時雨の焼印

太幽(だいゆう)

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第一章:血と泥の子守唄

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西暦1553年。

幸が十兵衛の元に嫁いで十年余りが経った。

夫婦の間には長男の宗助、長女の春がいた。宗助は十歳、春は八歳になる。

そしてその年、新たな命が幸の腹に宿った。

子どもたちは素直に喜んだ。宗助は「弟か妹か、どっちかな」と目を輝かせ、春は「私、お世話する!」とはしゃいだ。

しかし十兵衛と幸は、家族が増える喜びと、この時代に新たな命を迎えることへの不安が入り混じった、複雑な心境だった。

というのも、この数年、全国的に干ばつや洪水が多発し、人々を飢饉が襲っていたからだ。

日照り続きで作物はまったく育たず、村の食糧庫も残り少ない。

十兵衛は宗助を連れて山に入る日々を送るが、最近は山の恵みもめっきり採れなくなっていた。

風は冷たく、頬を刺すようだった。

川には、飢えや疫病で命を落とした人々の遺体が、供養されることなく流れていく。

まるで、この世の苦しみを象徴するかのように。

---



そんな中、最悪の事態が訪れた。

盗賊が村を襲撃し、わずかに残っていた食糧庫の蓄えを根こそぎ奪い去ったのだ。

一夜にして、村人たちの数少ない希望は消え去った。

十兵衛の一家の生活は、容赦なく追い詰められていった。妊婦である幸は日に日に痩せ衰え、体調を崩して床に伏せることが多くなる。

土間の囲炉裏では、宗助と春が小さな土鍋をかき混ぜていた。

土鍋の底には、ごくわずかな芋の切れ端と、山で採れた木の芽が入っているだけだった。

湯気と共に、土と草の匂いが立ち込める。かろうじて腹を満たすための粥が作られていく。

「お母ちゃん、大丈夫かなぁ……」

春が不安げに、土鍋をかき混ぜる宗助に話しかけた。

その声は、自分自身に言い聞かせているかのようだった。

「大丈夫だよ、母ちゃんは強いから。明日こそは栄養のあるもの探してくるからな」

宗助は静かに頷き、春の頭を優しく撫でた。

その言葉に、父として何もしてやれない十兵衛の胸は締め付けられた。

---



十一月下旬。

朝から降り続く冷たい雨が枯れ木を揺らし、家屋を叩く。

家の奥から聞こえる母の咳は、日を追うごとに弱々しくなっていた。

夕刻、雨に濡れた十兵衛が帰宅した。

濡れた体を火で温めながら、彼は土鍋の粥を四つの椀に等しく分けた。

「今日は、こんなものしか採れなかった」

十兵衛が申し訳なさそうに言うと、宗助が明るく言った。

「いいんだ、父ちゃん。明日は俺も山に行くから。一緒に頑張ろう!」

宗助のさりげない優しさに、十兵衛は何も言えず、ただ無言で粥を口に運んだ。

その味は、冷たく、土の味がした。

---



翌朝、雨は雪へと変わり、あたり一面を白く染めた。

雪は山肌の崖を脆くし、危険な状況が続いていた。

「宗助、今日はやめておこう。この雪では……」

十兵衛は宗助を心配し、山へ行くのをやめさせようとした。

しかし宗助は、十兵衛の目をまっすぐ見て、静かに言った。

「父ちゃん……俺は昨日、春と約束したんだ。それに母ちゃんとお腹の赤ちゃんにも、栄養のあるものを食べさせたいんだ。それに……最近父ちゃん、飯ほとんど食べてないだろ?だから、俺がみんなに栄養のあるものを食べさせたいんだ。父ちゃん、頼むよ……」

