殿下、毒殺はお断りいたします

石里 唯

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第2章

愚か者の前世

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 心地よい日差しと風が、開け放たれた窓から寝室に入り込んでいる。
 けれども、その心地よさを感じ取る余裕のある者は、ここにはいなかった。
 余裕という言葉の存在自体を忘れてしまったようなリズに、アンソニーは今日も声をかけた。
 
「リズ。少しは寝ないと倒れてしまう」

 エドワードが毒に倒れてから3日が経っていた。
 ヒューの尽力によって、エドワードは危機を脱したかに見えた。確かに穏やかな呼吸と美しい寝顔を見せるまでに回復した。
 けれども、不思議なことに意識を取り戻す気配が全く見られない。
 ここまでの回復をみせて意識が戻らないことに、白の守護師も侍医も首を傾げるばかりだ。
 
 再び打つ手がなく苦戦する二人の様子に、リズは、本当に治癒を施せたのか、自分の魔力の働きが悪かったのではないかと、不安に苛まされながら、この間、片時も寝台から離れない。文字通り、寝食を忘れて付き添っている。
 
 そのような妹を案じたのは、アンソニーだけではなかった。
 息子を見舞いに訪れる度に、リズの様子にも痛ましそうに眉を顰めて目を留めていたソフィー妃殿下は、とうとう強硬手段に訴えた。
 リズをお茶に招待したのだ。王城に居ながら、その招待を断ることなどできない。
 リズを一時でも寝台から引き離す意図があることは明白だった。
 
 それでも、寝台から離れることを嫌がる妹の姿に、アンソニーは小さく溜息を零し、妹を抱き込んだ。

「目覚めないけれど、エドワードの身体に問題は見られないと、侍医はずっと言っている。命に問題はない。それは確かだ。気をしっかり持ちなさい」

 温かな兄の言葉に、リズは涙が込み上がるのを感じ、瞳を閉じたが、その拍子に涙は静かに彼女の頬を伝った。頬には既に幾筋もの涙の跡がある。

 アンソニーは妹の頭に口づけた。

「気をしっかり持てと言ったばかりなのに。僕の天使は困ったことだ」

 リズの髪を優しく撫でてから、アンソニーは立ち上がった。
 寝台で静かに横たわるエドワードに一瞥を送ってから、扉に向かった。

「涙が収まったら、来るんだよ。それまで僕がお相手をさせてもらおう」

 兄の心遣いに感謝しながら、リズは深く頷いた。
 扉が閉まり、再び静寂が訪れる。
 リズはエドワードに目を向けた。

「殿下。目を覚まして下さい」

 リズの切なる願いを込めた小さな囁きに、エドワードはピクリとも動かず、静かな呼吸を繰り返すばかりだ。
 リズは、長い金の睫毛に視線を留め、そこにサファイアの瞳が現れないかとしばらく見続け、やがて溜息を付き、そっと、殿下の手を取った。温かみの戻った手は、確かに生きていることを感じさせてくれたものの、全く力のない重い手は持ち主の意識が戻らないことを示していた。

「約束してくださったではないですか…」

 リズはその手を額に押し当て、囁き続けた。

「私を置いていかないで…」
 
 リズの瞳からまた涙が零れ、エドワードの手を濡らしていた。
 
 

 何よりも大切で愛しい、私の命である彼女の声が、遠くで聞こえる気がする。
 愛らしい声に哀しみが宿っているようだ。
 何が貴女を哀しませているのだ。私が払って見せる。
 ――どういうことだ。
 なぜ、あの声の近くに行けないのだ。
 どうしたのだろう。
 だが、声がするということなら、少なくとも私は彼女の命を護れたはずだ。
 そうでなければ、私は生きてはいられない。
 こうして何かを考えることも、感じることもできないはずだ。
 それは真実だと分かっている。昔、私は私の命を失い、生きることを止めた。
 生きることなどできなかった。
 できるはずもなかった――
 
