残業帰りのカフェで──止まった恋と、動き出した身体と心

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第4章「後輩の告白」

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日曜日が来るのを、亜季は指折り数えて待っていた。
月曜日、火曜日、水曜日。毎日カフェで悠斗と会って、少しずつ美術館の話をした。
「何時に待ち合わせましょうか?」
「十時とかどうですか?早すぎます?」
「大丈夫です。久しぶりの休日、早起きします」
「じゃあ、上野駅の改札で」
「はい」
そんな会話をするたびに、胸が高鳴った。
木曜日の夜、亜季はクローゼットの前で悩んでいた。
何を着ていこう。
仕事用のスーツしか持っていない。休日用の服なんて、ほとんど買っていない。
結局、シンプルな白いブラウスとベージュのパンツを選んだ。地味すぎるかもしれないけれど、これが一番無難だろう。
金曜日の朝、出勤すると、涼が声をかけてきた。
「高梨さん、おはようございます」
「おはよう」
「あの、今日の飲み会、やっぱり来られませんか?」
まだ諦めていなかったのか。亜季は少し困った。
「ごめん、本当に予定があって」
「そうですか…」
涼は明らかに残念そうだった。
「何の予定ですか?差し支えなければ」
「友達と会う約束」
嘘ではない。悠斗は友達だ。たぶん。
「女友達ですか?」
涼の質問に、亜季は少し戸惑った。
「…男友達」
そう答えた瞬間、涼の表情が変わった。
「男友達…ですか」
「うん。でも、ただの友達だから」
なぜか、言い訳をしている自分がいた。
「そうですか」
涼は複雑な表情をした。
「高梨さんに、そういう人がいるなんて知りませんでした」
「そういう人って…ただの友達だって言ったでしょ」
「でも、休日に会うってことは…」
涼は言葉を濁した。
「涼くん、何が言いたいの?」
亜季は少しイラっとした。
「…すみません。余計なこと聞きました」
涼はそう言って、自分のデスクに戻っていった。
亜季は、何とも言えない気持ちになった。
涼は、何を考えているんだろう。まさか、本当に自分のことを…?
その日は、仕事に集中できなかった。
クライアントとの打ち合わせも、上の空だった。資料の説明をしながら、頭の中では明日のことばかり考えていた。
何を話そう。どんな反応をしよう。美術館の後、お茶でもするだろうか。
そんなことを考えていたら、クライアントから質問をされて、答えられなかった。
「高梨さん?聞いてます?」
「あ、すみません。もう一度お願いできますか」
恥ずかしかった。こんなミス、したことがない。
打ち合わせが終わって、オフィスに戻ると、涼が待っていた。
「高梨さん、話があります」
「今?」
「はい。少しだけ」
涼の表情は真剣だった。
「わかった。会議室に行こう」
二人は空いている会議室に入った。ドアを閉めると、涼は深呼吸をした。
「あの…高梨さん」
「何?」
「僕、高梨さんのこと…好きです」
時間が止まった。
「え?」
「ずっと言いたかったんです。でも、言えなくて。でも、今日、男友達のこと聞いて…もう言わないとダメだって思いました」
涼は真っ直ぐに亜季を見ていた。
「僕、高梨さんを尊敬してます。仕事ができて、いつも冷静で。でも、たまに見せる疲れた顔とか、一人で抱え込んでる姿とか見ると、守ってあげたいって思うんです」
「涼くん…」
「年下だし、まだ経験も浅いし、高梨さんには釣り合わないかもしれません。でも、僕の気持ちだけは伝えたくて」
涼の目は、本気だった。
亜季は、どう答えていいかわからなかった。
「…ごめん、涼くん」
「やっぱり、ダメですか」
「そうじゃなくて…驚いてて。全然気づかなかった」
「そうですよね。僕、隠すの下手だから、周りはみんな気づいてたと思います」
「え、周り?」
「はい。部署のみんな、多分知ってます」
亜季は頭が真っ白になった。
みんな知ってた?自分だけが気づいていなかった?
