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第1章
お茶会
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陽の光が煌めくように差し込み、庭の花の香りを楽しめるよう窓が開けられているお茶会の会場は、幼いながらも選ばれた貴族たちが醸し出す、品のある、しかし、賑やかな空気で満ちていた。
招待客は、皆、笑顔でお茶の一時を楽しんでいたが、一際、輝くような笑顔を浮かべ、密かに皆の目を留めさせているご令嬢がいた。
公爵令嬢エリザベスである。
陽の光を受けて輝く白金の髪、白磁のような滑らかな白い肌が、大きな紫水晶を思わせる瞳を際立たせている。
その紫水晶は、溢れんばかりの喜びの輝きを放っていた。
あと、30分でお茶会もお開きになるわ
リズは目標達成を確信して、もはや自分が満面の笑みを浮かべているのを分かりながらも、それを許していた。
リズの予想をはるかに超えて、楽な展開だった。
あれほど事前に準備していたことを、緊張していたことを、笑いたくなるほどの楽な展開だった。
殿下と会話に至った場合に備えて必死に作り上げた、公爵令嬢の節度を守りつつ慇懃無礼となる想定問答集は、全く出番がなかった。
参加したご令嬢たちが、何とか殿下と会話を、せめて言葉を交わそうと、リズには思いもつかなかったあの手この手で攻勢をかけているのに対して、殿下はリズも含めてすべてのご令嬢と会話をしていない。
主催者であるにも関わらず、殿下を交えた会話自体も少ない上に、なされた会話もご令嬢たちを見事に通り越して、付き添いのご令息との会話に終始している。
殿下と目を合わせないようにできる限り俯いているリズとの会話など、もちろんなかった。
一番の対策として取り組んだ、身に纏う香りも日の目を見ることはなかった。
殿下の趣味で唯一噂になっているものは、男性にしては珍しく、香りに関するものだった。そのこだわりは趣味の域を超え、殿下は国中の香水、香草、香木を試したと言われている。
今日、リズが選んだ香りはリズお手製の自信作だ。
この国ではあまり好まれない、前世で大好きだった香を再現した香りを前世と同じように服に焚きしめている。
公爵家の財力をもってしても前世と同じ材料が全ては手に入らない状況で、ここまで似た香りを再現できた時は、リズは内心密かに自慢したものだが、哀しいことにこの香りは公爵家では妹を溺愛する兄以外には不評だった。
香りは食べ物と同じく保守的な傾向があるらしい。
好印象を抱かれないことは折り紙付きの、この異国の香りは、殿下と一番近い距離になる、挨拶の対面のときに功を奏するはずだった。
しかし、挨拶は席に着いてからその場で着座したまま紹介されるだけの簡略なもので、個人的な対面はなされなかった。
それでも、隣に座る侯爵家のご令息には効果があったようで、初めはこちらに向いていた体が、今ではさりげなく背中を向いている。
申し訳ない事をしてしまったと、心で詫びるばかりだ。
こんな風に、リズの涙ぐましい努力は試されることはない楽な状況だったけれど、何より効果的だったのは殿下自身だった。
この方、生きていらっしゃるの?
