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第63話:呪われた湖
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領民たちの温かい歓迎を受けた後、私たちの馬車は再び北へと進路を取った。
街道を外れ、森を抜ける細い道へと入っていく。目的地である村、エルムヘイムはアイゼンベルク領の最も北に位置する、森と湖に囲まれた静かな場所だとアシュレイ様は言った。
しかし村が近づくにつれて、車窓から見える景色はこれまでの豊かさが嘘のように、徐々にその彩りを失っていった。
深く濃い緑色をしていた木々の葉はどこか色褪せて黄色っぽくなり、地面に生い茂っていたはずの下草もまばらになっている。土地そのものが生命力を失い、疲弊しているのが分かった。
やがて馬車は小さな村の入り口に到着した。
そこは静まり返っていた。
家々はどれも古びて手入れが行き届いておらず、屋根には苔が生えている。畑は荒れ、作物もまばらにしか育っていない。本来であれば子供たちの笑い声や、人々の活気ある声が聞こえてくるはずの村の中心部にも人影はほとんどなかった。
時折、家の中からこちらを窺う村人の姿が見えたが、その顔は一様に暗く、目の下の隈が彼らの深い疲労を物語っていた。
「……これが今のエルムヘイムか」
アシュレイ様の声には、領主としての深い苦悩と自責の念が滲んでいた。
馬車が村の広場で止まると、一人の老人が杖をつきながらおぼつかない足取りでこちらへ近づいてきた。この村の村長なのだろう。
「……公爵閣下。ようこそお越しくださいました。このような寂れた村へ……」
村長はアシュレイ様の前に立つと、深く、深く頭を下げた。その顔色は土気色で、痩せこけた頬が彼もまた病に苦しんでいることを示していた。
「顔を上げよ、ゲルハルト」
アシュレイ様は馬車から降り立つと、村長の肩を力強く支えた。
「これまで何もしてやれず、すまなかった」
その言葉に、村長は涙を浮かべて首を横に振った。
「いえ、滅相もございません! 閣下にはこれまで何度も高名なお医者様や神官様を派遣していただきました。我らのために心を砕いてくださっていることは、村の者、誰一人として疑っておりません。……ただ、我らを蝕むこの病があまりにも不可解なだけでございます」
村長の案内で、私たちは村の集会所へと入った。中には数人の村人たちが集まっていた。皆、一様に生気がなく、その瞳には諦めの色が浮かんでいる。
村長は私たちに古びた木の椅子を勧めると、ゆっくりと村の現状について語り始めた。
奇病が流行り始めたのは、もう五年も前のことだという。
最初はただの風邪のような症状だった。身体がだるくなり、熱が出る。しかしその症状はいつまでも治らず、人々の気力と体力をじわじわと奪っていく。やがて働くこともままならなくなり、ベッドから起き上がれなくなる者も少なくないという。
「まるで魂を少しずつ抜き取られていくような病でございます」
村長は力なくそう言った。
「そして、この病が流行り始めたのと同じ頃からこの土地の全てがおかしくなってしまったのです。木々は枯れ、作物は育たず、家畜たちも次々と病に倒れていきました」
私は黙ってその話に耳を傾けていた。私の心の中では一つの確信が形作られつつあった。これは単なる病ではない。この土地全体が、何らかの巨大な『呪い』に蝕まれているのだ、と。
「……何か心当たりはないのか。その時期に、何か変わったことはなかったか」
アシュレイ様が鋭い視線で尋ねた。
村長はしばらくの間何かをためらうように黙っていたが、やがて意を決したように重い口を開いた。
「……あくまで村の者たちの間で囁かれている、迷信のようなものでございますが」
彼は窓の外、村の北側に広がる深い森の方角を指さした。
「あの森の奥に大きな湖がございます。かつては『女神の涙』と呼ばれるほどに水が澄み、我々村人の生活を支える命の湖でございました。……ですが」
村長の顔が恐怖と畏怖の色に歪んだ。
