殿下、毒殺はお断りいたします

石里 唯

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第2章

始まり

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 クロシア国の東の国境近くにある、とある領主の別邸で、「氷の王子」の異名をとる王太子エドワードは、目の前の男性を見据えていた。
 その異名に相応しい冷徹さを感じさせる表情を浮かべているものの、目の前の相手、ラタ帝国皇帝フランクに対し、敵意を向けているわけではない。
 この冷徹さは、氷の王子の常態の表情なのである。
 もっとも、この常態は愛しい婚約者の前では幻のごとく捨て去られるのだが、ともあれ、フランクに対して常態が崩れることはなかった。
 
 そして、エドワードの冷徹な視線は、無意識に相手に畏怖を覚えさせることも常態だったが、フランクは悠然と受け止めていた。
 帝国の皇帝の名に恥じない威厳をにじませた薄い緑の瞳は、柔らかな、そして幾分かの悪戯めいた光すらあった。
 頬を僅かに緩ませ、軽い口調で年若い王太子に声をかける。

「ようやく婚約を取り付けたそうではないか。おめでとう」

 祝いの言葉を受けたエドワードは、正面に端座したフランクに、片眉を上げて意図して冷たいまなざしを向ける。
 この視線に対しても動じることなく、フランクはにやりと笑みを深めた。

「どんな経緯にしろ、婚約には変わりはないだろう?」

 騙した形で婚約にこぎつけたことも伝わっているらしい。
 エドワードは冷徹さすらも消し去った無表情となり、沈黙を貫く。
 エドワードの傍らに控える外相ジョーダンが咳払いで注意を促したほどの、このような礼に欠いた態度に対し、フランクは不快な表情を見せることなく、クツリと笑うだけだ。
 二人の付き合いは、それだけ深いものがあった。

「あなたの弟、宰相が来ると聞いていた」
 
 エドワードはフランクの笑いを遮るように言葉を発す。
 しかしそれは悪手だった。
 フランクはさらに明確なからかいを浮かべた眼差しを向けてきたのだ。

「君がどれほどにやけているか、この目で見たくてね」

 相手は自分より15歳ほど年上とはいえ、おもちゃにされる謂れはないと、エドワードは口元を引き結ぶ。
 
 普段、社交の大切な場でない限り、意図しなければ、表情が変わることなどなく、それどころか顔の筋肉すら動かないエドワードのその変化に、フランクはもはや一切の遠慮を捨て去り、笑い出した。
 
 瞬間、エドワードは正しく「氷の王子」と化した。
 サファイアの瞳は凍てつき、細く長い金の眉は僅かに寄せられ険しさを帯びる。
 精悍な面立ちは、獲物を前にして飛び掛かる時を待つ獣のような、静かで、研ぎ澄まされた空気を作り出した。
 
 傍らのジョーダンの激しい咳払いを聞き流し、はす向かいに座る帝国の外相が体を固まらせ、視線を泳がせている姿を無視しながら、フランクが笑いに悶える様子を見据えたエドワードに、ふと考えがよぎった。
 
 フランクのこの浮かれぶりは、同盟が成立したことへの喜びもあるのかもしれない。

 この部屋で、先ほど2国は同盟条約を交わしたばかりである。
 そもそもラタ帝国の成り立ちは、この同盟で想定されている敵国、レクタム国に対抗するために、6つの小さな国をフランクが次々に統合したことが始まりだ。
 そのようなことを成し遂げさせるほど、レクタム国はラタ帝国の地域を長きにわたって悩ませてきた。
 この同盟でレクタム国に対する包囲網の足掛かりができるのだ。
 自国の平穏を渇望するフランクには、念願が叶った瞬間だろう。
 