 
◆◆

 夢を見ているようだった。
 彼女への想いに気が付いてから、ずっと見ていた夢だった。
 三日前までは触れることのできなかった彼女の髪が、寝乱れて自分の手に触れているのだ。長く艶やかな、流れる滝のような美しい髪。
 思わず一房掬い上げて口づけを落とす。
 まだ自分に馴染んでくれない彼女は、頬を染めながら視線を逸らしてしまう。
 高直はその初々しさに愛しさを覚えると同時に、彼女の瞳に自分を映してほしいという身を焦がすような激しい欲が沸き上がるのを感じた。
 
――いつでも、いつまでも彼女の瞳に自分を映してほしい。自分だけを。
 
 願いは口からこぼれていた。

「私たちは、これから、――そして来世でも、比翼の鳥、連理の枝となろう」

 彼女は頬を染め、瞳を潤ませながら、微かに頷いてくれた。
 押し寄せる喜びのままに、彼女を力の限り抱きしめていた。
――このまま息絶えてもいい
 あまりの幸せに高直の脳裏にそんな思いがよぎった。
 

 愚かな若者だった。いや、若さを言い訳にしていけない。愚かな人間だったのだ。
 世間というものを全く分かっていなかった。

 高直には我を忘れるほどの幸せな結婚だったが、二人の結婚は周囲からの祝福を得られないものだった。
 通い始めて三日が過ぎ、晴れて夫婦となったことを広める所顕しで、高直はすぐにそのことを突き付けられた。
 お披露目は、直子の側の親戚筋を中心に集められていたものの、それでも「急な物忌み」が半数ほどあったのだ。
 右大臣家の姫との婚姻を断ったとはいえ、高直にとっては、所詮、恋愛での話であり、元々つながりの薄かった右大臣家とこじれるようなことになるとは、考えもしなかった。
 
 浅はかだった。
 自分の考えと、世間の考えは異なったのだ。
 婚姻は、家同士の結びつき、派閥のつながりに及んでくるというのに、昔の自分は全くそのことを考えていなかった。
 世間からすれば、「所詮、恋愛」、などではなかった。どんなことであれ、右大臣家の意向に逆らったという事実ができたのだ。
 
 今の自分ならば、幼いころから自分を可愛がって下さった内親王に、直子との婚姻のお祝いを頼んで、少しでも婚姻の味方を増やしていただろう。
 友人を焚きつけ、右大臣家の姫と婚姻を成立させるぐらいの搦手を講じただろう。
 あの時の自分は、そのようなことの必要性すら感じていなかったのだ。
 
 客の少ないお披露目の会で、自分と直子との婚姻に最後まで反対していた直信が、強いて浮かべた笑顔で客をもてなすのを、胸に痛みを覚えながら眺めていた。

 それでも、周りからの祝福が得られずとも、直子の瞳に自分が映れば幸せだった。
 宮家の血など、出世も高が知れている。直子が笑顔で自分の傍らにいてくれれば、それでよかった。

 けれども、自分はまだ世間の恐さを分かっていなかったのだ。
 ささやかな、けれど幸せな、夢のような日々は、すぐに陰りを見せ始めた。
 結婚してから、彼女は病に伏せるようになってしまったのだ。

 初めは、早くも懐妊してくれたのではと浮き立つ思いがあったが、それはすぐに消え去った。
 彼女の伏せる様は、否が応でもそれが重い病であることを突き付けるものだった。
 幼いころから見てきた彼女は、その笑顔に似合う健康な体の持ち主だったのに、今では起きていられる時間のほうが少ない。
 ものも食べられず、彼女は見てわかるほどに痩せていく。
 それは、高直に紛れもない恐怖を与えた。
 
 彼女はこのまま私を置いていくのではないか――
 
 毎日、彼女の手を握り、その手の軽さと力の入らない弱さを感じ、その度に叫びだしたいほどの恐れが沸きあがる。
 出仕など放り出して、一日中、彼女の側に居たかった。一時ですら彼女の傍を離れることが恐かった。
 
 それなのに――、



「父上、あの話は断ったはずではないですか!一体どういうことです!」

 結婚以来、足を踏み入れていなかった実家の寝殿で、高直は父に詰め寄っていた。
 父は憤る高直に動じることなく、脇息に寄りかかることもせず、端然と座したままで言い放った。

