必要ないと言われたので、私は旅にでます。

黒蜜きな粉

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策謀交錯

第2話

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 身体を包む揺れが、意識の奥に波紋を広げた。
 それはまるで、穏やかな波の上を漂っているような心地だった。

 頬にぬくもりを感じる。
 まどろみの中で目を開けると、そこにあったのは誰かの膝だった。
 柔らかな布の感触。微かに香る、覚えのある花の匂い。
 リリアはようやく、自分がミリエラの膝枕で眠っていたのだと気づく。

 ──……馬車の中?

 そう思ったのは、身体が規則正しいリズムで揺れていたからだ。
 けれど、手足に力が入らない。
 動かそうとしても、まるで自分の身体が遠い場所にあるようだった。
 感覚の糸が切れたみたいに、指先の感触すら曖昧だ。

 ぼんやりとミリエラの横顔を見上げていると、彼女が静かに瞬きをしてこちらを見下ろした。

「まあ……もう目が覚めちゃったの?」

 その声は驚きと、ほんの少しの困惑を含んでいた。
 ミリエラは微笑みを崩さぬまま、リリアの頬を撫でる。

「すぐに着くのに。できれば、あともう少しだけ眠っていてほしかったわ」

 穏やかな声音。
 けれど、その奥には、微かに張りつめた気配があった。

 そのとき、近くから男の声がした。

「よく言う。自分で攫っておいて、その言いぐさか。……相変わらず気味の悪い女だ」

 吐き捨てるような低い声。
 リリアの胸が跳ねる。聞き覚えのない声だった。
 ミリエラは唇に微笑を浮かべたまま、軽く肩をすくめる。

「まあ、ひどいですわ。そんな言い方」

 声は柔らかいのに、その奥には凍りつくような静けさが潜んでいた。

 リリアは声の主を確かめようと、必死に視線を巡らす。
 だが、ミリエラがそっと手を伸ばし、視界を遮った。

「お願い。もう少し、眠っていてね」

 囁きとともに、まぶたが重くなる。
 再び意識が薄れ、世界がゆっくりと滲んでいった。

 ──次に目を覚ましたとき、リリアはベッドの上にいた。

 見覚えのない天井。
 厚手のカーテンが淡い光を遮っている。
 空気は重く、どこか薬草の匂いがした。

 リリアは困惑しながら上体を起こそうとしたが、全身が鉛のように重い。
 身体の芯がまだ麻痺しているようで、手足がふらつく。
 どうにかベッドの端に座ると、呼吸が浅くなるのがわかった。

 それでも、意を決して立ち上がる。
 足が床に触れた瞬間、視界がふらりと揺れる。
 壁に手をつき、ゆっくりと窓際へ向かう。

 外は鬱蒼とした森。
 どこまでも木々が続き、鳥の声すらしない。
 風のない静寂が、異様に肌を差した。
 場所の見当はまるでつかなかった。

 そのとき、窓に映る自分の姿を見て、リリアは息を呑む。
 身にまとっていたのは、薄絹のネグリジェだった。

 ──着替えさせられている。

 冷たい汗が背を伝う。
 持ち物が、なにもない。
 とくに、祖母から受け継いだ鈴を入れた革袋がないことに、血の気が引いた。

 リリアは慌てて部屋を探す。
 だが、身体は思うように動かない。
 机の引き出し、棚の裏、ベッドの下。どこにも見当たらない。

 床にうずくまり、必死に手を伸ばしているときだった。

 がちゃり、と金具の音がした。

 リリアは四つんばいのまま、音の方角をゆっくりと振り返る。

 扉の向こうには、ミリエラが立っていた。
 驚いたように目を見開いたまま、リリアを見つめている。
 扉の隙間から射す光が、彼女の姿を淡く照らしていた。

 しばしの沈黙。
 やがて、ミリエラは困ったように微笑み、音もなく歩み寄ってくる。

「まあ……そんな薄着で床にうずくまって。風邪をひいちゃうわ」

 優しい叱り方。
 けれど、その声音には他人事のような響きが混じっていた。

 ミリエラはベッドの上からシーツを取り、リリアの肩にかける。
 柔らかな布が、冷えきった肌に触れる。
 その温もりは一瞬だけ心地よかったが、すぐに背筋を冷たい恐怖が撫でた。

「ほら、じっとして。大丈夫、怖がらなくてもいいのよ」

 リリアは唇を噛み、言葉を飲み込む。

 ──あなたが、それを言うの。

 その言葉が喉までこみ上げたが、どうにか飲み込んだ。
 ここがどこかも、ミリエラの目的も分からない。声が回復しているのを悟られるのは危険だ。

 リリアは咄嗟に喉に手を当て、苦しげにせき込む。
 声を出せないふりをするために。

 ミリエラはその様子を見つめながら、ゆるやかに微笑んだ。
 その笑みには慈しみが宿っていた。だが、それはどこか歪んで見えた。

「カイってば、ひどいことをするわね」

 その名を聞いた瞬間、リリアの胸が跳ねる。

「何百年も前の復讐だなんて。そんな昔の亡霊に、いつまでも囚われて……」

 ミリエラは嘲るように笑い、リリアの背を撫でた。
 その手つきは優しく、だからこそ怖かった。

「痛いわよね。かわいそうに。ほんとうに……かわいそうな子」

 吐息のような声が、耳の奥に絡みつく。
 リリアは思わず身を引こうとしたが、ミリエラの手は離れなかった。

 そのとき──

「……そろそろいいか?」

 低く落ち着いた声が、部屋の入口から響いた。
 ミリエラが顔を上げる。リリアも反射的にそちらを見た。

 扉の前には、一人の男が立っていた。
 仕立ての良い黒のコートに深紅の刺繍。
 腰には儀礼用の短剣、指には家紋入りの金の指輪。

 どこかで見た印。

 ──宰相家の紋章。

 リリアの背筋が、静かに強ばった。
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