 事情は分かるが、――しかし、笑いすぎだろう。

 エドワードはまだ笑い続けるフランクを放置し、フランクの傍らに控える帝国の外相に視線を向け、彼の肩を跳ね上がらせた。

「そちらでは、第1王子と第2王子の派閥争いについて、どのような情勢になっているとみているのだ?」

 安堵という文字を顔に浮かび上がらせた外相が答えるために口を開いたとき、フランクが涙をぬぐいながら答えた。

「この同盟を交わす間にも派閥の情勢は変わっているだろう。報告を受ける度に、派閥の顔ぶれが変わっている」
「貴国の情報でもそうなのか」

 フランクと外相が同時に頷くのを見て、エドワードは微かに眉を寄せる。
 直接の緊張関係があるラタ帝国は、クロシア国とは比較にならない諜報活動を行っているはずだ。
 それでも先が読めない情勢となると、どのような火の粉が飛んでくるか分からない。
 ――いや、既に火の粉は飛び始めている。
 エドワードが呼び起された不快な記憶から僅かに眉を寄せた時、フランクは隠すこともなく溜息をついた。

「いっそ、共倒れしてほしいのだがな」

 フランクは冗談とも本気ともつかない口調で言い放った。隣の外相が一瞬頷きかけ、慌てて頭を固定する。

 フランクは、その長い漆黒の髪をかき上げ、気持ちを切り替えた。

「同盟の公表は待ってほしいと聞いているが、いつにしたいのだ?」
「私の結婚のお披露目が最終期限だ。ウィンデリアのためにそこまでは待つつもりだ」
 
 エドワードは長い金の睫毛を伏せた。
 
 この期限は現実的なものだ。淡い願望などではない。
 婚約にこぎつけた彼女を逃すつもりはないのだから。
 騙してでも必ず結婚にこぎつけて見せる。
 つまり、期限として設けて何ら無理のないものである。
 ――たとえ彼女から真の承諾を得ていなくとも。
 
 あれこれと、心の内で自分に言い聞かせながら、エドワードは補足を加えた。

「もちろん、それまでにウィンデリアがフィアスとの同盟を結ぶことができれば、その時点で公表する」

 フランクは口角を上げ、威厳に満ちた声を部屋に響かせた。

「ウィンデリアのお手並みを拝見するとしよう。例え、フィアスとの同盟が成立しなくとも、ウィンデリア、クロシア、ラタの3国の同盟は成立している――」

 淀みなく語り続けたフランクが、物言いたげにエドワードへ視線を向けたが、エドワードは目を伏せ、フランクの問いを躱した。
 
 フランクは彼に対して追及はしなかった。
 深い付き合いから、言う必要はないと判断したことを翻すエドワードではないと知っているからだろう。
 それでもまだ自分を気遣うフランクの視線を、エドワードは常態の冷徹な視線で受け止めた。
 
 火の粉がどのように自分に飛ぼうが、同盟は確かに成立したのだ。
 それは、彼女の住む地が平穏であることは確保できたということになる。
 
 フランクにとって同盟が国の平穏のためであるなら、エドワードにとって同盟は魂を捧げてもまだ足りないほどに愛しい彼女のための平穏だった。
 彼女がいなければ、果たして自分は同盟のためにここまで奔走したかと己に問いかけて、
エドワードははっきりと否と答える。
 王太子として生を受けたことを彼女のために使うことに、エドワードは一切の躊躇もなかった。
 自分のすべては彼女のためにあるのだ。
  
 彼の脳裏に、頬をうっすらと染め、美しく澄んだ紫の瞳を困ったように瞬かせる姿が、はっきりと浮かんだ。
 自分のことをエドワードと呼んでほしいと頼んだ時の、彼女の姿だ。
 その後、彼女は自分に対しリズと呼んでほしいと言って、頬を真紅に染め上げたのだ。
 
 婚約者の愛らしい姿と、愛らしいお願いが、再びエドワードの胸を光のように駆け巡り、彼は思わず目を閉じていた。

 ジョーダンがもはや咳払いではなく、声に出して「殿下、お顔が崩れています」と囁くのも、フランクが再びお腹を抱えて悶えているのも、傍らの外相がハンカチを口元にあて笑い声を抑えつつも涙を浮かべながら肩を震わせているのも――、
エドワードの頭に留まるものではなかった。
 
 彼の頭は一つの甘やかな疑問で占められていた。

 あの美しい紫水晶の瞳は、今、何を映しているのだろう。
 



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