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第1章

生きる意味と人生の目標

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今日も日が昇り、眠りに未練もなくあっさりと目覚めた。
いつもどおり恙なく一日を過ごし、陽が沈めば眠りにつくだろう。
生まれてから何も変わることのない、一日。
いつまで積み重ねなければいけないのか。

窓辺に立つ彼は視線を窓の外に向け、王宮を目指してくる馬車の列を見るともなく見ていた。
彼の濃い青の瞳はサファイアを思わせる美しい色で、思わず吸い込まれる心地がするけれど、彼の身近にいる人間には、今日もその瞳に輝きがないことを見て取れる。

一体、なぜ、自分は生を受けてしまったのか。

物心ついてから幾度となく繰り返してきた問いが今日も浮かび上がるものの、答えはいつもどおり浮かばなかった。
もう答えを探すことすらしていない気がする。
彼は瞳を閉じ、窓から離れ、決められた予定をこなすべく部屋を後にした。

この時は彼自身もまだ知らなかった。
ほんの数時間後に問いの答えを手に入れることを。



長閑な蹄の音とよく似あう、長閑な声が馬車の中に響いた。

「今日のお茶会で、挨拶以外では殿下と話すことなどほとんどないはずだよ。きっと楽しい時間になるよ」

馬車の窓から街並みを眺め、何とか心を鎮めようとしていたエリザベスは、兄の言葉に思わず長い白金の睫毛を伏せてしまった。
表情を隠すために馬車に乗ってからずっと扇で顔を隠していたものの、妹を溺愛する兄の前では無駄な努力だったらしい。
向かいの席で目元を緩めてエリザベスを見守る兄のアンソニーは、流れるような艶やかな銀髪とエメラルドのような濃い緑の瞳が印象深い、男性にしておくのは惜しいと評される美貌の持ち主である。
いつもなら、その美貌から繰り出される妹への愛に満ちた笑顔に、エリザベスの心はふわりと温かいもので満たされるのだが、今日はそうはいかなかった。

馬車はゆっくりとした速度で王宮に向かっている。
今日は、交易で栄えるクロシア国の王宮で、王太子殿下が主催するお茶会が開かれる。
殿下と年齢の近い貴族のご令嬢とその兄弟など20人ほどがお茶会に招待されていた。
由緒正しく、加えて国で一、二を争う富を持つマーレイ公爵の愛娘エリザベスは、殿下と3歳ほどの歳の差であり、当然、招待されていた。

このお茶会が殿下の将来のお相手を決めるための第一歩の顔合わせであることは、まだ幼いご令嬢たちも承知していることであった。
もちろんエリザベスも。

だから、エリザベスにはお茶会が「楽しい時間」には決してならないと分かっていた。
これから数時間の自分の振る舞いは、自分の人生を大きく左右する可能性がある。
緊張のあまり、手袋の内側が汗ばんでしまっている。
彼女は扇の陰でゆっくりした呼吸を試みた。

何としても、目立たず、殿下の目に留まるどころか記憶の片隅にすら残らないようにふるまわなくてはならない。
人生の目標のために。

今回も兄は扇の陰の動きを見過ごしてはくれなかった。クスリと笑い、心地よい声で彼女の気持ちを盛り上げようとする。

「リズ。殿下は日ごろから伴侶を選ぶことには関心のない方だ。『王室法で決められていなければ結婚などしないで、叔父上に王位を譲る』といつも呟いておられる。
今日、殿下が伴侶を選ぶことはあり得ないよ。
王宮のお茶とお菓子を楽しむ日だと思えばいい。とても美味しいよ。僕は行くたびに感動している。きっとリズの口にも合うはずだ」