「涼くん、ごめん。私、今すぐには答えられない」
「わかってます。急に言って、困らせてすみません」
「困ってるわけじゃないけど…」
「でも、その男友達のこと、気になってるんですよね」
涼の言葉に、亜季は何も答えられなかった。
気になっている。確かに、悠斗のことは気になっている。
でも、それが恋愛感情なのか、ただの友情なのか、自分でもわからない。
「…考えさせて」
「はい。いつまでも待ちます」
涼はそう言って、会議室を出て行った。
亜季は一人、椅子に座ったまま動けなかった。
涼の告白。悠斗との約束。
頭の中がぐちゃぐちゃになった。
その夜、カフェに行くかどうか迷った。
悠斗に会ったら、涼のことを話すべきだろうか。それとも黙っているべきか。
でも、結局足はカフェに向かっていた。
「お疲れ様です」
悠斗はいつものように笑顔で迎えてくれた。
「…お疲れ様です」
亜季の返事は、いつもより元気がなかった。
「どうしたんですか?何かありました?」
悠斗はすぐに気づいた。
「いえ、何も」
「本当に?顔色悪いですよ」
「…ちょっと、いろいろあって」
亜季は席に座った。悠斗も隣に座る。
「話したくないなら、無理にとは言いませんけど」
「…後輩に、告白されました」
なぜか、正直に言ってしまった。
悠斗の表情が一瞬、固まった。
「そうですか」
「はい」
「それで…どうしたんですか?」
「保留にしました。今すぐには答えられないって」
「そうですか」
悠斗は、いつもより少し距離を感じる口調だった。
「その後輩の方のこと、好きなんですか?」
「わかりません。そんなこと考えたこともなかったから」
「でも、嫌いじゃない?」
「嫌いじゃないです。いい子だし、真面目だし」
「じゃあ、付き合ってみてもいいんじゃないですか」
悠斗の言葉に、亜季は少しイラっとした。
「そんな簡単に決められません」
「でも、好きでもない人と付き合うのも、相手に失礼ですよね」
「それは…そうですけど」
亜季は黙り込んだ。
なぜか、悠斗の反応が冷たく感じた。もっと、何か言ってくれると思っていた。
でも、何を期待していたんだろう。
「明日、まだ美術館行きますか?」
悠斗が聞いた。
「え?」
「もし、その後輩の方のことで頭がいっぱいなら、無理しなくてもいいですよ」
「いえ、行きます。約束ですから」
「…わかりました」
それから、二人は会話が途切れがちになった。
いつもなら、自然に話が続くのに、今日は何を話していいかわからない。
「僕、もう帰ります」
悠斗が急に立ち上がった。
「え?まだ時間…」
「明日、早いので」
「そうですか」
悠斗は会計を済ませて、振り返った。
「明日、十時に上野駅で。遅れないでくださいね」
「はい」
「じゃあ、また明日」
悠斗はそう言って、店を出て行った。
亜季は一人、カップを見つめていた。
何かが、おかしかった。
悠斗の反応が、いつもと違った。
もしかして、悠斗は…?
でも、そんなはずはない。悠斗と自分は、ただの友達だ。
そう思っているのは、自分だけだろうか。
亜季はコーヒーを飲み干して、店を出た。
家に帰って、ベッドに横になっても、眠れなかった。
涼の告白。悠斗の冷たい反応。明日のデート。
頭の中がぐちゃぐちゃで、整理できない。
結局、明け方近くまで眠れなかった。

日曜日の朝、亜季は六時に目が覚めた。
昨日、ほとんど眠れなかったのに、体は勝手に起きていた。
シャワーを浴びて、髪を乾かす。鏡を見ると、少しやつれた顔が映っている。
ファンデーションを厚めに塗って、目の下のクマを隠す。口紅も、いつもより明るい色を選んだ。
選んでおいた服を着る。白いブラウスとベージュのパンツ。シンプルだけれど、清潔感がある。
時計を見ると、まだ七時半。待ち合わせまで二時間半もある。
家を出る準備は整っている。でも、早すぎる。
結局、八時に家を出た。
電車に乗って、上野に向かう。日曜日の朝の電車は、平日より空いている。
上野駅に着いたのは、九時前だった。
待ち合わせの改札の近くで時間を潰す。本屋を見たり、カフェでコーヒーを飲んだり。
九時五十分になって、改札に向かった。
悠斗は、もう待っていた。
グレーのニットに黒いジーンズ。カジュアルだけれど、清潔感がある。髪も、いつもよりきちんとセットしている。
「おはようございます」
悠斗が笑顔で言った。
昨日の冷たい雰囲気は、消えていた。
「おはようございます」
亜季も笑顔で答えた。
「早かったですね」
「ちょっと、早く着いちゃって」
「僕もです。緊張して、早く出てきちゃいました」
悠斗は少し照れたように笑った。
