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第二話 終焉の黒竜
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覚悟していた衝撃は、いつまで経っても訪れなかった。
肉が裂ける痛みも、骨が砕ける絶望も、ない。代わりに、ふわりと体が浮き上がる奇妙な感覚があった。
恐る恐る目を開けると、信じられない光景が広がっていた。
私は、巨大な黒竜の前脚に優しく抱えられていた。硬質な鱗がドレス越しに伝わってくる。けれど、それは冷たい無機質なものではなく、確かな体温を持っていた。まるで壊れ物を扱うかのように、その力は慎重に加減されている。
私を殺すためではない。まるで、宝物を攫うかのように。
どうして。
疑問が浮かぶよりも早く、竜は翼を大きく広げた。
轟音。
翼の一振りが巻き起こした突風が、バルコニーの手すりを粉々に砕き、城壁の一部を吹き飛ばす。へたり込んでいたアルフォンス王子が、悲鳴を上げて騎士の後ろに隠れた。
「聖女様!」
「アリアを離せ、この化け物め!」
騎士たちがようやく我に返ったように叫び、魔法や矢を放つ。しかし、そんなものは巨大な竜の鱗に弾かれ、虚しく火花を散らすだけだった。黒竜は人間の抵抗など意にも介さず、悠々と空へと舞い上がる。
ぐんぐんと高度が上がっていく。
眼下に見える王都が、みるみるうちに小さくなっていく。美しい街並みも、逃げ惑う人々の姿も、まるで精巧な模型のようだ。あれほど私を縛り付けていた世界が、あっという間に遠ざかっていく。
風が髪を激しく揺らす。祝祭のために結い上げた髪はとうに解け、自由奔放に空を舞っていた。
「私の……私の聖女に何をする気だ!」
地上から、拡声の魔道具を使ったアルフォンス王子の金切り声が聞こえた。私の聖女。その言葉に、乾いた笑いが込み上げる。彼は最後まで、私を自分の所有物としてしか見ていない。
黒竜はそんな王子の叫びを嘲笑うかのように、一度だけ低く、長く咆哮した。
それは空気を震わせ、天と地を揺るがす絶対者の声だった。地上の騎士たちは耳を塞いで膝をつき、王都の建物という建物が微かに振動する。あれほどの軍勢が、たった一声で沈黙した。
圧倒的な力の差。人間など、この伝説の生き物にとっては取るに足らない存在なのだ。
私は竜の腕の中で、ただ呆然と空を眺めていた。
もう地上の声は届かない。聞こえるのは、風を切る音と、力強い翼の羽ばたきだけ。分厚い雲を突き抜けると、そこにはどこまでも広がる蒼穹と、眩いばかりの太陽があった。
なんて、綺麗なんだろう。
生まれてから十八年。私は聖女として、常に人々の視線の中にいた。窮屈な城の中で、決められた務めをこなすだけの毎日。こんなふうに、誰にも邪魔されずに空を見上げたことなど一度もなかった。
死ぬのだと思っていた。
けれど今、私の心を満たしているのは恐怖ではなかった。
むしろ、解放感に近い。
聖女アリアとしての役割も、アルフォンス王子の婚約者という立場も、全てが地上に置いていかれた。今の私は、ただの私だ。名もなき一人の少女として、空を飛んでいる。
皮肉な話だ。私に自由を与えてくれたのが、私を殺すはずの竜だったなんて。
やがて、竜は速度を緩めた。
目の前に、信じられない光景が広がる。
雲海。
どこまでも続く白い雲の絨毯。その中に、ぽつりぽつりと、天を突くように鋭い岩山が突き出ている。まるで世界から隔絶された、神々の領域のようだった。
黒竜はその岩山の一つを目指して、緩やかに降下していく。
着いた先は、広大な岩の平地だった。ごつごつとした黒い岩肌が剥き出しになっている。きっと、ここが竜の巣なのだろう。
私は静かに地面に降ろされた。最後まで、その扱いは驚くほど優しい。
さあ、ここで喰われるのだろうか。
私は諦めに似た気持ちで、目の前に立つ黒竜を見上げた。改めて見ると、その巨体は山と見紛うほどだ。黄金の瞳が、じっと私を見つめている。その視線に、不思議と敵意は感じられなかった。
やがて、黒竜の体が眩い光に包まれた。
あまりの輝きに、思わず腕で顔を覆う。光が収まった時、そこに立っていたのは、巨大な竜ではなかった。
一人の、青年だった。
夜空を溶かしたような漆黒の髪。磨き上げられた黒曜石のような瞳。整いすぎた顔立ちは、まるで神が気まぐれに創り上げた最高傑作のようだった。身に纏っているのは、竜の鱗を思わせる光沢を放つ黒い衣。その姿は、人間離れした美しさと、近寄りがたいほどの威厳を放っていた。
黄金の瞳。あれは竜の時と同じだ。
彼が、終焉の黒竜。
青年はゆっくりと私に歩み寄ると、その場で跪いた。まるで騎士が主に忠誠を誓うかのように。
そして、私の手を取り、その甲にそっと唇を寄せた。
「驚かせてすまない。我が名はカイザー。お前を害する者ではない」
彼の声は、見た目に反して穏やかで、深く、心地よく響いた。
「私は、お前を保護しに来た」
保護?
