えぞのあやめ

とりみ ししょう

文字の大きさ
133 / 210

五の段  顔  除霊(三)

しおりを挟む
「あやめ……もう大過ないか?」
 あやめは茫然としているが、小さく頷いた。ひゅう、と咽喉が鳴る。
「……申し訳ございませぬ。」
「礼をいうてもらいたいぞ。」
 新三郎は安堵して、微笑する。
「安心せよ。お前に憑いていた怨霊は、儂が払うてやった。」
「あ、……」
 あやめは虚を突かれたような表情になる。
「あのような震えも、祟りであったろうが、もう起こらぬ。」
「それは、」違うのです、といいかけたが、あやめは口ごもって目を伏せる。
「お前は……」新三郎は問いかけたがやめ、少し考えると、「あれが喋ったことは、聴こえたか?」
「遠くで、おやかたさまがたれか、何者かと何かをお話になられるのが聴こえました。わたくしが喋っているようでもございましたが、だとしても、なにをしゃべったのか、おぼえておりませぬ。」
 知らぬ誰か、ということ以外は、ほんとうのことであった。
(そうであろうな。)
「あのように死ぬほどの震えがとまらず、とても、……できなくなったことが、以前にもあったのだな。」
「はい。」
 あやめは、嘘をつく気にならない。素直にうなずいた。
 十四郎と、いつのことだ、と訊こうとして、新三郎は思いとどまった。
(もはや詮無い。どうせ、十四郎に捨てられたときのことであろう。あやつが蝦夷地に行ってしまう前の、いつかだ。)
(あやめ、不憫だった。十四郎ならば、想い女のためにすべてを振り捨てて逃げよるかとも思ったのに、簡単に女のほうを捨てていきよったものだな。)
「もう心配はいらぬ。あのようなことになることはないぞ。」
 新三郎は、また漲るものを感じ、そのままあやめの中に入っていこうかと考えたが、肌の温かみを増したものの、心身の疲労がただごとではなさげな女の様子に、あきらめた。
「おれは、あいつとはちがう。」お前を無造作に捨てたりはしない。
「えっ?」
 地の言葉がききとれず、あやめは新三郎の顔を仰いで、聞き返した。
「あやめ、寝よう。」
 新三郎は答えない。あやめの躰を拭いてやろうとする。あやめは驚き慌てて、断ったが、かまわず肩や背中の汗を拭ってやった。躰の前に手を延ばしかけると、
「そこは、そこだけは結構でございます。」
 あやめが恥じらって必死の形相で止めるので、それはそうだろうと布を離した。あやめは急いで、布と懐紙を使う。
 着衣を戻させると、あやめは深々と低頭したが、その躰を手で招くと、胸に抱き寄せてともに臥した。女は前よりもまた痩せて、小さく感じられる。
「えっ、武家の習いでは……?」
 まずは起きて見張り、眠る主人を守るのではなかったか。ことをおえた最初から一緒に臥してねむるなど、この前にもそうはなってしまったが、本来はありえぬ。
「元気がないくせに、いうことはいう。」
 新三郎は笑った。
「そなたを武家の女に仕込むのは、じっくりとしてやるわ。」
「はい。」
「実は、それもだんだん気が進まなくなってきた。あやめはあやめが一番よい。これ以上、武家女になられてもつまらぬ。」
「……なにを、仰せでございますやら。」
「起きさせておくのが、まずつまらぬ。そなたの寝顔はよい。また。みたいのでな。」
「……」
「あやめ。もう安心して眠れ。憑き物は落ちた。あのようにつらい震えは二度と起きぬ。」
 あやめの目から涙が溢れた。
「あやめ、なにを泣く。怖がらずともよい、といったぞ。……そうか、思い出して、悲しいのか?」
(また十四郎のことを思い出してしまったのだな?)
「いいえ。これは、嬉し泣きにございます。おやかたさまには、あやめなどをこれほどに大切に思って下さり、ありがたくて、申し訳なくて、涙がとまりませぬ。」
 嘘ではないが、本当でもなかった。嬉し泣きかどうか、涙の理由は自分でもわからない。
(ああ、この男は何もわかっていない。何もわからないでいる!)
 口惜しさに似た思いだけが、形になって突きあがり、それ以外は混乱するばかりであった。
「そうか。眠れ、あやめ。」
 新三郎は、あやめの頬に流れる涙を吸った。
「もう、泣かなくてよい。」
 あやめは悲し気に呻くと、かえって涙をまたあふれさせた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

とある男の包〇治療体験記

moz34
エッセイ・ノンフィクション
手術の体験記

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

大東亜戦争を有利に

ゆみすけ
歴史・時代
 日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

処理中です...