底なし沼を覗けば

wannai

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15(阿見 視点)

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「てんちょお~、アイくんが仕事しませ~ん」
「アイ! あんたいい加減にしないと時給下げるわよ!」

 なんかギャーギャー言われてるけど、動きたくない。どうせ俺、居るだけで喜ばれるし。こうやってカウンターの中でボーッとしてたって、勝手に客がキャアキャア言ってくれるし。

「立ってるだけで時給くれるって言ったの、店長ですよ」
「それにしたって、ちょっとやる気無さすぎなのよ。もっと顔引き締めなさい。なんなのそのアホ面は」
「アホ面でも綺麗でしょ、俺」
「腹立つわねあんた」

 店長に背中を初心者用のバラ鞭で打たれ、不快さに眉間に皺を寄せて思わず彼女を睨む。目を細めた店長は眦をヒクつかせて口角を上げ、俺を打った鞭の取手を俺の方へ向けてきた。

「そうそう、それ。あんた、顔がイイ上にマゾを喜ばせる表情がホントに上手いんだから。これ持ってお客様にサービスして回ってきなさい」
「だるい」
「さっさと行く」

 カウンターの中から押し出され、気が乗らないのを隠しもせず自分の掌をバラ鞭で打った。
 ピス、と高くて軽い音に、俺を見ていなかった客の視線もこちらへ向く。

「俺に打たれたい子猫ちゃんはいるかな?」

 ニコ、と愛想笑いを浮かべれば、ボックス席からキャアと高い悲鳴が上がった。うるっせぇな。どうしてこう、女はいちいち高い声で喚くんだろう。みんなヒロみたいに静かだったら叩いてやろうって気も湧いてくるのに。ああでも、ヒロが泣き喚くのは見てみたいかもしれない。高い声でアンアンと女のように鳴くヒロはきっと、かわいい。

「アイくん、アイくん! 私っ、アイくんの鞭欲しいですっ」
「うん、じゃああげない」
「えーっ」
「嘘だよ。おいで、どこに欲しい?」

 カウンター席の高い椅子を引いて手招きすると、真っ先に挙手した四十代くらいの女はフリフリと大きな尻を振って見せた。

「お尻! 私ね、お尻叩いてもらうの大好きなの!」
「じゃあ、ここへ手をついて」

 椅子に手を置かせて、尻を差し出すような格好にさせる。周囲の客に当たらないよう、鞭のしなりを調整して素早く軽く振った。厚いデニムスカートの尻に、鞭が当たる。

「あんっ♡」
「もう少し強くした方がいいかな?」

 可愛げを残したわざとらしい声が気に障って、続け様に二度目を打った。バチッ、と強打した音に、近くの席に座っていた男の目が細まる。一打目は興味無さそうだったから、こいつも俺を客寄せ用のお飾りだと思っていたんだろう。

「ひん……っ」
「もう一度いこうか」
「や、」

 続けて、三度目。二度目より強く打ったが、バラ鞭では布地が裂けすらしない。掌で細くばらけてしまう鞭全体をくるくると巻いて、出来るだけ一本に纏まるように捻っていると女が勝手に椅子から手を離した。

「……動いていいって言ったかな?」
「あ、あの、もう大丈夫ですっ」
「動いていいって言ったか、って聞いてるの」
「でもっ、あの、ちょっと痛すぎるっていうか」
「この程度で根を上げる癖に、俺に叩いて欲しいなんて手を上げたの?」

 小首を傾げて馬鹿にするように笑ってみせると、俺のプレイを知っている客たちからさざなみのような小さい笑い声が上がる。顔を赤くした女は、おそらくは普段からソフトプレイが中心なんだろう。だったらちゃんとそう言えば、それなりに扱ってやるのに。

「直りなさい」
「あの……っ」

 カウンターチェアの座面を叩き、姿勢を戻せ、と示すが、女はすっかり怯えてしまったかのようにじりじりと後ろに下がろうとしている。

「アイ」
「……」

 店長の叱責するような呼び声に、肩を竦めた。ただでさえヒロ以外なんてつまらなくて仕方無いのに、苦手な気遣いなんてものを強要されて辟易する。

「優しくしてほしいなら、ちゃんと言葉にしなさい。出来るね?」
「……ぁ……」
「それとも、その怯えも演技で、実はもっと痛くして欲しいのかな」
「ち、違……、あの、申し訳ありませんが、もっと弱く……一番最初くらいの力で叩いて、いただけると……」
「うん、じゃあ、戻っておいで」

