クラスで3番目に可愛い無口なあの子が実は手話で話しているのを俺だけが知っている

夏見ナイ

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第16話 雨の日の相合傘

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雫が作ってくれたクッキーの甘い余韻は、数日が経っても俺の心の中に残り続けていた。彼女のくれたメッセージカードは、今では俺の机の一番大切な場所にしまってある。時々それを取り出しては読み返し、一人でにやけてしまう。完全に重症だった。

そんな浮かれた日々が続いていた、ある日の放課後。
最後のホームルームが終わる頃、空の様子が急変した。朝の青空が嘘のように、厚く黒い雲が空を覆い尽くしている。窓の外では、風がざわざわと木々を揺らし始めていた。

「うわ、これ絶対降るやつじゃん。傘持ってきたか?」
健太が窓の外を見ながら言った。俺は鞄の中を探り、いつも入れている折り畳み傘の感触を確かめる。
「一応な。お前は?」
「当然! 俺の天気予報は当たるんだぜ」
健太は得意げに自分の鞄を叩いた。天気予報というか、ただの勘だろうに。

ホームルームが終わり、生徒たちは蜘蛛の子を散らすように教室を出ていく。
「航、帰るぞー」
「ああ」
俺は健太と一緒に廊下に出た。その瞬間、ゴロゴロと低い地響きのような音が遠くで鳴り、教室の窓ガラスがカタカタと震えた。そして、次の瞬間。

ザアアアアッ。

まるで空に穴が開いたかのような、猛烈な勢いで雨が降り始めた。バケツをひっくり返したような、とはまさにこのことだろう。廊下の窓から見える景色は、あっという間に灰色のカーテンに閉ざされてしまった。

「うわ、マジかよ。土砂降りじゃねえか」
健太が呆れたように呟く。俺もその勢いには少し驚いた。これでは傘があっても、駅に着く頃にはずぶ濡れになりそうだ。

俺たちは人の波に乗りながら階段を降り、昇降口へと向かった。
昇降口は、突然の豪雨に足止めされた生徒たちでごった返していた。傘を持っている者は意を決して雨の中に飛び出し、持っていない者は呆然と空を見上げている。

「じゃ、俺行くわ。部活遅れるし」
健太はそう言うと、器用に人混みをすり抜け、大きな傘を開いて雨の中へ消えていった。
俺も靴を履き替え、折り畳み傘を取り出す。さて、帰るか。
そう思った、その時だった。

人混みの少し外れた場所。下駄箱の柱の影に、見慣れた姿を見つけた。
月宮雫だった。
彼女は、ただ一人、静かに立ち尽くしていた。その手には傘はなく、鞄をぎゅっと胸に抱きしめ、不安そうに外の景色を眺めている。
雨が弱まるのを待っているのだろう。でも、この勢いでは、しばらく止みそうにない。

その姿を見た瞬間、俺の心臓がとくん、と音を立てた。
どうする、相田航。
俺の鞄には、傘がある。
困っている彼女を、助けることができる。
いや、それ以上に。これは、とてつもないチャンスなのではないか。

脳内で、天使と悪魔が激しい議論を始める。
(行けよ!困ってるじゃないか!)
(いや、でも、いきなり声をかけたら迷惑かも)
(ここで何もしないでどうする!男だろ!)
(でも、周りの目もあるし……)

数秒間の葛藤。
だが、答えは最初から決まっていた。
俺は、雫が雨に濡れて風邪をひくなんて、絶対に嫌だ。それに、彼女と二人で……。
そこまで考えて、俺は自分の不純な動機に気づき、慌てて首を振った。
とにかく、行動あるのみだ。

俺はごくりと唾を飲み込み、意を決して彼女の方へ歩き出した。
数歩の距離が、やけに遠く感じる。
俺の気配に気づいたのか、彼女がゆっくりとこちらを振り返った。その瞳には、俺の姿が映り、驚きに見開かれている。

俺は周囲に聞こえないように、小さな声で言った。
「月宮さん」
そして、手話で続ける。
『傘、ないの?』

彼女は、俺の問いに少し驚いた顔をしたが、すぐに状況を理解したのだろう。申し訳なさそうに、そして少し困ったように眉を下げて、こくりと小さく頷いた。その仕草が、まるで雨に濡れた子猫のようで、俺の庇護欲を激しく刺激した。

よし。俺は覚悟を決めた。
自分の持っていた折り畳み傘を、彼女の目の前にそっと差し出す。
そして、今世紀最大の勇気を振り絞って、手話で伝えた。

『よかったら、一緒に入ってく?』

俺の言葉を読み取った瞬間、雫の時間が止まった。
黒曜石のような瞳が、信じられないものを見るように、大きく、大きく見開かれる。その顔が、みるみるうちに赤く染まっていくのが分かった。
彼女は、俺の顔と、差し出された傘を、何度も何度も交互に見た。その瞳は、期待と戸惑いで激しく揺れていた。

長い、長い沈黙。
周りの生徒たちの喧騒が、遠くに聞こえる。
断られるかもしれない。その可能性が頭をよぎり、俺の心臓が冷たくなった。

だが、彼女は、ゆっくりと。
本当にゆっくりと、しかし力強く、一度だけ頷いた。
その瞬間、俺の心の中に、安堵と、それからどうしようもないほどの喜びが洪水のように押し寄せた。

俺は「じゃあ、行こうか」と声で言い、傘のボタンを押した。
バサッ、と音を立てて開いた傘は、俺が思っていたよりもずっと小さかった。一人用としては十分だが、二人で入るには、どう考えてもスペースが足りない。

俺たちは昇降口を出て、雨が降りしきる軒下へ移動した。
「じゃあ……失礼します」
雫が、声にならない口の動きと、小さな会釈でそう伝えてくる。
俺は頷き返し、彼女の隣に並んだ。そして、傘を俺たちの頭上へとかざす。

必然的に、二人の距離はゼロになった。
俺の右肩と、彼女の左肩が、ぴったりと触れ合う。
制服の薄い生地越しに、彼女の体温が、温もりが、じんわりと伝わってきた。
ふわりと、彼女の髪からシャンプーの甘い香りがして、俺の思考は完全に麻痺した。

「……行くか」
なんとかそれだけ声を絞り出し、俺たちは雨の中へ一歩を踏み出した。
雨音が、世界を支配する。
ざあざあと降りしきる雨の音が、周りの全ての音をかき消し、まるでこの世界に俺たち二人しかいないような、不思議な錯覚に陥らせた。

小さな傘の下。
肩と肩が触れ合い、腕と腕が時折かすめる。
そのたびに、お互いの肩がびくりと震えるのが分かった。
緊張で、体が硬直している。
いつものように、手話で話そうにも、傘を持つ俺の右手は使えない。雫も、どうしていいか分からないのか、ただ鞄をぎゅっと握りしめているだけだった。

沈黙が続く。
でも、それは気まずいものではなかった。
雨音と、お互いの鼓動だけが響く、甘くて、少しだけ苦しい沈黙。
俺は、雫が濡れないように、無意識のうちに傘を彼女の方へ傾けていた。俺の右肩が、雨に打たれて冷たくなっていくのが分かったが、そんなことはどうでもよかった。

このまま、時が止まってしまえばいいのに。
駅までの短い道のりが、永遠に続けばいいのに。
肩から伝わる彼女の温もりを感じながら、俺は本気で、そう願っていた。
雨の日の相合傘。それは、どんな言葉よりも雄弁に、俺たちの距離を縮めてくれていた。
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