78 / 93
3ー2章 落ち人たちの罪と罰
三十五話 肖像画を描き始めました。
しおりを挟む
お城に戻ってきた私たちは、オーベールさんに案内され、地下の監獄を再び訪れました。
入り口には警備の兵士が二人。部屋の中に入るのは私とソランさん、それからオーベールさんの三人。
「これからここに来るときには、案内役は私がします。ですがずっと付きっきりになるわけにはまいりませんので、そのときは護衛を増やすつもりです」
「……護衛、ということは危険があるってことか?」
「たまにですが、正気に戻られることもあり、そのときは酷く暴れると報告を受けております」
「……おいおい、大丈夫なのか」
呆れるソランさんに、オーベールさんが指を立てて声をひそめます。
「あまり大声を出して刺激をしないように、先代様が興奮されますので」
ベッドの上で横たわる老人は、今日は完全に目が覚めてはいるようですが、視線は昨夜と同じように虚空を見つめたまま。違うのはその装い。肖像画におさめるのに見苦しくないよう、清潔な白いシャツに着替えられていました。髪も伸びすぎた部分は切り揃えて、乱れぬようになでつけ整えられていて、白髪まじりの髭も、同じように綺麗になっていました。
オーベールさんと警備の一人が手を貸して、老人を起き上がらせ、大きめのクッションにもたれかかせます。
その間に、私はスケッチの用意です。
「そこの椅子より近づかない方がいいでしょう、老人とはいえ理性を失った者の行動は予測通りにはなりません。くれぐれもお気をつけください」
「……わかりました」
返事をしてベッドからかなり離れた場所にある椅子に落ち着く。
目測ですが、三メートルくらいは離れてますよ。私のすぐ後ろにソランさん、そして今日は初日とあって、オーベールさんが付き添い。ベッドを挟んで反対側にいて様子を見るようです。
「あの、聞いてもいいですか?」
「私に答えられるものでしたら」
白い紙に黒鉛を走らせながら、私はオーベールさんに話しかけます。
「この方は、どんな人物だったんですか。オーベールさんから見て……」
オーベールさんは、しばらく答えに窮しているようでした。いえ、窮するというか、どう伝えていいのか、迷っているかのよう。
目の前の老人は、ひどく痩せこけています。袖の端から見える手首は、骨と皮だけのよう。
だけど、思い出したように動く顔のシワは、穏やかな人のものではなくて……。
眉間には表情を消しても残る縦の深い溝。そこからのびる眉は、重力に逆らって上向きに延びているのです。細い鼻筋は神経質な印象を与え、眉間同様深いほうれい線は、長い時間をかけて刻まれていったに違いありません。ときおり見える歯は、不自然に平らな印象です。きっと、何度も喰いしばったために、削られていったのでは……
もたれているのに、曲がることはなく伸びた背筋は、そうして人前に出る習慣が長かったせいなのかな。
そんな老人の白濁した瞳の奥に、もう熱は浮かぶことはないのでしょうか。
顔立ちはどこかカロンさんと似ています。きっと若い頃はとてもハンサムさんだったにちがいありません。だけど、カロンさんの持つ静かな穏やかさは、探そうとしてもどこにも見出だせないのです……
いつもならば、見たままに描けば、その人となりが思い描くのです。でも今回ばかりは意識が遠くにあるせいか、つかみ所がありません。
「先代様……ジュスタン・グロヴレ様は、とても強くこのセレスフィアに君臨された方です。強いものを取り入れ、重用し、利益になるものを自らの内に囲いました。そのぶん他から憎まれることはありましたが、先代様を慕う者は多かったと聞いております」
「……そりゃそうだろう、逆らうものは片っ端から処刑したんだから」
「えぇ、本当ですか、それ」
オーベールさんの説明が気にくわないとでも言うように、口を出したソランさんの言葉に、私は驚きを隠せませんでした。
「間違ってはいません。ですが、決して意味のないものだったわけでなく、それだけの強権が必要な時代があった。それだけのことです」
「いまもそれが残ってるんじゃないのか? 少なくとも、そういった事を好む輩が多いだろう、グロヴレに与する者たちは」
「カロン様を侮辱しないでいただきたい、一介の田舎警備兵の分際で」
オーベールさんの鋭い視線が、ソランさんに浴びせられます。
「それはちょっとソランさんが言い過ぎです、街の人たちの平和な様子を見れば、それだけじゃないってソランさんにもわかるでしょう?」
「……そ、それはそうだが」
すべてを見たわけではありませんが、人々はにこやかに、オーベールさんに声をかけてきてました。誰彼かまわずではなく、彼がこのお城でとても重責を担っていることは分かっているようでしたし。それに、市場でのやり取りも、いたってノエリアと変わりません。よそ者だからとふっかけられたり、値段交渉に応じてくれないなんてこともなかったのです。それにこれだけの大きな街を、強権で縛るなんて、相当の労力を要するはずです。何週間もの間、カロンさんが留守にすることは出来ないのでは?