「五年ほど前からあの湖がおかしくなったのです。あれほど透き通っていた水は一夜にして泥水のように濁り、湖からは魚も水草も、全ての生き物の姿が消えました。そして湖の周りにはいつも不気味な靄が立ち込めるようになり、近づいた者は決まって体調を崩すようになったのです」
今では湖は村人たちにとって、決して近づいてはならない『呪われた場所』となっているという。
その話を聞いて、私の心の中の確信は絶対的なものへと変わった。
全ての元凶はその湖だ。
湖そのものが巨大な呪いの発生源となり、その呪いが水を通じて、あるいは空気を通じてこの村と土地全体を蝕んでいるのだ。
「……その湖へ案内していただけますか」
私は静かに、しかしきっぱりとした声で言った。
その言葉に、村長と村人たちはぎょっとしたように顔を上げた。
「な、なりませぬ、聖女様! あそこは本当に危険な場所でございます!」
「近づくだけで病が悪化してしまいます!」
彼らは口々に私の身を案じ、反対の声を上げた。
しかしアシュレイ様は何も言わなかった。彼はただ私の瞳をまっすぐに見つめ、その奥にある揺りぎない決意を静かに読み取っていた。
私は心配する村人たちに向かって、穏やかに、しかし力強く微笑んでみせた。
「大丈夫です。皆様を苦しめているものの正体を、この目で見極めなければなりません。それに……」
私は隣に座る、絶対的な守護者へと視線を移した。
「私の隣にはこの国で最もお強い騎士様が、ついていてくださいますから」
その言葉に、アシュレイ様の唇に誇らしげな笑みが浮かんだ。
彼は立ち上がると、村長に向かって威厳に満ちた声で告げた。
「ゲルハルト。我らを湖まで案内せよ。リナリア嬢の安全は、この私が保証する」
その言葉には有無を言わせぬ響きがあった。村長はしばらく戸惑っていたが、やがて私たちの決意が揺るがないことを悟ると、覚悟を決めたように深く、深く頷いた。
こうして、私たちは村を蝕む呪いの根源へと足を踏み入れることになった。
村人たちの不安と、そして一縷の希望が込められた視線に見送られながら、私たちは不気味な静寂に包まれた森の奥深く、その『呪われた湖』へと向かっていった。
聖女としての私の最初の本格的な試練が、今、始まろうとしていた。
街道を外れ、森を抜ける細い道へと入っていく。目的地である村、エルムヘイムはアイゼンベルク領の最も北に位置する、森と湖に囲まれた静かな場所だとアシュレイ様は言った。
しかし村が近づくにつれて、車窓から見える景色はこれまでの豊かさが嘘のように、徐々にその彩りを失っていった。
深く濃い緑色をしていた木々の葉はどこか色褪せて黄色っぽくなり、地面に生い茂っていたはずの下草もまばらになっている。土地そのものが生命力を失い、疲弊しているのが分かった。
やがて馬車は小さな村の入り口に到着した。
そこは静まり返っていた。
家々はどれも古びて手入れが行き届いておらず、屋根には苔が生えている。畑は荒れ、作物もまばらにしか育っていない。本来であれば子供たちの笑い声や、人々の活気ある声が聞こえてくるはずの村の中心部にも人影はほとんどなかった。
時折、家の中からこちらを窺う村人の姿が見えたが、その顔は一様に暗く、目の下の隈が彼らの深い疲労を物語っていた。
「……これが今のエルムヘイムか」
アシュレイ様の声には、領主としての深い苦悩と自責の念が滲んでいた。
馬車が村の広場で止まると、一人の老人が杖をつきながらおぼつかない足取りでこちらへ近づいてきた。この村の村長なのだろう。
「……公爵閣下。ようこそお越しくださいました。このような寂れた村へ……」
村長はアシュレイ様の前に立つと、深く、深く頭を下げた。その顔色は土気色で、痩せこけた頬が彼もまた病に苦しんでいることを示していた。
「顔を上げよ、ゲルハルト」
アシュレイ様は馬車から降り立つと、村長の肩を力強く支えた。
「これまで何もしてやれず、すまなかった」
その言葉に、村長は涙を浮かべて首を横に振った。
「いえ、滅相もございません! 閣下にはこれまで何度も高名なお医者様や神官様を派遣していただきました。我らのために心を砕いてくださっていることは、村の者、誰一人として疑っておりません。……ただ、我らを蝕むこの病があまりにも不可解なだけでございます」