 店長と俺とを交互に見てから、女が怖々と椅子に手をつく。すっかり初めの元気を失くして敬語になってしまった女に、つまらない、という感情だけが頭を占める。
 何度かごく弱めに叩いて、女が警戒を解いた頃合いで解放してやった。

「他に居る?」

 次、と無表情に鞭を巻くと、数人が手を挙げる。それらを順番に打ってやり、区切りがついた頃合いでやっと店長から「休憩していいわよ」と声が掛かった。
 さっさとカウンターに戻り、使ったバラ鞭の手入れをしてから棚に戻す。道具を大切に扱えと俺に仕込んだのは店長で、最初は面倒だと思っていたけれど続けていくうちにそれほど嫌いでもなくなった。

「アイくん、相変わらずすっごいドSだったね~♡」
「ってか、前よりパワーアップしてない? 今日、一回だけ全力で、って頼んだらめちゃめちゃ痛くて泣きそうだったもん」
「えっ嘘、あんたが!?」
「背中打ってもらったんだけど、ちょっと見て」
「うわ……、え、バラ鞭だったよね」
「やっぱり赤くなってる?」
「パドルで打たれた後みたいな色になってるよ」
「アイくんすごい捻ってたもんね。よっぽどバラ鞭嫌いなんだろうね」
「アイくんの一本鞭とか、見てみたいけど打たれるのは勘弁だよねー」
「分かる~」

 違うボックス席に座っていた客同士、俺に打たれた後に意気投合したのか席を移動して呑み始めた女たちの喋る声はカウンターの中まで聞こえてくるけれど、そんなことよりとカウンターの貴重品入れに置いていたスマホを掴み取った。
 カウンターの一番奥で、背もたれの無い丸椅子に座ると目の前の調理台に店長お手製の賄いが置かれる。今日は鍋焼きうどんだ。小鍋でそのまま出されて、少し醤油の焦げたような匂いに空腹を思い出す。

「ありがとうございます」
「まだ熱いから、少し冷ましてから食べなさいね」

 店長が言う通り、鍋の中身は火から下ろされているのにグツグツと煮えたぎっていた。今食べたら絶対舌を火傷する。
 先に、とスマホの画面を点灯させて、メッセージアプリに①と付いているのを見て心が踊った。アプリを開けばそれは予想通りヒロからの返信で、──けれど、目を通した文面に苦しくてシャツの胸元を握った。

「……なにそれ」

 今日は新しい映画やってるといいな、と送った俺の文の下、ヒロからの返事は、

『付き合ってないんだからデートの必要は無い』

 だった。
 必要無い? 必要とか不必要とか、そんなので誘ってたんじゃない。行きたいから行ってたんだ。ヒロだってあんなに楽しそうにしてたのに、付き合ってないから行かないとか、そういうものなのか。
 『行かないの?』とだけ書いて送ると、すぐに既読が付いて『行かない』と返ってきた。返事が早いってことは、もうジムの仕事は終わったんだろうか。
 『なら錘に来て俺が上がるまで飲んでて』と送る。
 胸がざわついて、上手く息が出来ない。喉の奥に何か詰まっているみたいに深く吸えなくて、何度吸っても足りなくて苦しい。数秒経ってまた既読が付いて、けれど返事を読んで唇を噛んだ。

『付き合ってない間柄の人間の家には泊まらない。明日の昼過ぎに行く』

 握ったままだったシャツを、もっと強く握る。泊まりもしないし、飯を一緒に食べるのも駄目、って? なんだそれ。そんなの聞いてない。そのままだ、って言ってたのに。
 先週は朝のうちに帰ってしまったから、今日は存分に可愛がろうと思っていた。撫で回して口付けて、涙が枯れるまで叩いて泣かせようと思っていたのに。
 明日まで会えないなんて、耐えられない。

「アイ、どうかしたの? 具合悪い?」

 店長に声を掛けられて、ゆっくり顔を上げた。

「うわ、なにその顔」
「ヒロが……」
「え? あんたまた何かやらかしたの?」

 やらかした、って何だ。俺は特に何も……、と考えてから、付き合ったらデートするものだとか、色々教えてくれたのは店長だと思い出す。彼女に言われなければ、ヒロと食事や映画に行く楽しさも知らないままだった。
 ヒロは俺に常識だとかそういうのを無理に教えたりしないから、もしかしたら店長の言う通り、何か『やらかした』のかもしれない。

