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第三章:弥助(桃太郎伝説の猿)
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一
弥助が初めて山に入ったのは、五歳の時だった。
両親が畑仕事で忙しく、一人で遊んでいた彼は、気づけば村はずれの林の中に迷い込んでいた。帰り道が分からず、泣きじゃくる弥助の前に現れたのは、一匹の老猿だった。
老猿は、弥助の手を引くように、村への道を教えてくれた。
それ以来、弥助は山に魅せられた。猿たちと遊び、木々を駆け回り、やがて山は彼の第二の故郷となった。
「山は、俺に生きるすべを教えてくれた。母ちゃんや父ちゃんと同じくらい、大切な場所なんだ」
桃太郎が縁側の日だまりで穏やかな昼寝をしている間も、弥助は山中を飛び回っていた。
彼にとって山は遊び場であり、師であり、そして家族だった。
朝露に濡れた草を踏みしめ、湿った土の匂いを嗅ぐ。木漏れ日が差す林を抜け、弥助は山の中を縦横無尽に駆け抜けていた。
その足取りは軽く、岩肌をよじ登る姿は、まるで風に乗っているようだった。
彼の驚異的な体力は、幼い頃からの猿たちとの競争によって培われたものだ。
弥助が木の上に飛び移ると、猿たちが楽しそうに声をあげ、一斉に彼を追いかける。
「ほら、お前たち、今日はここまでだぞ!」
弥助が呼びかけると、小さな猿たちが鳴きながら、彼の後を追って木々の間を飛び交う。
彼らと競う中で、弥助は地面を蹴るタイミング、木の枝を掴む指先の力、そして獲物を追い詰める俊敏な動きを、自然と身につけていった。
それは誰にも教えられたことのない「我流」の戦闘スタイルだった。
---
弥助と桃太郎の関係は、互いにないものを補い合うことで、より強固なものになっていった。
桃太郎が剣術を学び始めると、弥助は木の枝を刀に見立てて応戦した。
「ずるいぞ、弥助!その動きはどこで覚えたんだ!」
桃太郎が悔しそうに叫ぶと、弥助は木の上に飛び移りながら、にやりと笑った。
「この動きは山からの贈り物さ。お前も山と仲良くしてみたらどうだ?」
---
二
お婆さんのきび団子と稽古の日々
桃太郎と弥助の稽古は、毎日欠かすことのできない日課だった。
稽古で疲れ果てた二人が庵に戻ると、決まってお婆さんが温かいきび団子を用意してくれていた。
お婆さんが丹精込めて作ったそれは、二人の大好物になっていた。
「ほら、二人とも。汗をかいた後は、このきび団子が一番だよ」
お婆さんの優しい声に、桃太郎と弥助は笑顔を見せた。
お婆さんは、二人が頬張る姿を見ながら、ふと思った。
(この味を、いつか誰かに伝えねばならんのう……)
その思いが、後に時雨へと受け継がれていく——まだ、誰も知らぬうちに。
「お婆ちゃん、ありがとう!」
桃太郎がきび団子を口いっぱいに頬張ると、その素朴な甘さと、噛めば噛むほど広がる穀物の香りに、一日の疲れが吹き飛んでいくようだった。
弥助も美味しそうに団子を頬張りながら、お婆さんに話しかける。
「なあ、婆ちゃん。俺は今日、桃太郎をコテンパンにやっつけたんだぜ!猿たちとの競争で身につけた技で、桃太郎の剣を全部かわしてやったんだ!」
弥助が無邪気に自慢すると、桃太郎は笑いながら弥助の肩を叩く。
「悔しいけど、今日は本当に負けたよ。弥助の動きはまるで風みたいで、全然捕まえられないんだ」
お婆さんは、そんな二人を慈愛に満ちた眼差しで見つめていた。
その隣で、お爺さんは自慢げな二人を見て、顔をほころばせる。
「そうか、そうか。お前たちは、日に日に強くなっていくなあ」
---