なんてことを言ってみれば。
「見た目とは違い、聡明でいらっしゃる」
「わぁお、オーベールさんに初めて誉められました!」
「……静かに」
「あ、はい」
ソランさんも渋々ながら失礼だった言葉を謝り、オーベールさんもそれで納得したようです。
その間も、先代伯爵はブツブツ呟くだけで、私たちに反応することはありませんでした。五枚ほどデッサンをしたところで、「あ、あ」と呟く老人に、オーベールさんは耳を傾けます。
「どうなさいましたか、伯爵……はい……分かりましたお待ちください」
老人からなにかを聞き取ったオーベールさんは、外の護衛に声をかけました。するほどなくして白い装束を着た男性が入ってきて、老人に水を取らせます。
「伯爵って、お呼びしてるんですか?」
「ええ、そうです。先代様にはそれが一番しっくりくるようで、お世話をする者はそうお呼びしています……ですがご注意を、カロン様の前ではそうお呼びするのは、お止めになってください」
「どうしてですか?」
「……理由はいいのです、とにかくそうしてください、御身のために」
分かりましたと答えたところで、『伯爵』のお世話は終わったようです。いくぶん厳しくなっていた表情が和らぎ、三枚ほどスケッチをしたところで、今日は終了となりました。
私たちは道具を片付け、再びやってきた白装束の男性と入れ替わりに、その部屋を辞しました。
その男性は、看護を任されている方なのだそうです。女性だと、万が一暴れだしたときに押さえることができないため、彼らが面倒を見ているそうです。絵を描くための着替えもまた、してくれたのだそう。
私は冷たい廊下を歩きながら、オーベールさんに尋ねてみます。
「そんな手間をかけてまで、カロンさんはどうして肖像画を望むのでしょう。加護も、さして期待していないって言っていたのに」
「……それはカロン様に直接お聞きください」
「そういえば、カロンさんはお忙しいのですか?」
「当然です、寝る間も惜しんでおられます。ですから、どうか問題は起こさないよう、お願いいたしますね」
オーベールさんを先頭に、私、それからソランさんと続いて歩いていたのですよ。そんな私の後ろから、噴き出す音。
……ちょっと!
ソランさんを睨めば、苦笑いを浮かべています。
「……大人しく、言われたことだけをこなしてください。いいですね?」
「はい、分かってます」
何をしでかすと思っているのでしょうか、失礼ですね。まさか「押すな押すな」っていう、アレじゃあるまいし。期待されてると勘違いしますよ。
そうこうしているうちに、私たちは与えられた部屋にたどり着き、オーベールさんは仕事があるからと去っていきました。
これからはしばらく、絵を描くか観光するかの日々を、繰り返して過ごすことになりそうです。
「あいつの言葉に便乗するわけじゃないが、大人しくしてろよ?」
「しつこいですね、私はいつだって従順です」
「どこがだ」
あまりの早いツッコミに、返す言葉もございません。酷い。
「とにかく、数日もすれば隊長がなにかしらの手を整えてくるはずだ、それまでは、という意味だぞ。分かってるか?」
「……そんなに早く来れるのかなあ、アルベリックさん」
「なんだ、隊長を信じないのか?」
「そんなんじゃないです、けど……ローウィンから直接は追って来られないから、アンジェさんに手紙を託してくれたんですよね」
「そりゃ、隊を離れるからには、色々と準備があるからな……」
ゴタゴタの中で一緒に来てしまったソランさんもまた、私同様に状況が分からないまま。彼に良い答えがあるはずがないのは、あたりまえなのです。
弱音を吐くつもりではありませんでしたが、結果としてそんな風になってしまいました。反省です。
「大丈夫です、信じてますから」
「……すまん、俺こそかえて気を使わせたみたいで」
「そんなことないです、じゃあ、私はもう少しスケッチを見直して明日の準備をしたいので、これで」
さすがに女性の部屋に入るわけにいかないソランさんを振りきって、逃げたわけでもないのに、なんだが居心地が悪い気がしました。
部屋に戻って道具を置き、ふと衝立の向こうを眺めると、先に帰ってきた結衣さんの後ろ姿が隙間から見えました。ベッドの端に座り、背中をこちらに向けています。
微かに肩が震えているようにも見え、私はそっと彼女から見えないよう、自分のベッドに座り、膝を抱えました。
