クラスで3番目に可愛い無口なあの子が実は手話で話しているのを俺だけが知っている

夏見ナイ

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第28話 月宮家、襲来

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約束の日、俺は地元の駅で人生最大級の緊張と戦っていた。
手には、昨日デパートを三周してようやく選んだ、無難だが高級そうなクッキーの詰め合わせ。服装は、昨日雑誌を読み漁って決めた清潔感のある白のTシャツに黒のパンツ。髪型も、ワックスを使っていつもより念入りにセットした。
傍から見れば、ただの夏休みの高校生だ。だが俺の内面は、これから最終決戦にでも臨む兵士のように悲壮な覚悟に満ちていた。

これから、月宮雫の家に行くのだ。
その事実が現実味を帯びるにつれて、俺の胃はキリキリと悲鳴を上げた。
彼女の部屋。彼女の家族。未知の領域に足を踏み入れる恐怖と、それ以上に巨大な期待が俺の心の中で荒れ狂っていた。

約束の時間の五分前。改札口に、見慣れた、しかし今日はいつも以上に特別な姿が現れた。
雫だった。
その姿を認めた瞬間、俺の心臓は一瞬だけその動きを止めた。

白いシンプルなTシャツ。少しゆったりとしたシルエットで、華奢な体が強調されている。下は、淡いデニムのショートパンツ。そこからすらりと伸びる、驚くほど白くて細い脚。
髪は、カフェデートの時と同じようにハーフアップにしていたが、リボンではなく、小さな星の飾りがついたヘアゴムでラフに結われている。
全体的に、リラックスした完全にオフの日の服装。
だが、その飾らない姿が、逆に彼女の素材の良さを恐ろしいほどに引き立てていた。

「……!」
俺は言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くす。
制服でも、おめかししたよそ行きの服でもない。
彼女の「日常」を垣間見たような気がして、とてつもない破壊力に打ちのめされた。
彼女は俺の姿を見つけると、少し恥ずかしそうに、でも嬉しそうにてとてとと駆け寄ってきた。

『待った?』
手話で尋ねてくる彼女に、俺はぶんぶんと首を横に振る。
『ううん、今来たとこ。その服、すごく似合ってる』
俺が素直な気持ちを手話で伝えると、彼女は一瞬きょとんとした後、顔を真っ赤にして俯いてしまった。そして、自分のショートパンツの裾を指でいじいじと弄んでいる。その仕草が、たまらなく可愛い。

「じゃあ、行こうか」
俺が声をかけると、彼女はこくりと頷き、俺の前を歩き始めた。
彼女の家までの道のりは、静かな住宅街を抜けていく歩いて十分ほどの距離だった。
俺たちは、時々スマホでメッセージを交わしながら他愛ない話をした。
『この辺、静かでいいね』
『うん。でも、夜は少し暗くて怖い』
そんなやり取りをするだけで、まるで長年連れ添ったカップルのような穏やかな空気が流れる。

やがて、彼女が一軒の家の前で立ち止まった。
白い壁に、青い屋根。庭には色とりどりの花が咲いている、綺麗で可愛らしい一軒家だった。表札には「月宮」と書かれている。
ここが、彼女の家。
その事実を改めて認識すると、俺の心臓は再び激しく暴れ出した。

「お、おじゃまします……」
俺が蚊の鳴くような声で言うと、彼女は「大丈夫だよ」というかのように、俺に安心させるような笑みを向けた。そして、少しだけ躊躇ってから、そっと玄関のドアを開ける。
「ただいま」
声にはならない、彼女の挨拶。家の中はしんと静まり返っていた。ご両親は留すなのだろうか。

彼女は「どうぞ」と手話で促し、俺を家の中へと招き入れた。
玄関は綺麗に整頓されていて、ふわりと花のようないい香りがする。俺は緊張しながら靴を脱ぎ、揃えて置いた。
「これ、つまらないものだけど……」
俺が持ってきたクッキーの箱を差し出すと、彼女は驚いたように目を丸くし、そして恐縮したように何度も頭を下げながらそれを受け取ってくれた。