それが、初めて殿下を拝見したリズの率直な感想だった。
国中の独身女性の憧れの的である王太子殿下は、その憧れと異名を納得させる容姿の持ち主だった。
陽を受けて煌めく艶やかな金の髪に、透けるような白い肌。すっきりとした鼻梁に負けることなく、金の眉が細く長く走っている。
涼やかな瞳はサファイアを思わせる濃い青色で、思わず覗き込みたくなる程の澄んだ美しさを持っていた。
一つ一つが整った要素を持つ顔は、結果として芸術の美に届いていた。夜の青白い月を思わせ、神秘を感じさせる。
招かれたご令嬢たちはうっとりと殿下を眺め惚け、お茶会の始めは随分と静かな空気が立ち込めていた。
――そんなご令嬢たちの様子を見て、リズは穏やかな人生への決意を再度固めて、「絶対に目立たない」とお茶会の目標を心の中で呪文のごとく唱えていた。
そして、兄以外の男性の美貌は人生の目標に対する忌むべきものとしているリズは、殿下の美貌に感慨はなかったものの、そのサファイアの瞳には、大きな驚きを覚えた。
リズには、その瞳に意思が全く籠っていないように感じられたのだ。
その瞳が物を映しても、殿下がそれを見ているのか疑問だった。
その印象を強めてしまうのは、表情のなさもあるだろう。
目を合わせないように細心の注意を払って殿下を覗き見ると、恐ろしいことに、挨拶が終わった後、殿下の顔の筋肉は、口以外は全くと言っていい程動いていなかった。
伴侶を選びたくないというお気持ちは、とても強いのね。
だけど、将来、国王になる方がここまで無関心をむき出しにするのはいかがなものかしら。
驚きから立ち直ったリズはそう辛口に結論付けると、今までの緊張がゆるりと解けていった。
兄の言う通り、用意されたお菓子は繊細な形に仕上げられ、見ているだけでも楽しく、口に入れれば、その美味しさは目を瞠るものだった。
思わず隣の兄に目を向け、その美味しさを目で伝えると、兄はふわりと微笑み返してくれる。
兄の優しい笑顔に、リズの気持ちは一気に浮き立ち、お茶もお菓子も存分に、やがては殿下以外の招待客との会話まで楽しんでいた。
――もっとも、ご令息との会話には、兄が恐い程に整った笑顔を浮かべて必ず割り込み、長くは続かなかったけれど。
気が付けば、あと30分でお茶会が終わる時間まで時が過ぎていた。
お菓子をもう少しお替りしても、公爵令嬢として恥ずかしくないか、リズが真剣に思案し始めたとき、開けられた窓から強い風が一瞬吹込んだ。
風を受けてご令嬢たちの髪がほんの少し舞い上がり、リズもそっと自分の髪を撫でながら整える。
そのとき――、
これまで動くことのなかった殿下の目が、微かに見開かれ、息を呑んだ音がした。
そして、すっと目は閉じられ、そのまま微動だにしない。
どうされたのかしら?
さりげなく兄に目で問いかけても、兄も微かに首を横に振るばかりだった。
他の人たちはこの様子にどう反応しているか確かめようとしたとき、
殿下は優雅に席から立ち上がった。
リズは目を瞠った。
殿下が立ったからではない。殿下の瞳に目を瞠らされたのだ。
先ほどまでとは別人のような輝きがサファイアの瞳を彩り、明確な意思が、――溢れんばかりの歓喜が宿っていた。
瞳と呼応するように、圧倒されるような生気を漲らせ、身に纏う空気は月ではなく陽の光を思わせる。顔に浮かんでいる微笑は、美貌をさらに強めていた。
紛れもなく生きていらっしゃる。そして笑顔だと数倍魅力が増していらっしゃるわ。
リズは心の中で、前言を撤回し、珍しくも殿下の美を称賛していた。
「今日は集まってくれて、ありがとう。得難い一時だった。またの機会を楽しみにしている」
耳に心地よい声と惜しげもなく振りまかれた笑顔で、ご令嬢たちの動きを奪った殿下は、無駄のない動きで、扉へと歩いていく。
どうやら扉で招待客に挨拶を交わし見送る心積もりらしい。
幾分慌てた様子を見せた侍従の態度から察するに、この見送りは予定外のことだったようだ。
なかったと思った挨拶が最後に生まれてしまったと、リズは苦い思いを噛み締めながら、扉に立つ殿下の輝く笑顔を見つめた。
緩み切った気持ちを再度締めなおすのは、幾分辛いものがあったが、残るは挨拶だけなのだ。
挨拶が終われば、一歩踏み出した瞬間、勝利が待っている。
リズは何とか気持ちを立て直した。
運の悪いことに、兄とリズは、席の位置から挨拶は最後になる予定だった。
待たされるために長引き高まり続ける緊張に、リズは兄の腕をつかんでいた。
「大丈夫だよ。皆、一言挨拶しているだけだ」
温かな声がそっと耳元に落とされ、リズは兄を見上げた。
柔らかな笑顔が、いつものようにリズを包み込んでくれる。
少し余裕が生まれたリズが殿下に目を向けると、お客と挨拶を交わす殿下の様子が怪しいものになってきているのが見て取れた。
挨拶を済ませるごとに、まるで花が萎れるかのように、瞳の輝きが薄れ、表情も固まり始めていた。
主催者なのだから、せめて、最後の一人まで表情を保たせていなくては。
リズの中で再び辛い評価が蘇る。
けれど、同時に、殿下の笑顔が消えていく様を見ていることは、何か彼女の気持ちを波立たせていた。
いっそ先ほどまでの表情のない顔の方が良く思える。
あれこれと思いを巡らせているうちに、もう残すところはリズたちだけになり、殿下は痛ましいまでの悄然とした気配を纏っていた。
哀しみを湛えたサファイアがリズに向けられた。リズは意を決して殿下に近づき、作法に則った最高の敬意を示すお辞儀をした。
動いた拍子に、焚きしめた香りがふわりと立ち上り、リズは俯いたまま勝利を確信して笑みを浮かべた。
その瞬間、
リズの腰に手が回されていた。
――え?
