必要ないと言われたので、私は旅にでます。

黒蜜きな粉

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宰相邸

第6話

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 宰相邸の夜は、驚くほど静かだった。
 外の庭園から虫の声ひとつ聞こえず、壁の向こうの世界が遠い幻のように感じられる。

 リリアは客間のベッドの端に腰を下ろし、両手を膝の上に重ねていた。
 手足を縛られているわけではない。けれど、外に出ることは許されていなかった。
 屋敷の中では自由に動けるが、どの廊下にも見張りの気配がある。
 まるで籠の中の鳥。静かで、息苦しい。

 ──でも、自覚がなかっただけで、以前の私はこうして生きていたのよね。

 ルシアンとの対話の余韻が、まだ胸の奥に残っていた。

 理のために墓守を続けろと言われた。だが、外の世界を知った今の自分には、もう以前のようには歌えないと答えた。

 リリアはそっと立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
 窓を開けると、黒い夜が一面に広がっていた。
 夜風が薄いカーテンを揺らし、肌に冷たい。
 星のひとつも見えない。月さえも、雲の向こうに隠れている。

 それでも、不思議と悲しくはなかった。
 雲の上にはきっと、星も月もあるのだ。
 見えないからといって、消えたわけではない。

 ──星だって、たまには人に顔を見せたくない夜もあるのかもしれない。

 そんなことを考えて、リリアは小さく笑った。
 人の心も、空のようなものなのだろう。
 晴れる日もあれば、曇る夜もある。

 だから、感情を持つことはきっと間違いじゃない。
 理の中にも、情の音は生きている。
 ミリエラの言葉も、間違いではない。
 けれど、ルシアンの語る理も、国を支えてきたのだから、確かに正しい。
 だから結局、ヴァルガンが言っていた「選ぶのは自分だ」という言葉が真実なのだ。

「……選ぶのは、自分……」

 リリアは小さくつぶやき、静かに目を閉じた。
 そして、祖母から受け継いだ歌を口にする。
 グレイモンド家の者が代々歌い継いできた、魂を鎮める旋律。
 拍の音が胸の奥に響き、ゆっくりと夜に溶けていった。

 以前と同じようには歌えなくとも、ただ声を出すことはできる。

 どれほどの時間が過ぎたのか。
 ふと、強い風が吹き込み、カーテンが激しく舞った。
 思わず歌を止め、目を閉じる。冷たい風が頬を撫で、肌が粟立つ。

 そのとき、背後に気配を感じた。

 振り向くと、扉のそばにカリムが立っていた。
 灯りに照らされた彼の表情は、どこか居心地悪そうだった。

「……風邪をひくぞ」

 カリムは静かに窓を閉めると、手にしていたブランケットをそっとリリアの肩にかけた。
 ぎこちない仕草だったが、その手つきには確かな優しさがあった。

「……すまない。急に歌が止まったから、心配で……勝手に入った」

 リリアははっとして、頬が熱くなるのを感じた。

「……聞こえていましたか?」

 カリムは一瞬だけ目を伏せ、それから小さくうなずいた。
 短い沈黙のあと、彼は低くつぶやく。

「……美しい歌だった」

 その言葉が夜の冷たい空気の中に落ち、波紋のように広がっていった。
 リリアは何も言わずにうつむき、肩のブランケットを握りしめた。

 風の止んだ夜は、静寂に包まれていた。
 ただ、胸の奥で微かに拍の音が響いていた。

  




 翌朝。
 リリアは再び宰相ルシアンに呼び出された。

 廊下の突き当たりで待っていたカリムの顔は、いつになく硬かった。
 無言のまま先導され、執務室の扉の前に立つ。

 扉が開かれると、室内の空気がぴんと張り詰めていた。
 中にはルシアン、ヴァルガン、そしてミリエラの姿がある。
 ルシアンは机の前に立ち、険しい表情をしていた。

 何事かと不安が胸をかすめ、リリアは隣のカリムを見上げる。
 だが、彼は小さく首を振るだけだった。

 ルシアンが低く、落ち着いた声を発した。

「……昨晩、王都霊廟での異変が鎮まった」

 その一言に、リリアは瞬きをした。
 思考が追いつかず、ただ小さく首を傾げる。

「君がいなくなってから、不具合ばかりだった。結界の乱れも瘴気の揺らぎも、たった一晩で静まり返った」

 淡々と告げられる報告。
 リリアは呆然としたまま、言葉を失う。

 その様子に、ヴァルガンが腕を組みながらため息をついた。

「……お前の歌が届いたんだろう」

「えっ……?」

 リリアは思わずヴァルガンを見た。
 けれど、彼の表情は冗談ではない。

「で、でも……いくら王都内とはいえ、ここから霊廟までは距離があります。声が届くはずが──」

 リリアの言葉を、明るい声がやわらかく遮った。

「──いいえ、届いたのよ」

 ミリエラが口を開いていた。
 その瞳は楽しげに輝き、微笑はどこか危うい熱を帯びている。

「昨夜のあなたの歌は、とても心がこもっていた。聞いているだけで、胸の奥が温かくなったもの」

 リリアは言葉を失う。
 しかし、ミリエラの話は止まらなかった。

「きっと、霊廟の地下に眠るあの方の胸にも届いたのでしょうね。だって、あなたの拍は生きていたもの!」

 その言葉に、室内の空気がわずかに揺れた。
 ルシアンの眉がかすかに動く。

 リリアはただ黙って立ち尽くした。
 ミリエラの微笑の奥に、確信にも似た光が宿っていることを感じながら──。
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