆まで描き込まれた白い薔薇は不気味で、それが逆に良かった。
「そんなに辛いところにいるのなんて馬鹿らしくない?君にはもっと楽しい場所があるのに」
薔薇がクスクスと笑う。ペンダントが言葉を話すなんて、現実的に考えれば有り得ない。私は周囲を見回す。部屋に置かれたオーディオコンポに電源は入っておらず、ラジオがついている風でもない。
私は薔薇のペンダントを手に持って、自分の目線まで持ち上げて観察する。くるくると回るそのペンダントヘッドは喋らない。喋るわけがない。
「明日香ちゃん!そろそろご飯!」
下の階から聞こえた母親の声に私は飛ぶように立ち上がる。いけない、ぼうっとしていて着替えていない。早く行かなくては怒られるし、制服のままでも怒られる。ペンダントを適当に勉強机に放った。
「はーい!」
返事をしながら私は慌てて制服を脱いで、適当な部屋着になる。この部屋着はもう何日洗っていないのかも思い出せない。
古くなってプリントの薄れた白地のパーカー。蜘蛛の柄が描いてある原宿の安物だ。ズボンはカーゴパンツだが、代わりのカーゴパンツを永遠に買ってもらえないので、片膝が丸見えになるまで穴が空いて裂けてしまっている。
臭いとか汚いとかは分からないが、服装としては気に入っている。女の子なのに、と母親に辟易されるギリギリ手前で済んでいるから。
「明日香!」
「後ちょっと!」
ズボンを片足に通したまま、もう片足を通そうとして跳ねながら私は返事をする。何とか着替えを済ませ、駆け足で階段を降りると父親と母親が喧嘩していた。
「アンタはいつになったら働くの!家事くらいやんなさいよ!」
「やっているだろう!どこまで仕事させる気だ!」
「何様よ!一銭も家に入れないくせに!」
母親の言葉に、父親がバンッと机を叩く。ガタガタと食卓の食器が激しく揺れ、私は思わず身をすくめた。
またやっているのか。お金がないのに母親に逆らおうなど無駄だというのに、父親はたまに限界まで来ると怒鳴り散らして怒ってしまう。そして、母親の叱責に耐えかねて、最後は撤退していくのだ。
「…2階で食べる」
父親はそう言うと、食卓に並べられた夕食一人前を手にリビングを出ていく。明らかに怒気を含んだ足音でドスドスと父親が2階に上がり、足音が消えると母親はフウと大きなため息を吐いて自分の席に着いた。
こんな空気になった時、次のサンドバッグは自分だと相場が決まっている。全力で逃げ出したいし、なんなら自分だって2階でご飯を食べたいが、そんなことを言えば何十倍にも嫌味を言われるだろう。
ここは静かに笑顔を浮かべて、丁寧ないただきますだ。私は席に何事もなかったかのように着席し、両手を合わせた。
「わー、オムライス美味しそう!いただきます!」
「明日香ちゃん」
いただきますの呼応が、いただきますじゃないあたりで概ね察しはつく。私は笑顔を貼り付けたまま母親を見る。
母親は頭を抱え、私がオムライスに手をつけようとしている私の姿を蔑むような目で見ていた。
「今の聞いてたでしょ?」
「えっ、あー…」
さっきの光景を前にして、聞いていないとは答えられない。無視したいが、タイミングがあまりに悪すぎた。私はオムライスを口に入れることも出来ず苦笑いする。
「お、お父さんがまた何か言ったのかな…?」
ヘラヘラしながら尋ねる。ヘラヘラしてないとやってらんない。2人の痴話喧嘩なんか、本当はどうでもいいのだ。
離婚も別居も好きにしてくれ。私のことなんか、気にしなくていいからさ。
「あの人、アンタをまた塾にやりたいって言うのよ。大学受験が近いから、テストに備えさせたいって」
「あー、そうなんだ…」
うんざりしたようにため息を吐く母親に私は首を斜めにしながら返答する。
テスト勉強は嫌いだし、受験など二度とごめんだが、正直なところ美奈子が通う美術の予備校には興味があった。美大を受けると言えば、そちらの塾に通わせて貰えるんじゃないかという期待が淡く胸の中に浮かび上がる。
いや、でもこの話って父親に対する批判なんだよな?なんで私の勉強の話から入るんだろう。
母親は腕を組み、同じように足を組んだ。
「アンタって頭悪いでしょう?お母さん、アンタにお金かけるのも期待するのも無駄って分かったの。だから、お金を出さないって言ったのよ。そしたらあの人ってば、あんなに怒って本当に信じられない。自分で働きなさいよ」
至極当たり前のようにスラスラと述べられた喧嘩の理由に、私の脳が処理落ちする。言われた理由が飲み込めなかった。
つまり、父親は私の将来のためにお金を要求したが、母親はそれを無駄だと判断しているからお金を出さなかった。その愚痴を聞いているのが私。