「確かに私は断った。しかし右大臣が再び申し込んで下さったのだ」
「なぜ、また断ってくださらないのです!噂は直子のところまで広がっているのですよ!」

 右大臣家の話は、高直本人には全くあずかり知らぬことだった。
高直は、病に苦しむ直子の女房達が声高に話しているのを耳にして、初めて知る話だった。
 自分が知らないこともさることながら、直子に更なる苦しみを与えていることに、高直は憤った。
 父は扇を広げ、目を伏せた。

「ここまで強い希望を出され、二度もそれを断る力は私にはない」

 父は一切の妥協の余地を見せず、高直に淡々と事実を伝える。
 父の口調は淡々としたものだったが、高直は、父が安堵し、喜びさえしていることを感じ取った。
 直子との婚姻を為す前、父は右大臣家の姫との婚姻を何度も強く勧めていた。
 望外の喜びを得た心境であることが手に取るように分かり、高直を怒りにこぶしを握り締めた。

「私から断りを――」

 鋭い声が高直を遮った。

「もう受けた話だ。断ることはできぬ」
「私が受けたわけではない――!」

 几帳の陰で控えていた女房たちが、一斉に身を竦めた気配がしたが、そのようなことに構ってはいられなかった。
 父を睨み据えたが、父は全く表情を変えなかった。
 苛立ちを隠さず、立ち上がり退出しようとした高直の背に、父は声をかけた。

「右大臣家は、腕のいい薬師を抱えている。我が家よりも、中将家よりも、はるかに腕のいい専属の薬師だ」

――腕のいい薬師

 その言葉は高直の耳に、体の全てに入り込んで高直を捕らえた。
 一瞬、足を止めた高直に、父は再び声をかけた。
「懐に入り込めば、秘伝の薬も分けていただけるかもしれぬ」

 思わず父を振り返った高直は、高直の弱さを見透かす眼差しにぶつかった。
 高直は目を逸らし、足音高く退出した。

 乱れた心のままで直子の屋敷にたどり着くと、そこは病人を気遣い、静寂に満ちていた。
 右大臣家を恐れ、加持の僧からも屋敷に来ることを断られているのだ。哀しい静寂でもあった。
 静寂に溶け込んだ高直の気持ちは鎮まることを通り越し、恐怖に飲み込まれて冷えていく。

――ほんの半日しか経っていないのに

 眠る直子とは半日余りしか離れていなかったのに、痩せてしまったことがはっきりと見て取れた。呆然と腰を下ろすと、直子が目を開けてくれた。
 苦しい中で笑顔を絞り出してくれた心遣いに、高直は胸を引き絞られた心地がして、縋るように彼女の手を取り、額に圧し抱いた。その手は恐ろしい程軽く、高直に新たな恐怖を覚えさせる。
 彼女の死がはっきりと近づいてくる気配を拭えなかった。
 その気配は予感ではなく、確かな事実だった。
 高直は彼女を引き留めるかのように、手を離せなかった。
 身動きもできない恐怖の中で、直子が震える手で高直を撫でてくれたことを感じた。
 温かな心遣いよりも、その手の震えに彼女に忍び寄るものを強く感じて、身をすくませた高直の耳に囁きが聞こえた。

「高直様。貴方の笑顔が見たいのです」

 小さく洩らされた愛しい人の小さな望みが、高直の頭に響いた。

 私の笑顔?
 貴女が今にも儚く露と消えそうなこのときに、どうして笑顔になれるのだ――。
 貴女が消えてしまうことがこれほど恐いのに、どうして笑顔になれるのだ――
 貴女が生きていてくれなければ、私は笑顔など――
 貴女が生きていてくれなければ――

 高直ははっきりと自分の唯一の望みを悟った。
 
「貴女が生きていてくれるだけでいい。他には何も望まない。お願いだ、生きていておくれ」

 彼女が死ぬことなど、絶対に認めない。

 そして――、高直は父に頭を下げた。


 喜色をもはや隠さない父の仲介で、翌日には右大臣家に挨拶に行き、彼自身驚くほど自然に笑顔を浮かべることができていた。
 直子が生きてくれるためなら、いくらでも自分を売ることができた。
 心にもないことも軽やかに口にできた。自分自身をどこか別の場所で眺めているようだった。心など要らなかった。心など邪魔だった。
 和やかな空気の中で右大臣との対面を済ませ、そのまま姫の住む対まで足を運ぶことを許される。
 もちろん、高直は嬉しそうな顔を見せて勧めに従った。