その笑顔を見て、亜季の心配は消えた。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい」
二人は美術館に向かって歩き出した。
上野公園は、日曜日で人が多かった。家族連れ、カップル、観光客。みんな、楽しそうに歩いている。
「いい天気ですね」
「本当に。美術館日和です」
二人は並んで歩いた。
悠斗の歩幅が、少しだけ亜季に合わせてゆっくりになっている。その気遣いが、嬉しかった。
美術館に着いて、チケットを買う。
「僕が払いますよ」
「いえ、割り勘で」
「せめて、今日くらいは」
悠斗は笑って、二人分のチケットを買った。
展示は、印象派の絵画展だった。
モネ、ルノワール、セザンヌ。有名な画家の作品が並んでいる。
「きれいですね」
亜季は、モネの睡蓮の絵の前で立ち止まった。
「本当に。こうやって見ると、色使いがすごく繊細で」
悠斗も隣で絵を見ている。
「佐久間さんは、デザイナーだから、こういうの見方が違うんでしょうね」
「どうでしょう。でも、色の組み合わせとか、構図とか、勉強になります」
「仕事に活かせそう?」
「活かせるかもしれないですね。クライアントは理解してくれないかもしれないですけど」
悠斗は苦笑した。
「またクライアントの愚痴ですか」
「すみません。癖になってて」
二人は笑った。
それから、ゆっくりと展示を見て回った。
時々、お互いに感想を言い合う。
「この絵、好きです」
「僕はこっちの方が好きですね」
「なんで?」
「色が鮮やかで。元気が出る感じがします」
そんな会話をしながら、二時間ほど過ごした。
展示を見終わって、美術館を出ると、もう正午を過ぎていた。
「お腹空きませんか?」
「空きました」
「じゃあ、どこかでランチでもしましょう」
悠斗が提案した。
「いいですね」
二人は公園内のカフェレストランに入った。
窓際の席に座って、ランチを注文する。
「今日は、ありがとうございました。楽しかったです」
亜季は素直に言った。
「こちらこそ。久しぶりに、ゆっくり美術館を見られました」
「佐久間さん、一人でも来るんですか?」
「たまに。でも、一人だと寂しいですね」
悠斗は少し寂しそうに笑った。
「誰かと一緒に見る方が、楽しいです」
その言葉に、亜季の胸が温かくなった。
「私も、今日すごく楽しかったです」
「よかった」
料理が運ばれてきた。
パスタとサラダ、それにパン。シンプルだけれど、美味しそうだった。
「いただきます」
「いただきます」
食事をしながら、また他愛のない話をした。
「高梨さん、昨日の後輩の方のこと、どうするんですか?」
悠斗が急に聞いた。
「…まだ、決めてないです」
「そうですか」
「佐久間さんは、どう思いますか?」
「僕がですか?」
悠斗は少し考えた。
「高梨さんの気持ち次第だと思います。好きなら付き合えばいいし、そうじゃないなら、ちゃんと断った方がいいと思います」
「そうですよね」
亜季はため息をついた。
「でも、自分の気持ちがわからなくて」
「わからない?」
「はい。涼くんのこと、嫌いじゃないです。でも、好きかって言われると…」
亜季は言葉に詰まった。
本当は、わかっている。
涼のことは、好きじゃない。尊敬しているし、いい後輩だと思っている。でも、恋愛対象としては見られない。
なぜなら、自分の心には、もう別の人がいるから。
「高梨さん」
悠斗が真剣な顔で言った。
「好きじゃない人と付き合っても、お互い不幸になるだけだと思います」
「…そうですね」
「だから、自分の気持ちに正直になった方がいいです」
その言葉が、胸に刺さった。
自分の気持ちに正直になる。
それは、涼を断るということ。
そして、自分の本当の気持ちと向き合うということ。
「わかりました。ちゃんと、答えを出します」
「はい」
悠斗は優しく微笑んだ。
食事を終えて、カフェを出る。
「今日は、本当にありがとうございました」
「こちらこそ。また、こういう機会があるといいですね」
「はい。また」
二人は上野駅で別れた。
電車に乗って、窓の外を見る。
今日、楽しかった。
悠斗と一緒にいると、自然体でいられる。
そして、気づいた。
自分は、悠斗のことが好きなんだ。
いつから好きだったのかはわからない。でも、今、確かに好きだ。
この気持ちを、どうすればいいんだろう。
家に着いて、ベッドに横になる。
明日、涼に答えを出さなければならない。
そして、自分の気持ちとも、向き合わなければならない。
長い夜が、始まろうとしていた。
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