必要ないと言われたので、私は旅にでます。

黒蜜きな粉

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策謀交錯

第4話

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 ヴァルガンは深く息を吸い込み、怒りを押し殺すようにして男を見据えた。

「……ライゼル様。このことを、お父上はご存じで?」

 ライゼルが答えかけたその瞬間、ミリエラが口を挟んだ。

「まさか。お優しい宰相閣下が、こんなことをお命じになるはずがないわ」

 その声音には、罪の意識など微塵もなかった。
 ヴァルガンはぎっとミリエラを睨みつけ、低く言い放つ。

「黙れ」

 その一言に、部屋の空気が凍りついた。

「わかっているなら、なぜリリアをさらった?」

 その声には怒りよりも、深い失望が滲んでいた。
 しかし、ミリエラは悪びれることもなく、意味ありげに口元を緩めた。

「あなたがカイとセラを野放しにするからよ。本当にリリアちゃんが殺されでもしたら、どうするつもり?」

 あっけらかんとした口ぶり。まるで、それが当然の理屈であるかのようだった。
 ヴァルガンは目を細める。

「あいつらにリリアは殺せない」

「そうね」

 ミリエラは皮肉げに笑いながらうなずいた。

「カイはきっと殺せないでしょうね。でも、セラは違う。あの子なら、迷わず殺すわ」

 その声は感情の色を失い、まるで人の言葉ではないようだった。
 未来を見通すような確信が、その響きに宿っていた。

「セラにリリアは殺せない。リリアは……殺されない」

 ヴァルガンの声は静かだったが、揺るぎない信念がそこにあった。

 ミリエラはしばらく彼を見つめ、やがて微笑む。
 その視線が、リリアへと移った。

「……それにしても、拍子抜けね」

 あざけるように唇を歪め、リリアの方へ一歩近づく。

「私ですら、こんなに簡単にさらえた。鈴も使えず、声も出せない。律を奏でられない拍術師なんて……この程度よ」

 くすり、と笑う。
 その甘く冷たい微笑みに、リリアの肩が小さく震えた。

 ヴァルガンが怒りをこらえるように拳を握る。
 だがミリエラは楽しげに、さらに言葉を重ねた。

「ねえ、ヴァルガン。あなた、本当に閣下のために尽くすつもりはあるの?」

 その問いは挑発ではなかった。
 むしろ真剣で、静かな声音だった。
 それがかえって、彼女の危うさを際立たせていた。

 ヴァルガンは一呼吸置き、背筋を正す。
 その瞳には迷いのない光が宿っている。

「俺は……国のために忠義を尽くしている」

 落ち着いた声。
 だがその一言には、確固たる覚悟があった。

 ミリエラはしばし黙し、ふっと微笑む。
 その表情には、冷笑とも哀れみともつかぬ色が浮かんでいた。

「……そう。だからあなたは甘いのね」

 独り言のような呟き。
 その声には、理解と諦めが同居していた。

「国のため、ね……」

 ゆっくりと歩み寄りながら、ミリエラはヴァルガンを見上げる。

「でも、あなたの言う国って何? 王のため? それとも宰相閣下のため?」

 軽やかに放たれた言葉が、鋭く空気を裂いた。
 ヴァルガンは黙したまま、目だけで返す。

「ねえ、ヴァルガン。あなたが守っているのは国じゃないわ」

 ミリエラの声音が低くなる。

「あなたが守っているのは理想。でもね、理想なんて現実の前では簡単に砕けるの」

 ヴァルガンは眉をひそめた。
 しかし目を逸らさず、低く言い返す。

「だからこそ、俺たちは理想を掲げるんだ。現実を支えるために必要なのは、力じゃなく秩序だ」

「秩序?」

 ミリエラが笑った。
 その笑いは冷たく、どこか哀れみを含んでいた。

「秩序が人を救うとでも思ってるの? そんなもの、誰かの犠牲の上にしか成り立たないのに」

 ヴァルガンは静かに息を吐く。

「それでも、俺はこの国を信じている。閣下が導く未来を、まだ信じられる」

 怒りも激情もない。
 ただ、確かな信念の音だけがそこにあった。

 ミリエラはわずかに目を細め、口の端を吊り上げる。

「……信じる、ね。じゃあ、あの方があの子をどう利用するつもりなのか、あなたは知っているの?」

 空気が一変した。
 リリアの心臓が跳ねる。
 あの子、それが自分のことを指しているのは、誰の耳にも明らかだった。

 ヴァルガンの表情が険しくなる。

「……お前は、どこまで知っている?」

 ミリエラは曖昧な微笑を浮かべ、淡々と言った。

「リリアちゃんは鍵よ。彼女の血が、封印を解くための最後の条件」

 リリアは息をのむ。
 全身がこわばり、血の気が引いていく。
 ミリエラはその反応を楽しむように見つめ、穏やかに微笑んだ。

「だからね、ヴァルガン。私は急いでいるの。すべてを終わらせたいのよ」

「……お前、まさか。陛下を殺すつもりか?」

 その言葉に、ミリエラは小さく首を傾げて笑う。

「殺す? まさか。そんな大それたことを考えているわけじゃないわ」

 その声は穏やかだったが、底知れない狂気を孕んでいた。
 リリアの背筋に、冷たいものが走る。

 ヴァルガンは拳を握りしめたまま、ミリエラを睨みつけていた。
 重苦しい空気が部屋を満たしていく。
 誰もが言葉を失い、時間が止まったようだった。

 その沈黙を破ったのは、鋭く乾いた声だった。

「──そこまでにしておけ」

 カリムだった。

 その声音には、抑えきれない苛立ちが混じっていた。
 腕の中で震えるリリアを抱きしめながら、彼は二人を睨みつける。

「この子の前で、いつまでそんな話を続けるつもりだ」

 ミリエラもヴァルガンも、はっと息を呑む。
 カリムの一言が、冷や水を浴びせるように場の熱を奪った。

 ヴァルガンは深く息を吐き、肩を落とす。
 握りしめていた拳をゆっくりと解き、低く言った。

「……悪い。俺が冷静さを欠いていた」

 ヴァルガンはミリエラを鋭く一瞥し、冷ややかな声で告げる。

「リリアは俺が連れて行く。文句があるなら、直接閣下のもとへ言いに来い」

 ミリエラの眉がぴくりと動いたが、反論はなかった。
 ヴァルガンの瞳には、もはや言葉を挟む余地のない決意が宿っていた。

 ヴァルガンはカリムの方へ視線を向ける。
 その眼差しは厳しくも、どこか穏やかだった。

「カリム、行くぞ。……リリアを頼む」

 カリムは無言でうなずき、腕の中で力なく身を預けるリリアを抱きかかえた。
 上着を整える手がわずかに震えているのを、リリアは感じた。
 その震えの理由はわからなかった。けれど、その手のぬくもりが、かすかに恐怖を和らげた。

 ヴァルガンが扉を開けると、外の冷たい空気が流れ込む。
 重たい空気を洗い流すように、ひとすじの風が室内を抜けていった。

「……やっぱり、甘いわね」

 扉が閉まる直前、ミリエラの呟きがかすかに耳に届いた。
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