十兵衛は宗助の強い意志に、何も言えなかった。

彼は宗助の背中に、自分と同じ家族を守ろうとする覚悟を見たからだ。

十兵衛は黙って頷き、二人は再び山へと入っていった。

雪が降り積もる山は、音を吸い込み、すべてを静寂の中に閉じ込めていた。

二人は慎重に足を進めるが、山の斜面は滑りやすく、時折バランスを崩す。

「父ちゃん、もう少しだ。あの崖の向こうに、まだ食料が残ってるかもしれない」

宗助が一歩足を踏み込んだ、その瞬間だった。

地面が崩れ、宗助の姿が消えた。

「宗助ッ!」

十兵衛の叫び声が山に響く。

崖の底から、かすかに宗助の声が聞こえた。

足場の崩れた崖を滑り落ちた宗助は、足を複雑に折り曲げ、顔を土と血で汚していた。十兵衛は必死に手を伸ばすが、宗助には届かない。

「宗助ッ!もう少しだ!もう少し手を伸ばせ!」

十兵衛の言葉に、宗助は力なく首を横に振った。

「父ちゃん、無理だよ。俺はもう……動けない」

その言葉は、まるで悟ったかのように穏やかだった。

宗助は、十兵衛の顔をじっと見つめた。

「父ちゃん、俺がこうなったのは、運命だよ。でも、俺は後悔してない……父ちゃんの背中を見て、俺、頑張ってこれたから……」

歯を食いしばる宗助の瞳が涙で溢れていた。

「母ちゃんと妹を頼む。そして……お腹の新しい命を、どうか大切にしてあげておくれ」

宗助は笑顔を見せ、十兵衛にしか聞こえないほどの声でつぶやいた。

「父ちゃん……俺、ちゃんと兄貴やれてたかな……ありがとう……」

その瞬間、崖の足元が大きく崩れ、宗助の体が谷底へと消えていった。

「宗助ッ!宗助ぇッッッ!!」

十兵衛の叫び声は、降りしきる雪に吸い込まれ、かき消されていった。

---



十兵衛は、長男を失った絶望と、何もできなかった自分への怒りで、正気を失いかけた。

それでも、残された家族のためにも、ここで諦めるわけにはいかない。

「宗助……!必ず、必ず戻ってくる!」

十兵衛は死に物狂いで崖をよじ登った。体中が痛みに悲鳴を上げ、吐き気がこみ上げてくる。

長男の遺体を回収しなければならない……せめて、土をかけてやらないと。

十兵衛は家に戻り、急いで道具を準備し、再び山に向かった。

しかし雪は既に降り積もり、崖の上からは宗助の姿を確認することはできなかった。

十兵衛はただ、崖の上から土を被せ、祈ることしかできなかった。

帰宅後、十兵衛は家族に宗助の死を告げた。

春はただ静かに涙を流し、幸はショックでさらに衰弱していった。

十兵衛は、時代と自分の無力さを呪い、ただ一人、怒りに震えていた。

---



その後も、生きるのに精一杯の日々が続いた。

そして月日は流れ、翌年六月——1554年。

幸は最後の力を振り絞り、出産に入る。

家の奥から、幸の苦しそうな声が聞こえてくる。

十兵衛はただ、その声に耳を澄ませるしかできなかった。

自分の無力さに打ちひしがれ、土間に座り込み、両の掌を固く握りしめた。

やがて苦悶の声が止み、赤子の産声が響き渡った。

十兵衛はその産声を聞いて初めて、安堵の涙を流した。

村の助産師が十兵衛に告げた。

「おめでとう!元気な男の子だ!」

十兵衛は扉を勢いよく開け、幸の元へ駆け寄った。

幸は、産まれたばかりの我が子を抱き、安堵の表情を見せていた。

「幸!よくぞ……よくぞ産んでくれた!」

十兵衛は涙を堪えていたが、その目は赤くなり、今にも溢れ出そうになっていた。

幸はその顔を見て、微笑んだ。

窓の隙間から、朝日が差し込んでいた。その光が、かすかに赤子の顔を照らす。

「この子は私たちの希望……光と名付けましょう……この子をどうか、よろしく……」

幸は、光が差し込む方を見ながら、そう言った。

その言葉は、激しい息切れと共に途切れ途切れだった。

十兵衛は、生まれたばかりの子どもを抱き、幸のそばに座り込んだ。

幸は、最後の力を振り絞り、満面の笑顔で十兵衛の頬に触れた。

「今まで……ありがとう……十兵衛……先に逝く私を……お許しください……」

幸は、大量の汗を流しながら、そのまま静かに息を引き取った。

「幸!幸ッ!」

十兵衛の叫び声は、家中に響き渡った。

