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第13章
185 刻印の儀(前日)
しおりを挟む「今朝も、コースを走っていらしたのですか?」
「えぇ、ロザリーと一緒にね」
朝のランニングの後、湯浴みして汗を流したレティシアの髪を、侍女長のパメラが魔導具で乾かす。
明日はいよいよ刻印の儀。前日となる今日、レティシアの全身をピカピカに磨き上げる!と…昨夜から意気込んでいたパメラは、少々不満気な顔つきをしていた。
「仕事はお休みをいただいているの…だから、ランニングは多目に見てくれる?」
「仕方がございませんね…では、マッサージを長めにしておきましょう。レティシア様にとっては、本日から儀式が始まっているも同然なのです。私がお身体を休めてくださいとあれ程お願い申し上げましたのに…ロザリーもロザリーです…レティシア様のお側についていながら…」
「ふふふ…ごめんなさい、侍女長」
娘に小言を言う母親のように、少し口先を尖らせてブツブツと呟くパメラの姿が…何だか擽ったく感じられる。夫のセバスチャンや子供たちと仲良く暮らすパメラ一家の風景が目に浮かんだ。
「殿下は、もう宮殿へ向かわれたの?」
「はい、夕刻にはお戻りになるはずですが…お出掛け前のご様子では、もっと早い気もいたします。私共が手際よくレティシア様のご準備をしなければ、終わらない内に旦那様が戻って来られるかもしれませんわ」
「大丈夫よ、まだ朝だもの」
「レティシア様、全身のお手入れでございますよ?」
「え?…どのくらい掛かるのかしら?」
「…少なくとも、ティータイムまでは覚悟していただかなくてはなりません…」
「……ティー……ご飯を食べる時間はある…?」
まだ朝食すら食べていないのに、すでに昼食が心配になったレティシアは…鏡越しにパメラを見上げた。
ミルクティー色の髪を櫛で丁寧に梳いていたパメラが手を止め、床に跪いてレティシアの手をそっと握ったかと思うと、静かに頭を下げる。
「…侍女長…?」
「レティシア様がお優しいのをいいことに…自らの説明不足を棚に上げ、勝手な言葉ばかりを申しました。どうかお許しください。…ご朝食はいつも通り召し上がっていただけます。ランチは、専用の湯殿にご用意をいたします」
「そ、そうなのね」
「お時間を掛けますのは、レティシア様にゆったりと寛ぎながらお過ごしいただくためなのです」
「…いつもありがとう…よろしくね…」
もっと気軽に会話ができればいいのにと思いながら、この世界の理に従いアシュリーの側で生きて行くと決めたレティシアは、パメラの温かい手を握り返した。
「私共は、旦那様とレティシア様の慶ばしい日を心待ちにしておりました。安心してお任せください。お食事を済まされましたら…先ずは、指先を整えてまいりましょう」
──────────
──────────
「だっ…旦那様、お帰りなさいませ。お早いお戻りでございましたね…」
「…あぁ、セバス…」
「旦那様?…宮殿で…何か?」
アシュリーを出迎えた侍従長のセバスチャンは、憂いに満ちた表情で前髪をくしゃくしゃと崩しながら甘いため息を漏らす…美しい主人の姿に、目を瞬かせる。
今まで女性に見向きもせず難攻不落と言われていた眉目秀麗な大公は、恋を知って色気が溢れ出るようになった。
「どうにも執務に集中できなくてな、少し早く戻った。…いや…邪魔だから帰れと言われたんだったか?…よく覚えていない」
「何と?!…旦那様でも…そんなことがあるのですね」
「こんな時間に邸へ戻ったのは初めてだ。…ぅん?セバス、息を切らしていないか…?」
「い、いえいえいえ…どうぞお構いなく」
セバスチャンは、作り笑顔でピンと背筋を伸ばす。
まだ夕食の準備もこれからという時間に、アシュリーが転移魔法陣を使用するようだと、警備中の騎士から急な知らせが届いた。
普段、アシュリーが邸へ戻る夜の時間帯には近くで控えているセバスチャンだが、日中は邸内のあちこちで仕事をこなしている。偶々シェフと夕食の打ち合わせ中で一階の厨房にいたため、階段を駆け上がり廊下を走って最上階までノンストップでやって来たのだ。
「…レティシアはどこにいる…?」
「今、お休みになっていらっしゃいます」
♢
「…疲れて…眠ってしまったか…」
寝室の大きなベッドの真ん中、毛布で包まれた小さな塊がレティシアだった。白い虎のぬいぐるみをガッチリと抱え、丸まった体勢で眠っている。
起こさないよう、そろりとベッドへ上がって隣に寝転がったアシュリーは、いつもより潤ってしっとりした髪を手に取って口付けた。