私が聞くべき内容なのか?私が出来損ないで、期待するだけ無駄だと面と向かって言われている。どんなフォローを私は彼女に求められているのだろう。
「ご、ごめんね、頭悪くってさ…でも、絵は興味あるし、頑張りたいから、絵の予備校とかなら…」
「こんな技術で受かるわけないでしょ」
そう言って母親が食卓の隣に置いてあった紙束を掴み取る。乱雑に目の前に広げられたのは、私が友達と作りたいと話していたノベルゲームのキャラクターデザイン一覧だ。
文芸部の子と一緒に考えたノベルゲームで、絵が描けるのが私だけだったから、私が絵を担当することになっていた。自分の絵があまり上手くないとは自覚していたが、文芸部の子たちは喜んでくれた。
それを前に母親に見せたのだ。その時の紙束。紙には見覚えのない赤線が沢山引かれ、まるで間違いだらけのテストの答案用紙みたいに私の絵の上から、母親の絵が描き込まれていた。
「ほら、等身がおかしい。顔もデカい。目の位置離れすぎ、足の間接はこうじゃない。本当にデッサンやる気あるの?美大に行く子たちはもっと前から勉強してるのに、今更習って何になるの」
渡された紙束を見ながら、僕は呆然と描き込まれたそれを見つめる。
私が描けるようになりたい絵は、決して母親のような絵ではない。美奈子に憧れようとも、母親に対しては憧れなど微塵もない。
上手いのだろう、あなたは美大を卒業した。凄いのだろう、売れる漫画を描き続けている。
だけど、私はあなたになりたいとは思わないのだ。私は顔に笑顔を貼り付けたまま、膝の上で拳を作った。ギリギリと握りしめた手の平に爪がくい込んで痛んだ。
「全く、アンタってなんでこんなに気持ち悪い絵ばかり描くのかしら。お母さんみたいに清潔感があって、ノリがパリッと効いてそうな絵柄とは正反対。よれよれで、汚らしくて、みんな不健康そうな顔をしてる」
「その方が…私は好きだから…」
「美奈子ちゃんだっけ?アンタが盲信してる子。確かに上手だけど、暗い絵描くわよね。気持ち悪いものが好きな者同士だから上手くいくのかしら。お母さんには分からないわね」
私の言葉など聞こえていないのか、母親は得意げに鼻を鳴らす。
「まあ、アンタはお父さんの子だから仕方ないわ。せめて、お父さんの顔面だけは似て欲しかったけど、女の子だから仕方ないし。女の子なら結婚すればいいんだから、アンタ本当にラッキーよね」
この話は、元を辿れば父親と母親の喧嘩だっただろう。だけど、脱線した話は戻ったりなどしない。母親が気の向くまま、彼女が気持ちがよくなるように話は気まぐれに変わり、気まぐれが来ない限り終わったりなどしない。
母親は自分で作ったオムライスに手を付ける。機嫌が良くなってきたのだろう。私も震える手でスプーンを手にする。
気にしちゃだめだ。いつものこと。母親は私のことを愛してなどいない。仕方ない、愛される資格が自分にはないのだから。
「アンタの前にお兄ちゃんがいなくて良かったわね。元々、2人産む気だったのよ。でも、あんまりお父さんがアンタを叩くから怖くてねえ…アンタが男の子だったら、今頃お父さんに殺されてたかもしれない。だから、私は産むのをやめたの」
オムライスを口に入れる。ケチャップの味がいつもより薄く感じる。
嫌な話題だ。母親がよく口にする、空想の私の兄の話。この話をされると、私は胃がキリキリと傷む。
「私には今頃、親孝行でお父さんに良く似た容姿端麗な息子がいてね。彼は毎日、私の肩を揉んで優しく言うのよ。『お母さん、いつもありがとう』ってね。食器も洗わず、汚い服ばかり着てるアンタとは違う」
知るかよそんなの。じゃあ、先に産んでれば良かっただろ、お父さんによく似た息子をさ。私は言葉を飲み込む。
空想でしかない兄の存在。その兄は母親が頭で描いただけの理想図だから、勝てるわけが無い。それでも、母親はその兄を愛してやまない。
兄と私をいつも比較する。私はその兄の顔すら知らないと言うのに。
「お兄ちゃんは凄く気が利く子で、お母さんが元気がないとずっと傍で話を聞いててくれるのよ。大企業に勤めて、可愛いお嫁さんを連れてくる。お嫁さんも私のことを優しいお義母さんだって慕うの」
オムライスをくちゃくちゃと食べる母親の唇が醜くておぞましい。この世の何よりも醜くて、目に入れているのが嫌になって目を逸らした。
「アンタ、その後に生まれていたら耐えられなかったでしょ?成績優秀で容姿端麗の兄がいたんじゃ、ヒステリー起こして笑ってなんかいられなかったわね。だけど、私は優しいから、こんな出来損ないの娘も大事に育ててあげてるの。お母さんじゃなかったら、アンタはとっくに死んでんのよ、感謝しなさい」
口に笑顔を貼り付けたまま、私はオムライスを飲み込んだ。まるで泥のような食感だ。粘土でも食べてしまったんじゃないかと錯覚するくらいに、舌が麻痺していた。