驚きに顔を上げ、リズは驚愕した。
サファイアの瞳は輝きを取り戻していた。
もう少し認めたくない事実を認めるなら、先ほどよりもさらに輝きを増していたのだ。
嫌な予感に襲われ、兄を見遣ると、兄の美貌は明らかな不快に彩られ、迫力を増している。
「エドワード。僕の天使に触れていいのは、僕だけだ」
兄の声など無視して、――本当に聞こえていないのかもしれない――、殿下はリズの手を取った。手袋には一段と深く香を焚きしめている。
殿下は目を閉じ、手袋越しに口づけを落とし、そのままゆっくりと息を吸い込んだ。
名残惜し気にようやく殿下の口が離れても、リズは安心できなかった。
再び開かれた殿下の瞳は恍惚として、更に目を潤ませていた。
「ああ、この香りだ…。ああ、これこそ……。神よ、この出会いに心からの感謝を」
――!
リズは自分の作戦の盲点を突き付けられた思いだった。
公爵家では、この香りは不評だった。――兄を除いて。
それで安心してはいけなかったのだ。
蓼食う虫も好き好き
殿下の好みを一般的なものとしていたことが、間違いだったのだ。
この方、好みが一般的でないから、あらゆる香りを試しておられたんだわ――!
ようやく分かった事実に、リズは自分の身体が震え始めているのを感じた。悪い予感が強くなる。
殿下はサファイアに艶めいた熱を込めた。
「エリザベス嬢。私の隣で、生涯、その香りを楽しませてください」
招待客は、皆、笑顔でお茶の一時を楽しんでいたが、一際、輝くような笑顔を浮かべ、密かに皆の目を留めさせているご令嬢がいた。
公爵令嬢エリザベスである。
陽の光を受けて輝く白金の髪、白磁のような滑らかな白い肌が、大きな紫水晶を思わせる瞳を際立たせている。
その紫水晶は、溢れんばかりの喜びの輝きを放っていた。
あと、30分でお茶会もお開きになるわ
リズは目標達成を確信して、もはや自分が満面の笑みを浮かべているのを分かりながらも、それを許していた。
リズの予想をはるかに超えて、楽な展開だった。
あれほど事前に準備していたことを、緊張していたことを、笑いたくなるほどの楽な展開だった。
殿下と会話に至った場合に備えて必死に作り上げた、公爵令嬢の節度を守りつつ慇懃無礼となる想定問答集は、全く出番がなかった。
参加したご令嬢たちが、何とか殿下と会話を、せめて言葉を交わそうと、リズには思いもつかなかったあの手この手で攻勢をかけているのに対して、殿下はリズも含めてすべてのご令嬢と会話をしていない。
主催者であるにも関わらず、殿下を交えた会話自体も少ない上に、なされた会話もご令嬢たちを見事に通り越して、付き添いのご令息との会話に終始している。
殿下と目を合わせないようにできる限り俯いているリズとの会話など、もちろんなかった。
一番の対策として取り組んだ、身に纏う香りも日の目を見ることはなかった。
殿下の趣味で唯一噂になっているものは、男性にしては珍しく、香りに関するものだった。そのこだわりは趣味の域を超え、殿下は国中の香水、香草、香木を試したと言われている。
今日、リズが選んだ香りはリズお手製の自信作だ。
この国ではあまり好まれない、前世で大好きだった香を再現した香りを前世と同じように服に焚きしめている。
公爵家の財力をもってしても前世と同じ材料が全ては手に入らない状況で、ここまで似た香りを再現できた時は、リズは内心密かに自慢したものだが、哀しいことにこの香りは公爵家では妹を溺愛する兄以外には不評だった。
香りは食べ物と同じく保守的な傾向があるらしい。
好印象を抱かれないことは折り紙付きの、この異国の香りは、殿下と一番近い距離になる、挨拶の対面のときに功を奏するはずだった。
しかし、挨拶は席に着いてからその場で着座したまま紹介されるだけの簡略なもので、個人的な対面はなされなかった。
それでも、隣に座る侯爵家のご令息には効果があったようで、初めはこちらに向いていた体が、今ではさりげなく背中を向いている。
申し訳ない事をしてしまったと、心で詫びるばかりだ。
こんな風に、リズの涙ぐましい努力は試されることはない楽な状況だったけれど、何より効果的だったのは殿下自身だった。
この方、生きていらっしゃるの?