きっと、結衣さんは写真を見ているのでしょう。やっと帰ってきた写真……ショーンさんとの再会を邪魔してはいけないのです。
そっと音を立てないよう、私はスケッチブックを広げました。
小さなすすり泣きの声が耳に入らないよう、描いた絵に集中するように。
そっと紙をめくると、ゴンドラの上でウキウキした線で描いた景色、澄んだ水の底の魚……そして海辺の描きかけの絵。
めくる指が止まり、しばらく考えた後に、鞄から鉛筆を取り出してそこに斜線を乗せます。
描きかけというより、失敗の絵と言った方がいい出来だったから……。
線は固く、中途半端なところでぎこちなく止まってしまっています。当然です。途中からは、景色なんてろくに目に入っていなかったのだから。
絵描きとしては、こんなのは失格です。
上手く描けなくて破ることはありますが、集中できなくてこんな有り様になるのは、滅多にないこと……。
思わずもれるため息。
今日はとてもたくさんのことがありました。結衣さんの恋人の姿に……結衣さんの心の錘となっている傷。それから、カロンさんのお父さんのこと。
とてもすぐには処理しきれません。
そんな風に考えていると、なんだか眠くなってきたのです。ちょうどここはベッド……抗えというほうが無理ってものですよ。
そうしていつの間にか、私は横になっていたのです。
ふかふかの布団とさっぱりとしたシーツ。ああ、たまりません。
──夢を見ていました。
アルベリックさんが手を振り、すごく優しく微笑んでいて、幸せで。ああ、もう迎えに来てくれたんですね、そう言って駆け寄ったのです。
だけど砂浜が、私の足を鈍く捉えて。
今すぐそばに行って、たくさんの話をしたい。触れたい。
気は焦るのに、上手く足が前に出ないのです。
待ってて、アルベリックさん。そう声をかけようとしたら、彼の横に誰かが既に立っていて……
アルベリックさんの腕に、その人の腕がかかるのです。
やめて、結衣さん。
その人はアルベリックさんなのです。だから──
『彼は私のショーンよ』
……え?
驚いているうちに、アルベリックさんの姿が変わっていきます。赤地の隊長服から、ネクタイを締めたスーツ姿へ。顔つきは同じなのに、いつも見せてくれる優しい笑顔が、私ではなく、傍らの結衣さんへと向けられていくのです。
やめて、やめて。
悲鳴のような声で訴えるのに、全然届かなくて。
結衣さんがアルベリックさんの腕におさまり、私を振り返ります。
『彼は私と出会うはずだったの。だから、返してもらうわ』
はっと目が覚めました。
一瞬、自分がどこに居るのかもわからなくて……何度か目をこすれば、そこがカロンさんのお城で、ベッドの上だということが思い出されました。姿勢なんて体育座りのまま、横にコロンと転がってるし、涙と鼻水で酷い状態です。
とにかく動悸を収めようと、いまだドクドク鳴る胸を押さえながら、深呼吸。
「……なんていう、酷い夢でしょう。いくら不安だからって……ないない」
自分がこんな酷いことを考える人間だと思いもしませんでした。よりによって結衣さんがアルベリックさんを奪うだなんて。被害妄想も甚だしい……
自己嫌悪に陥ったそのとき。
「きゃああ!」
衝立の向こうで、つんざく悲鳴が聞こえたのです。
あの声は結衣さんです。
私は慌てて衝立に走りよります。衝立の向こうへ一歩踏み入れ、私は驚きのあまり叫んでいました。
「な、な、なんでー?!」
部屋の中央で立ち尽くす結衣さんの周囲に、見覚えのある光が、キラキラと溢れていました。
彼女を取り巻くようにして広がる光の元は、彼女の手にした小さな鞄の中。そこから光がどんどん溢れて、部屋を埋め尽くすかのような勢いなのです。
「どうした、何が……うわ!」
「ソランさん」
悲鳴で真っ先に駆けつけたソランさんもまた、驚きの声をあげました。
そうです、これは間違いなく。
「カズハの加護か!」
なぜ、今これがここで加護が起こるのですか。
私は結衣さんの抱えるものを、凝視しました。
入り口には警備の兵士が二人。部屋の中に入るのは私とソランさん、それからオーベールさんの三人。
「これからここに来るときには、案内役は私がします。ですがずっと付きっきりになるわけにはまいりませんので、そのときは護衛を増やすつもりです」
「……護衛、ということは危険があるってことか?」
「たまにですが、正気に戻られることもあり、そのときは酷く暴れると報告を受けております」