「ヒロが、『付き合ってないからデートしない』って……」
「別れたの!?」

 唐突に大きな声を出されて、うっと眉間に皺が寄る。店長は普段からあまり騒がないタイプなのに、珍しい。

「え、なに? アイくん、例の子と別れたの?」
「わー、じゃあまたフリーに戻ったんだ」

 カウンター席に座る女とオネエ客が揃って嬉しそうにこちらを覗き込んできて、その言葉に顔を顰めた。

「フリー? いえ、パートナーのままなので」
「そうじゃなくて、恋人と別れたんでしょ? だったら、恋愛的にはフリーなんだよね」
「……?」

 意味が分からず訝しむ俺に、店長は溜め息を吐いてグラスに焼酎を注いで一口飲んだ。

「ごめんなさいね、スズさん、ミオちゃん。この子アホだからそっち方面はまるっきり赤ちゃんなのよ」

 赤ちゃん呼ばわりは不本意だけれど、恋愛方面に疎い自覚はある。ついこの間まで『好き』が何かも知らなかったのだ。……いや、その『好き』もどうやら勘違いだったみたいだから、実質俺はまだその感情すら知らない。

「アイ、一つずつ聞くわよ。ヒロくんと別れたの?」
「別れたっていうか、ヒロを好きじゃないって言ったら、ヒロが「俺はフラれたんだから付き合ってない」って言い出して、だからデートもしないし泊まりも無しだって。でも俺とヒロはパートナーのままだからフリーなんかじゃ」
「ごめんアイ、待って」

 店長は俺の返事の途中で真顔で止めて、興味津々といった顔で一緒に聞いていた客らの方へ顔を向けて「理解出来た?」と訊いた。

「えーと……、アイくんがそのヒロくん? に、好きじゃない、って言ってフったのね」
「それで、フラれたヒロくんは恋人としての付き合いを拒否した、と」
「アイくんとしては恋人気分のままパートナー関係を続けたかったけど、ヒロくんはそういうの嫌だったのね」
「分かるー、セフレ程度のパートナーに恋人面されたくないもん」
「……あなたたち、よく今のアイの説明で分かったわね」
「伊達に捩じくれた恋愛してないわよ」

 ふふ、と笑ったオネエが俺へお猪口を向けて、「お酌してくれたら話聞いてあげる」なんて言ってくる。
 休憩時間なんだけど、と店長を窺うと、目で頷いてきたので立ち上がってぬる燗の徳利を掴んで彼女のお猪口へ注いだ。「あたしもー」と声を掛けてきた隣の若い女もお猪口を出してきて、オネエへ視線を向けると笑って頷いたのでそちらへも注ぐ。

「それで? アイくんは何が不満でそのヒロくんをフッたの?」

 注がれた日本酒をぐっと一気飲みして、二杯目を要求しながらオネエが訊いてきた。

「振ったつもりは無くて……、ただ、好きじゃないかもしれない、って思ったからそう言っただけで」
「完全にフッてるわよ」

 即答され、ムッとしつつもヒロの顔を思い浮かべて我慢する。ヒロは俺と違って普通に恋愛経験があるみたいだから、こいつらの話を聞けばどうしたらいいかのヒントくらいは得られるかもしれない。
 ……ああ、また苛立つ。「ふわふわしてあったかくなるハッピーな気持ち」とヒロが言った時の顔を思い出す。誰かを思い描いていた。目の前の俺じゃなく、誰かを、俺以外の他の誰かを、『好きな人』と思い浮かべていた。
 記憶の中の『そのヒロ』は、もう何度も縊り殺した。何回殺しても、思い出す度に怒りが湧く。
 こんな感情、『好き』じゃない。ふわふわでもハッピーでもなく、ただただ、どす黒くて焼け焦げそうなほどに痛い。

「……『好き』じゃなきゃ、付き合ってちゃいけないんですか」
「そうじゃないけど、それを口にしたら終わりじゃないの。建前ってのは大事よ」
「建前……」
「そう。好きだから他に渡したくない、だから付き合ってる、って建前」