満足そうに笑う母親。私も一緒になって笑う。
一緒になって笑って、命令に従うこと。それがこの家を支配する母親のルールだ。
「そうだね、お兄ちゃんがいなくて良かった」
笑いながら、口の端がぴくぴくと痙攣した。それを咀嚼で誤魔化しながら、私はなんとかオムライスを完食する。
完食すると、先ほど入れたばかりのオムライスが逆流してくる。それを唾で飲み込み、せり上がってきてはまた飲み込んだ。
「ご馳走様でした」
なんとか母親の機嫌を取り、私は夕飯を終える。すると、ほぼ同時に私のカーゴパンツに入れたスマートホンが振動していることに気付いた。
あの文芸部の子に送ったメッセージの返信だろうか。何にせよ、ゆっくりと読みたいので食卓からは退散すべきだろう。
食器を洗い場までまとめて運ぶ。そのまま、私は2階へと逃げるように駆け上がった。
洗い物を手伝わない馬鹿な娘だと母親は言うだろうが、私が洗っても汚いだのなんだとの言って洗い直すのだ。評価が変わらないものをやっても意味がない。
自室にたどり着き、ベッドに座る。スマートホンをポケットから取り出し、着信を見ると美奈子だった。
美奈子とは普段あまり、手紙以外ではやりとりしていなかった。美奈子は妙にデジタルが嫌いで、そういったものより手紙でのやりとりを好んでいた。
何となく、届いたメッセージを開きたくないなと思った。だけど、美奈子が呼んでいるのだ。
人望、話術、知性、美貌、運動神経、何もかもが私にはない。母親さえもが同情する出来損ない。誰も求めてくれないなら、美奈子だけが必要としてくれるなら、それに応えなかった時に私の価値は何もなくなってしまう。
そう思い、意を決して私はメッセージを開く。内容はあまりに完結だった。
「ガスを用意したから、今から一緒に死のう」
その完結な文章を前に、私はベッドに背中から倒れ込む。
ああ、そうか。私の命ってこのためだけに存在してたのか。美奈子とガスで心中するためだけに、私は生まれてきたのか。
なんだか笑えてきた。どこにも私の居場所なんかない。寂しいから一緒に死んでと言える程度の存在だ。心中相手なんか、誰でもいいんだろうと今になって知る。
だって、私なら美奈子にそんなことは絶対に言わない。あなたの新しい作品が遺せないなんて、そんなに悲しいことはない。
私は美奈子の未来が見たい。だけど、美奈子は私の未来になど興味なんかないんだ。
「そんな辛いばっかりの世界、やめちゃおうよ」
さっきも聞こえた、聞き慣れた声がした。
「やめちゃおう。忘れちゃおう。逃げたっていいんだ」
私はベッドから起き上がる。周囲を見回すと、私の勉強机で何かが動いた気がした。
勉強机に散らばった大量の紙。修正だらけのキャラクターデザイン画と、書き終わった小説。そして、美奈子から返してもらった原稿中の不思議の国のアリス。
私はその原稿の上に手を置いた。ずらすように上へと手で滑らせると、原稿の下には先ほどの白い薔薇のペンダントがあった。
陶器で出来ているはずの白い薔薇が蠢く。まるで蕾を咲かせるように剥かれた中央にはエメラルドグリーンの瞳が現れ、それは優しく微笑むように私を見た。
「おいで、僕らが君を受け入れるよ」
その様子に不思議と驚きはなかった。私はペンダントに手を伸ばす。
「アスカ、君はこうして私の世界へとやってきた」
パッと目の前が暗くなる。真っ暗な空間の中、椅子などないはずの場所でルイスが足を組んで座っている。
彼の手には不思議の国のアリス。それに目を通していたようだったが、彼は本を閉じて私を見た。
「最初はリストカットから…いや、アームカットと言うべきか?」
すぐに脳みそが追いつかないままの私を前に、彼はただギザギザの歯を見せて笑っていた。
「17歳の時、君は初めてリストカットで自殺を試みた」
ルイスがつま先で存在するかも怪しい床を叩いた。すると、黒い波紋が起こり、私の周囲に大量のカッターナイフが現れた。
地面に落ちたそれらはどれも血にまみれ、物によっては刃を替えすぎて中身がほぼないものまである。数は10を軽く超え、一体何本あるのかはパッと見で判断が付かなかった。
ルイスは続ける。
「だが、現実は非情だ。そんな生ぬるいやり方じゃ人間は死なない。君もそう理解するまで時間はかからなかった」
自分の左手首に次々と深い切り傷が現れる。しかし、血を流すその手首より、首にもっと鋭い痛みがあることに気づいて手を当てる。
ぬるぬるとした生暖かい液体が首から肩を伝い、胸まで流れる。頭が痛い。ジクジクとした鈍い痛み。
「君は腕での試し切りを経て、肉を切り裂くコツを学び、どんどんと切り方をエスカレートさせた。ネットの知識で、手首より首だと君は考えたようだね」
