底なし沼を覗けば

wannai

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「本当にすいません、週末なのに」
「いーよいーよ、こんくらい」
「月曜までには絶対治しますので」
「お前有給溜まってんだから、気にせず使っとけって。じゃあな」

 どうも昼過ぎから体調が思わしくなく、何年かぶりに早退させてもらったのだが、夜中になって熱まで出てきてしまった。
 阿見からの今夜の誘いはすげなく断ってしまったから、明日は絶対に行かないとさすがに拗ねるだろう。先週も相手をせず帰ってしまったから、相当虐められるに違いない。
 となると、土曜に万全の体調で出勤出来るか不安になった。まだ店舗に山辺が残っている時間だろうと思って土曜に休んでいいかとお伺いの電話を掛けたら、有給を取っていいと言われた上に仕事上がりにスポーツドリンクやゼリーを持って見舞いに来てくれた。
 有り難く受け取って、俺の担当客のメニューと誰に割り振ったらいいかの相談を玄関先でして、そして山辺は帰っていった。
 有給の存在は、だいたい毎年消化月になってから事務に言われて思い出して担当客の居ない日に半休を取って調整していた。体調不良で使うのは初めてだけれど、山辺の計らいで日曜まで連休になった。週末は利用客も多いから、土日に休めるのなんて本当に何年ぶりか。
 貰ったペットボトルを冷蔵庫に仕舞っていると、スマホがメッセージの着信を知らせる音を鳴らした。コンセントに繋いでいたそれに目をやると、送り主は阿見だった。『まだ起きてる?』とだけ書かれた短い文面に、開かず画面を消す。
 悪いけれど、今日はもう店仕舞いだ。明日相手してやるから、今日は勘弁してくれ。
 心の中で謝りながら、時計を見て前回薬を飲んでから七時間ほど経っているのを確認してもう一度薬を飲んでから寝ることにした。
 ジャ、と台所の蛇口から水を出してコップに注ぎ、それで薬の粒を飲み下す。
 十一月の深夜は暖房を付けないと肌寒く、背中に震えが走るのに何故か汗をかいていて長袖スウェットの袖で額を拭った。寝る前に小用を足して、さあ寝るかと部屋の電気を消そうとしたところで、コンコン、とノックされる音がした。
 呼び鈴ではない。訝しく眉を寄せると、もう一度、コンコン、と玄関ドアが外からノックされているのが聞こえた。音の位置からして、うちのドアで間違いない。

「……?」

 そっと足音を忍ばせてドアへ近付いて覗き窓から外を覗くと、そこに見えたのは阿見の姿だった。
 仕事上がりなのか、襟付きの光沢のある白シャツにスラックスのカッチリとした、けれど薄着で立っている。寒そうに二の腕を摩るのを見て、慌てて鍵を回してドアを開けた。

「阿見? お前、どうした」
「ヒロ」

 ドアを開けると、阿見は安心したようにふわっと笑った。うお、煌びやか。風にでも吹かれたみたいな圧を感じて顔を顰めると、阿見が申し訳なさそうに肩を落とす。

「ごめん、どうしても会いたくなって」
「へ……」

 俺に? 会いたい?
 先週好きじゃないと言ってくれたばかりの奴の発言とは思えず、口元が引き攣った。

「いや……あの、阿見。だから、悪いんだけど」
「仕事終わって何も考えずこっちに来ちゃったから、終電もう無いんだ。泊めてくれる?」
「……」

 アホだ。
 そうだ、そうなんだ、こいつはアホなんだ。
 はあ、と溜め息を吐いて、迎え入れるようにドアを開けた。

「俺今、風邪っぽいから。あんま寄るなよ」
「具合悪いの? ……本当だ、熱ある。すぐ寝よう」

 玄関に入ってきた阿見は俺の額を撫でて、そして心配そうに見つめてきた。
 だからそういうことは好きでもない奴にやったら駄目なんだって。赤くなってしまう頬を止めようも無く、顔を逸らして玄関ドアと鍵を閉めた。

「あ……、そうだ、布団……」

 他人を泊めることなんて無いから、客用の布団なんて無い。寒気がするけれど、掛け布団の一枚を阿見に譲るしかないだろう。布団の代わりにしてやろうと俺の布団から少し離した場所に座布団を並べようとしたのに、阿見は勝手に敷いてある布団に潜った。

「おい」
「一緒に寝よう。ヒロ、寒いんでしょ? 湯たんぽの代わりくらいにはなるよ」

 おいで、と腕を広げられて、いやそこ俺の布団な、と真顔になってしまう。潔癖の気は無いけれど、仕事上がりそのままの服装で他人の布団に入るのはどうなんだ。いや、着替えが無いんだからどうしようもないか?
 阿見を見つめて熱のある働かない頭でぼうっと考えていたら、阿見が「早く」と自分の横を叩いてここへ寝ろと示してくる。

「風邪、伝染ったら」
「言ったろ、滅多に体調崩さないんだって俺は」
「でも……」
「ヒロ。おいで」

 強情さで阿見に勝てる気はせず、躊躇っている時間すら無駄だと判断して渋々布団に潜り込んだ。
 腕枕するみたいに首の下に阿見の腕が差し込まれて、胸元に抱き寄せられて横向きになった彼に抱え込まれる。後頭部をゆっくり撫でられて、瞼が重く落ちてきた。すぅ、と意識せず阿見の匂いを嗅ぐと、珍しく酒の匂いがする。

「今日、仕事で少し飲んだから。臭い? ごめんね」
「ん、平気……」

 俺が眉間に皺を寄せたのを見て、それだけで察したらしい阿見が申し訳なさそうに身動ぎしたので額を擦り付けた。
 付き合ってはいないけれど、だってこいつ、アホだし。自分から来てこんなことをするんだから、俺がしたって許されるだろう。
 ここ最近、木曜の夜はいつも阿見の部屋で泊まっていたけれど、こんなにくっついて寝るのは初めてだ。別れた筈なのに、今夜の方がよほどカップルっぽい。

「……~♪……」

 擦れたような小さな声で、阿見が鼻歌を歌い始める。知らないメロディで、けれど彼の声は落ち着く。頭の上でゆったりと紡がれる音は、じわりじわりと俺の身体に沁み渡って癒してくれるみたいだ。
 阿見の掌が、俺の頭と背中をゆっくりと撫でて、時々、軽く叩く。小さな子供を寝かしつけるような優しい振動に、弟か妹でも居るのかな、と今まで興味も持たなかった阿見の家族構成を想う。こんなマイペースで凶暴な兄、絶対嫌だな。いやでも、これだけ顔が良かったら妹から見れば自慢の兄かもしれない。弟だったらやっぱり嫌だ。
 鼻から息を深く吸うと、阿見の匂いがする。なんの匂いと形容したらいいか分からないけれど、いつも阿見からする匂い。
 くらくらとその匂いに酔うように、眠りの淵から落ちていった。

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