 他に渡したくないから、付き合う。それはとてもしっくりきた。俺の中にある感情とも相反しない。
 先週ここで呑んだ時も、強く感じた。
 ショーでヒロを見て気に入ったから縛ってみたいと言い出した男に、ヒロは「ありがとうございます」などと宣った。風俗の仕事を止めた自覚が無いのか、愛想笑いする姿に苛ついて、男が乗り気でヒロを連れて行くのを止めなかった。
 縛られたヒロはぽろぽろと可愛らしく涙を流して、けれど男を拒絶しなかった。密着する二人を見ていたくなかったのに、勝手に視界に入ってくるヒロは一度も俺に視線を寄越さなかった。緊縛でも泣くなんて知らなくて、俺の知らないヒロを衆目の場で辱める男に殺意が湧いた。
 少しでも嫌がれば止めてやるつもりだったのに、ヒロは嫌がらなかった。気持ち良さに浸っているのかじっと黙って静かに泣いていた。俺以外に触れられるのに抵抗が無いのなら仕置きにすらならない。
 もう二度と誰にも貸さない。思い出すだけで腹が立つ。

「別れたってことは、もうそのヒロくんはアイくんのものじゃないの」
「……まだパートナーですから、ヒロは俺のもので」
「パートナーなんて、『定期的にプレイする相手』以上の意味なんて無いわよ。ミオだってさっき言ってたでしょ、セフレ程度の関係だって」

 ──俺のものじゃない?
 いつもなら浮かべられる作り笑顔の口角の角度を忘れて、半開きの口から呆然と言葉を繰り返した。
 だから? だから、一緒に映画も行けないし、食事も、寝るのも、顔を見ることすら拒まれてる? もうヒロは俺のじゃないから、俺の言うことも聞いてくれなかった? もしかして、先週帰ってしまったのも、体調が悪かったなんて嘘で、俺のものじゃないと思ってたから?

「好きだって言えば、また」
「いやいや、フッたばっかりでそれは無いでしょ」
「……てかぁ、そんなショック受けるならどうして好きじゃないなんて言ったのよ? 完全に惚れてるじゃない」

 ツンデレなの? と若い女に呆れたような目で見られて、首を横に振った。

「ふわふわでハッピーじゃ、ない……」
「は?」

 目を丸くする客二人と店長に、ぽつぽつと説明する。
 『好き』はふわふわでハッピーで、相手と一緒に居るだけで幸せになれる感情だ、と。そうヒロが教えてくれたんだ、と呟く俺に、店長がどぽどぽとグラスに酒を注いで俺に寄越した。

「……俺、酒は」
「いいから呑みなさい」

 酔うと手元が狂いやすいから滅多に口にしないし、先週ここでヒロと飲んだ時も俺は店に出ている時と同じくウーロン茶だった。それは店長も知っている筈なのに、と訝しみつつも口を付けると、若い女の方が「想像以上に赤ちゃんね……」なんて溜め息を吐いた。オネエの方は徳利に直接口を付けて酒を呷っている。

「じゃあ、アイの中にある感情はどんななの?」

 店長に聞かれ、それを口にしていいものか悩んでこちらを見つめる顔を窺った。

「あんまり、言っていいものじゃないと」
「いいから聞かせなさい」
「……時々、殺したくなります」

 聞かせろと言うから答えたのに、聞いた三人はそれぞれ露骨に顔を顰めた。やはりこれは良い感情じゃないし、ましてや『好き』なんかじゃないんだろう。

「どうして殺したくなるの」
「他の奴を見てるから」
「……他の人を見てると、殺したくなるの?」
「俺だけ見てればいいのに、俺の方あんま見ないし、……なのに他の奴とは目ぇ見て話すし、どうしてか聞いても「綺麗過ぎて緊張する」とか言って誤魔化すし。ヒロならずっと見られてたっていいのに、他の奴ばっかで」

 すらすらと愚痴が溢れる俺に、途中で店長が噴き出した。くすくすと堪えているにしては大きな笑い声に、釣られたみたいにオネエと女も笑い出す。

「あの、笑い事じゃないんですけど」
「ふ、ふふ、そうね、そうよね」
「実際自分だったら死にそうなほど苦しいけど……っくく、ヒトゴトだと、こんなに笑えるのね」
「いやね、二人とも。笑っちゃ可哀想よ。馬鹿正直に答えてくれてるのに」