「……おいおい、大丈夫なのか」
呆れるソランさんに、オーベールさんが指を立てて声をひそめます。
「あまり大声を出して刺激をしないように、先代様が興奮されますので」
ベッドの上で横たわる老人は、今日は完全に目が覚めてはいるようですが、視線は昨夜と同じように虚空を見つめたまま。違うのはその装い。肖像画におさめるのに見苦しくないよう、清潔な白いシャツに着替えられていました。髪も伸びすぎた部分は切り揃えて、乱れぬようになでつけ整えられていて、白髪まじりの髭も、同じように綺麗になっていました。
オーベールさんと警備の一人が手を貸して、老人を起き上がらせ、大きめのクッションにもたれかかせます。
その間に、私はスケッチの用意です。
「そこの椅子より近づかない方がいいでしょう、老人とはいえ理性を失った者の行動は予測通りにはなりません。くれぐれもお気をつけください」
「……わかりました」
返事をしてベッドからかなり離れた場所にある椅子に落ち着く。
目測ですが、三メートルくらいは離れてますよ。私のすぐ後ろにソランさん、そして今日は初日とあって、オーベールさんが付き添い。ベッドを挟んで反対側にいて様子を見るようです。
「あの、聞いてもいいですか?」
「私に答えられるものでしたら」
白い紙に黒鉛を走らせながら、私はオーベールさんに話しかけます。
「この方は、どんな人物だったんですか。オーベールさんから見て……」
オーベールさんは、しばらく答えに窮しているようでした。いえ、窮するというか、どう伝えていいのか、迷っているかのよう。
目の前の老人は、ひどく痩せこけています。袖の端から見える手首は、骨と皮だけのよう。
だけど、思い出したように動く顔のシワは、穏やかな人のものではなくて……。
眉間には表情を消しても残る縦の深い溝。そこからのびる眉は、重力に逆らって上向きに延びているのです。細い鼻筋は神経質な印象を与え、眉間同様深いほうれい線は、長い時間をかけて刻まれていったに違いありません。ときおり見える歯は、不自然に平らな印象です。きっと、何度も喰いしばったために、削られていったのでは……
もたれているのに、曲がることはなく伸びた背筋は、そうして人前に出る習慣が長かったせいなのかな。
そんな老人の白濁した瞳の奥に、もう熱は浮かぶことはないのでしょうか。
顔立ちはどこかカロンさんと似ています。きっと若い頃はとてもハンサムさんだったにちがいありません。だけど、カロンさんの持つ静かな穏やかさは、探そうとしてもどこにも見出だせないのです……
いつもならば、見たままに描けば、その人となりが思い描くのです。でも今回ばかりは意識が遠くにあるせいか、つかみ所がありません。
「先代様……ジュスタン・グロヴレ様は、とても強くこのセレスフィアに君臨された方です。強いものを取り入れ、重用し、利益になるものを自らの内に囲いました。そのぶん他から憎まれることはありましたが、先代様を慕う者は多かったと聞いております」
「……そりゃそうだろう、逆らうものは片っ端から処刑したんだから」
「えぇ、本当ですか、それ」
オーベールさんの説明が気にくわないとでも言うように、口を出したソランさんの言葉に、私は驚きを隠せませんでした。
「間違ってはいません。ですが、決して意味のないものだったわけでなく、それだけの強権が必要な時代があった。それだけのことです」
「いまもそれが残ってるんじゃないのか? 少なくとも、そういった事を好む輩が多いだろう、グロヴレに与する者たちは」
「カロン様を侮辱しないでいただきたい、一介の田舎警備兵の分際で」
オーベールさんの鋭い視線が、ソランさんに浴びせられます。
「それはちょっとソランさんが言い過ぎです、街の人たちの平和な様子を見れば、それだけじゃないってソランさんにもわかるでしょう?」
「……そ、それはそうだが」
すべてを見たわけではありませんが、人々はにこやかに、オーベールさんに声をかけてきてました。誰彼かまわずではなく、彼がこのお城でとても重責を担っていることは分かっているようでしたし。それに、市場でのやり取りも、いたってノエリアと変わりません。よそ者だからとふっかけられたり、値段交渉に応じてくれないなんてこともなかったのです。それにこれだけの大きな街を、強権で縛るなんて、相当の労力を要するはずです。何週間もの間、カロンさんが留守にすることは出来ないのでは?