彼の言葉に私の周囲に突然、轟音と共に檻が下ろされる。私は驚いて檻の鉄格子を掴み、揺らす。ガシャガシャとそれは金属音を鳴らすが、一向に開く気配はない。
「君の両親は、自殺未遂を繰り返す君を精神異常者だと判断した」
私は背後を振り返る。そこには患者服を着た女性たちと、ベッドが散らばるように入っていた。
「鮫島さん、イケメンだよね。一緒にお散歩しよう」
「鮫島さん、一緒にご飯食べよう?」
「あなたのこと気になってたの」
女性たちは虚ろな目で私を取り囲み、私の手を、肩を、服を掴んで引っ張った。彼女たちが何を求めているか、その目を見ればすぐに分かる。
愛だ。
私を愛してと、みんなが私を見ている。
「明日香は友達じゃないから」
檻の向こうに美奈子が見えた。彼女はそう言って私から背を向ける。
「待って!美奈子!待って!置いてかないで!」
美奈子に向かって叫び、檻の外へ出ようとするが患者服の女性たちが邪魔をする。美奈子を追いかければ追いかけただけ、彼女たちの輪へと誘導される。海のように波打つその人だかりは生ぬるく、気持ち悪かった。
「君は美奈子の心中を拒否し、美奈子はそんな君を捨てた」
私はその場でしゃがみこむ。それを覆うように女性たちは私を取り囲み、笑い、各々が私を取り合うように引っ張ったり押し込んだりする。
怖い。皆が私から愛を搾取する。機嫌を取れと、自分の気持ちを共有しようと、皆が私を身体の一部に取り込もうとする。
彼女たちも私の母親と同じだ。自分に信者を作ろうとする。カルト宗教の勧誘にも似た、押しつけがましくて無邪気な愛。
愛して。愛さないで。あなたの愛じゃない。それでも、私は愛されたい。
わがままなのは私も同じ。愛して欲しいのに、欲しい愛はそれじゃない。
「その後に君が送られたのは精神科にある閉鎖の女性病棟。中性的な見た目をした君の容姿は奇異な目で見られ、好意を寄せられたね。多くから愛を求められ、君には病棟ですらプライベートはなかった」
ジリリリリリとけたたましいベルが鳴る。私を取り囲んでいた女性たちが逃げるように去り、看護師たちが走り込んでくる。
「アンタたち、いい加減にしなさい!頭おかしいくせにどこほっつき歩いてんのよ!」
看護師は私の手を取り、無理やり立たせる。私の首からは大量の血が流れているのに、彼女たちはまるで気にしない。
「汚いガーゼ」
私の首に貼ってあったガーゼを乱暴に取り払うと、看護師はそのままゴミ箱に捨て、私の腕を無理やり掴んでベッドへと押し込んだ。
「優しいお父さんとお母さん、親戚の方がいるのに何に文句あるの。恵まれた身分、幸せなくせに、ないものねだり。本当に呆れるわ」
「ガーゼ…」
私は首を押さえながら声をひねり出す。
「ガーゼを下さい…」
「死にたかったんでしょ?」
私の言葉に看護師は鼻で嗤うと立ち去っていく。手を伸ばすが、その背中は黒い背景に溶け込むように消えた。
「君の怪我は20針もの大怪我だった。病院に運ばれた時、傷を縫った外科医からは2日に1回のガーゼの交換が指示された紙があったのに、閉鎖病棟でガーゼを替えてくれる人などいなかったね」
檻の向こうでルイスはまるで実験動物を見るように、興味深そうに私を見ていた。
「汚れた血まみれのガーゼ、週1回だけ15分間のみ許されたシャワー。臭い便所に、便が出ていないと知られると無理やり飲まされる下剤。そこは家畜みたいな暮らししかない地獄だった。君は頭がおかしいからと、外出すら許されない。インターネットは禁止。あるのは本と喧騒、看護師からの罵倒と罹患者たちからのラブコールだ」
ベッドに座る私の両手の肌が、次第に黒くなっていく。着ている服は黒い燕尾服になり、自分が座るベッド以外の物体が消えてなくなった。
「君は耐えきれなかった」
浅黒いその肌はどこか既視感がある。私はベッドから立ち上がり、ルイスに向き直る。
彼は私の姿を見て、ギザギザの歯を鳴らすように笑った。
「そして、初めて来たんだ。私が作った不思議の国へと」
ルイスがつま先で床を叩くと、パッと世界が明るくなる。私の目の前に大勢の人が膝まづいている。彼らは祈るように両手を折り、私に頭を垂れていた。
「お願いします、辛いことを忘れさせて下さい」
私の身体は何の迷いもなく、そう願った人の手を握る。そして、同じように願う。この人の苦しみがなくなりますようにと。
「君は眠り鼠だった。何十人もの記憶を消した。皆にとって自分は逃げ込めるような救いであるべく、君は大勢に尽くした。大勢が辛い出来事を忘れ、笑顔になった」
手を握った人は笑顔を浮かべて立ち上がる。その笑顔を見て、私も笑った。
でも、本当にこれでいいのか?
