必要ないと言われたので、私は旅にでます。

黒蜜きな粉

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古王封域

第4話

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 アランは膝をついたまま、すがるようにリリアの手を握りしめて泣いていた。
 その涙は王としての誇りからこぼれ落ちたものではない。
 ただ、生まれた役目に縛られ続けた青年の、むき出しの悲鳴だった。

 リリアはその本音を耳にし、胸の奥が締めつけられる。

 ――王になんかなりたくなかったんだ。

 その言葉を口にするまで、どれほど孤独だったのか。
 リリアは返すべき言葉が見つからなかった。
 だから、ただ力を込めて抱きしめた。

 細く、消え入りそうな声がリリアの喉から漏れる。

「……ごめ……っ、なさい……」

 アランの肩がわずかに震えた。

「立派な王様だなんて……そんなふうに言って。押しつけて……それがアランには重かったんだよね」

 震える声に応えるように、アランの身体から力が抜けていく。
 強く握りしめていたリリアの手を、彼はゆっくりと放した。
 そして、涙を拭うと立ち上がる。
 まだ不安定な足取りでリリアを見下ろし、ぎこちなく笑う。

「謝ってほしかったわけじゃない。謝罪なんて……そんなものはいらない。僕はただ──」

 言葉の続きは途切れた。
 リリアの背中に、鈍い衝撃が走る。

「──っ……!」

 肺の奥まで焼けつくような痛みがリリアの身体を駆け抜ける。
 振り返ろうとしても背筋が痙攣し、膝が崩れる。
 リリアはアランの胸元へ倒れ込んだ。

「リリア⁉」

 アランはリリアの身体を受け止めきれず、その場に座り込みながら抱きとめる。
 リリアの視界は揺れ、呼吸が擦れる。
 背中を走る熱と痺れ、生温かい液体が衣を濡らしていく。

「……ああ、つまらないわ。こんなの、私が望んでいた流れじゃない」

 軽やかな声がリリアの耳に届く。
 声の主を確かめようと首を動かすが、身体は言うことをきかない。
 それでも、視界の端に血の滴る黒曜石の短剣が映った。
 視線をゆっくりと上に上げていくと、それを握るミリエラが無表情に立っていた。

 背中を刺されたのだ。
 父の形見である黒曜石の短剣で、心臓の近くを貫かれた。
 声を出そうとするが、喉が血で塞がれ、息が漏れるだけだった。

「貴様っ……リリアになにを!」

 アランの声は低く、腹の底から煮え立つ怒気が滲み出ていた。
 ミリエラはその怒りなど眼中にない様子で、明るく流ちょうに答える。

「背中から心臓めがけて刺しただけですわ。ためらう理由もありませんもの」

 その軽さに、アランは目を見開いた。
 同時に封牢の空気がねじれるように動いた。
 瘴気がざわめき、渦を巻きながらアランへ吸い寄せられていく。

「……なっ⁉ 待て、来るな……今は……っ」

 黒い濁流は、迷いなくアランの身体へと吸い込まれていく。
 彼は抗うように背をのけぞらせるが、瘴気は止まらない。

 リリアは叫びたかった。
 けれど、声は血に呑まれ、意識が暗く沈んでいく。

 左胸の紋様が焼け焦げるように灼熱し、視界が白む。
 そのときだった。

「……封印が、消滅する」

 アズ=カラグの、深く落ち着いた声が封牢に響いた。
 まるで千年の眠りにひびが入り、崩れ落ちるかのように。

 封牢を満たしていた漆黒の瘴気が、嵐が引くように一斉に散っていった。
 渦を巻いていた濁流は消え失せ、空気は信じられないほど澄み渡る。
 呪いなど最初から存在しなかったかのような静けさだった。

 アランの腕に抱き止められていたはずのリリアは、支えを失い石床へ転がされた。
 冷たい地面に叩きつけられ、息が漏れる。

「っ……く……うう!」

 焼けるような痛みが身体を突き上げる。
 それでもリリアは必死に手を伸ばし、アランを探した。

「……アラン……アラン、お願い……陛下っ……!」

 届かない。
 アランはもう、そこにいるリリアを見ていなかった。

 アランはゆっくりと立ち上がり、虚ろな目で封牢の奥──竜の眠る方角を見つめている。
 焦点はなく、光もない。
 ただ向かうべき場所だけを刻まれた獣のようだった。

「……殺さなきゃ……終わらない……長を……呪いを、断ち切らなければ……」

 その声には、今のアラン自身の意思は感じられなかった。
 瘴気に侵され、呪いに押し出されるようにこぼれた言葉だった。

「アラン……違う……違うよ」

 手は届かず、声も届かない。

 ふらつきながらも確かな足取りで、アランは封牢の中心へ進む。
 背中から黒い影が薄く揺らめき、残滓となって地面へ落ちていく。

 竜は動かない。
 巨大な岩のように沈黙したまま、その存在だけが場を満たしていた。
 深い低音が闇の底を震わせる。

「……我が呪いを向けずとも、自ら集めてしまったか」

 諦念を帯びた声。
 アズ=カラグの瞼が音もなく開いた。
 古き王を縛っていた楔はもはや消え失せている。
 黒曜石の短剣は、グレイモンド家の先代当主の歌を宿した儀式剣。
 竜を繋ぎ止めていたリリアの左胸の封紋は、その刃に貫かれたことで断たれた。
 
「古き王を滅し、呪いを断つ」

 アランがそう囁いた瞬間、空気が変わる。
 軽くなったはずの空間に、圧倒的な重みが満ちていく。

 リリアは震える指で床を掴み、かすむ視界の奥を見据える。
 鼓動が早まり、呼吸が浅くなる。

 アランは振り返らない。
 ただ竜へ、一歩、また一歩。

「彼女は解放される。王として、認められる。迎えに行ける」
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