底なし沼を覗けば

wannai

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 山辺と軽く呑んで客の愚痴を言い合って、店を出たのは二十三時過ぎだった。

「俺、面倒だからタクシー呼ぶけどお前どうする?」
「あー、まだ終電前なんで電車で帰ります」
「途中まで乗ってけば?」
「いや、駅のスーパーで買い物してから帰るんで。お疲れ様でーす」

 大通りでタクシーを捕まえた山辺を見送って、駅までの道のりをゆっくり歩く。
 九月頭の夜はほどよく涼しく、酔い覚ましにうってつけだ。
 ジムの店舗から電車で二駅移動して山辺オススメの焼き鳥屋に来たのだけれど、それがちょうど『錘』の近くだった。駅前通りに面したビルの一つに錘の看板が光っているのを見つけて、たまには寄ってみるか、と狭い階段を覗き込んでみるが、ぐらりと傾いだ視界に懐かしい背中の幻を見てしまって苦笑した。

「……ハ。まだ未練タラタラかよ」

 ほっそりとした肉付きの薄い体。百七十五センチある俺とそう変わらない高身長の女で、髪はいつも短く切られていて、最初ここで話した時はサッパリした性格で付き合いやすそうだと思ったんだっけ。
 苦々しい記憶しか残っていないし、彼女に未練なんか微塵も無い。その筈なのに、思い出すとまだ痛い。
 情けねぇな、と歩き出そうとした時、階段を降りてくる足音が聞こえて見上げてしまって、ゴミ袋を抱えて降りてくる店長の澄川と目が合った。

「あら、ヒロくん久しぶり」
「どうもぉ」

 見つかってしまっては挨拶無しというわけにもいかず、ヘラ、と営業用の笑顔を作って可愛らしく手を振ってみせた。

「重そうですねぇ、一つ持ちますよ~」
「いいの? ありがとうね」

 澄川とは結構前からの知り合いで、今勤めている風俗店を紹介してくれたのも彼女だ。今日は長い髪を頭の後ろでくるくると綺麗に纏めて、細い銀縁の眼鏡を掛けていた。白い開襟シャツの胸元からはふくよかな胸の谷間がブラジャーの縁まで見えるほど深く開いていた。サドなら一度お相手願いたいくらいの美人だけれど、生憎と澄川もこちら側だ。

「ヒロくん、しばらくうちの店に入らない方が良いわよ」
「え?」

 ビルの裏手にあるゴミ捨て場まで生ゴミの入った袋を持っていって、遠慮したのに澄川は「お礼」と言って近くの自動販売機でお茶を買ってくれた。
 渡された缶のプルトップを押し開けて冷えた緑茶を喉に流し込むと、煙草を取り出した澄川は火を付けながらそう呟いた。

「アイに相当貢がせてるんですって? 月に五十万近く飛んでいく、って愚痴ってたわよ」
「はい?」
「あの子もア……考え無しだから、貴方の名前出して愚痴るもんだから、あの子の一部のファンが『ヒロって名前のクソマゾを特定しろ』なんてネットで大騒ぎしてるし」

 本人は愚痴じゃなくて惚気みたいな顔してるけど、と付け加えられて、訳が分からなくてぱちくりと目を瞬かせた。

「俺が? 貢ぐ?」
「貴方が貢ぐんじゃなくて、貢がれてるんでしょ」
「……俺が?」

 一体全体、どこの俺の話だろう。お茶の缶を持って呆けている俺を見て、澄川が眉尻を下げて変な顔をする。

「やだ、貴方じゃないの? ごめんなさい、この間イベントでプレイした直後からヒロヒロうるさいから、てっきり貴方だと」
「えーと……、確かに、店の方には来てるんですが」

 そんな金受け取って無い、と言おうとして、やっと思い当たった。

「あ、そっか、店。週イチでいつも八時間くらい買ってる」
「八時間!?」
「はい。入り時間から上がり時間まで全部」
「……それは……なるわね、五十万」
「なりますね」