 全く文のやり取りなどしたこともなく、もちろん言葉のやり取りもしたこともない三の姫と、御簾越しに女房を介して初めて挨拶をする。
 ほんの数日前までは、自分のことを知りもしない、上辺の自分の容姿にしか惹かれていない相手など嫌気がさしていたが、今の高直は御簾越しに笑顔さえ向けることができた。
 相手は直子が生き延びるための大事な伝手なのだ。
 
 伝手は早速いい仕事をしてくれた。
 程よい時間、話をして、次の訪れを約束してから姫の前を退出した高直を、背後から呼び止める者がいた。
 扇で顔を隠しこちらに近寄った女房は、三の姫の乳母らしい。
 皺の寄った手で、一つの薬包を差し出してきた。
 それを目にした瞬間、高直の鼓動がとくりと大きく跳ねた。
 薬包から目を逸らせない彼の耳に、しわがれた声が入り込んだ。

「高直様。こちらを奥方にお渡しください。たちどころに貴方様の憂いは晴れるでしょう。…今までのものは時間がかかりすぎました」 
 
 高直はその言葉に飛びついていた。額ずかんばかりに乳母にお礼を言って、薬包を受け取った。
 どこまでも愚かだった。
 あれほど死に近づいた者が、即座に治ることなどあり得ないのに、言葉の意味を考えなかった。

――これで、直子が生きられる。これさえ飲んでくれれば、直子の笑顔が戻る

 直子の元に向かう間、頭の中はそればかりだった。
 直子に薬包を渡したとき、彼女のやせ細った手の向こうに、柔らかな丸みを帯びた手が見える気がした。
 彼女は元に戻るのだ。
 高直は息をつめて、直子が薬湯を飲む瞬間を見つめた。
 薬湯を前に、きつい臭いがするのか直子は一瞬眉を顰めた。
 高直に強い不安が襲った。彼女が飲むことができなければ、他に当てはないのだ。
 けれども、直子はすぐに薬湯を口に含んだ。
 
――これで直子は生きる

 安堵で涙が溢れそうになった時、直子が目を見開いた。
 目の前で薬湯の椀が転がり、直子の身体が倒れた。慌てて抱きかかえた直信が、直子の顔を持ち上げた時、見紛うことなく彼女は異常な様相を示していた。
 瞬きもせず見開いた直子の瞳は、全く動くこともない。高直に笑顔を向けてくれるどころか、すぐ隣にいる直信も高直もその瞳は映していなかった。ただ宙を見つめたままだった。
 
 高直は、何が起こっているのか分からなかった。

 どういうことだ…?
 
 直信に揺さぶられても、直子の瞳は見開いたままだった。動きを止めたのは瞳だけではなかった。直子自体が動きを止めていた。いつも周りを気遣う直子が、直信に揺さぶられても瞳を見開いたまま、全く反応を示さない。
 
 これでは、まるで…。
 
 高直はじわじわと見えていなかったことが分かり始めた。
 
 直子が…死…?
 私は…、私が、毒を渡したのか?
 私が、彼女を殺したのか?

 獣の唸り声がした。

「直子!」
 直信の悲鳴が遠くで聞こえる。
 けれども、獣の唸り声が高直にはうるさかった。
 一体、このうるさい唸り声はなんだ。
 こちらを見ることのない直子を見たまま、唸り声を煩わしく思う。

「高直!しっかりしろ!」
 直信の叫びが耳元で聞こえ、体を揺さぶられていた。
 揺さぶられる振動で唸り声が揺れていることに高直は気づいた。この耳障りなうなり声を上げていたのは自分だったのだ。

 けれど、声は止むことはなく、屋敷中に響き渡る咆哮を上げ続けていた。

 

 それからどうしていたのか分からない。世界は何もなくなっていた。
 けれども、何もない闇の中、突然、愛しい彼女の香りが入り込んだ。
 愛しくなじんだ香りだ。いつも彼女と離れるのが辛くて、分けてもらっていた。
 初めて結ばれた夜、これほど近くでこの香りを感じられることに幸せをかみしめた香りだ。