桃太郎は弥助に剣術や武士としての心構えを教え、弥助は桃太郎に山の木々や獣たちの動き、本能的な「野生の力」を教えていった。
稽古の終わりには、二人で庵の縁側に座り、きび団子を分け合いながら、その日の稽古について語り合った。
「今日のお前の動きは、まるで猿のようだ。動きが全く読めなかったよ」
「だろ?俺は、剣が風を切る音が聞こえるんだ。剣の位置や来る角度、お前が次にどこへ向かおうとしているか、手に取るようにわかる」
互いの強みを活かし、弱点を補い合い、二人は成長していった。
弥助にとって桃太郎の存在は、常に自分を前へと突き動かす原動力だった。
弥助は、桃太郎が桃から生まれたという孤独を、言葉ではなく、同じ母乳を飲んで育った者として、幼い頃から感じ取っていた。
弥助自身も「山の子」として、人間社会から少し浮いた存在であるという共通の孤独が、二人の絆をより深くした。
---
三
鬼の痕跡と弥助の決意
突如、村に衝撃が走った。
十兵衛の家が鬼の襲撃を受け、蓄えてあった食料が奪われ、一人娘の春が殺されたという噂が流れたのだ。
数日後、桃太郎と弥助は調査のため、十兵衛の家を訪れ、鬼が残した痕跡を追っていた。
森の奥で、桃太郎は地面に落ちていた縄を拾い上げる。
「弥助、これを見ろ。変な匂いだ。獣の匂いでも、人の匂いでもない」
桃太郎が怪しむように言うと、弥助は鼻をひくつかせた。
弥助の研ぎ澄まされた嗅覚は、桃太郎が感じ取れない鬼の血と泥が混じり合ったような、独特な異臭を捉えていた。
それは、弥助がこれまで嗅いだことのない、異質で不快な匂いだった。
「でも、これは草履の跡だろ?」
桃太郎は、弥助が指さした地面の窪みを指差した。
鬼の足跡は、動物のそれとは明らかに違っていた。
「ああ、そうだ。人間と同じ、二足歩行の生き物だ」
弥助は首を横に振った。彼の五感は、鬼の異臭と人間の匂いを明確に区別していたが、桃太郎はまだその区別がついていなかった。
「十兵衛の家の壊され方もそうだ。あの程度なら、俺たちでもできる。絶望的な力の差があるわけじゃない」
桃太郎は、十兵衛の家で見た惨状を思い出しながら言った。
「奴らはただ、物を盗んで、人を殺して、それを楽しんでいる。俺たちと同じように、喜怒哀楽も、五感も、食生活も、すべて持っている。ただの恐ろしい妖怪だ」
弥助は、桃太郎の言葉に黙って耳を傾けていた。
だが彼の野生の勘は、桃太郎の理詰めの推測とは違う結論に達していた。
弥助の嗅覚は、幼い頃から山で過ごしてきた経験によって研ぎ澄まされていた。風の匂いから雨が降ることを知り、土の匂いから動物がどこを歩いたかまで把握できるほどになっていた。
彼の五感は、理屈ではなく、本能的な情報を瞬時に判断する。
そんな彼が嗅いだ鬼の匂いは、これまで経験してきたどんな獣や人間の匂いとも違っていた。
熊の匂いは、野性的でありながらも、どこか温かさを感じさせる。
猪の匂いは、土と泥にまみれた、逞しさの匂いだ。
人間の匂いは、暮らしの匂い——飯を炊く煙、汗、そして、時に恐怖。
だが、鬼の匂いには、それらが一切なかった。
まるで、命の匂いそのものが欠けているかのようだった。
桃太郎が鬼の行動を人間の枠組みに当てはめて「喜怒哀楽」や「食生活」を推測する一方で、弥助は持ち前の野生の勘を持ってしても鬼の正体を探れない恐怖を感じていた。
「人間ではない……だが、この違和感は何だ?人間のようで……人間じゃない……鬼は妖怪ではなく、人と見分けがつかないような姿をした獣なのかもしれない」
弥助はそう口にしたが、心のどこかで違和感が消えなかった。
(もし、これがただの人間だったら——俺たちは、何をしているんだ?)