本当に幸せなのか?
「君は楽園を築いた。白と黒のチェスの国。皆が君を慕い、辛いことがあるたびに君に頼った。この楽園では君が神だ。君が耳を傾ければ、皆は笑顔になる。元気になる。君もそれでいいと思ったはずだ」
白黒のチェス盤の上で、大勢の人たちが笑い合う。
誰も辛くない。誰も私を詰らない。私を必要としてくれる。寂しくない。現実と違ってここには私の居場所がある。
そう思って笑うと、何故か目から涙が出た。
「でも、誰しもが君を頼るのに、君が泣いても誰も耳を貸さなかったね」
涙が一つ零れると、続けざまに涙がどんどんと溢れてくる。それは次第に嗚咽に変わり、気付くと私はしゃくりあげて泣いていた。
周囲はみんな笑っている。みんなが想う人と手を取り合って踊っているのに、私の手を取ってくれる人はいない。
ああ、そうだ。この時に私は気付いてしまったんだ。私には何も魅力がない。どんなに人に尽くそうが、私が周囲に媚びているだけだから、周囲は私自身に興味がない。
いや、違う。私が空っぽなのだから、周囲だって私が何者なのか分からない。
私はそこにいるだけの偶像だ。都合よく手を差し伸べてくれるだけの、無宗教者が危機の時にだけ縋る都合がいいだけの神様と変わらない。
実態の分からぬ神など、いてもいなくても同じなのだ。
どうしようもなく息苦しくなり、私は、自分の首を掻きむしる。引っ掻き回し、咳き込み、止まらぬ嗚咽にえづいた。
痛い。痛い。痛い。痛い。だけど、喉にでも穴を空けない限り、呼吸など出来やしない。私の口はとうに呼吸することを諦めていたのだ。
「君は選んだんだ。自分から、自分の辛い記憶を消し去ることを」
私は自分の頭に手を当てて、しゃがみこみ、そして祈る。
どうか、どうか、全部忘れさせて下さい。私の過ちも、苦しみも、この世界での出来事も、全てなかったことにして下さい。
「面白い結末を見せてもらったから、私は君に現実に帰る鍵をこっそりと渡した。全てを忘れた君は、不思議そうな顔をしながらもすぐに現実へと帰ったよ」
ルイスの言葉に、私は自分の手の平を見る。そこには金色の手のひら大の鍵があった。
重厚で重みのあるそれは、どこか懐かしさを感じた。
「夢を忘れた君は現実に帰ったが、帰れば夢以外は全て思い出す。生きずらさを抱えたままの君は、閉鎖病棟から抜け出してなお、自殺未遂を続けた」
顔を上げると、ルイスは見世物小屋の珍獣を見るように私を見ていた。
「そして、24歳にして君はついに周囲に発信する。自分の性自認が男であると、男性として振る舞うことへの許しを乞うた」
気付くと私は、僕は目の前の鏡を見ていた。鏡に映る赤茶色のウルフカットの中性的な容姿の男性。彼の首には、大きな切り傷。ダクダクと流れ出る血液を見て、彼は安心したように微笑んだ。
「初めて君は親と戦うことを選んだんだ。確固たる意思で、君は自分らしくあるために、男性になるために様々なこと調べて証拠を集めた。だけど、現実はそう簡単に好転しない」
ルイスは人差し指を立てる。
「一つ、君の親は古い人だ。性同一性障害は染色体異常でしかならないと信じていた。君を娘として育てた母親は、自分の子育てを愚弄されたと激怒し、父親は気の迷いだと笑った」
ルイスは続いて中指を立てる。
「二つ、君は閉鎖病棟に入った精神患者だ。性同一性障害の診断を貰うための専門病院を受診するには、現在の担当精神科医から気の迷いではないと診断してもらう必要があった。担当医は君を信じず、紹介状を書くことを拒否した」
ルイスはそのまま薬指を立てる。
「三つ、君が自分を信じられなくなった。気の所為なんじゃないかと、大勢に反対されているうちに迷いが生じた。疑いは自己嫌悪になり、微かに差し込んだ光明すらもかき消していく」
血が流れ出る首に、鏡に写った男性は更に刃物を突き立てて抉った。抉った痛みに彼は笑い、薬を飲み、再び傷をえぐる。
何度も何度も何度も何度も懲りずに飽きずに刃物を突き立てる。傷が深くなる度に彼は泣きながら笑う。死が近づくことが嬉しくて、誰にも認められなかったのが悔しくて、大嫌いな自分が苦しむ姿が面白おかしくて笑った。
「君はそこから更に3年間戦い、なんとか性同一性障害の診断書は勝ち取ったが、戦争は終わらない。家族を含めた周囲は君を女性の枠にしまい込む。中身が空っぽなだけの、何もない君に意思などないと操ろうとする」
僕の背後に立ち、ルイスは鏡に映る男性の耳元に口を寄せる。ギザギザの歯を見せて、笑った。