なんてことを言ってみれば。
「見た目とは違い、聡明でいらっしゃる」
「わぁお、オーベールさんに初めて誉められました!」
「……静かに」
「あ、はい」
ソランさんも渋々ながら失礼だった言葉を謝り、オーベールさんもそれで納得したようです。
その間も、先代伯爵はブツブツ呟くだけで、私たちに反応することはありませんでした。五枚ほどデッサンをしたところで、「あ、あ」と呟く老人に、オーベールさんは耳を傾けます。
「どうなさいましたか、伯爵……はい……分かりましたお待ちください」
老人からなにかを聞き取ったオーベールさんは、外の護衛に声をかけました。するほどなくして白い装束を着た男性が入ってきて、老人に水を取らせます。
「伯爵って、お呼びしてるんですか?」
「ええ、そうです。先代様にはそれが一番しっくりくるようで、お世話をする者はそうお呼びしています……ですがご注意を、カロン様の前ではそうお呼びするのは、お止めになってください」
「どうしてですか?」
「……理由はいいのです、とにかくそうしてください、御身のために」
分かりましたと答えたところで、『伯爵』のお世話は終わったようです。いくぶん厳しくなっていた表情が和らぎ、三枚ほどスケッチをしたところで、今日は終了となりました。
私たちは道具を片付け、再びやってきた白装束の男性と入れ替わりに、その部屋を辞しました。
その男性は、看護を任されている方なのだそうです。女性だと、万が一暴れだしたときに押さえることができないため、彼らが面倒を見ているそうです。絵を描くための着替えもまた、してくれたのだそう。
私は冷たい廊下を歩きながら、オーベールさんに尋ねてみます。
「そんな手間をかけてまで、カロンさんはどうして肖像画を望むのでしょう。加護も、さして期待していないって言っていたのに」
「……それはカロン様に直接お聞きください」
「そういえば、カロンさんはお忙しいのですか?」
「当然です、寝る間も惜しんでおられます。ですから、どうか問題は起こさないよう、お願いいたしますね」
オーベールさんを先頭に、私、それからソランさんと続いて歩いていたのですよ。そんな私の後ろから、噴き出す音。
……ちょっと!
ソランさんを睨めば、苦笑いを浮かべています。
「……大人しく、言われたことだけをこなしてください。いいですね?」
「はい、分かってます」
何をしでかすと思っているのでしょうか、失礼ですね。まさか「押すな押すな」っていう、アレじゃあるまいし。期待されてると勘違いしますよ。
そうこうしているうちに、私たちは与えられた部屋にたどり着き、オーベールさんは仕事があるからと去っていきました。
これからはしばらく、絵を描くか観光するかの日々を、繰り返して過ごすことになりそうです。
「あいつの言葉に便乗するわけじゃないが、大人しくしてろよ?」
「しつこいですね、私はいつだって従順です」
「どこがだ」
あまりの早いツッコミに、返す言葉もございません。酷い。
「とにかく、数日もすれば隊長がなにかしらの手を整えてくるはずだ、それまでは、という意味だぞ。分かってるか?」
「……そんなに早く来れるのかなあ、アルベリックさん」
「なんだ、隊長を信じないのか?」
「そんなんじゃないです、けど……ローウィンから直接は追って来られないから、アンジェさんに手紙を託してくれたんですよね」
「そりゃ、隊を離れるからには、色々と準備があるからな……」
ゴタゴタの中で一緒に来てしまったソランさんもまた、私同様に状況が分からないまま。彼に良い答えがあるはずがないのは、あたりまえなのです。
弱音を吐くつもりではありませんでしたが、結果としてそんな風になってしまいました。反省です。
「大丈夫です、信じてますから」
「……すまん、俺こそかえて気を使わせたみたいで」
「そんなことないです、じゃあ、私はもう少しスケッチを見直して明日の準備をしたいので、これで」
さすがに女性の部屋に入るわけにいかないソランさんを振りきって、逃げたわけでもないのに、なんだが居心地が悪い気がしました。
部屋に戻って道具を置き、ふと衝立の向こうを眺めると、先に帰ってきた結衣さんの後ろ姿が隙間から見えました。ベッドの端に座り、背中をこちらに向けています。
微かに肩が震えているようにも見え、私はそっと彼女から見えないよう、自分のベッドに座り、膝を抱えました。
きっと、結衣さんは写真を見ているのでしょう。やっと帰ってきた写真……ショーンさんとの再会を邪魔してはいけないのです。
そっと音を立てないよう、私はスケッチブックを広げました。
小さなすすり泣きの声が耳に入らないよう、描いた絵に集中するように。
そっと紙をめくると、ゴンドラの上でウキウキした線で描いた景色、澄んだ水の底の魚……そして海辺の描きかけの絵。
めくる指が止まり、しばらく考えた後に、鞄から鉛筆を取り出してそこに斜線を乗せます。
描きかけというより、失敗の絵と言った方がいい出来だったから……。
線は固く、中途半端なところでぎこちなく止まってしまっています。当然です。途中からは、景色なんてろくに目に入っていなかったのだから。