それが、初めて殿下を拝見したリズの率直な感想だった。
国中の独身女性の憧れの的である王太子殿下は、その憧れと異名を納得させる容姿の持ち主だった。
陽を受けて煌めく艶やかな金の髪に、透けるような白い肌。すっきりとした鼻梁に負けることなく、金の眉が細く長く走っている。
涼やかな瞳はサファイアを思わせる濃い青色で、思わず覗き込みたくなる程の澄んだ美しさを持っていた。
一つ一つが整った要素を持つ顔は、結果として芸術の美に届いていた。夜の青白い月を思わせ、神秘を感じさせる。
招かれたご令嬢たちはうっとりと殿下を眺め惚け、お茶会の始めは随分と静かな空気が立ち込めていた。
――そんなご令嬢たちの様子を見て、リズは穏やかな人生への決意を再度固めて、「絶対に目立たない」とお茶会の目標を心の中で呪文のごとく唱えていた。
そして、兄以外の男性の美貌は人生の目標に対する忌むべきものとしているリズは、殿下の美貌に感慨はなかったものの、そのサファイアの瞳には、大きな驚きを覚えた。
リズには、その瞳に意思が全く籠っていないように感じられたのだ。
その瞳が物を映しても、殿下がそれを見ているのか疑問だった。
その印象を強めてしまうのは、表情のなさもあるだろう。
目を合わせないように細心の注意を払って殿下を覗き見ると、恐ろしいことに、挨拶が終わった後、殿下の顔の筋肉は、口以外は全くと言っていい程動いていなかった。
伴侶を選びたくないというお気持ちは、とても強いのね。
だけど、将来、国王になる方がここまで無関心をむき出しにするのはいかがなものかしら。
驚きから立ち直ったリズはそう辛口に結論付けると、今までの緊張がゆるりと解けていった。
兄の言う通り、用意されたお菓子は繊細な形に仕上げられ、見ているだけでも楽しく、口に入れれば、その美味しさは目を瞠るものだった。
思わず隣の兄に目を向け、その美味しさを目で伝えると、兄はふわりと微笑み返してくれる。
兄の優しい笑顔に、リズの気持ちは一気に浮き立ち、お茶もお菓子も存分に、やがては殿下以外の招待客との会話まで楽しんでいた。
――もっとも、ご令息との会話には、兄が恐い程に整った笑顔を浮かべて必ず割り込み、長くは続かなかったけれど。
気が付けば、あと30分でお茶会が終わる時間まで時が過ぎていた。
お菓子をもう少しお替りしても、公爵令嬢として恥ずかしくないか、リズが真剣に思案し始めたとき、開けられた窓から強い風が一瞬吹込んだ。
風を受けてご令嬢たちの髪がほんの少し舞い上がり、リズもそっと自分の髪を撫でながら整える。
そのとき――、
これまで動くことのなかった殿下の目が、微かに見開かれ、息を呑んだ音がした。
そして、すっと目は閉じられ、そのまま微動だにしない。
どうされたのかしら?
