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第三十七話 異端審問官
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厨房の空気は張り詰めた弦のように緊張していた。
先ほどまでの穏やかな時間は嘘のように消え去っていた。カイザーはこねかけのパイ生地には目もくれず、私を背後にかばうように立ち、その全神経を周囲に向けている。
私も調理台のナイフを固く握りしめ、息を殺していた。
見えない敵。気配のない侵入者。
それは正面から威嚇してくる獣よりも、ずっと恐ろしかった。静寂がじりじりと私たちの精神を蝕んでいく。
どれくらいの時間が経っただろうか。
永遠にも感じられるほどの沈黙を破ったのは、影だった。
厨房の一番暗い隅。そこに落ちていた棚の影。それがまるで生き物のように、ゆらり、と揺めいたのだ。
「……!」
カイザーの体が即座に反応する。
影は墨汁が水に滲むようにゆっくりと形を成していく。そして、そこから一人の人影が音もなく滑り出てきた。
全身を漆黒の、継ぎはぎだらけのローブで覆った人物。顔は深いフードの闇に沈み、全く見えない。背丈は私と同じくらいだろうか。痩せた華奢な体つきに見える。
だが、その存在から放たれるものは異質、その一言に尽きた。
気配がない。魔力も生命のオーラも殺気さえも、全く感じられない。まるでそこにいるのは、ただの「空虚」だった。
「何者だ」
カイザーが地を這うような低い声で問うた。
黒衣の人物は答えない。
ただ、そのフードの奥の闇がじっと私たちを見つめている。
カイザーの指先に黒い雷がバチバチと火花を散らし始めた。問答無用で目の前の不審者を消し去るつもりだ。
彼の魔法が放たれる、その寸前。
黒衣の人物が動いた。
その動きはあまりにも滑らかで速かった。ローブの中から古びた黒い鎖のようなものが取り出される。それは何かの骨を繋ぎ合わせたかのような、不気味な呪具だった。
侵入者はその鎖を床に向かって、こともなげに投げつけた。
ジャラリ、と。
鎖が床に落ちた瞬間、それはまるで黒い蛇のように意思を持って動き出した。凄まじい速さで床を走り、カイザーの足元で複雑で禍々しい紋様の魔法陣を描き出す。
「―――っ!?」
カイザーが目を見開く。
魔法陣から漆黒の光を放つ無数の鎖の幻影が噴き出した。それは一瞬にしてカイザーの全身に絡みつき、その動きを完全に封じ込めた。
「ぐっ……! これは……!」
カイザーの体が金縛りにあったように硬直する。指先で輝いていた黒い雷も、霧のように消え失せていた。
「古代竜縛りの呪具……! なぜ人間がこのようなものを……!」
彼の声には初めて聞く焦りの色が滲んでいた。
竜縛りの呪具。
それは神話の時代、神々があまりにも強力すぎた竜族を封じるために作り出したと言われる伝説のアーティファクト。竜の魔力を根源から断ち切り、その肉体を石のように縫い止めてしまう、竜族にとっての天敵。
「カイザー様!」
私は思わず駆け寄ろうとした。だが、黒衣の人物が私の前に音もなく立ちはだかる。
フードの奥の闇がゆっくりと私に向けられた。
そして、初めてその人物が声を発した。
それは何の感情も含まない、まるで磨かれたガラスのような平坦な声だった。
「聖女アリア」
その声は女のもののようだった。
「教皇猊下のご命令である」
教皇。その名を聞いて、私の背筋を冷たいものが走り抜けた。
やはり、彼の差し金だったのだ。
「その身柄を速やかに確保せよ。抵抗するならば、その魂を聖なる光の元へと浄化せよ、と」
浄化。
それは、殺害の言い換えに過ぎない。
黒衣の人物――異端審問官はそう言うと、ローブの袖から一本の異様な形状をした短剣を抜き放った。
刃は黒曜石のように黒く、そして螺旋状に捻じれている。見るだけで魂を吸い取られそうな、邪悪な輝きを放っていた。
彼女は、その呪われた刃を何の躊躇もなく、私に向かってゆっくりと振り上げる。
「アリア、逃げろ!」
背後から、カイザーの絶叫に近い声が響いた。
けれど、私の足は恐怖で床に縫い付けられたように動かなかった。
死ぬ。
そう思った。
王国騎士団との戦いとは違う。これは遊びではない。彼女は本気で私を殺す気だ。
その純粋な殺意を前にして、私の体は完全に思考を停止してしまった。
だが。
その恐怖のどん底で。
私の目に映ったのは、動けないまま必死の形相で私を見つめるカイザーの姿だった。
彼のあんなに苦しそうな顔。
あんなに絶望に満ちた瞳。
私は今まで一度も見たことがなかった。
私が守らなければ。
この優しくて不気用で、どうしようもないほど過保護な竜を。
今度は私が。
恐怖を、怒りが上回った。
私のか弱い両の手に、淡い金色の光が灯り始める。
それは、まだか細く震える光。
けれど、その光には私の揺るぎない決意が込められていた。
私は震える足で一歩前に出た。
そしてカイザーを背にかばうように、異端審問官の前に立ちはだかる。
「……私があなたの相手です」
絞り出した声は情けないほど震えていた。
けれど、私の瞳は真っ直ぐに目の前の「死」を見据えていた。
異端審問官は動きを止めた。
そのフードの奥の闇が興味深そうに私を見つめている。
静寂の中で、私の手の中で輝く光だけがぱちぱちと小さな音を立てていた。