 笑う女二人をオネエが止めているが、彼女も肩を震わせている。
 ……昔から、よくあることだ。普通の奴には当然のように分かることが、俺には分からない。親に泣き付かれて大学までは出たが、結局勉強と感情は全く別物で、いまだに全く理解出来ないことがある。分かって当然の感情を理解出来ない俺はそれは笑えるものなんだろう。よくあることだから、もう文句を言う気にもならない。
 ヒロは、笑わない。困ったように眉根を下げて、どう言ったら俺が理解出来るか、言葉を探してくれる。
 だから、傍に置くならヒロがいい。ヒロは不愉快にならない。どころか、ふわふわになる。最近は苛立つことがあまりに増えてしまったけれど、だからって彼を撫でて腕の中に抱き締めた時の幸せな気持ちが消えたわけではないのだ。
 好きとかどうだとか、もうどうでもいい。好きだと言うだけでもう一度ヒロを自分の物に戻せるのなら、そう言おう。
 ぐっとグラスの酒を飲み干して、丸椅子に座り直した。小鍋の中の鍋焼きうどんはすっかり伸びていて、箸で摘むと短く千切れてしまう。

「アイくんごめん、馬鹿にしてるわけじゃないのよ」
「そうよ、ただね、可愛くってつい」

 馬鹿にする人間の常套句で、聞き流して食事を続けた。
 仕事を終えたらヒロの家に行こう。会って、それで、やっぱり好きだと言おう。どうしても他の奴に渡したくないのだと言えば、きっとヒロなら分かってくれる。

「アイ、それ、『好き』で間違いないわよ」

 笑いながら言う店長に、目線だけ向けて聞いているフリをした。この人は悪い人ではないけれど、ヒロとどちらの言葉を信じるかと言われれば比べるまでもない。
 適当に話を合わせて仕事を終えて、そして自宅ではなく駅へ向かった。
 まだ終電まで時間はあるが、ヒロの家の最寄り駅方面へ向かったらこっちへ帰ってくる電車はもう無いだろう。ヒロの家に泊めてもらおう。
 そういえば、うちへ泊めるばかりでヒロの家に入ったことは無かった。どんな部屋だろう。なんとなく、散らかっていそうなイメージがある。ゴミ箱が無くて、指定ゴミ袋をそのまま広げてありそう。壁際に読み終えた雑誌や漫画が積んであって埃を被っているくせに、毎日フロアワイパーだけ掛けて掃除したつもりになっていそう。想像すると楽しくて、それだけで足取りが軽くなる。
 駅で降りて、前に尾行して突き止めたヒロのアパートへ向かった。夜中の住宅街はひと気がなくひっそりと静かで、ソールの硬い俺の靴音がやけに響く。
 確かあのアパートの二階、と見上げた先の部屋の、玄関ドアが開いた。

「……」

 出てきた顔には見覚えがあった。俺が顔を覚えるのが苦手だと知って、「担当になるから一応覚えておいてね」と名前を書いた顔写真を渡してきた、ヒロの働くジムの店長。
 どうしてあいつが、ヒロの家から出てくる。俺も入ったことのないヒロの家に、どうして。
 見上げた先で男を追ってヒロが顔を出して、何事か話しているようだった。向こうから見えない位置に隠れて、耳を澄ます。俺と話す時より柔らかい言葉遣いで、掠れたような声に苛立ちが増す。

「じゃあ、また何かあったら気兼ねせず呼べよ」
「すみません。先週からどうにも調子が崩れてる自覚はあったんですけど……」
「いいんだよ、たまにはゆっくり休め。暖かくして寝るんだぞ」
「ありがとうございます」

 礼を言うヒロの声の後、ドアが閉まる音がした。階段を降りてきた男が、闇の中で物陰に隠れる俺に気付かず歩いて行く。その背を見送って、部屋を見上げた。
 スマホを出して、『まだ起きてる?』とメッセージを送る。既読はつかない。それからそのまま数分待っても、既読の文字は浮かんでこない。
 俺には、何もさせなかったのに。心配して見送りすることすら拒んだのに、あの男には見舞いを許したのか。
 どす黒い感情が胸を支配する。そうだ、やっぱり違う。こんな感情が、『好き』のわけがない。
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