「直子!」

 高直は声を上げ、世界に戻った。
 しかし、そこに直子はいなかった。眉を寄せ、顔を歪ませた直信がいた。

「すまない。君が何にも反応を示さなくて、…直子の遺した香を焚いたんだ」

 高直はすべてを思い出し、胸に斬られるような痛みが走った。
 なぜ、自分はまだ生きているのだ…

「高直!」
 鋭い声が、自分の首を絞めようとした高直を遮った。
 苦悶に歪む直信の顔に直子の面影を見て、高直は直信を、――その奥の直子を、見つめた。
 直信は目を伏せ、声を絞り出した。

「僕は君にどういう言葉を向けたらいいのか、どういう感情を向けたらいいのか、分からない」
 それはそのまま直子の言葉だと、高直は受け取った。優しさを常に与えてくれた直子の言葉だった。

「君が毒と知って、あれを直子に飲ませたのではないと分かっている」
 直信の悲壮な顔が、高直の胸を刺し貫いた。直子が悲しんでいるように思えた。

「けれど、君が持ち込み、飲ませたことも事実だ」
 逃れられない事実は、高直にまだ傷つく余地が残されていたことを教えた。
 傷つく資格もないと、高直は歯を食いしばり、拳を握りこんで嗚咽を堪えた。彼女のいないこの世は、全ては自分が招いたことなのだ。
 直信の穏やかな声がそっと洩らされた。

「高直。この香を君に譲る。代わりと言っては卑怯だが、君に頼みがある」

 高直はゆっくりと目を瞬かせた。眼前には香を入れた壺が二つ並んでいた。
 直子の香を自分のものにできるなら、あらゆることをするつもりだったが、直信が自分に頼むことがあるとは思えなかった。
 直信は揺るぎない意志を乗せて、真っ直ぐに高直を見据えた。

「直子は後世のための勤行を全く積まずに逝ってしまった。僧が祈りを捧げ、極楽へと誘ってくれたとは思うが、突然、命を絶たれて迷っていないか不安なんだ」
 
 直信はふいに俯いた。その肩が震えている。

「それに、右大臣家を慮って、弔いの為に来てくれた僧は一人しかいなかった…。もちろん、一人でも応じてくれたことはありがたいことだと思っている。思っているけれど…」

 胸を鷲掴みされた心地だった。彼女の魂が安らいでいない可能性など、存在してはならなかった。
 彼女は護られ、幸せにならなければいかない。
 
 何もない世界に怒りと焦りが広がる中、直信が僅かに濡れた瞳をこちらに向けて、頼みを口にした。

「我が家でできる限りのお布施はしたけれど、直子の往生の為に、君からもお寺にお布施をしてくれないだろうか」

 直信の言葉が紡ぎ終わるや否や、高直は立ち上がっていた。
 実家に戻り、祖母から譲り受けた自分の屋敷の権利証を取り出し、その日のうちに寄進した。
 直子との生活が落ち着けば、二人で住むつもりだった屋敷だ。直子の魂のために捧げるにはふさわしかった。
 父が高直の足に縋って何か言っていたが、耳に入らなかった。
 一刻も早く、彼女の魂の平安を祈らなければならない、その一心だった。
 寄進と同時に出家し、修行に明け暮れた。
 貴い悟りの為ではなく、直子の平安の為だけに、修行を重ねた。
 何を食べて、何を話していたのか意識はなかった。
 世界は色を失っていた。
 直子の香だけが、世界だった。

 一度、直信が寺を訪れてくれたように思う。
 一目自分を見るなり、涙をこぼしていた。
 彼が何に涙していたのか、自分には分からなかった。かける言葉も見つからず、そして何もない世界では言葉を探すことも難しく、数珠に目を落とした。
――数珠を持つ自分の手は、直子の最期の時よりもやせ細っていた。
 直信は涙ながらに、いろいろなことを話しかけてきた。
 三の姫の乳母は行方知れずなったこと。直子付きの女房の一人も行方知れずになったこと。三の姫は出家したこと。父も出家したこと。
 どれを聞いても、他所事だった。
 直子がこの世にいない、それだけが自分の事実だった。
 直子の為に祈る、それだけが自分のなすべきことだった。
 直子への祈りの為だけに、この体が動くことを許していた。
 