フワッと濃厚な花の香りが広がり、レティシアがほんの少し身動ぐ。ぬいぐるみに埋まっていた顔が半分現れて、艶々とした白い肌と赤い唇、瑞々しい桃のような淡いピンク色の頬が見える。
「…可愛い…」
思わずアシュリーの口元が緩んだ。
毎夜、レティシアを抱き締める度に…柔い肉体へ己の欲望を突き立てる淫らな想像をしてしまう。彼女の華奢な身体を壊さないよう大切にしなければと思うのに、溜まりに溜まった熱を嫌という程ぶつけて乱してみたくもある。
「…初夜とは…難しいものだな…」
ユティス公爵家の別荘で二日間、一泊二日の儀式の旅。レティシアにだけは旅の前後一日ずつ、合わせて四日間の休みを取らせておいた。ところが、ユティス公爵から『お前も儀式の後もう一日休め』と言われ、そのまま宮殿の執務室を追い出されて今に至る。
遅い昼食タイムを過ぎた辺りから徐々に落ち着きがなくなり、気も漫ろな様子で書類仕事が一向に進まないアシュリーを黙って放置できなくなったパトリックが、ユティス公爵を呼び出して相談した結果だった。
──────────
「…うぅ…ん…」
「殿下?」
「……レティシア…?」
ぼんやりとした視界に青い瞳が映って、アシュリーはハッとする。レティシアの安らかで規則正しい寝息が心地よく、眠りに誘われるように重くなった瞼を閉じて…熟睡してしまっていた。
「…あぁ…私は寝ていたのか…」
「お疲れ様…お帰りなさい、殿下」
「…うん…」
アシュリーは、上から覗き込んでいたレティシアへと両腕を伸ばしてギュッと胸に抱き込んだ。
「…んっ…今朝も早かったんでしょう?お休みを取るために忙しくしていて、きっと疲労が溜まっていたのね」
いつも、レティシアはアシュリーより先に寝入って後で目覚めている。彼の無防備な寝姿を見たのは久しぶりで、毎日『ナデナデ』をしていたころが懐かしく思えた。
「起きたら、殿下が横で眠っていて驚いたわ。私は、美容コースの最後のマッサージがめちゃくちゃ気持ちよくて眠ってしまったの。見て、このモチモチしたお肌。生まれたての赤ちゃんみたい」
「スベスベしているな。…全身こうなっているのか?」
「そ、それは…明日のお楽しみ…?」
「…確かめるのが楽しみだ。しかし、使用人に身を任せるのは慣れていなくて大変だっただろう…?」
「慣れていないと言えばそうね…浴室でお料理を食べさせて貰う経験をしたのは初めてよ。でも、皆が殿下を敬愛しているから、私のことも大事に扱ってくれるのが伝わって来て…うれしかった。少なくとも、このお邸で私が駄々を捏ねる理由は一つもないわ」
「使用人への教育が行き届いているみたいだな…侍女長を褒めておこう。もし不自由があれば、私に教えてくれ。心配しなくても、邸の使用人は皆すぐにレティシアを好きになって…敬うようになる」
「…ふふっ…」
「ん?」
「すごく大公殿下っぽい」
今の言葉の何が面白かったのか?キョトンとするアシュリーの顔を見てプッと吹き出したレティシアが、胸の上に突っ伏した状態でクスクス笑う。密着した身体が震えて、妙な気分になった。
「…はぁ…君の美味しそうな唇は…明日まで食べたら駄目なのか…」
「……え?…あ、あれ…殿下…」
レティシアが太ももにコツッ!と当たる硬いものに気付くと同時に、アシュリーが頬を染める。
「…っ…あまり動くな…」
「ごっ、ごめんなさい」
「…刻印の能力を持った男性王族は、精力が強くなる。子孫を残すための本能で、制御はできるが女性への興味が急激に増したりする。…ただし、父上と私には例外的な部分があると思って貰いたい」
「どこか違うの?」
「私が興味を持つのはレティシアだけだ。身体がこうなるのも…君にしか…反応しない…」
前国王アヴェルは番であるヴィヴィアンに一途で、側妃を持たなかった。ヴィヴィアンしか愛さないとは…愛せないのと同じ意味。
(番以外の女性には…不能ってこと…?)
つまり、レティシアの未来の夫は浮気とは無縁。そもそも、浮気などあってはならない。とはいえ、精神的な余裕と安心感が得られるのは大きい。
政略結婚により不倫が横行している貴族社会の中では、結構なアドバンテージとなる。その分、未来の妻として務めを果たす責任も重大なのでは?と…レティシアは、黄金色の瞳の奥でチラチラと揺れる焔炎を眺めた。
────────── next 186 刻印の儀
ここまで読んで下さいまして、誠にありがとうございます。
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