彼は、愛する妻を失い、ぶつけどころのない怒りに発狂した。

この世の理不尽さを、そして自分の無力さを呪った。

---



その後、十兵衛は残された子どもたちのために、必死に働いた。

山を駆け回り、わずかな木の実やキノコを探す日々。

だが生活は改善されず、飢えは彼らの命を蝕んでいく。

特に、生まれたばかりの光は、栄養を満足に与えることができず、日ごとに痩せ細っていった。

春は母の代わりに光を抱き、懸命に世話をした。

だが、まだ幼い彼女には授乳ができない。光の弱々しい鳴き声を聞くたびに、胸が締め付けられる思いだった。

夜になると、光を抱きながら一人、こっそりと涙を流した。

「母ちゃんがいたら……母ちゃんがいたら、この子を助けられたのに……」

春の心は徐々に疲弊し、闇に沈んでいった。

鏡を見るたびに、そこに映る自分は母とは似ても似つかない、やつれた顔をしていた。

十兵衛もまた、娘の様子に気づいていた。

彼は、春の心身が限界に達していることを悟った。

そして、このままでは、全員死んでしまうと……。

---



ある夜、十兵衛は春を起こし、囲炉裏の前に呼んだ。

「話がある」

十兵衛の顔は、憔悴しきっていた。

彼は、震える声で話し始めた。

「このままでは……皆、飢えで死んでしまう……だから……」

十兵衛は、生まれたばかりの光を、春からそっと受け取った。

「……この子は……川に流そう」

その言葉を聞いた瞬間、春は息をのんだ。

「この子は……もう、育たない。母乳も飲めず、日ごとに弱っていく。近くに母乳が出る人もいない……俺たちにこの子を育てることは、不可能なんだ……どうか、許してくれ……」

十兵衛の言葉に、春は涙を流した。

「……お父ちゃん……」

春の声は、か細く震えていた。

「……私たち……お母ちゃんとの約束、守れないのね……このまま頑張っても、ひと月と持たない……」

春の言葉に、十兵衛は顔を上げた。

「子どもたちを、どうかよろしく」——幸に託された言葉。

十兵衛は、その約束を守れなかった自分を呪った。

「……宗助も、この子を助けるために、命を懸けた……」

十兵衛は、亡き妻と息子に顔向けができないと感じ、呆然とした。

「川の伝説に命運を託そう……光は、まだ衰弱して苦しんでいる……せめて安らかに……」

十兵衛の言葉に、春は涙を流しながら頷いた。

「……わかった、父ちゃん……」

十兵衛の胸は締め付けられた。

---



1554年9月。

山にはたくさんの桃が熟れて落ちていた。

十兵衛は倒木を切って箱を作り、光を入れる。

春は桃を埋葬のお供えとして拾い集め、箱に敷き詰めた。

彼女は、地面に落ちた桃を一つ一つ拾い上げた。母はよく言っていた。「桃には魔除けの力がある」と。
この子に、どうか災いが起きませんように。
そして、もしどこかで誰かに拾われるなら、その人に愛されますように。
春は、祈るように桃を箱に並べた。

真夜中、二人は赤子を川に流した。

「どうか、神様。もし存在するならば、この子に安らぎを……もし可能なら、幸福をお願いいたします」

十兵衛は、川と桃に祈りを捧げ、木箱を流した。

木箱は、月の光を浴びながら、ゆっくりと靜かに川を下っていく。

十兵衛は、愛する我が子を流した罪の意識と、わずかな希望を胸に、ただ立ち尽くしていた。

春は自分の無力さを悔やみ、喉が潰れるまで泣き続けた。

---

月明かりに照らされた川面を、一つの木箱が流れていく。

その中には、まだ名もない赤子と、たくさんの桃が詰められていた。

この子が後に「桃太郎」と呼ばれ、数多の者と出会い、鬼と呼ばれる者たちの真実を知り、そして、歴史の影で生きることを選ぶとは、今は誰も知る由もなかった。

そして、この物語のもう一人の鍵を握る女・圓は、この時、遠く離れた地で、秀吉の庇護の下、幼い日々を送っていた。

圓は、この時十八歳。すでに一人前のくノ一として、静かに歴史の影で生きる準備を始めていた。

二つの人生は、まだ交わることなく、時は流れていく——。

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