絵描きとしては、こんなのは失格です。
上手く描けなくて破ることはありますが、集中できなくてこんな有り様になるのは、滅多にないこと……。
思わずもれるため息。
今日はとてもたくさんのことがありました。結衣さんの恋人の姿に……結衣さんの心の錘となっている傷。それから、カロンさんのお父さんのこと。
とてもすぐには処理しきれません。
そんな風に考えていると、なんだか眠くなってきたのです。ちょうどここはベッド……抗えというほうが無理ってものですよ。
そうしていつの間にか、私は横になっていたのです。
ふかふかの布団とさっぱりとしたシーツ。ああ、たまりません。
──夢を見ていました。
アルベリックさんが手を振り、すごく優しく微笑んでいて、幸せで。ああ、もう迎えに来てくれたんですね、そう言って駆け寄ったのです。
だけど砂浜が、私の足を鈍く捉えて。
今すぐそばに行って、たくさんの話をしたい。触れたい。
気は焦るのに、上手く足が前に出ないのです。
待ってて、アルベリックさん。そう声をかけようとしたら、彼の横に誰かが既に立っていて……
アルベリックさんの腕に、その人の腕がかかるのです。
やめて、結衣さん。
その人はアルベリックさんなのです。だから──
『彼は私のショーンよ』
……え?
驚いているうちに、アルベリックさんの姿が変わっていきます。赤地の隊長服から、ネクタイを締めたスーツ姿へ。顔つきは同じなのに、いつも見せてくれる優しい笑顔が、私ではなく、傍らの結衣さんへと向けられていくのです。
やめて、やめて。
悲鳴のような声で訴えるのに、全然届かなくて。
結衣さんがアルベリックさんの腕におさまり、私を振り返ります。
『彼は私と出会うはずだったの。だから、返してもらうわ』
はっと目が覚めました。
一瞬、自分がどこに居るのかもわからなくて……何度か目をこすれば、そこがカロンさんのお城で、ベッドの上だということが思い出されました。姿勢なんて体育座りのまま、横にコロンと転がってるし、涙と鼻水で酷い状態です。
とにかく動悸を収めようと、いまだドクドク鳴る胸を押さえながら、深呼吸。
「……なんていう、酷い夢でしょう。いくら不安だからって……ないない」
自分がこんな酷いことを考える人間だと思いもしませんでした。よりによって結衣さんがアルベリックさんを奪うだなんて。被害妄想も甚だしい……
自己嫌悪に陥ったそのとき。
「きゃああ!」
衝立の向こうで、つんざく悲鳴が聞こえたのです。
あの声は結衣さんです。
私は慌てて衝立に走りよります。衝立の向こうへ一歩踏み入れ、私は驚きのあまり叫んでいました。
「な、な、なんでー?!」
部屋の中央で立ち尽くす結衣さんの周囲に、見覚えのある光が、キラキラと溢れていました。
彼女を取り巻くようにして広がる光の元は、彼女の手にした小さな鞄の中。そこから光がどんどん溢れて、部屋を埋め尽くすかのような勢いなのです。
「どうした、何が……うわ!」
「ソランさん」
悲鳴で真っ先に駆けつけたソランさんもまた、驚きの声をあげました。
そうです、これは間違いなく。
「カズハの加護か!」
なぜ、今これがここで加護が起こるのですか。
私は結衣さんの抱えるものを、凝視しました。
10
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~
放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」
大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。
生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。
しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。
「すまない。私は父としての責任を果たす」
かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。
だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。
これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。
夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。
Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。
そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。
そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。
これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。
(1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。