その考えを、彼はすぐに打ち消した。
桃太郎が正しい。そう信じなければ、前に進めなかった。
桃太郎は、鬼を「倒すべき敵」と捉え、勝てると確信していた。
弥助は、桃太郎の導き出した答えを信じ、たとえ地獄の道であっても、ついて行こうと誓った。
弥助は、桃太郎の隣に立ち、静かに言った。
「ああ、そうだ。お前が正しい。鬼との力の差は、多分そこまで大きく離れていない。俺たちは勝てる」
弥助の言葉に、桃太郎は力強く頷いた。
「行こうぜ、相棒!匂いは覚えた!俺が先導する」
二人の瞳には、鬼を退治し、故郷と大切な人々を守るという、強い決意が宿っていた。
十三歳という若さで、桃太郎の人生を共にすることを決めた弥助。
彼の持つ無限の体力と、山で培われた我流の戦闘術、そして野生の勘は、すべて桃太郎を守るためにあった。
---
四
旅立ちの前に
鬼退治の旅に出る前日、二人は最後の稽古に臨んでいた。
「弥助!行くぞ!」
桃太郎の号令と共に、二人は真剣な表情で向かい合った。
互いの呼吸の音、土埃の舞い上がる音だけが、静かな山に響き渡る。桃太郎が剣を構えると、弥助は木の枝を手に、予測不能な動きで桃太郎の懐に飛び込んだ。
桃太郎は弥助の動きを読もうとするが、弥助の素早い身のこなしと、変幻自在な体術に翻弄される。
二人はあらゆる状況を想定した実戦訓練を行った。
険しい崖の上で、足場を崩しながらの攻防。視界の悪い茂みの中での、互いの気配を探り合う戦い。二人は、鬼がどのような場所で戦いを挑んでくるかを頭の中で想定し、互いに技をぶつけ合った。
稽古が終わると、二人は肩で息をしながら、互いの顔を見つめた。
言葉を交わす必要はなかった。互いの瞳に映る真剣な光が、「必ず生きて帰る」という強い決意を物語っていた。
そして、二人は互いに頭の中で技を繰り広げる、イメージトレーニングを始めた。
これは、弥助が猿と行っていた遊びから生まれたものだ。
「弥助!右から来る鬼はこうだ!」
桃太郎が空を切るように剣を振ると、弥助はそれを頭の中で受け止め、カウンターを放つ。
二人は、それぞれの得意な戦闘スタイルを頭の中で描き、互いの考えを読み取り、言葉を交わさずとも連携できる、完璧なチームとなった。
弥助は、桃太郎の背中を見つめながら思った。
(こいつと一緒なら、どこまでも行ける。地の果てまでも——)
---
桃太郎がきび団子を腰に下げ、弥助と共に山を下り始めた時、二人はしばし立ち止まった。
振り返れば、故郷の村が、陽炎のように揺らいでいる。
「弥助よ!俺が桃の子なら、お前は山の子だな」
桃太郎が満面の笑みでそう言うと、弥助は少し照れたように、だけど嬉しそうに笑った。
「おお!そして俺たちは、同じ母乳を飲んで育った兄弟だ」
桃太郎は弥助の肩を力強く叩いた。
「ああ、そうだ。俺は、お前と一緒にこの村を守る。そしていつか、お前が育てた猿たちに、この村の平和を見せてやるんだ」
弥助は、桃太郎の言葉に深く頷いた。
桃太郎の旅は、弥助の旅でもあった。
桃太郎の夢は、弥助の夢でもあった。
二人の決意は、故郷の村を背に、力強い一歩を踏み出した。
---
彼らはまだ知らない。
この先に待ち受ける、運命的な出会いのことを。
一人の男が、彼らの前に現れる。
その名は、衛門。
後に桃太郎の師となり、乱世を共に駆け抜ける——。
---
『次回予告』
その名は、衛門。
村に流れ着いた一人の男。
かつて都で名を馳せた武将は、すべてを失い、ただ一人——。
彼の胸には、二十年以上探し続ける娘の面影。
唯一の手がかりは、ぼろぼろの産着だけ。
そして——この出会いが、桃太郎たちの運命を大きく動かし始める。
---
【第三章・完結】
弥助が初めて山に入ったのは、五歳の時だった。
