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079. 辺境伯夫妻(仮)の日常
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婚約が発表されてから、リリアーナとアレクシスの関係は、周囲の誰もが微笑ましく見守るほど、穏やかで温かいものへと変わっていた。二人はまだ正式な夫婦ではない。しかし、その佇まいや互いを見る眼差しには、すでに深い愛情と信頼が満ち溢れており、誰もが彼らを「辺境伯夫妻」として自然に受け入れていた。
リリアーナの日常は、婚約前と大きく変わったわけではなかった。彼女は依然として早朝から畑に出て土に触れ、厨房で騎士たちのために心を込めてスープを作り、加工場で村の女性たちと特産品開発に励む。しかし、その隣には、以前よりも頻繁に、アレクシスの姿があった。
「リリアーナ、その畝の土は少し水はけが悪そうだ。あちらの砂を混ぜてみてはどうだろうか」
畑で作業するリリアーナの隣で、アレクシスは軍服の袖をまくり、自らも鍬を手に取りながら、的確な助言を与える。彼は元々、辺境の地理や土壌について詳しかったが、リリアーナと関わるようになってから、農業に関する知識も驚くほど吸収していた。
「まあ、アレクシス様! ありがとうございます。早速試してみますわ」
リリアーナは、泥で汚れた顔を綻ばせ、嬉しそうに頷く。彼がこうして、自分の仕事に関心を持ち、対等なパートナーとして意見を交わしてくれることが、彼女にとっては大きな喜びだった。
「しかし、あまり根を詰めすぎるな。君の体は、辺境の宝でもあるのだから」
アレクシスは、ぶっきらぼうな口調ながらも、彼女の額の汗をそっと指で拭う。その不器用な優しさに、リリアーナの頬はほんのりと赤く染まった。
砦の厨房にも、アレクシスは時折、ふらりと顔を出すようになった。もちろん、目的はリリアーナの様子を見ることなのだが、彼はそれをおくびにも出さず、「騎士団の食事内容の確認だ」などと堅苦しい理由をつける。
「今日のスープは、特に香りが良いな。何の根菜を使ったのだ?」
彼は、味見と称してリリアーナがよそったスープを一口啜り、尋ねる。
「フェンが見つけてくれた、山の奥の香りの強い芋です。少し癖がありますが、じっくり煮込むと良いお出汁が出るんです」
「なるほど……。君の知識は、いつも私を驚かせる」
アレクシスは、感心したように頷く。その隣では、他の料理人たちが、辺境伯夫妻(仮)の微笑ましいやり取りを、温かい目で見守っていた。
アレクシスへのお届け物も、今ではすっかり二人の間の、甘く穏やかな習慣となっていた。リリアーナは、彼の体調や好みを考えながら、心を込めてハーブティーや料理を用意する。アレクシスも、それを楽しみに待っていることを隠さなくなり、時には「今日のハーブティーは、特に安眠できた」「あのビスケットは、携帯食としても優秀だな」などと、素直な感想を口にするようになった。
特に、リリアーナが時折作る「特別なお弁当」は、アレクシスにとって何よりの楽しみとなっていた。執務室で一人、彼女が心を込めて作った、彩り豊かで栄養満点の料理を味わう時間は、彼の激務の合間の、かけがえのない癒しのひとときだった。彼は、弁当箱の隅に添えられた、彼女からの短いメッセージ(「お体に気をつけて」「今日の野菜は畑で採れたものです」など)を読むたびに、口元が自然と綻ぶのを、もはや止めようとはしなかった。
夜、二人きりで過ごす時間も、以前よりはるかに自然なものとなっていた。アレクシスがリリアーナの小屋を訪れることもあれば、リリアーナが彼の私室に招かれることもある。どちらの場合も、二人は焚き火のそばや、暖炉の前で、その日の出来事を語り合ったり、時には黙って互いの存在を感じ合ったりしながら、穏やかな時間を過ごした。
アレクシスは、リリアーナの前では、少しずつだが、自分の素顔を見せるようになっていた。過去の傷について語ることもあれば、辺境の未来について熱く語ることもある。時には、子供のように無邪気な一面(例えば、シーが彼の膝の上で眠ってしまった時に、動けなくなって困った顔をするなど)を見せることもあり、リリアーナはそんな彼の様々な表情を知るたびに、彼への愛しさを募らせていった。
リリアーナもまた、アレクシスの前では、自然体でいられるようになっていた。彼になら、自分の不安や悩みも、素直に打ち明けることができた。王都の噂に対する不安を漏らした時には、アレクシスは彼女の手を強く握り、「私が必ず君を守る。何も心配はいらない」と、力強く言ってくれた。その言葉だけで、彼女の心はどれほど救われたことだろうか。
もちろん、フェンとシーも、二人の関係の変化を敏感に感じ取っていた。フェンは、アレクシスがリリアーナのそばにいる時には、以前のような警戒心を見せることはなくなり、むしろ信頼する主(あるじ)が二人になったかのように、穏やかな表情で寄り添っていた。シーは相変わらず気まぐれだったが、アレクシスの膝の上や肩の上が、新たな(そして温かい)お気に入りの場所となったようだった。アレクシスも、最初は戸惑いながらも、まんざらでもない様子で、シーの好きにさせていた。