10歳の愛らしい少女ならその言葉でこれからのお茶の時間を楽しみにできたかもしれない。
けれど、リズは単なる10歳の少女ではなかった。

「お兄様には、私のこの気持ちは分かりません」

ポツリと零された声は、切実な響きを帯びていた。

リズは確かに10歳であるが、不思議なことに彼女には15歳まで生き、そして来世まで誓い合った夫に毒殺された記憶があった。
15歳では仕方のないことではあるが後世のための勤行を全く積まなかったというのに、御仏は慈悲に満ちた存在であられるのか、はたまた、単に運が良かったのか、再び人としての生を受けることができていた。
元居た国とは、人々の見た目も言葉も、信じる神すらも異なる世界であるが、ただただこの生が有難く思える。
だからこそ、この幸運を無駄にするような真似は決してしたくなかった。

今度こそ、普通に生を終えたい。
穏やかな結婚生活を送りたい。
生涯を共にする相手と、笑顔を交わし合って歳を重ねたい。

物心ついて人生の目標はすぐに定まった。
目標のための努力も惜しんでいない。

普通に生を終えるため、とにかく毒殺されることは避けたかった。
草の知識を身に付けるため――もちろん一部の草に特化しているけれど、父と兄に頼み込んで古今東西の本を集めてもらい、読めるものから読み漁っている。

そして、穏やかな結婚生活を送るためには、相手も穏やかな人を、できれば自分以外誰も振り向きもしない人を選ぶことは必須条件だった。
その美貌から「氷の王子」と言われ、国中の少女の憧れの的である殿下と結婚するなど、愚の骨頂、毒殺コース逆戻りと言える。

幸運を生かして、悲願を達成するのよ。

「私、絶対に王宮には嫁ぎません」

思わず零してしまった本音にも、妹が何よりも大事と常日頃公言している兄は、ふわりと顔を綻ばせた。

「もちろんだよ、僕の天使。リズはどこにも嫁がなくていい。一生僕の傍にいておくれ」
「いえ、私、結婚はしたいのです」
「それなら、婿養子を取ることにしようか。嫁がなくいいからね」
「まぁ、それではヒューとは結婚できませんね」

ヒューは母方の従兄弟にあたる侯爵家の嫡男で、血筋のつながりからアンソニーともリズとも幼馴染である。
貴族なら婚約しておかしくはない間柄である。
けれど、兄の言葉を真剣に考慮するなら、嫡男であるヒューは養子にはなれない。加えてヒューは侯爵家のただ一人の子どもなのだ。

もっとも、ヒューは幼いながらもその突出した魔力の強さから、国内でその名を知らないものはいないほどの存在であり、加えて、愛らしさのある整った容姿の持ち主であるため、その知名度と容姿、身分からリズは自分の結婚相手の候補として除いているのは、彼女だけの秘密である。
ちなみに、ヒューの見立てによるとリズには魔力はあるらしいが、全く使うことはできない。兄はどうかといえば、いつも見惚れてしまう笑顔を浮かべて教えてくれない。

「ふふ。まぁ、妥協して公爵家に通ってもらうという手もあるかな」

ゆったりとした口調で紡がれた兄の言葉に、何かしら自分の将来に一抹の不安を感じる気持ちがあったものの、まずは目先の難関を突破することに集中することにした。
今日の最低限の目標は、目立たないこと。
最高の目標は、殿下に悪印象を持たれて次のお茶会には呼ばれないことだが、しかし公爵令嬢としての振る舞いも必要であり、最高の目標を達成することは難しいことは彼女も分かっていた。

絶対に、目立たないことは成し遂げるわ。

馬車は既に城に到着し、兄は先に馬車から下り、リズに穏やかな笑顔を向けて待っている。
兄に笑顔を返しながら、リズは手を差し出した。

「お兄様、今日はよろしくお願いしますね」
優しく妹の手を取り、兄はリズを傍らに引き寄せた。
「任せておくれ。殿下であろうと、他のご令息であろうと、僕の天使を僕から奪うことなど許しはしない」

……。

見惚れるような笑顔でサラリと穏やかでないことを言われ、一瞬、不安が蘇ったけれど、リズは敢えて将来の不安には目をつむり、王宮に足を踏み入れた。
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