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第85話 夏休みの約束
しおりを挟む体育倉庫での一件以来、俺と雫の間の空気はさらに甘く、そしてどこかぎこちないものになっていた。
目が合うだけでお互いにあの瞬間のことを思い出してしまい、顔が熱くなる。その初々しい反応を、健太たちはニヤニヤと楽しそうに眺めていた。
そして、あっという間に終業式の日がやってきた。
明日から、長い夏休みが始まる。
クラスの誰もが解放感に心を躍らせている中、俺の心だけはどんよりと曇っていた。
夏休み。それはつまり、毎日当たり前のように彼女に会えなくなるということだ。
もちろんメッセージのやり取りはできる。でも、顔を見て、指先で言葉を交わすあの特別な時間はしばらくお預けになる。
その事実が、ずしりと重く俺の心にのしかかっていた。
最後のホームルームが終わり、生徒たちが次々と教室を出ていく。
俺は、帰り支度をする雫のそばへ、意を決して歩み寄った。
彼女も同じ気持ちだったのだろう。俺の姿を認めると、少しだけ寂しそうな、名残惜しそうな瞳でこちらを見つめてきた。
「……明日から、会えなくなるな」
俺が手話でそう伝えると、彼女はこくりと小さく頷いた。その表情が切なくて、胸が締め付けられる。
このままじゃダメだ。
ただ寂しいまま夏休みを迎えるなんて、絶対に嫌だ。
俺は、この数日間ずっと考えていた計画を実行に移すことにした。
「なあ、雫」
俺は少しだけ真剣な顔で彼女に向き直った。
『もし、よかったらなんだけど』
俺の前置きに、彼女は不思議そうに小首を傾げる。
『夏祭り、一緒に行かないか?』
俺の、勇気を振り絞った誘い。
駅の掲示板で見た、近所の神社の夏祭りのポスター。二人で行けたら、どんなに楽しいだろう。
俺のメッセージを受け取った彼女の瞳が、驚きに大きく見開かれた。
そして、次の瞬間。
その表情が、ぱあっと花が咲くように明るく輝いた。
彼女は、ぶんぶんと音が聞こえそうな勢いで、何度も何度も力強く頷いた。その全身で喜びを表現する姿が、どうしようもなく愛おしい。
「本当か!?」
俺が嬉しさのあまり声に出すと、彼女は今日一番の笑顔で頷き返した。
そして、自分のスマホを取り出すと、わくわくした様子でメモ帳に文字を打ち込み始めた。
『私、浴衣、着てみようかな…』
その、あまりにも破壊力抜群の提案。
俺は、その文字を見た瞬間、声にならない叫びを上げた。
浴衣。
月宮雫の、浴衣姿。
想像しただけで、鼻血が出そうだ。いや、もう出ているかもしれない。
『すごく、楽しみにしてる』
俺が震える指でなんとかそう返信するのが精一杯だった。
会えない時間が、二人の気持ちを育てるなんて言うけれど。
俺たちは、その会えない時間に、最高の楽しみな約束をすることができた。
ただ長くて、寂しいだけだと思っていた夏休み。
それが、最高のイベントが待つ、特別な四十日間に変わった瞬間だった。
帰り道、俺たちの足取りは驚くほど軽かった。
「じゃあ、また連絡するな」
駅の改札でそう手話で伝えると、彼女は「うん」と頷き、最後に最高の笑顔で小さく手を振ってくれた。
その笑顔を胸に、俺は最高の夏が始まる予感に胸を膨らませていた。
俺たちの夏が、今、確かに始まろうとしていた。
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