両親が畑仕事で忙しく、一人で遊んでいた彼は、気づけば村はずれの林の中に迷い込んでいた。帰り道が分からず、泣きじゃくる弥助の前に現れたのは、一匹の老猿だった。
老猿は、弥助の手を引くように、村への道を教えてくれた。
それ以来、弥助は山に魅せられた。猿たちと遊び、木々を駆け回り、やがて山は彼の第二の故郷となった。
「山は、俺に生きるすべを教えてくれた。母ちゃんや父ちゃんと同じくらい、大切な場所なんだ」
桃太郎が縁側の日だまりで穏やかな昼寝をしている間も、弥助は山中を飛び回っていた。
彼にとって山は遊び場であり、師であり、そして家族だった。
朝露に濡れた草を踏みしめ、湿った土の匂いを嗅ぐ。木漏れ日が差す林を抜け、弥助は山の中を縦横無尽に駆け抜けていた。
その足取りは軽く、岩肌をよじ登る姿は、まるで風に乗っているようだった。
彼の驚異的な体力は、幼い頃からの猿たちとの競争によって培われたものだ。
弥助が木の上に飛び移ると、猿たちが楽しそうに声をあげ、一斉に彼を追いかける。
「ほら、お前たち、今日はここまでだぞ!」
弥助が呼びかけると、小さな猿たちが鳴きながら、彼の後を追って木々の間を飛び交う。
彼らと競う中で、弥助は地面を蹴るタイミング、木の枝を掴む指先の力、そして獲物を追い詰める俊敏な動きを、自然と身につけていった。
それは誰にも教えられたことのない「我流」の戦闘スタイルだった。
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弥助と桃太郎の関係は、互いにないものを補い合うことで、より強固なものになっていった。
桃太郎が剣術を学び始めると、弥助は木の枝を刀に見立てて応戦した。
「ずるいぞ、弥助!その動きはどこで覚えたんだ!」
桃太郎が悔しそうに叫ぶと、弥助は木の上に飛び移りながら、にやりと笑った。
「この動きは山からの贈り物さ。お前も山と仲良くしてみたらどうだ?」
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二
お婆さんのきび団子と稽古の日々
桃太郎と弥助の稽古は、毎日欠かすことのできない日課だった。
稽古で疲れ果てた二人が庵に戻ると、決まってお婆さんが温かいきび団子を用意してくれていた。
お婆さんが丹精込めて作ったそれは、二人の大好物になっていた。
「ほら、二人とも。汗をかいた後は、このきび団子が一番だよ」
お婆さんの優しい声に、桃太郎と弥助は笑顔を見せた。
お婆さんは、二人が頬張る姿を見ながら、ふと思った。
(この味を、いつか誰かに伝えねばならんのう……)
その思いが、後に時雨へと受け継がれていく——まだ、誰も知らぬうちに。
「お婆ちゃん、ありがとう!」
桃太郎がきび団子を口いっぱいに頬張ると、その素朴な甘さと、噛めば噛むほど広がる穀物の香りに、一日の疲れが吹き飛んでいくようだった。
弥助も美味しそうに団子を頬張りながら、お婆さんに話しかける。
「なあ、婆ちゃん。俺は今日、桃太郎をコテンパンにやっつけたんだぜ!猿たちとの競争で身につけた技で、桃太郎の剣を全部かわしてやったんだ!」
弥助が無邪気に自慢すると、桃太郎は笑いながら弥助の肩を叩く。
「悔しいけど、今日は本当に負けたよ。弥助の動きはまるで風みたいで、全然捕まえられないんだ」
お婆さんは、そんな二人を慈愛に満ちた眼差しで見つめていた。
その隣で、お爺さんは自慢げな二人を見て、顔をほころばせる。
「そうか、そうか。お前たちは、日に日に強くなっていくなあ」
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桃太郎は弥助に剣術や武士としての心構えを教え、弥助は桃太郎に山の木々や獣たちの動き、本能的な「野生の力」を教えていった。