「そう…性別が問題なんじゃない。問題なのは、君の中身が空っぽなことだ」
彼の言葉に、僕は目の前の鏡を拳で叩き割る。バキンッと激しい音を立てて鏡は砕け散り、僕の足元に散らばった。
えも言われぬ不快感。それは怒り。違う、自己嫌悪だ。心臓がバクバクと音を立て、僕は自分の胸を掴んだ。
苦しい。呼吸が早くなる。全部全部思い出した。ルイスの言葉に何も嘘はなかった。
僕は、僕自身を信じてあげなかった。だから、僕の現実は何も進んでなどいない。帽子屋が模した母親が僕に言った言葉は、僕が忘れたくて記憶から消してしまっただけだ。
僕はあの時に初めて母親と怒鳴り合いの喧嘩をした。僕の生き方を認めてくれ。僕はあなたの考える理想の娘にはなれないから、もう強要しないでくれと。
「そんな恥ずかしいことやめて。親戚にどんな顔をしたらいいか分からない」
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「ただでさえ恥ずかしい娘なのに、ついに頭までおかしくなったなんて、ママはみんなに思われたくない。お願いだから、ジェンダーだろうが何だろうが、もう精神病院になんて行かないでちょうだい。これ以上、変なことを言わないで。私の明日香ちゃんを返して」
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男装を始めた僕を見た母親は、ついに僕が自分の子供であると認識することをやめてしまったんだと思った。それだけ、自分が自分らしく振る舞うことが、人を傷つけてしまうのだと思ったのだ。
馬鹿らしい。何が「私の明日香ちゃん」だ。改めて思い出すと虫唾が走った。
ルイスはキシキシと歯を鳴らして笑った。
「ああ、その反応、たまらないね。逃げてばかりの君は、過ぎ行く時間に全ての希望を委ねた君は、27歳にもなって初めて時間が経つことを恐れた。だから、また自殺を計ったのさ。何者にもなれず、何もなし得ずに老いていくのが怖かった。臆病者の君にはぴったりさ。薄っぺらな君の意思は脆弱で、ジャバウォックなんて荷が重い。だからこそ、私は君にジャバウォックを割り当てたのさ」
「何故だ」
僕は鏡に拳を突き立てたまま尋ねる。声が震えていた。
「何故、僕が臆病者だと分かっていて、弱いと知っていてジャバウォックなんて配役を与えたんだ」
「すぐ村人に殺されると思ったからさ。そうでないなら、逃走のプロである君はどう逃げ続けるのかとかね。逃走劇も興味があった」
すぐ村人に殺された数多のジャバウォックたち。彼らも僕と同じだったのだろうか。
最強と名ばかりの配役。配役を貰うからには命を狙われ続けるだけの化け物。その最強の称号は誰が与えた。
僕はただ面白そうにこちらを見ているルイスを睨む。彼だ。配役を決めた彼が、勝手にその設定を作っただけ。そんなこと、ここまで来て気付かないほどの馬鹿ではない。
ルイスは僕の顔を見て、パチパチと拍手を送った。
「しかし、君は変わったね。多くを見つけ、逃げることをやめて戦った。賞賛するよ。何度も世界を創り直したけど、ここまで戦った人はあまりいない。非常に面白かった。ありがとう」
「お前は何なんだ」
拳にくい込んだ鏡の破片が抜け落ち、僕の肌を再生していく。早くボロボロになってしまえと、何度も願った僕の身体はこうも容易く治ってしまう。
「言っただろう。私は面白い話が読みたいだけ」
ルイスはそう言うと、片手に持った不思議の国のアリスの原作を開いて目を落とした。
「私は生まれた時から、耳と触角以外の身体全てが人としてまともに機能しなかった。寝たまま動けない。だけど、脳だけが正常に動いた。これほど退屈なことがあるかい?私は面白おかしく生きていたいのさ」
「だからって、人を弄ぶ免罪符になるとでも?人を貶めるのも大概にしろ!」
「君は勘違いしている」
僕の怒鳴り声をかき消すように、ルイスは言葉を被せて笑った。
「私は人々にチャンスを与えているのさ。この世界は、寝たきりのままでしか生きられない私だけが受けるべき恩恵。私が暗闇に向かい続け、ようやく考え出した人と共有できる夢の世界だ。そんなものに寄生しているのは誰だい?君たちだろう」
本を閉じ、ルイスは笑うのをやめて僕を見る。暗闇で僕を見つめるルイスの瞳は、獲物を狙う猛禽類のように青く淡く光を反射する。