 
 一体、自分がどのようにあの生を終えたのかは分からない。
 
 直子の香が尽きた時に、ようやく自分の生も尽きたのかもしれない。
 
 何もない世界の終わりなど、意識にも記憶にも残っていなかった。
 
 気が付けば、私は新しい生を得ていた。
 
 
◆◆
 エドワード・レイランド、クロシア国の第一王子として、私は再びこの世に生を得た。
 彼女のいないこの世に生を受けていた。
 それは何もない世界が再び始まることを意味していた。
 けれども、前の生であれほど日々向き合っていた経典を思い出すことはできなかった。
 彼女の為の祈りは、この世界の神にするしかなかった。
 他に手段はなかったが、これで昔の世界にいる彼女の魂の平安につながるのか不安だった。
 
 ただ、それでも彼女の香りだけは覚えていた。何もない世界で、彼女の香の思い出だけは鮮やかに蘇り、彼を包んでいた。
 成長し、ある程度の自由が許されるようになると、彼女の香に近い香りを探すため、あらゆる香りを手に入れ始めた。
 けれども、彼女の香に近いものはなく、作ることもできなかった。
 あらゆる香りを試しているうちに、彼女の香の記憶が薄れていきそうに覚え、エドワードは初めて絶望を覚えた。
 
 彼女のいない世界で、彼女を思い出す縁すら失くした世界で、いつまで日を積み重ねて生きてかなければいけないのか。
 彼女の魂の平安を祈る手段も失くした世界で、一体、何のために生を受けたのか。
 
 何もない世界でも絶望は彼を支配し、彼は生きる意味を失った。
 
 意味を失ったことすら感じなくなったほど、ただ日を積み重ねていたエドワードに、その日が訪れた。
 彼は彼女の香りに出会い、自分の命に出会った。
 
 あのお茶会で、ご令嬢たちが身に纏う香りを少しでも薄めたいとの思いから、侍従に頼み開け放たれていた窓から、一瞬、強い風が吹き込んだ時、彼の世界は命を持った。
 
 あの瞬間、エドワードは自分の感じたものを信じられなかった。
 彼女の香りが僅かではあるが、確かに部屋に香ったのだ。
 確かに彼女の香りだった。
 エドワードは自分の身体が沸き立つのを感じた。
 
 彼女が生きている
 
 あの日から、エドワードは彼女を護ることに、彼女の傍に居ることに、全身全霊をかけた。
 かつての愚か者は、新たに手にした強かさと権力を以て、彼女を護ることができた。
 彼の生はこの為に授けられたと思うほどだった。
 そして、彼女の傍にいることは、奇跡が夢ではないと確かめるために必要だった。
 いや、それは言い訳だ。
 生きている彼女の傍にいたかった。彼女の瞳が様々な表情で輝きを変えるのを眺めたかった。彼女が生きていることをこの瞳に映したかった。
 一度彼女を失ったこともあり、彼女への想いを心に止めておくことはできず、昔とは異なり、言葉が溢れ続け、彼女から幾分冷たい眼差しを受けていたが――

『何を都合よく記憶を捏造しているんだ。君は昔も直子のことでは周りに溜息を付かせていたじゃないか』

 エドワードの頭に、呆れ果てた声が響き渡った。

『いい加減、目を覚ませ。僕の妹をこれ以上泣かせるなら、僕は全力でヒューに妹を――』

 エドワードは意識の沼から這い上り、瞳を開けた。
 彼の瞳に始めに映ったものは、涙に濡れてすら澄み切った美しさを持つ紫の瞳だった。

「目覚めて始めに貴女を見られるなど、なんて素晴らしい日なのだ。しかし、貴女の瞳は今も美しいが、涙に濡れていないときの方がはるかに美しいと思う」

 私の言葉に、私の愛しい女性は涙を零しながら、輝くような笑顔を浮かべてくれた。
 私は自分の顔が綻ぶのを覚えた。
 当然のことだった。
 貴女が生きて、私に笑顔を向けてくれたのだ。
 この幸せを前にして私が笑顔にならないはずがないのだ。
 私の笑顔を見て、昔と同じように、彼女は一段と笑みを深めてくれた。
 私は、涙を零し続ける私の命を抱きしめた。
 
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