「私の部屋、こっち」
彼女はそう手話で伝えると、トントンと軽快な足取りで階段を上がっていく。その後ろ姿を、俺は固唾を飲んで追いかけた。
二階の廊下の一番奥。白いドアの前で彼女は立ち止まった。そして、少しだけ恥ずかしそうにこちらを振り返ると、ゆっくりとドアノブに手をかける。

ギィ、と小さな音を立ててドアが開かれた。
その瞬間、俺の鼻腔を今まで嗅いだことのない、甘くて優しい香りがくすぐった。
彼女自身の匂いと、何か花の香りが混じったような、清潔で心地よい香り。
そして、その奥に広がっていたのは、まさに「月宮雫の部屋」としか言いようのない空間だった。

部屋は、白と水色を基調としたシンプルで可愛らしい内装だった。
壁には、彼女が描いたのであろう風景画や動物のスケッチがいくつか飾られている。
大きな本棚には、文学全集から最新の漫画までぎっしりと本が詰まっていた。彼女の知的な一面が窺える。
そして、窓際の机の上には、スケッチブックや色鉛筆、水彩絵の具といった画材が綺麗に整頓されて置かれていた。ここが、彼女の夢が生まれる場所なのだ。

「にゃーん」

不意に、足元で可愛らしい鳴き声がした。
見ると、あの写真で見た真っ白な猫、ソラが、青い瞳で俺のことを見上げ、スリスリと足を擦り付けてきている。人懐っこい猫のようだ。
『ソラ、ただいま』
雫が屈んでその頭を撫でると、ソラは気持ちよさそうに喉を鳴らした。

俺は、まるで聖域にでも足を踏み入れたかのような厳かな気持ちで部屋の中を見回していた。
彼女の好きなもの、大切なもの、全てがこの空間に詰まっている。
その一部になれたような気がして、胸が熱くなった。

「あ、ごめん。座って」
俺が立ち尽くしているのに気づいたのか、雫が慌てて手話で促し、床に敷かれたラグマットを指差した。俺はぎこちなく頷き、ローテーブルの前に胡座をかく。
彼女も、俺の向かいにちょこんと正座した。至近距離。心臓に悪い。

「じゃあ、やるか。宿題」
俺は雰囲気に飲まれまいと、必死で本来の目的を思い出し、鞄から数学の問題集を取り出した。彼女も「うん」と頷き、自分の問題集を開く。
しかし、お互いに意識してしまっているのは明らかだった。
ペンを持つ手もどこかぎこちない。時々視線が合うと、二人して慌てて逸らしてしまう。
問題文なんて、全く頭に入ってこなかった。

そんな気まずい空気を破るように、雫が立ち上がった。
『ちょっと、待ってて』
そう手話で伝えると、彼女は部屋を出ていった。
数分後、彼女は冷たい麦茶が入った二つのグラスをお盆に乗せて戻ってきた。
「あ、ありがとう」
俺が礼を言うと、彼女はこくりと頷き、俺の前にグラスを置いてくれる。その時、彼女の指先がほんの少しだけ俺の手に触れた。
びくり、とお互いの肩が震える。
もう、ダメだ。勉強なんてできるはずがない。

俺たちが麦茶を飲みながら、再び気まずい沈黙に陥っていた、その時だった。

ガチャリ。

静まり返っていた部屋の外から、不意に部屋のドアが開く音がしたのだ。
俺と雫は、驚いて同時にドアの方を振り返った。

そこに立っていたのは、俺たちが全く予期していなかった人物だった。
雫によく似た、しかしもっと大人びた雰囲気の美しい女性。
その手にはコンビニの袋がぶら下がっており、彼女は部屋の中の光景――つまり、見知らぬ男(俺)と二人きりでいる妹の姿――を見て、驚きに目を丸くしていた。

そして、その驚きはすぐに面白いものを見つけた、というかのような、ニヤリとした笑みへと変わった。

「へえ。雫が男の子を部屋に連れ込むなんて。明日は槍でも降るのかしら?」

そのよく通る快活な声。
そして、値踏みするように俺を頭のてっぺんから爪先まで眺める鋭い視線。

俺は、悟った。
これから始まるのは、数学の勉強会などではない。
もっと過酷で、絶対に間違えられない最終面接という名の尋問なのだと。
俺の夏休み最大の試練は、今、静かに幕を開けたのだった。
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