村長の案内で、私たちは村の集会所へと入った。中には数人の村人たちが集まっていた。皆、一様に生気がなく、その瞳には諦めの色が浮かんでいる。
村長は私たちに古びた木の椅子を勧めると、ゆっくりと村の現状について語り始めた。
奇病が流行り始めたのは、もう五年も前のことだという。
最初はただの風邪のような症状だった。身体がだるくなり、熱が出る。しかしその症状はいつまでも治らず、人々の気力と体力をじわじわと奪っていく。やがて働くこともままならなくなり、ベッドから起き上がれなくなる者も少なくないという。
「まるで魂を少しずつ抜き取られていくような病でございます」
村長は力なくそう言った。
「そして、この病が流行り始めたのと同じ頃からこの土地の全てがおかしくなってしまったのです。木々は枯れ、作物は育たず、家畜たちも次々と病に倒れていきました」
私は黙ってその話に耳を傾けていた。私の心の中では一つの確信が形作られつつあった。これは単なる病ではない。この土地全体が、何らかの巨大な『呪い』に蝕まれているのだ、と。
「……何か心当たりはないのか。その時期に、何か変わったことはなかったか」
アシュレイ様が鋭い視線で尋ねた。
村長はしばらくの間何かをためらうように黙っていたが、やがて意を決したように重い口を開いた。
「……あくまで村の者たちの間で囁かれている、迷信のようなものでございますが」
彼は窓の外、村の北側に広がる深い森の方角を指さした。
「あの森の奥に大きな湖がございます。かつては『女神の涙』と呼ばれるほどに水が澄み、我々村人の生活を支える命の湖でございました。……ですが」
村長の顔が恐怖と畏怖の色に歪んだ。
「五年ほど前からあの湖がおかしくなったのです。あれほど透き通っていた水は一夜にして泥水のように濁り、湖からは魚も水草も、全ての生き物の姿が消えました。そして湖の周りにはいつも不気味な靄が立ち込めるようになり、近づいた者は決まって体調を崩すようになったのです」
今では湖は村人たちにとって、決して近づいてはならない『呪われた場所』となっているという。
その話を聞いて、私の心の中の確信は絶対的なものへと変わった。
全ての元凶はその湖だ。
湖そのものが巨大な呪いの発生源となり、その呪いが水を通じて、あるいは空気を通じてこの村と土地全体を蝕んでいるのだ。
「……その湖へ案内していただけますか」
私は静かに、しかしきっぱりとした声で言った。
その言葉に、村長と村人たちはぎょっとしたように顔を上げた。
「な、なりませぬ、聖女様! あそこは本当に危険な場所でございます!」
「近づくだけで病が悪化してしまいます!」
彼らは口々に私の身を案じ、反対の声を上げた。
しかしアシュレイ様は何も言わなかった。彼はただ私の瞳をまっすぐに見つめ、その奥にある揺りぎない決意を静かに読み取っていた。
私は心配する村人たちに向かって、穏やかに、しかし力強く微笑んでみせた。
「大丈夫です。皆様を苦しめているものの正体を、この目で見極めなければなりません。それに……」
私は隣に座る、絶対的な守護者へと視線を移した。
「私の隣にはこの国で最もお強い騎士様が、ついていてくださいますから」
その言葉に、アシュレイ様の唇に誇らしげな笑みが浮かんだ。
彼は立ち上がると、村長に向かって威厳に満ちた声で告げた。
「ゲルハルト。我らを湖まで案内せよ。リナリア嬢の安全は、この私が保証する」
その言葉には有無を言わせぬ響きがあった。村長はしばらく戸惑っていたが、やがて私たちの決意が揺るがないことを悟ると、覚悟を決めたように深く、深く頷いた。
こうして、私たちは村を蝕む呪いの根源へと足を踏み入れることになった。
村人たちの不安と、そして一縷の希望が込められた視線に見送られながら、私たちは不気味な静寂に包まれた森の奥深く、その『呪われた湖』へと向かっていった。
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