私が生きていたことは秘密にしてください

月山 歩

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3.再出発

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「クライゼル公爵様、お話があります。」

 メイベルは彼の執務室のドアを叩いていた。
 自分の手が、かすかに震えているのがわかる。
 それでも、今言わなければならない。

 数日で、打ち身による痛みはほとんど癒え、足取りも安定してきた。
 心の傷に気づがないフリをすれば、もう歩いて出ていける。
 そう思ったからだ。

「はい、どうぞ。」

 低く落ち着いた声が中から返り、次の瞬間、家令のソマーズが扉を開けた。

「失礼します。」

 磨かれた机の奥に、クライゼル公爵様が座っている。
 彼の視線がこちらに向いた瞬間、胸の鼓動が早くなる。

 今日の私は、淡い水色のドレスを身にまとっていた。
 きっとソマーズか誰かが準備してくれたのだろうけれど、その色が彼の瞳の色に似ていることに気づき、頬が熱くなる。

 偶然のはずなのに、どうしてこんなに意識してしまうのだろう。

 彼は落ち着いたようすで、微笑んでいる。
 その高貴な佇まいに今更ながら、恐縮してしまう。
 本来なら、彼と話すなど恐れ多いことだから。

 美しい顔立ちも爽やかな笑顔も、きっと多くの令嬢が魅了されているはずだ。

「そちらへどうそ。」

 ソマーズがソファを勧めてくれ、そこに浅く腰掛ける。

「これまで本当にお世話になりました。
 おかげさまで、ようやく動けるようになりましたので、そろそろここを発とうと思います。」

 言葉を選びながら、膝の上で手を重ねた。

「約束通り、私のことは内密にしていただけると助かります。」

「もう出て行くと言うのか?
 時間をくれ。
 行き先はまだ決まってないんだろう?」 

 クライゼル公爵様が静かに立ち上がる。
 その動作一つで、室内の空気が張り詰める。

「はい、そうですが…。」

「だったらここまで関わってしまった以上、一人で行かせるわけにはいかない。」

 その言葉の響きに、思わず目を上げる。
 彼の瞳は真っ直ぐで、何かを決意したように強い。

「でも、それではご迷惑をおかけし続けてしまいます。」

「君がこのまま姿を消したいという気持ちはわかったが、もうこれは君一人の問題じゃない。
 だから提案だ。
 僕からの依頼を受けてみないか?」

「依頼ですか…。」

「そのかわり、これから話すことは他言無用だ。
 もし君が誰かにこのことを話したら、僕が君と話を聞いた者を消す。
 今の君は孤立無縁だ。
 僕が本当にそうしようとしたら、それも容易いだろう。」

 一瞬、時が止まったように感じた。
 彼の声は淡々としているのに、部屋の空気が一気に冷たくなる。

「…はい、クライゼル公爵様がおっしゃるように、今の私は何をされても、抗議する術がありません。」

 喉の奥が震えた。
 優しかった彼が、まるで別人のように見える。
 それでも、怖がる自分を悟られたくなくて、ぎゅっと指を握りしめた。

 わかっていた。
 知りもしない人に助けを求めるということは、こんな危険を孕む。
 今の私は、ただ彼の善意に命を預けているに過ぎないのだから。

 公爵様になるぐらいの方が、優しいだけの男性であるはずがない。
 裏の顔も高貴な仮面の下に持ち合わせているはずなのだ。

 それでも私が動揺を隠しきれていないせいか、彼は表情をやわらげた。

「厳しい言い方になってしまったけれど、一人で生きるとはそういうことだ。
 常に人の裏の裏まで考えて行動しなければ、すぐに罠にはまる。

 君は今まで守られて生きて来た人間だから、人の善意を信用し過ぎる。
 信じて良い人といけない人を見抜くのは、すぐにできるようになることじゃないんだ。

 散々脅してしまったけれど、決して悪いようにはしないから、これから言う僕の依頼を引き受けてほしい。
 必ず秘密は守ってもらうけれど。」

「わかりました。
 クライゼル公爵様に従います。」

 彼の話すことは、本当に誰にも知られたくないことなんだわ。
 私は不安もあるけれど、ここまで聞いてしまっては、引き返すこともできないと知った。

 もうすでに私は彼の手のひらの上で、どうあがいてもきっと彼の思いのままに、操られてしまうのだろう。
 だったら、その依頼が終わってから、次の道へ進む機会を得るしかない。

「何も難しいことではない。
 ある少年を内緒で世話してほしい、それだけだ。」

「少年…ですか?
 どうしてですか?」

 意外な内容に思わず聞き返す。

「信用のおける者がいなかったんだ。」

「私なら大丈夫だと?」

「君には命がかかっている。
 裏切ることはすなわち…、わかるよな?」

「はい、わかっています。
 でも、そこまでするなんて、どんな子なのですか?」

「とても利口な子だ。
 だが、彼は容易に心を開かない。」

「もしかして、クライゼル公爵様のお子様ですか?」

「それは秘密だけれど、僕の子供だと思っていて構わない。」

「なるほど、あなた様の。
 その子のお母様は?」

「すでに亡くなっている。」

「…そうですか。
 では私は、その子の世話係として仕えるのですね。」

「そうなるな。
 給金を支払うから、そのつもりで。」

「はい。」

「それと僕のことはディオンでいい。」

「わかりました、ディオン様。」

 彼がわずかに微笑むと、先ほどまでの威圧を和らげて見せた。
 彼にとっては、自分の要求をのませるために、場の空気を変えるなどお手のものなのだろう。

「明日、そこに連れて行くよ。」

「承知しました。」

 深く頭を下げて、部屋をあとにする。

 廊下を歩きながら、私は静かに息を吐いた。
 今の会話を思い返すと、心臓がまだ落ち着かない。

「秘密を破ったら消す。」
 その一言が、脳裏にこびりついて離れなかった。
 脅すなんて、よっぽど世間に知られなくないのね。

 それにしても、ディオン様は確か独身であったはず。
 でも公爵様ぐらいになると、人には言えない隠し子がいるということね。

 少し胸がざわついたけど、私には関係のないことだ。
 むやみに詮索するのは、私の命を縮めることになるから、慎重に接しなければ。

 その子がどんな子かわからないけれど、世話をすることで給金がもらえ、次へ進む蓄えができるなら、私としてもありがたい申し出だわ。
 だってどのみち私には、もう選択肢は残されていないのだから。

 私は部屋に戻ると、乾いた喉をお茶で潤し、一息ついた。

 窓の外では、夕陽が森を赤く染め、それを眺めながら静かに決意を固める。
「明日から私は、新しい人生を生きる。」
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