殿下、毒殺はお断りいたします

石里 唯

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第2章

穏やかな人生

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 寝室に穏やかで心地よい風が入り込み、王城の庭の鳥たちのさえずりを優しく運んだ。
 そのさえずりに、リズは、はっと我に返った。
 そして、彼女の頬は熱を持った。
 意識を戻したばかりの殿下に抱きしめられていた彼女は、輝くような歓喜が収まり、力強い鼓動を感じられる殿下との距離に気づき、じわじわと羞恥が押し寄せてきたのだ。
 彼女は全身で、殿下の鼓動と、彼の熱を意識していた。
 加えるなら、今や彼女自身の鼓動も耳を塞ぎたいほどに大きく感じる。

 さり気なくリズは体を起こし、強まる羞恥とエドワードの腕から抜け出そうとする。
 彼がそれを見逃すはずもなく、柔らかく、けれど、しっかりと彼女を抱きしめてそれを拒むと、リズは耳まで真紅に染めて、「皆様に殿下のお目覚めをお知らせしなければ」と素晴らしい理由を何とか口にした。
 
 彼への愛情より羞恥の方が大きい婚約者の言葉に、彼女への愛の前には羞恥など存在しないエドワードは、しばらく何も反応を見せず彼女を抱きしめていたが、気もそぞろな彼女の様子に、やがて深く溜息を付いた。
「貴女が知らせる必要はない」
 リズの髪に口づけを落とすと、呼び鈴を使ってロナルドを呼び出した。

 呼び出しに応じたロナルドは、エドワードの意識が戻ったことにさほどの感慨も見せず、ただ「遅いお目覚めですな」と一言放ち、淡々と状況の報告を始めた。
 イーサン殿下たちの動向は、エドワードを満足させるものらしく、彼は頷きを幾度か繰り返している。
 イーサン殿下たちは既に兵を起こし、辺境の貴族たちを味方に付けていたのだ。
 国を揺るがす大事にもかかわらず、イーサン殿下たちの迅速な動きにリズは目を瞠ったが、エドワードもロナルドも驚きは全く示さなかった。

「彼は準備はとうの昔にできていた。足りないものは決断だけだった」
「ここからが正念場でしょう。そもそも辺境は他国との戦の被害を直接に受けて、第2王子殿下の思想に賛成する者は多かったのですから。イーサン殿下には頑張っていただきたいものです。最低でも共倒れぐらいにはしていただかなければ困りますな」

 エドワードが倒れ、意識が戻らない間、同盟国との折衝を実質的にすべて担う立場にあったロナルドは、相当に疲弊させられたのだろう。
 突き放した評価を述べたロナルドの声には明らかな憤りが滲んでいる。突然の非公式訪問からの腹立たしさが積み重なっているようだ。
 ロナルドの身体からはっきりと禍々しい負の気配を感じて、もはや、好々爺の仮面は封印をしてお蔵入りしたらしいと、リズは思わず完璧な笑顔を浮かび上がらせた。
 
 ロナルドは、遠くの相手よりも、まずはエドワードに向けて溜まりにたまったうっ憤と仕事を解消することにしたらしい。
 報告を済ませると同時に、同盟国からの見舞いの親書と、併せて転移で届けられた薬草を部屋に持ち込ませ、意識を取り戻したばかりのエドワードに「薬草へのお礼の文言は、エリザベス嬢とご一緒に考えて下さい」と仕事を振って――その時のロナルドの目元が微かに緩んだようにリズには見えた――、リズがそれを確かめる暇もなく、ロナルドは殿下の返事も待たずに退出していった。

――優しい目をしていたようにも見えたけれども、錯覚だったのかしら…

 考えに沈むリズとは対照的に、エドワードは蕩けんばかりの笑顔を浮かべた。

「ロナルドの見舞いは素晴らしい。貴女と仕事ができるということは、貴女と一緒に居られるということだ。もっと多くの仕事が欲しかった」

 彼にとっては、仕事であれロナルドは素晴らしい配慮を見せたらしい。
 リズには理解しがたいロナルドと殿下の複雑な信頼関係が存在するのか、はたまたロナルドが何枚も上手なのか、過った疑問をリズは心の内に抑え込んだ。