辺境伯夫妻(仮)の日常。それは、派手な出来事があるわけではない、穏やかで、ささやかな日々の積み重ねだった。しかし、その一つ一つの瞬間が、互いへの愛情と信頼を深め、二人の絆をより強く、確かなものへと変えていた。畑の緑が風にそよぎ、厨房からスープの良い香りが漂い、加工場で人々の笑い声が響く。そして、夜空の下では、二つの影が静かに寄り添う。辺境の地に訪れた、甘くて温かい季節。それは、来るべき嵐の前の、かけがえのない、幸福な時間だったのかもしれない。
リリアーナの日常は、婚約前と大きく変わったわけではなかった。彼女は依然として早朝から畑に出て土に触れ、厨房で騎士たちのために心を込めてスープを作り、加工場で村の女性たちと特産品開発に励む。しかし、その隣には、以前よりも頻繁に、アレクシスの姿があった。
「リリアーナ、その畝の土は少し水はけが悪そうだ。あちらの砂を混ぜてみてはどうだろうか」
畑で作業するリリアーナの隣で、アレクシスは軍服の袖をまくり、自らも鍬を手に取りながら、的確な助言を与える。彼は元々、辺境の地理や土壌について詳しかったが、リリアーナと関わるようになってから、農業に関する知識も驚くほど吸収していた。
「まあ、アレクシス様! ありがとうございます。早速試してみますわ」
リリアーナは、泥で汚れた顔を綻ばせ、嬉しそうに頷く。彼がこうして、自分の仕事に関心を持ち、対等なパートナーとして意見を交わしてくれることが、彼女にとっては大きな喜びだった。
「しかし、あまり根を詰めすぎるな。君の体は、辺境の宝でもあるのだから」
アレクシスは、ぶっきらぼうな口調ながらも、彼女の額の汗をそっと指で拭う。その不器用な優しさに、リリアーナの頬はほんのりと赤く染まった。
砦の厨房にも、アレクシスは時折、ふらりと顔を出すようになった。もちろん、目的はリリアーナの様子を見ることなのだが、彼はそれをおくびにも出さず、「騎士団の食事内容の確認だ」などと堅苦しい理由をつける。
「今日のスープは、特に香りが良いな。何の根菜を使ったのだ?」
彼は、味見と称してリリアーナがよそったスープを一口啜り、尋ねる。
「フェンが見つけてくれた、山の奥の香りの強い芋です。少し癖がありますが、じっくり煮込むと良いお出汁が出るんです」
「なるほど……。君の知識は、いつも私を驚かせる」
アレクシスは、感心したように頷く。その隣では、他の料理人たちが、辺境伯夫妻(仮)の微笑ましいやり取りを、温かい目で見守っていた。
アレクシスへのお届け物も、今ではすっかり二人の間の、甘く穏やかな習慣となっていた。リリアーナは、彼の体調や好みを考えながら、心を込めてハーブティーや料理を用意する。アレクシスも、それを楽しみに待っていることを隠さなくなり、時には「今日のハーブティーは、特に安眠できた」「あのビスケットは、携帯食としても優秀だな」などと、素直な感想を口にするようになった。
特に、リリアーナが時折作る「特別なお弁当」は、アレクシスにとって何よりの楽しみとなっていた。執務室で一人、彼女が心を込めて作った、彩り豊かで栄養満点の料理を味わう時間は、彼の激務の合間の、かけがえのない癒しのひとときだった。彼は、弁当箱の隅に添えられた、彼女からの短いメッセージ(「お体に気をつけて」「今日の野菜は畑で採れたものです」など)を読むたびに、口元が自然と綻ぶのを、もはや止めようとはしなかった。
夜、二人きりで過ごす時間も、以前よりはるかに自然なものとなっていた。アレクシスがリリアーナの小屋を訪れることもあれば、リリアーナが彼の私室に招かれることもある。どちらの場合も、二人は焚き火のそばや、暖炉の前で、その日の出来事を語り合ったり、時には黙って互いの存在を感じ合ったりしながら、穏やかな時間を過ごした。
アレクシスは、リリアーナの前では、少しずつだが、自分の素顔を見せるようになっていた。過去の傷について語ることもあれば、辺境の未来について熱く語ることもある。時には、子供のように無邪気な一面(例えば、シーが彼の膝の上で眠ってしまった時に、動けなくなって困った顔をするなど)を見せることもあり、リリアーナはそんな彼の様々な表情を知るたびに、彼への愛しさを募らせていった。
リリアーナもまた、アレクシスの前では、自然体でいられるようになっていた。彼になら、自分の不安や悩みも、素直に打ち明けることができた。王都の噂に対する不安を漏らした時には、アレクシスは彼女の手を強く握り、「私が必ず君を守る。何も心配はいらない」と、力強く言ってくれた。その言葉だけで、彼女の心はどれほど救われたことだろうか。
もちろん、フェンとシーも、二人の関係の変化を敏感に感じ取っていた。フェンは、アレクシスがリリアーナのそばにいる時には、以前のような警戒心を見せることはなくなり、むしろ信頼する主(あるじ)が二人になったかのように、穏やかな表情で寄り添っていた。シーは相変わらず気まぐれだったが、アレクシスの膝の上や肩の上が、新たな(そして温かい)お気に入りの場所となったようだった。アレクシスも、最初は戸惑いながらも、まんざらでもない様子で、シーの好きにさせていた。
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