稽古の終わりには、二人で庵の縁側に座り、きび団子を分け合いながら、その日の稽古について語り合った。
「今日のお前の動きは、まるで猿のようだ。動きが全く読めなかったよ」
「だろ?俺は、剣が風を切る音が聞こえるんだ。剣の位置や来る角度、お前が次にどこへ向かおうとしているか、手に取るようにわかる」
互いの強みを活かし、弱点を補い合い、二人は成長していった。
弥助にとって桃太郎の存在は、常に自分を前へと突き動かす原動力だった。
弥助は、桃太郎が桃から生まれたという孤独を、言葉ではなく、同じ母乳を飲んで育った者として、幼い頃から感じ取っていた。
弥助自身も「山の子」として、人間社会から少し浮いた存在であるという共通の孤独が、二人の絆をより深くした。
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三
鬼の痕跡と弥助の決意
突如、村に衝撃が走った。
十兵衛の家が鬼の襲撃を受け、蓄えてあった食料が奪われ、一人娘の春が殺されたという噂が流れたのだ。
数日後、桃太郎と弥助は調査のため、十兵衛の家を訪れ、鬼が残した痕跡を追っていた。
森の奥で、桃太郎は地面に落ちていた縄を拾い上げる。
「弥助、これを見ろ。変な匂いだ。獣の匂いでも、人の匂いでもない」
桃太郎が怪しむように言うと、弥助は鼻をひくつかせた。
弥助の研ぎ澄まされた嗅覚は、桃太郎が感じ取れない鬼の血と泥が混じり合ったような、独特な異臭を捉えていた。
それは、弥助がこれまで嗅いだことのない、異質で不快な匂いだった。
「でも、これは草履の跡だろ?」
桃太郎は、弥助が指さした地面の窪みを指差した。
鬼の足跡は、動物のそれとは明らかに違っていた。
「ああ、そうだ。人間と同じ、二足歩行の生き物だ」
弥助は首を横に振った。彼の五感は、鬼の異臭と人間の匂いを明確に区別していたが、桃太郎はまだその区別がついていなかった。
「十兵衛の家の壊され方もそうだ。あの程度なら、俺たちでもできる。絶望的な力の差があるわけじゃない」
桃太郎は、十兵衛の家で見た惨状を思い出しながら言った。
「奴らはただ、物を盗んで、人を殺して、それを楽しんでいる。俺たちと同じように、喜怒哀楽も、五感も、食生活も、すべて持っている。ただの恐ろしい妖怪だ」
弥助は、桃太郎の言葉に黙って耳を傾けていた。
だが彼の野生の勘は、桃太郎の理詰めの推測とは違う結論に達していた。
弥助の嗅覚は、幼い頃から山で過ごしてきた経験によって研ぎ澄まされていた。風の匂いから雨が降ることを知り、土の匂いから動物がどこを歩いたかまで把握できるほどになっていた。
彼の五感は、理屈ではなく、本能的な情報を瞬時に判断する。
そんな彼が嗅いだ鬼の匂いは、これまで経験してきたどんな獣や人間の匂いとも違っていた。
熊の匂いは、野性的でありながらも、どこか温かさを感じさせる。
猪の匂いは、土と泥にまみれた、逞しさの匂いだ。
人間の匂いは、暮らしの匂い——飯を炊く煙、汗、そして、時に恐怖。
だが、鬼の匂いには、それらが一切なかった。
まるで、命の匂いそのものが欠けているかのようだった。
桃太郎が鬼の行動を人間の枠組みに当てはめて「喜怒哀楽」や「食生活」を推測する一方で、弥助は持ち前の野生の勘を持ってしても鬼の正体を探れない恐怖を感じていた。
「人間ではない……だが、この違和感は何だ?人間のようで……人間じゃない……鬼は妖怪ではなく、人と見分けがつかないような姿をした獣なのかもしれない」
弥助はそう口にしたが、心のどこかで違和感が消えなかった。
(もし、これがただの人間だったら——俺たちは、何をしているんだ?)