「すっかりいつもの調子を取り戻されたようで、何よりです」

 リズは顔の筋肉を叱咤し、笑顔を維持して答えた。
 筋肉がもつ間に早々に仕事を片付けて退出しようと、リズは決意を固め、薬草が置かれた台に視線を向けた。
 薬草を目にするや否や、顔の筋肉は潤み切り、感嘆の溜息を漏らしていた。
 各国が選りすぐった薬草は、リズには眼福そのものだった。魔法の結界に入れて贈られた薬草は状態もよく、瑞々しさを保っている。
 引き寄せられるように、気が付けばリズは薬草に手を伸ばしていた。リズのその行動は彼女の趣味を知り尽くしたエドワードには、彼の存在を忘れ切ったリズに苦笑はするものの、何ら驚きを与えるものではなかったはずだ。

 しかし、エドワードから僅かに息を呑む音がした。
 リズが驚き寝台に目を向けると、サファイアの瞳は、リズの瞳ではなくリズの手を凝視していた。
 彼の視線につられて彼女は自分の手に目を向け、リズも体を強張らせる。
 彼女の右手の甲から、淡い緑の光が僅かだが放たれている。ヒューが贈った誓いの印だった。
 部屋に、重い沈黙が訪れた。
 リズはゆっくりとサファイアの瞳に目を向けた。
 濃い青の瞳は様々なものを飲み込み、何も感情を見せない。何も見せてくれないことに、彼が受けた深い衝撃を感じ、リズの胸に痛みが走った。
 何から話せばいいのか、そもそも話すべきなのか、言葉も、適切な行動も何一つ浮かばないまま、リズは口を開いた。
 けれども、彼女の瞳は彼女の激しい動揺をそのまま映し出していたらしい。
 エドワードはリズの唇を長い指で柔らかく押さえ、彼女の動きを封じると、穏やかな声で言葉を紡いだ。

「彼にウィンデリアへの留学を頼んだ時に、約束していた。帰国した際には、彼の想いを咎めないと」

 そもそも咎められて止まるような想いではなかっただろうと、口角を上げ、感慨を込めて当時を語ったエドワードは、ゆっくりと目を伏せた。
 あの時、年に似合わぬ深い知を湛えた瞳の少年は、初対面の王太子である彼に、臆することなくリズへの想いを言い放った。
 少年の真摯な想いに、エドワードはその場で覚悟を強いられたのだ。
 エドワードは束の間追憶に耽り、部屋に静寂が落ちた。
 
 しばらくして、静かな部屋にリズの問いがそっと響いた。

「ヒューに留学を依頼なさったのですか?」
 
 思い出から抜け出した彼は、声を和らげて答えを返した。
「貴女を護れる手段は、一つでも増やしたかった。私は彼ほどの魔力はなかった」

 どれほど治癒の魔力を切望しても、エドワードには事実を変えられなかった。
 自分にないならば、他から補うしかない。彼女を護るためなら、彼の妬心など些末なことだった。
 そして魔法使いは、彼の恋敵であると同時に、心強い同志でもあった。

「彼も貴女を護るために、腕を磨く方法を考えていた。お互いの目標が一致したというところだ」

 あれから時が経っても、魔法使いの想いは変わらなかった。
 そして、魔法使いはエドワードの望み以上の強い魔法使いとなって帰国した。
 エドワードは小さく息を付くと、一瞬揺らいだ自分の感情を落ち着かせ、瞳を開いた。

「その印は当然の帰結だ。私の妬心など些末なことに過ぎない。もちろん、彼も貴女も、私を気に病む必要はない」
 
 しばらくサファイアの瞳を見つめたリズは、エドワードの真摯な覚悟を読み取り、小さく頷いた。

 部屋に再び沈黙が降りた。
 澄んだ紫の瞳は長い白金の睫毛に隠され、彼女の表情を隠した。
 そして彼女は美しい動きで立ち上がると、エドワードに視線を合わせないまま、お茶の準備を始めた。

「どうぞ。お好みに合うとよいのですが」
「貴女が淹れてくれたものなのだ。それが私の好みになる」

 小さな笑いと共にそっと差し出されたお茶は、病み上がりに近い彼の状態を考え、香りは薄く、爽やかな果物の酸味とほのかに混ぜられた蜂蜜の甘みが優しく感じられるものだった。
 身体に染み込む美味しさと温かさに、エドワードはほっと息を付く。
 部屋に和やかな空気が流れると、リズは囁いた。