それは、絶望的な戦いの始まりを告げる小さな小さな狼煙だった。
先ほどまでの穏やかな時間は嘘のように消え去っていた。カイザーはこねかけのパイ生地には目もくれず、私を背後にかばうように立ち、その全神経を周囲に向けている。
私も調理台のナイフを固く握りしめ、息を殺していた。
見えない敵。気配のない侵入者。
それは正面から威嚇してくる獣よりも、ずっと恐ろしかった。静寂がじりじりと私たちの精神を蝕んでいく。
どれくらいの時間が経っただろうか。
永遠にも感じられるほどの沈黙を破ったのは、影だった。
厨房の一番暗い隅。そこに落ちていた棚の影。それがまるで生き物のように、ゆらり、と揺めいたのだ。
「……!」
カイザーの体が即座に反応する。
影は墨汁が水に滲むようにゆっくりと形を成していく。そして、そこから一人の人影が音もなく滑り出てきた。
全身を漆黒の、継ぎはぎだらけのローブで覆った人物。顔は深いフードの闇に沈み、全く見えない。背丈は私と同じくらいだろうか。痩せた華奢な体つきに見える。
だが、その存在から放たれるものは異質、その一言に尽きた。
気配がない。魔力も生命のオーラも殺気さえも、全く感じられない。まるでそこにいるのは、ただの「空虚」だった。
「何者だ」
カイザーが地を這うような低い声で問うた。
黒衣の人物は答えない。
ただ、そのフードの奥の闇がじっと私たちを見つめている。
カイザーの指先に黒い雷がバチバチと火花を散らし始めた。問答無用で目の前の不審者を消し去るつもりだ。
彼の魔法が放たれる、その寸前。
黒衣の人物が動いた。
その動きはあまりにも滑らかで速かった。ローブの中から古びた黒い鎖のようなものが取り出される。それは何かの骨を繋ぎ合わせたかのような、不気味な呪具だった。
侵入者はその鎖を床に向かって、こともなげに投げつけた。
ジャラリ、と。
鎖が床に落ちた瞬間、それはまるで黒い蛇のように意思を持って動き出した。凄まじい速さで床を走り、カイザーの足元で複雑で禍々しい紋様の魔法陣を描き出す。
「―――っ!?」
カイザーが目を見開く。
魔法陣から漆黒の光を放つ無数の鎖の幻影が噴き出した。それは一瞬にしてカイザーの全身に絡みつき、その動きを完全に封じ込めた。
「ぐっ……! これは……!」
カイザーの体が金縛りにあったように硬直する。指先で輝いていた黒い雷も、霧のように消え失せていた。
「古代竜縛りの呪具……! なぜ人間がこのようなものを……!」
彼の声には初めて聞く焦りの色が滲んでいた。
竜縛りの呪具。
それは神話の時代、神々があまりにも強力すぎた竜族を封じるために作り出したと言われる伝説のアーティファクト。竜の魔力を根源から断ち切り、その肉体を石のように縫い止めてしまう、竜族にとっての天敵。
「カイザー様!」
私は思わず駆け寄ろうとした。だが、黒衣の人物が私の前に音もなく立ちはだかる。
フードの奥の闇がゆっくりと私に向けられた。
そして、初めてその人物が声を発した。
それは何の感情も含まない、まるで磨かれたガラスのような平坦な声だった。
「聖女アリア」
その声は女のもののようだった。
「教皇猊下のご命令である」
教皇。その名を聞いて、私の背筋を冷たいものが走り抜けた。
やはり、彼の差し金だったのだ。
「その身柄を速やかに確保せよ。抵抗するならば、その魂を聖なる光の元へと浄化せよ、と」
浄化。
それは、殺害の言い換えに過ぎない。
黒衣の人物――異端審問官はそう言うと、ローブの袖から一本の異様な形状をした短剣を抜き放った。
刃は黒曜石のように黒く、そして螺旋状に捻じれている。見るだけで魂を吸い取られそうな、邪悪な輝きを放っていた。
彼女は、その呪われた刃を何の躊躇もなく、私に向かってゆっくりと振り上げる。
「アリア、逃げろ!」
背後から、カイザーの絶叫に近い声が響いた。
けれど、私の足は恐怖で床に縫い付けられたように動かなかった。
死ぬ。
そう思った。
王国騎士団との戦いとは違う。これは遊びではない。彼女は本気で私を殺す気だ。
その純粋な殺意を前にして、私の体は完全に思考を停止してしまった。
だが。
その恐怖のどん底で。
私の目に映ったのは、動けないまま必死の形相で私を見つめるカイザーの姿だった。
彼のあんなに苦しそうな顔。
あんなに絶望に満ちた瞳。
私は今まで一度も見たことがなかった。
私が守らなければ。
この優しくて不気用で、どうしようもないほど過保護な竜を。
今度は私が。
恐怖を、怒りが上回った。
私のか弱い両の手に、淡い金色の光が灯り始める。
それは、まだか細く震える光。
けれど、その光には私の揺るぎない決意が込められていた。
私は震える足で一歩前に出た。
そしてカイザーを背にかばうように、異端審問官の前に立ちはだかる。
「……私があなたの相手です」
絞り出した声は情けないほど震えていた。
けれど、私の瞳は真っ直ぐに目の前の「死」を見据えていた。
異端審問官は動きを止めた。
そのフードの奥の闇が興味深そうに私を見つめている。
静寂の中で、私の手の中で輝く光だけがぱちぱちと小さな音を立てていた。
それは、絶望的な戦いの始まりを告げる小さな小さな狼煙だった。
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