さりげなく兄に目で問いかけても、兄も微かに首を横に振るばかりだった。
他の人たちはこの様子にどう反応しているか確かめようとしたとき、
殿下は優雅に席から立ち上がった。
リズは目を瞠った。
殿下が立ったからではない。殿下の瞳に目を瞠らされたのだ。
先ほどまでとは別人のような輝きがサファイアの瞳を彩り、明確な意思が、――溢れんばかりの歓喜が宿っていた。
瞳と呼応するように、圧倒されるような生気を漲らせ、身に纏う空気は月ではなく陽の光を思わせる。顔に浮かんでいる微笑は、美貌をさらに強めていた。
紛れもなく生きていらっしゃる。そして笑顔だと数倍魅力が増していらっしゃるわ。
リズは心の中で、前言を撤回し、珍しくも殿下の美を称賛していた。
「今日は集まってくれて、ありがとう。得難い一時だった。またの機会を楽しみにしている」
耳に心地よい声と惜しげもなく振りまかれた笑顔で、ご令嬢たちの動きを奪った殿下は、無駄のない動きで、扉へと歩いていく。
どうやら扉で招待客に挨拶を交わし見送る心積もりらしい。
幾分慌てた様子を見せた侍従の態度から察するに、この見送りは予定外のことだったようだ。
なかったと思った挨拶が最後に生まれてしまったと、リズは苦い思いを噛み締めながら、扉に立つ殿下の輝く笑顔を見つめた。
緩み切った気持ちを再度締めなおすのは、幾分辛いものがあったが、残るは挨拶だけなのだ。
挨拶が終われば、一歩踏み出した瞬間、勝利が待っている。
リズは何とか気持ちを立て直した。
運の悪いことに、兄とリズは、席の位置から挨拶は最後になる予定だった。
待たされるために長引き高まり続ける緊張に、リズは兄の腕をつかんでいた。
「大丈夫だよ。皆、一言挨拶しているだけだ」
温かな声がそっと耳元に落とされ、リズは兄を見上げた。
柔らかな笑顔が、いつものようにリズを包み込んでくれる。
少し余裕が生まれたリズが殿下に目を向けると、お客と挨拶を交わす殿下の様子が怪しいものになってきているのが見て取れた。
挨拶を済ませるごとに、まるで花が萎れるかのように、瞳の輝きが薄れ、表情も固まり始めていた。
主催者なのだから、せめて、最後の一人まで表情を保たせていなくては。
リズの中で再び辛い評価が蘇る。
けれど、同時に、殿下の笑顔が消えていく様を見ていることは、何か彼女の気持ちを波立たせていた。
いっそ先ほどまでの表情のない顔の方が良く思える。
あれこれと思いを巡らせているうちに、もう残すところはリズたちだけになり、殿下は痛ましいまでの悄然とした気配を纏っていた。
哀しみを湛えたサファイアがリズに向けられた。リズは意を決して殿下に近づき、作法に則った最高の敬意を示すお辞儀をした。
動いた拍子に、焚きしめた香りがふわりと立ち上り、リズは俯いたまま勝利を確信して笑みを浮かべた。
その瞬間、
リズの腰に手が回されていた。
――え?
驚きに顔を上げ、リズは驚愕した。
サファイアの瞳は輝きを取り戻していた。
もう少し認めたくない事実を認めるなら、先ほどよりもさらに輝きを増していたのだ。
嫌な予感に襲われ、兄を見遣ると、兄の美貌は明らかな不快に彩られ、迫力を増している。
「エドワード。僕の天使に触れていいのは、僕だけだ」
兄の声など無視して、――本当に聞こえていないのかもしれない――、殿下はリズの手を取った。手袋には一段と深く香を焚きしめている。
殿下は目を閉じ、手袋越しに口づけを落とし、そのままゆっくりと息を吸い込んだ。
名残惜し気にようやく殿下の口が離れても、リズは安心できなかった。
再び開かれた殿下の瞳は恍惚として、更に目を潤ませていた。
「ああ、この香りだ…。ああ、これこそ……。神よ、この出会いに心からの感謝を」
――!
リズは自分の作戦の盲点を突き付けられた思いだった。
公爵家では、この香りは不評だった。――兄を除いて。
それで安心してはいけなかったのだ。
蓼食う虫も好き好き
殿下の好みを一般的なものとしていたことが、間違いだったのだ。
この方、好みが一般的でないから、あらゆる香りを試しておられたんだわ――!
ようやく分かった事実に、リズは自分の身体が震え始めているのを感じた。悪い予感が強くなる。
殿下はサファイアに艶めいた熱を込めた。
「エリザベス嬢。私の隣で、生涯、その香りを楽しませてください」
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