「殿下。私、殿下にお願いしたいことがあるのです。話を聞いていただけますか?」

 エドワードは顔を綻ばせて頷いた。
「貴女の願いなら何なりと」

 リズは小さく息を吸い込み、覚悟を決めた。
 真っすぐにサファイアの瞳を見つめて、心からの願いを口にした。

「私、穏やかな人生が欲しいのです」

 エドワードの顔が僅かに強張ったのをリズは見逃さなかった。
 彼に願いを聞き届けてもらうために、彼女は言葉を紡ぎ続けた。

「私は、昔、毒を飲みました」

 一瞬にして、エドワードの顔は蒼白になった。エドワードのその変貌にリズは話し続けることを怯んだが、それでも彼女は言葉を紡いだ。

「意識が薄れていく中で、ここまで誰かに憎まれ、恨まれていたことに衝撃を覚えました」

 今の私が悪意を感じ取る体質になったのは、この体験のためかもしれませんね、とリズは微かな笑いを漏らしたが、それすらも彼には刃となったらしい。彼は僅かに喘いだ。

「私、物心ついたときに思ったのです。人がこの世を去るには様々な理由がありますが、毒殺で死ぬことは絶対にお断りすると」

 軽く言われた言葉の持つ重みに、エドワードはとうとう瞳を閉じた。リズは隠れてしまったサファイアの瞳を思いながら、言葉を続ける。

「私の大切な人が毒殺されることもお断りです」

 エドワードに向けて、切実な願いを込めた言葉だったが、サファイアの瞳は隠れたままだった。
 リズは返事を諦めて、話し続けた。

「私は、穏やかな人生を過ごすことが人生の目標となりました」
 これまで幾度となく思っていた彼女の人生の目標は、滑らかに口から出る。 

「取り立てて目立つところのない方と結ばれて、目立つことのない平凡な人生を歩むことが目標でした。目立たなければ毒殺など企てられないでしょうから。
 ですので、殿下からの求婚を長らくお断りさせていただきました」

 エドワードの顔から表情が抜け落ちていた。整った顔を彫像のように固まらせた彼を見て、リズの魔法石がとうとう光始めた。
 リズは息を吸い込み、隠れたサファイアの瞳に視線を向けた。

「ですが、貴方が私の目の前で倒れた時、私は何もかも忘れていました。いつもどこかで思い出す侍女の方の悪意も、息が絶えるかと思った侍従の方の殺意も、何かも、全てが消え去りました。
ただ一つの事だけが私の全てになったのです」

 リズはエドワードの硬く握りこまれた拳に手を添えた。彼はピクリと身じろいだが、瞳は閉じられたままだった。
 リズはそれでも閉ざされた瞳に彼女の想いを投げかけた。

「貴方が逝ってしまった、と」
 
 目の前で彼が倒れた光景が押し寄せ、白金の閃光が部屋を駆け抜けた。
 閃光を感じ、金の長い睫毛が押し上げられた。サファイアの瞳に浮かぶ闇を秘めた苦痛をリズが見て取ったときには、リズは抱きしめられていた。
 広い胸に顔を押し当てると、強く速い鼓動を拾うことができた。
 彼女は目を閉じ、鼓動を全身で拾い続ける。彼の生きている証を感じ、その奇跡に打ち震え、するりと言葉が零れ出た。

「昔、私はもっと苦しい思いをさせてしまったのですね。高直様」

 彼女を抱きしめていた腕がはっきりと強張った。そして、強く熱くリズを抱きしめてくれていた体は、ゆっくりと離れていく。
 離れてしまったことで目に入ったサファイアの瞳は、見る者の胸をかきむしるような苦痛の色があった。
 リズはとっさに彼に手を伸ばした。
 その手を彼は取ってはくれなかった。眉を顰めて、彼女の手を見つめるばかりだ。

「私は貴女に触れることを許されるのか…?」

 彼の絞り出されたような掠れた声は、彼の苦しみの深遠さを伝えてきた。
 彼の心奧に抱えた闇を初めて感じたリズの瞳に、熱いものが込み上げた。
 彼女は自分の心を取り出した。