その考えを、彼はすぐに打ち消した。
桃太郎が正しい。そう信じなければ、前に進めなかった。
桃太郎は、鬼を「倒すべき敵」と捉え、勝てると確信していた。
弥助は、桃太郎の導き出した答えを信じ、たとえ地獄の道であっても、ついて行こうと誓った。
弥助は、桃太郎の隣に立ち、静かに言った。
「ああ、そうだ。お前が正しい。鬼との力の差は、多分そこまで大きく離れていない。俺たちは勝てる」
弥助の言葉に、桃太郎は力強く頷いた。
「行こうぜ、相棒!匂いは覚えた!俺が先導する」
二人の瞳には、鬼を退治し、故郷と大切な人々を守るという、強い決意が宿っていた。
十三歳という若さで、桃太郎の人生を共にすることを決めた弥助。
彼の持つ無限の体力と、山で培われた我流の戦闘術、そして野生の勘は、すべて桃太郎を守るためにあった。
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四
旅立ちの前に
鬼退治の旅に出る前日、二人は最後の稽古に臨んでいた。
「弥助!行くぞ!」
桃太郎の号令と共に、二人は真剣な表情で向かい合った。
互いの呼吸の音、土埃の舞い上がる音だけが、静かな山に響き渡る。桃太郎が剣を構えると、弥助は木の枝を手に、予測不能な動きで桃太郎の懐に飛び込んだ。
桃太郎は弥助の動きを読もうとするが、弥助の素早い身のこなしと、変幻自在な体術に翻弄される。
二人はあらゆる状況を想定した実戦訓練を行った。
険しい崖の上で、足場を崩しながらの攻防。視界の悪い茂みの中での、互いの気配を探り合う戦い。二人は、鬼がどのような場所で戦いを挑んでくるかを頭の中で想定し、互いに技をぶつけ合った。
稽古が終わると、二人は肩で息をしながら、互いの顔を見つめた。
言葉を交わす必要はなかった。互いの瞳に映る真剣な光が、「必ず生きて帰る」という強い決意を物語っていた。
そして、二人は互いに頭の中で技を繰り広げる、イメージトレーニングを始めた。
これは、弥助が猿と行っていた遊びから生まれたものだ。
「弥助!右から来る鬼はこうだ!」
桃太郎が空を切るように剣を振ると、弥助はそれを頭の中で受け止め、カウンターを放つ。
二人は、それぞれの得意な戦闘スタイルを頭の中で描き、互いの考えを読み取り、言葉を交わさずとも連携できる、完璧なチームとなった。
弥助は、桃太郎の背中を見つめながら思った。
(こいつと一緒なら、どこまでも行ける。地の果てまでも——)
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桃太郎がきび団子を腰に下げ、弥助と共に山を下り始めた時、二人はしばし立ち止まった。
振り返れば、故郷の村が、陽炎のように揺らいでいる。
「弥助よ!俺が桃の子なら、お前は山の子だな」
桃太郎が満面の笑みでそう言うと、弥助は少し照れたように、だけど嬉しそうに笑った。
「おお!そして俺たちは、同じ母乳を飲んで育った兄弟だ」
桃太郎は弥助の肩を力強く叩いた。
「ああ、そうだ。俺は、お前と一緒にこの村を守る。そしていつか、お前が育てた猿たちに、この村の平和を見せてやるんだ」
弥助は、桃太郎の言葉に深く頷いた。
桃太郎の旅は、弥助の旅でもあった。
桃太郎の夢は、弥助の夢でもあった。
二人の決意は、故郷の村を背に、力強い一歩を踏み出した。
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彼らはまだ知らない。
この先に待ち受ける、運命的な出会いのことを。
一人の男が、彼らの前に現れる。
その名は、衛門。
後に桃太郎の師となり、乱世を共に駆け抜ける——。
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その名は、衛門。
村に流れ着いた一人の男。
かつて都で名を馳せた武将は、すべてを失い、ただ一人——。
彼の胸には、二十年以上探し続ける娘の面影。
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そして——この出会いが、桃太郎たちの運命を大きく動かし始める。
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【第三章・完結】
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