「私が得られなかった全てを持ち得ながら、逃げ回る君たちが私は憎い。どんな生きずらさも、不自由さも、私には体感できる術がない。試練を前にして逃げ回る君たちは愚かだ。歩ける足も、動く手も、何かを見る目も、話せる口もあるくせに、あれこれ理由をつけて逃げ回る。羨ましいよ。嫉妬する。私には一生かかっても得られない権利だ」
「それはお前の感性の話だろ」
彼に僕は失笑する。
ああ、そうさ。僕はどうしようもない臆病者で、逃げてばかりで思考をやめ、助かりたくて、楽をしたくて、ずっとずっと道化をやってきた。
僕の価値を無にしたのは、他ならぬ僕だ。声を掛けてくれる人は確かにいたはずなのに、僕がそれを拒絶した。全部全部、僕が悪い。
だけど、父親からの体罰を最初から恐れないでいられたか。母親の支配から逃れる術が幼い僕にはあっただろうか。「あなたは恵まれている」と誰が洗脳してきた。
世界だ。沢山の呪いを吸い込んだ大人たちが、次世代の子供たちにその価値観を刷り込んでいく。念入りに刷り込まれた呪いを自力で解けるなら、こんなに大勢がルイスの世界に迷い込むだろうか。
これからは僕が選ぶ選択をする。過去も、誤ちも、後悔も、全部受け止めた上で僕は道を歩くのだ。息を吸い込み、僕は口を開いた。
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僕はルイスに向かって拍手を送る。拍手をされたルイスは訝しげに僕を見て、嫌悪に顔を歪ませた。
僕の頭の隅で笑う声がする。煽り方を教えてやるよ。黒髪をした大きな子供の顔が浮かぶ。大丈夫、今はもう彼の名前も顔も分かる。アマネに負けじと僕は中指を立てて、歯を見せて笑った。
「共感性がなさすぎて、お前はこの世界にいる人がどんな気持ちで足掻いて、苦しんで、立ち向かっているのかを知らない。誰の心も理解出来ないから、こんなことが出来るんだろ。お前は世間一般の『可哀想』の枠にすがることしか出来ない。お前の生い立ちに同情するよ。せいぜい、自分が世界で1番哀れなことに酔いしれたらいいさ!同情は気持ちいいか?人を貶めて支配欲は満たされるか?本当に哀れだな!」
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「強気に出たもんだな。私はこの世界の創造主だぞ」
「嫌なものや事実を散々僕に突きつけておきながら、傲慢なもんだ。僕のことを追い出すかい?」
口の端を釣り上げて笑うと、ルイスは自分の気持ちを落ち着けるように大きく息を吸って吐いた。
「ジャバウォック、君のその恥ずかしくて愚かな過去は、君自身がずっとひた隠しにしてきたんだろう。それを隠し通せるからと強気に出てるとすれば、残念ながら後悔になるぞ」
そう言うと、彼はまた床をつま先で叩く。再び黒い波紋が地面を走り、空間が歪んだ。
紫色の光が天井から差し込む。何かと上を見上げると、モヤがかかるほど遥か天空までその紫色の空が続いていた。
何かがゆっくりと落ちてくる。くるくる、ふわふわと落ちてくるそれが僕を見る。目が合い、僕は目を丸くした。
「アスカ!」
落ちてくる水色のスカートの女の子。金色の髪をなびかせて、アリスは僕の名前を呼びながら、ゆっくりとこちらへと落ちてきた。
「ずっと彼女は私と一緒に君の過去の出来事を見ていたよ。声が届かないように、遠くに隔離してね」
ふわふわと落ちてきたミズキを抱きとめる。彼女は僕の顔を見つめる。伏せ目がちなまつ毛に囲まれた水色の瞳で。
ルイスはまた何もないはずの場所で何かに腰掛けるように座った。
「アリスは君の過去に出てくる美奈子によく似ているね。だから、君は彼女を選んだのかい?」
僕は胸に抱いた彼女を見つめる。金色の髪をしているが、彼女の顔は確かに美奈子によく似ていた。
僕を捨てて行った美奈子。引っ込み思案で大人しい、素敵な絵を描く、僕の大事だった人。
「それとも、美奈子を思い出すから君はアリスを直視出来ないのかい?」
彼の言葉に僕はハッとする。彼の言う通り、僕はいつもミズキの顔が直視できなかった。
僕はミズキが好きだ。好きなのに、彼女ほど僕を大事にしてくれる人はいないと分かっているのに、心から信じられない。僕は彼女が少しでも離れていくと感じると恐ろしくなる。僕を捨てて、いつかどこかへ消えてしまうんだろうと、警戒してしまう。
怖いから、必要以上に近寄らない。離れられれば、疑い続ける。僕とこの世界に残りたいとミズキが言った時、僕は何を感じた?