「貴方だから触れてほしいのです。貴方だから私が触れたいのです」

 彼女の言葉に、一瞬、顔を歪ませたエドワードは、次の瞬間、リズを抱き込んだ。
 エドワードの背に手を回し、彼を離すまいとしたリズの耳元に、小さな魂の叫びが入り込んだ。

「だが…、私は貴女に毒を――」

 何かに急き立てられたかのように、再びリズを抱きしめなおしたエドワードに、リズは凛とした声で遮った。

「飲む前に匂いに違和感を覚えていました。今の私なら決して口をつけることはなかった匂いです」
 罪の意識に苛まれるエドワードは、それでも首を振る。リズは彼の顔を両手で包み込んだ。
 濡れてしまったサファイアの瞳を覗き込みながら、リズは言葉を紡いだ。

「貴方にお願いがあると言いました」

 どのような時でも、彼の答えは変わらなかった。
 微かに口の端を上げ、彼は静かに答えた。

「何なりと」

 リズは微笑を返しながら、見ることのできなかった彼の輝く笑顔を恋しくやるせなく思った。

「私、貴方が意識を戻さない間、自分にとっての穏やかな人生を思い描いていました」
 
 普通に生を終えることも、目立つことのない、誰からも恨みを買うことのない平凡な結婚生活も、確かに人生の目標だった。
 けれど、リズはエドワードの閉じられたままの瞳を見て、己が最も欲しかったものを悟った。
 サファイアの瞳を見たかった。
 彼女を見て、眩しいほどに輝く瞳を見たかった。
 あの輝く瞳を見るために差し出せるものがあるなら、彼女はすべてをかけて差し出していただろう。
 それに思い至ったとき、リズは雨上がりの空のように、澄み切った清々しい心地がした。
 ヒューから忠誠の誓いを申し出られたとき、彼女の覚悟は既に決まっていた。

 リズは目の前の、自分だけを見つめてくれる濃い青の瞳に、彼女のたどり着いた真実を伝えた。

「私にとって、穏やかな人生は、誰よりも大切な人と、笑顔を交わし合うことを重ねていくことです」

 笑顔を忘れず、折々に笑顔を交わし合っていけるのなら、たとえ波乱に満ちた生活でも、悪意に苦しめられても、たとえ普通に生を終えられなくとも、きっと後悔はない。
 彼の笑顔を傍で見られないことを考えれば、後悔などしない。
 彼が生きていてくれる。その上、笑顔まで見せてくれる。
 このこと以上に望むものなどない。
 
――だから、私は貴方にお願いするのです。

 リズは彼を包み込んでいた手を緩め、エドワードの頬をそっと撫でた。心地よさげに彼の目元が緩むのを見つめ、リズの目元も緩んだ。
 そして、彼女は彼女の最も大切な願いを口にした。

「私に穏やかな人生を下さいますか?エドワード」

 濡れたサファイアの瞳は彼女の願いに輝き、彼女の大好きな、彼女の求めてやまない、輝くような笑顔を見せてくれた。
 そして力強く、けれども厳かな決意を乗せた声で、リズに返事をくれた。

「貴女が生きて、私に笑顔を向けてくれるなら」

 リズに笑顔が浮かび上がった。彼の言葉は彼女の心と同じだった。
 リズは返事を返す。

「貴方が生きて、私に笑顔を向けてくれるなら」

 二人の願いと、二人の視線が重なり、交わし合う笑顔は二人の心を照らした。
 二人は相手の瞳の輝きに魅入っていたが――、
 やがて、重なる視線は時を止め、色を変えた。
 エドワードの長い指が、リズの唇に触れる。その熱を受けて、リズの鼓動は高まった。
 
「もう貴女に攫ってもらわなくとも、待つことはしない」

 甘い艶を帯びた瞳と言葉がリズを捕らえる。リズは誘われるように目を閉じた。
 唇に甘い吐息を感じたとき――

「調子に乗るのもいい加減にしろ。まずは王妃殿下に目覚めた顔を見せてこい」

 凍てつくような声がリズの熱を凍らせた。
 転移で現われた銀の美貌は、部屋中を凍らせるような彼の怒りを伝えていた。

 エドワードはがっくりとリズの肩に頭を沈め、「絶対に結界の再構築を…」と呟いていたが、指先まで赤く染め上げたリズの耳に、彼の呟きが入ることはなかった。
 
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