 うちは基本プレイ六十分一万五千円の平均的な値段設定の店で、単純計算しても十二万。錘のキャストということで割引されたりしているだろうけど、一晩十万近く払っているだろう。それを、週イチ。そりゃあ、五十万にもなる。
 ちなみに俺の手元に入ってくるのはその半額以下だ。俺に貢いでいるというより、店に貢いでいるに近い。
 計算した俺と澄川がそれぞれお茶と煙草を吸って、そして重いため息を吐いた。

「あの……、やっぱアイって、店の方でもアホなんですか」

 ショーやプレイの最中にそう感じることはあまり無かったのだけれど。店ではどんな接客をするのか、好奇心に負けて聞いてみると、澄川は少し肩を竦めて煙草の煙を吐いてから、「お客さんにはそうでもなかったわね」と答えた。

「ああ、やっぱその辺の切り替えは上手いんだ」

 ジムへ来ている外面は、人畜無害そのもので、加虐性癖どころか、ネジの外れた言動をしている様子もない。他の客とトラブルを起こしてもおらず、ただ、どうしてか俺を好きだなんてデマが出回っているのが謎なくらいだ。

「というより、完全防備って感じね」
「完全防備?」
「素を出さないのが染み付いてる、っていうか。最近は、貴方のせいでアホが露出してきてるけど」

 あ、アホって言った。やっぱり澄川もあいつはアホ認定してるんだな、と親近感が湧きつつ、しかしそれが俺の所為というのはどういう意味だろう。

「あの子ね、もともと仕事全然やる気なくて、生活費プラス少し貯金に回せれば十分です、なんて言って店にあまり顔を出さなかったのよ。それが急にシフト増やしてくれって言ってきて、何でか聞いたらもう怒涛の「ヒロが」「ヒロが」って。初恋なのかしら? って思うくらい熱あげて話すのよ。お金が要るから、ってお客様とプレイするのも解禁して、なのにあの子、そこでも貴方の名前出して惚気てるらしいし」
「…………」
「だから、しばらくうちの界隈で名乗らない方がいいし、間違ってもアイに会いに来たりしない方がいいわよ」

 なんと答えればいいのか。ハッキリ言って、ドン引きだ。予想以上のアホ具合が積み重なっていて、どこから突っ込めばいいか分からない。

「あいつ、なんでそんなに俺を気に入ったんですかね……」
「さあ? 人の好みはそれぞれだし」

 分からないわね、と言った澄川は煙草を道端の縁石で擦り消して、吸殻をさっき捨てたゴミ袋の中に捻じ込んだ。

「真面目に働いてくれるのは嬉しいけど、正直見ててハラハラするわ。昔の貴方みたいで」
「……やだな、俺はもっといじらしいタイプでしたよ」
「貢いでる金額と見返りを考えたら、アイもそこそこでしょ」
 澄川は俺の過去を知っていて、だから肩を竦めるだけで返事をした。
「嫌じゃないなら、仕事じゃなく会ってやったら?」
「……俺の仕事知っててそれ言います?」
「あの子は前のご主人様みたいなことにはならないわよ」

 じっと見つめてくる澄川の目が、俺の過去を憂いている。まだ引き摺っているのか、と探るようなそれから視線を逸らして、空になった缶を自販機横のゴミ箱に捨てて軽く頭を下げた。

「お茶、ご馳走様です」
「ヒロくん」
「……破産されたり借金まみれになられても夢見悪いんで、金については考えます」

 それじゃ、と踵を返して、駅の方角へ足を向けた。
 ああ、やだやだ。澄川にあんな態度をとるなんて、俺もまだまだ人間が出来ていない。
 ご主人様だったあの女の顔なんてもう思い出せないのに、彼女が俺のご主人様だったという過去だけは忘れられない。
 アイは彼女のようにならない、と澄川は言った。それはそうだろう。彼女のような感情は、きっとあいつは持ち合わせていないから。
 見上げた深夜の空は地上の光に照らされた薄墨で、脳裏に浮かぶ阿見の瞳の方がよほど暗かった。

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