理解が追いつかない。私はただ、呆然と彼を見つめることしかできなかった。
生贄として攫われた聖女。そのはずだった私の運命は、全く予想もしない方向へと舵を切り始めていた。
肉が裂ける痛みも、骨が砕ける絶望も、ない。代わりに、ふわりと体が浮き上がる奇妙な感覚があった。
恐る恐る目を開けると、信じられない光景が広がっていた。
私は、巨大な黒竜の前脚に優しく抱えられていた。硬質な鱗がドレス越しに伝わってくる。けれど、それは冷たい無機質なものではなく、確かな体温を持っていた。まるで壊れ物を扱うかのように、その力は慎重に加減されている。
私を殺すためではない。まるで、宝物を攫うかのように。
どうして。
疑問が浮かぶよりも早く、竜は翼を大きく広げた。
轟音。
翼の一振りが巻き起こした突風が、バルコニーの手すりを粉々に砕き、城壁の一部を吹き飛ばす。へたり込んでいたアルフォンス王子が、悲鳴を上げて騎士の後ろに隠れた。
「聖女様!」
「アリアを離せ、この化け物め!」
騎士たちがようやく我に返ったように叫び、魔法や矢を放つ。しかし、そんなものは巨大な竜の鱗に弾かれ、虚しく火花を散らすだけだった。黒竜は人間の抵抗など意にも介さず、悠々と空へと舞い上がる。
ぐんぐんと高度が上がっていく。
眼下に見える王都が、みるみるうちに小さくなっていく。美しい街並みも、逃げ惑う人々の姿も、まるで精巧な模型のようだ。あれほど私を縛り付けていた世界が、あっという間に遠ざかっていく。
風が髪を激しく揺らす。祝祭のために結い上げた髪はとうに解け、自由奔放に空を舞っていた。
「私の……私の聖女に何をする気だ!」
地上から、拡声の魔道具を使ったアルフォンス王子の金切り声が聞こえた。私の聖女。その言葉に、乾いた笑いが込み上げる。彼は最後まで、私を自分の所有物としてしか見ていない。
黒竜はそんな王子の叫びを嘲笑うかのように、一度だけ低く、長く咆哮した。
それは空気を震わせ、天と地を揺るがす絶対者の声だった。地上の騎士たちは耳を塞いで膝をつき、王都の建物という建物が微かに振動する。あれほどの軍勢が、たった一声で沈黙した。
圧倒的な力の差。人間など、この伝説の生き物にとっては取るに足らない存在なのだ。
私は竜の腕の中で、ただ呆然と空を眺めていた。
もう地上の声は届かない。聞こえるのは、風を切る音と、力強い翼の羽ばたきだけ。分厚い雲を突き抜けると、そこにはどこまでも広がる蒼穹と、眩いばかりの太陽があった。
なんて、綺麗なんだろう。
生まれてから十八年。私は聖女として、常に人々の視線の中にいた。窮屈な城の中で、決められた務めをこなすだけの毎日。こんなふうに、誰にも邪魔されずに空を見上げたことなど一度もなかった。
死ぬのだと思っていた。
けれど今、私の心を満たしているのは恐怖ではなかった。
むしろ、解放感に近い。
聖女アリアとしての役割も、アルフォンス王子の婚約者という立場も、全てが地上に置いていかれた。今の私は、ただの私だ。名もなき一人の少女として、空を飛んでいる。
皮肉な話だ。私に自由を与えてくれたのが、私を殺すはずの竜だったなんて。
やがて、竜は速度を緩めた。
目の前に、信じられない光景が広がる。
雲海。
どこまでも続く白い雲の絨毯。その中に、ぽつりぽつりと、天を突くように鋭い岩山が突き出ている。まるで世界から隔絶された、神々の領域のようだった。
黒竜はその岩山の一つを目指して、緩やかに降下していく。
着いた先は、広大な岩の平地だった。ごつごつとした黒い岩肌が剥き出しになっている。きっと、ここが竜の巣なのだろう。
私は静かに地面に降ろされた。最後まで、その扱いは驚くほど優しい。
さあ、ここで喰われるのだろうか。
私は諦めに似た気持ちで、目の前に立つ黒竜を見上げた。改めて見ると、その巨体は山と見紛うほどだ。黄金の瞳が、じっと私を見つめている。その視線に、不思議と敵意は感じられなかった。
やがて、黒竜の体が眩い光に包まれた。
あまりの輝きに、思わず腕で顔を覆う。光が収まった時、そこに立っていたのは、巨大な竜ではなかった。
一人の、青年だった。
夜空を溶かしたような漆黒の髪。磨き上げられた黒曜石のような瞳。整いすぎた顔立ちは、まるで神が気まぐれに創り上げた最高傑作のようだった。身に纏っているのは、竜の鱗を思わせる光沢を放つ黒い衣。その姿は、人間離れした美しさと、近寄りがたいほどの威厳を放っていた。
黄金の瞳。あれは竜の時と同じだ。
彼が、終焉の黒竜。
青年はゆっくりと私に歩み寄ると、その場で跪いた。まるで騎士が主に忠誠を誓うかのように。
そして、私の手を取り、その甲にそっと唇を寄せた。
「驚かせてすまない。我が名はカイザー。お前を害する者ではない」
彼の声は、見た目に反して穏やかで、深く、心地よく響いた。
「私は、お前を保護しに来た」
保護?
理解が追いつかない。私はただ、呆然と彼を見つめることしかできなかった。
生贄として攫われた聖女。そのはずだった私の運命は、全く予想もしない方向へと舵を切り始めていた。
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