必要ないと言われたので、私は旅にでます。

黒蜜きな粉

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策謀交錯

第5話

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 ヴァルガンは険しい表情のまま、廊下を駆け抜けていた。
 その背を追うカリムは、腕の中に抱いたリリアを気遣いながら続く。

「しばらくこのままだが、我慢してくれ」

 カリムは低くつぶやきながら、リリアの身体を抱きかかえ直した。
 その胸板の硬さと、腕にこもる確かな力が、リリアの不安をわずかに和らげる。
 けれど、安堵の中でふと探していた物の存在を思い出した。

 ――お祖母様の鈴が、ない!

 血の気が引いた。
 リリアは焦りに駆られ、カリムを見上げる。だが、彼は前方に意識を向けたまま気づかない。

 仕方なく、リリアは言葉を絞り出した。

「……鈴が、ないの」

 かすれた声だった。けれど、その一言で、カリムが足を止めた。
 抱えたままのリリアを見下ろし、わずかに目を見開く。

「……お前、声が戻ったのか」

 ほんの一瞬、沈黙が二人のあいだを流れた。
 カリムは覚悟を決めたように息を吐く。

「そうか……もう陛下に会ったんだな」

 リリアは目を丸くし、返す言葉を失った。

「隠さなくてもいい。瘴気に侵された者を救えるのは限られている。俺だってそれくらいは理解している」

 リリアは唇を噛み、小さく頷く。

「……はい」

 カリムは顔をしかめ、短く息を吐いた。

「だったらなおさら、急がなきゃならねぇ。もう陛下の手の者がすぐ傍まで来てる。……いや、下手すりゃ本人かもしれん」

 冗談ではない。その声に、わずかな焦りが滲む。
 リリアは息を呑んだ。

「お前のその姿を見られたら、俺たちは問答無用で殺される。……悪いが、鈴は諦めてくれ」

「……で、でも、あの鈴は……」

 言いかけたその時、廊下の先からヴァルガンの怒鳴り声が響いた。

「立ち止まるな! 早く行くぞ」

 その声に、カリムは我に返るように顔を上げ、ヴァルガンと視線を交わした。
 無言でうなずき、リリアを抱えたまま再び走り出す。

「くそ、ミリエラのやつ。余計なことをしやがって」

 カリムはぼやきながら、屋敷の扉を蹴り開けた。
 外は薄暗く、風が木々を鳴らしていた。

 ヴァルガンはためらうことなく馬に飛び乗る。
 その動作には、一片の迷いもなかった。
 だが、カリムはリリアを抱いたまま立ち止まり、声を上げた。

「おい、先に解毒薬をよこせ」

「後にしろ。今はここを離れることが優先だ!」

 ヴァルガンが振り返る。手綱を強く握りしめたまま、焦りを滲ませる。
 しかし、カリムは動かない。右手を突き出し、無言で彼を見据えていた。

 わずかな沈黙。
 ヴァルガンは苛立ちを隠さず、舌打ちをした。

「……チッ、わかったよ!」

 ヴァルガンは腰のポーチから小瓶を取り出し投げる。
 カリムは片手でそれを受け取り、すぐに蓋を外した。

「飲め」

 瓶を差し出され、リリアは戸惑う。
 薄い琥珀色の液体が、わずかに光る。

「安心しろ。身体を動けなくしてる薬の解毒薬だ」

 カリムはぎこちなく笑みを作り、再び小瓶を差し出す。
 その笑顔は不器用で、普段の彼からは想像もできないほど優しい仕草だった。

 けれど、リリアは迷った。
 解毒薬と言われても、本当にそうであるのかわからない。
 今この状況で飲んでもいいものだろうか。
 リリアはさらわれ、襲われかけたばかりなのだ。
 信じたい気持ちと、疑念が胸の中でぶつかり合う。

 カリムはそんなリリアのためらいを、別の意味に取った。
 まだ身体が動かせず、飲めないのだと。

「……仕方ねぇな」

 カリムは小瓶の中身を口に含むと、ためらいもなくリリアの唇に口を重ねた。
 苦い液体が、温もりとともに流し込まれてくる。
 リリアの身体がびくりと震える。
 唇が離れたあとも、鼓動の音が耳の奥で鳴り続ける。

「なんだこれ、最悪だな……」

 カリムは顔をしかめ、息を吐くと、リリアを抱き直して馬に跨がった。

「行けるぞ、ヴァルガン!」

 その声にヴァルガンがうなずき、手綱を引く。

 ――次の瞬間、空気が変わった。

 森のざわめきが止まり、風の音さえ消える。
 まるで世界全体が時を止めてしまったかのような静寂が、辺りを包み込む。

「……まずいな。見つかった」

 ヴァルガンの低い声が響く。

 その時、屋敷の扉が軋みながら開き、ライゼルが姿を現した。
 月明かりが、彼の金の指輪を照らす。

「お前たちは構わず行け」

 ライゼルの声は静かだが、芯のある響きを持っていた。

「ここはレイグラント家の土地だ。私はその一族の者。いくら陛下とて、宰相家の人間を素通りにはできない。陛下でなければなおさら、なぜここに来たのか、それを問うだけでも時間は稼げる」

 言いながら、ライゼルは一歩前へ出る。
 背筋がまっすぐ伸び、その影が月明かりの石畳に長く落ちる。

「早く父上の判断を仰いでくれ。私のことは気にするな」

 その言葉に、ヴァルガンの表情が歪む。
 苦々しい沈黙が、二人の間に降りた。

「ミリエラに唆された分は、ここで取り返していただけますね?」

「最善を尽くそう」

 ライゼルはわずかに笑った。
 その笑みは柔らかく、目の奥には決意の光が宿っていた。

「私とてレイグラント家に名を連ねる者。それだけで、動ける理由にはなる」

 その言葉に、ヴァルガンは目を伏せた。
 短く息を吐き、わずかに首を振る。

「……任せましたよ」

 静かな声だった。
 それだけを残し、ヴァルガンは手綱を引く。

 二頭の馬が夜風を切り裂き、闇の森の中へと駆け抜けていった。
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