殿下、毒殺はお断りいたします

石里 唯

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第1章

前世

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寝乱れた艶やかな黒髪が優しく一房掬い上げられた。
そっと髪に口づけを落とされ、その仕草にまるで肌に口づけを落とされたような心地がして、直子は息を微かに呑んだ。
彼女の気配につられたように、髪から自分へと向けられた高直の眼差しに、恥ずかしさを覚えて目を逸らす。三日前まで知らなかった熱くそして強い眼差しに、まだ慣れることが出来なかった。
けれど、逸らしてもまだ感じることのできる熱が彼女の顔に近づき、耳元にその言葉がささやかれた。

「私たちは、これから、――そして来世でも、比翼の鳥、連理の枝となろう」

恐い程の幸せを感じて涙ぐみながら、直子は目を閉じ微かに頷いた。
その言葉が如何に儚いものか分かっていたものの、その瞬間は二人の間での確かな誓いとして胸に響いていた。



眩しい程の幸せな時から3か月ほどが過ぎたころ、
衣擦れの音で、直子は瞳をゆっくりと開きながら、いつまでも見ていたい夢から目覚めた。

「起こしてしまいましたか?」

耳に心地よい深みのある声が、いつものようにすぐ脇で聞こえる。
何とか頭を動かし、声の主を見遣ると、涼やかな顔がいつものように憂いを隠しきれないままこちらを眺めていた。
高直と夫婦になってから程なくして、直子は体調が悪くなることが増えた。
今では起き上がれる時間の方が少なくなっている。
彼の顔に心からの笑顔が浮かんでいるのを、一体、いつから見ていないのだろう。
直子は胸に痛みを覚えながら、精一杯の笑顔を浮かべた。

「今日も来て下さったのですね」

彼は微かに口の端を上げたものの、それもすぐに消え失せ、やせ細った直子の手を取り額に押し当てる。
それは縋りつくような必死さを感じるものだった。
直子は力が入らず震えながらも、残りの自由な片手を彼に伸ばし、彼の手をそっと撫でる。
彼はピクリと体を揺らしたものの、握りしめる手の力は変わらなかった。
部屋には静寂が訪れ、彼にかける言葉が見つけられなかった直子は、いつしか物思いに沈んだ。

罰が当たったのかもしれない

切なくなるほどの想いを見せ、文字通り、連日通ってくれる高直に対して、直子の女房たちの反応は、ここ最近、とても冷めたものになっていた。
冷めただけでなく、憤りの眼差しを向けている者までいる状況であった。
高直に右大臣の姫との婚姻の話が持ち上がっているのだ。

高直と結婚することは、やはり、分不相応なことだったのだろう。
式部卿を父に持つ彼は、眉目秀麗、才色兼備の聞こえが高く、帝の覚えも目出度い都でも評判の公達だ。
彼を婿に願う家は引きも切らず、その中には右大臣家も含まれていた。右大臣の三の姫は彼を想うあまり寝付いてしまったほどらしい。
直子の父は中将だ。とても右大臣の姫を押しのけて正妻になれる身分ではなく、直子の兄は高直と身分を超えて仲が良かったにもかかわらず、二人の結婚に最後まで反対していた。

私はこのまま病にかこつけて出家し、高直様を自由にして差し上げるべきなのに――

高直の性格から、直子の病気が重い間は右大臣の姫と結婚することはないと思われた。
それは彼の立場を苦しいものにしてしまう。
直子にはこの病がいつ癒えるのか、果たして癒えるものなのかも全く分からなかった。
出家し、世を捨て、彼を捨て、そして彼を自由にするべきだと答えは出ていても、彼女は踏み切れなかった。
彼が別の人と結ばれることに、身を切られるような辛さがあっても、それでも彼への想いが断ち切れなかった。

――だけど、私の一番の望みは

「高直様。貴方の笑顔が見たいのです」

か細く漏らされた言葉に、彼が息を呑んだのを見つめながら、直子はまた意識を失うように眠りに落ちた。
しばらくして静かな部屋にポツリと彼の声が響いていた。

「貴女が生きていてくれるだけでいい。他には何も望まない。お願いだ、生きていておくれ」


そして、それから二日後。
目が覚めると、脇には兄の直信が座っていた。兄の顔は15年間で初めて見る表情を浮かべていた。兄の背後では几帳越しでもはっきり分かるほど女房達がざわついている。
その瞬間、彼女は悟った。

高直様と右大臣の姫様の結婚が決まったのだわ。

兄の危惧したとおりのことが結婚3か月で起こり、ここまでの苦しみを与えてしまったことに、直子は兄に申し訳なく、声を絞り出した。

「兄上、ごめんなさい」
「お前が謝る理由など、何一つない…!」

目を赤くした兄は、直子の手を取り強く握りしめ、そして俯いた。自分の手が濡れるのを感じた直子は、もう涙をこらえることができなかった。
せめて声を漏らすことは抑えたいと思ったその矢先、渡殿の辺りからここまで聞こえるほどの騒がしい気配が近づいてきた。
その騒ぎの中に、高直の声を聞き分けた兄は、顔をこわばらせ、スッと立ち上がった。
同時に几帳を払い除けんばかりの勢いで、高直が入ってきた。
兄も直子も一瞬、彼の様子に目を瞠った。
高直の瞳からいつもの憂いは消え去っていた。その瞳はぎらぎらと輝き、鬼気迫る雰囲気があった。
その気迫を抑えることなく懐に手を入れ、彼が差し出したものは薬包だった。

「直子。いい薬が手に入ったのだ。飲んでおくれ」

その言葉に兄は金縛りが解けたように、動き出す。
「よくもここに足を踏み入れることができたものだな。君から物など一切受け取らない。
お引き取り願おう」
「これだけは飲んでもらうっ!」

血を吐くような声だった。
その声に打たれたように、室内に静寂が訪れる。

直子は兄に目配せをし、体を起こすのを助けてもらった。

鬼のように立ち尽くしたままの高直を見上げ、微笑んだ。
右大臣の姫と結婚するなら、ここに通うことなど、きっとできないだろう。これが最後の対面になる。こんな終わり方はしたくなかった。

「私のために、骨を折ってくださりありがとうございます。喜んで受け取らせていただきます」
「直子!」
兄の怒りを無視して、直子は力が入らない両手を何とか差し出した。
高直は崩れ落ちるように座り込み、その手に薬包を乗せ、そのまま手を握りしめた。

「ありがとう」
「お礼を言うのは私の方です。高直様」

クスリと笑って、直子はもう一度兄を見つめた。
直子の意図を読み取った兄は、諦めたように溜息を吐き、女房に薬湯の準備を指示する。
最後の対面なら、薬を飲むところもその目で見たいだろうとの配慮だった。

薬湯が出来上がるまでの間、高直は兄の目もはばからず、直子の手を摩りながら何度も「ありがとう」と囁き続けていた。

ようやくできた薬湯の椀を差し出されたとき、
直子はその匂いに顔をしかめそうになるのを必死に堪えた。
――良薬は口に苦し。匂いもきついのだわ
あまりの匂いのきつさに咳き込みそうになったが、椀に口を付けた瞬間、高直がほっと顔を緩ませたのを見て、直子は無理やりきつさをねじ伏せ薬湯を口に含むことが出来た。

そして――、
その液体が舌に触れた瞬間、それが良薬ではないことを悟った。
薬ですらなかった。
視覚も、聴覚も、嗅覚も、すべての感覚が激しく鋭い苦痛を訴えた。

ああ、私はここまで――

それが直子の最期の意識だった。
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