裏切りだ。心中を断られて、僕を捨てて去った美奈子の姿も、僕は裏切りだと感じた。
こんなに想っていたのに。あなたの未来が見たいと思っていたのに。機嫌を取ったのに。尽くしたのに。手を貸したのに。
恩着せがましい愛着と執着。見返りを求めた末の不信感。僕が何よりも恐れた母親と同じ愛情の恐喝を、僕は彼女にしてきてしまったのでないだろうか。
曖昧な僕の現実の話はミズキにしてきた。だけど、そんなのは僕にとって都合よく切り抜きした思い出話でしかない。
僕を立派だと慕ってくれたミズキは、過去まで見て僕をどう思うだろう。一抹の不安が胸を掠める。
いや、過ちは認めなくてはいけない。それがあるから、僕は今こうして立っている。それならば、ミズキに見せた過去を恥じてなんていられない。
ルイスは僕の胸に抱かれたままのミズキに問いかける。
「君が大好きなジャバウォックの全てを見て、君はまだジャバウォックを慕えるかい?」
彼の問に僕は唾を飲み込む。ミズキはルイスを見つめ、口を開いた。
「何も変なところはなかったよ」
予想だにしていなかった彼女の言葉に、僕は彼女を見る。彼女は不思議そうに首を傾げてから、目を細めて笑うと僕の頬を撫でた。
「アスカは凄いね!あんなに大変だったのに、こんなに大きくなっちゃったんだ!カッコイイ!」
そこにいたのは、初めてキャンプ地で出会った時のままのミズキだ。一緒に絵を描いて、作品を作って、笑い合った時のままと変わらない。
思わず僕は笑う。こんなに無様に逃げ回って、一度はこの世界に逃げ込んで、それでも死を望んだ僕を彼女は褒めてくれる。
そうだ、僕はこの世界に来てから何度だって彼女に救われてきた。
誰も価値を見出さなかった僕の絵を見て、話を聞いて、弱音を受け止めて、僕が何度腐ろうと、くすぶろうと、彼女だけはずっと傍にいた。
恐喝にも似た僕の愛情を彼女は受け取ってくれた。嬉しいと笑ってくれた。喧嘩しても、彼女は決して僕の言葉に耳を貸さない日などなかった。
僕が存在する意味を彼女がくれた。本当の意味での僕を彼女が見付けてくれた。ずっとそばにいてくれたから、僕は戦えた。
愛して欲しい。愛されたい。誰でもいいんじゃない。
僕はミズキがいいんだ。
「美奈子に被せて見ていたかもしれないのに、許してくれるの?言い訳つけて逃げ回ったり、恰好悪いところ沢山あったでしょ」
「うーん」
僕の質問にミズキは首を傾げ、また笑った。
「顔が似てるのはどうしようもないし…でも、別にアスカが恰好悪いとは私は思わないかな。頑張って無理してでも笑って、生き抜いて、ここまで戦ってるあなたもカッコイイと思うけど…逃げてるのもちょっと親近感があって、いいと思う!私は好きだよ!」
「なんでも肯定してくれるんだから…」
相変わらず僕を全肯定するミズキに僕は苦笑する。
逃げんなと言い張ってた時期があった僕が、あんな腰抜けだったなんて知れば見損ないそうなものだが、彼女がそう思わないならそれほど有難いことはない。
ミズキが感じたことと、僕が感じたことにズレがあるのは当たり前だ。それで噛み合うなら、それが健全だ。
押し付ける必要なんかない。同一化なんてしなくていい。僕はミズキと別々の人間で、別々だからより一層大事にして尊重したい。
愛情の恐喝はおしまいだ。その因果も、連鎖も、もう終わりにしよう。
ミズキの顔をよく見ると、彼女は目元以外はまるで美奈子に似ていなかったのだと気付く。ミズキはこんな顔をしていたっけ。美奈子に比べて、ミズキの方が大人のはずなのに、美奈子より幼くて可愛らしい顔をしていると初めて思った。
「なら、条件クリアだ。ここから更に君たちの話を掘り下げよう」
興味深そうに僕らの会話を聞いていたルイスは、自身の膝に腕を置いて前のめりになる。
「アリス、君はまだ自分の記憶をよく知らないね。ここからは君の過去の上映会といこう」
「悪趣味だぞ」
「報酬はつける」
僕が唸ると、ルイスは握った拳を掲げ、人差し指と親指以外を開いて見せる。少ない光を反射させて輝くのは、先ほど僕の過去で見たのと同じ、金色の重厚な鍵。
夢から現実へ帰る門を開く、扉の鍵だ。
「私がこの世界の門を開く条件は一つ。上質で濃厚な物語を見たと感じた時だけだ。アリス次第では、使い捨てのこの鍵をわけてあげてもいい」
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