俺をフッた幼馴染が、トップアイドルになって「もう一度やり直したい」と言ってきた

夏見ナイ

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第5話:「もう一度、やり直したい」

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雨音だけが支配する世界で、藤堂蓮と星宮瑠奈は互いに言葉を失くしたまま立ち尽くしていた。数メートルという物理的な距離が、途方もなく遠いものに感じられる。蓮の脳は、目の前の現実を処理することを拒否していた。トップアイドルLUNA。日本でその名を知らない者の方が少ないだろう。そんな存在が、なぜ。

瑠奈は蓮の硬直した表情を見て、傷ついたように瞳を揺らした。ずらしたマスクを元に戻し、再び顔の大部分を隠す。その仕草が、彼女と自分の間にある決定的な断絶を物語っているようだった。

「……話が、したい」

先に沈黙を破ったのは瑠奈だった。絞り出すような、か細い声。

「聞くことなんて何もない」

蓮の口から出たのは、自分でも驚くほど冷たい声だった。拒絶。それが、今の蓮にできる唯一の自己防衛だった。これ以上、この女に関わってはいけない。心が、魂が、警鐘を鳴らし続けている。

「お願い。少しだけでいいから」

瑠奈の声は、懇願に満ちていた。テレビで見せる、自信に満ち溢れた姿とはまるで別人だ。その弱々しい姿に、蓮の心が一瞬だけ揺らぐ。幼い頃、泣き虫だった彼女の姿が、ふと脳裏をよぎった。

「……ここで騒ぎを起こす気か」

蓮は吐き捨てるように言った。もし彼女の正体がバレれば、このバス停は一瞬でパニックに陥るだろう。そうなれば、自分も無関係ではいられない。それは、蓮が最も避けたい事態だった。

「……ごめんなさい」

瑠奈は力なく謝罪の言葉を口にする。蓮は、ギリ、と奥歯を噛み締めた。結局、自分には選択肢がないのだと悟る。この嵐のような状況から抜け出すには、一度、彼女の話を聞くしかない。

「……ついてこい」

短く告げると、蓮は背を向けた。土砂降りの雨の中へと、躊躇なく足を踏み出す。後ろから、瑠奈が慌ててついてくる気配がした。

傘もないまま、二人で雨に打たれながら歩く。会話はない。ただ、激しい雨音と、濡れたアスファルトを蹴る自分たちの足音だけが響いていた。蓮はわざと早足で歩いた。瑠奈を振り切るように。だが彼女は、必死に小走りでついてくる。その息遣いが、すぐ背後から聞こえてきて、蓮の苛立ちを増幅させた。

数分歩いて、蓮は古びた雑居ビルの前で足を止めた。二階にある、小さな看板。『喫茶 ポラリス』。蓮が時々、一人で考え事をしたい時に利用する場所だ。常連客は少なく、いつ行っても静かだった。ここなら、誰にも見つからないだろう。

ドアベルが、カランコロンと寂しげな音を立てる。マスターが「いらっしゃい」と気怠げに声をかけたが、ずぶ濡れの二人を見ても特に表情を変えなかった。蓮は店の最も奥まった、窓際から一番遠いテーブル席へと向かう。瑠奈は、所在なさげに蓮の後ろをついてきた。

席に着くと、二人の間に重い沈黙が落ちる。蓮はメニューも見ずに「コーヒーを二つ」と注文した。瑠奈は、何も言わずに小さく頷くだけだった。

やがて、湯気の立つコーヒーカップが二つ、テーブルに置かれる。瑠奈は震える手でカップを持ち上げた。その指先が、驚くほど冷え切っているのが見て取れた。彼女はゆっくりとキャップとマスクを外す。

数年ぶりに、まともに見る彼女の素顔。

高校時代と変わらない、大きな瞳と整った鼻筋。だが、その頬は痛々しいほどに痩けていて、目の下には隠しきれない疲労の色が浮かんでいた。テレビで見る完璧なアイドルのLUNAではなく、そこにはただ疲れ切った一人の女の子、星宮瑠奈がいた。

その姿に、蓮は思わず言葉を失う。憎いはずだった。自分をフッた、過去の女。そう割り切っていたはずなのに。彼女の憔悴しきった表情が、蓮の心の壁を静かに侵食してくる。

「……ごめんね、急に。驚いたよね」

瑠奈が、ぽつりと呟いた。

「何の用だ。電話までしてきて」

蓮は感情を殺し、事務的な口調で尋ねた。これ以上、情を揺さぶられてたまるか。

「ずっと……蓮に会いたかった」

「俺たちは、あの日に終わったはずだ」

蓮の言葉に、瑠奈の肩が小さく震えた。彼女はコーヒーカップを見つめたまま、静かに語り始める。

「夢だったアイドルになれた。センターにもなれた。たくさんの人に、私の歌を聴いてもらえるようになった。……私が、望んだものが全部、手に入ったはずだった」

その声は、ひどく虚ろだった。

「でも、違った。私がトップになればなるほど、周りには誰もいなくなった。本音で話せる友達もいない。事務所の人たちは、私のことを『LUNA』という商品としてしか見てない。ステージの上で笑って、完璧なアイドルを演じて……ステージを降りたら、広い部屋で、ずっと一人」

瑠奈の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。テーブルの上に、小さな染みを作る。

「ファンのみんなは、キラキラした私を求めてる。だから、弱音なんて吐けない。辛いなんて言えない。孤独なんて、口が裂けても言えない。……どんどん、本当の自分が分からなくなっていくの。笑っているはずなのに、心が少しも笑ってない」

蓮は、黙って彼女の話を聞いていた。どんな言葉を返せばいいのか、分からなかった。同情すべきなのか。それとも、自業自得だと突き放すべきなのか。

「そんな時、思い出すのはいつも蓮のことだった。私のくだらない話も、うんうんって聞いてくれた。私がドジしても、呆れながらも助けてくれた。どんな時も、蓮だけは私の隣にいてくれた。……それが、当たり前だと思ってた」

瑠奈は顔を上げ、濡れた瞳で真っ直гу蓮を見つめた。

「あの時、私、バカだった。本当にバカだった。アイドルになるっていう夢しか見えてなくて、一番大切なものが見えてなかった。蓮の優しさを切り捨てることでしか、前に進めないって思い込んでた。……蓮を傷つけてるって分かってたのに」

嗚咽が、彼女の言葉を途切れさせる。後悔。その二文字が、彼女の全身から滲み出ているようだった。蓮は、思わず視線を逸らした。彼女の涙を、まともに見ることができなかった。

自分をフッた女が、数年の時を経て、今、目の前で後悔を口にしている。それは、蓮が心のどこかで望んでいた光景だったのかもしれない。なのに、胸がすくような感覚は全くなかった。ただ、鉛を飲み込んだような重苦しい感情が、腹の底に溜まっていく。

瑠奈は、一度深く息を吸い込むと、震える声で、決定的な言葉を口にした。

「もう一度……やり直したいの。蓮と」

その瞬間、蓮の中で何かが切れた。

頭の中で、卒業式の日の光景がフラッシュバックする。『ごめん、蓮。私、アイドルになるから』。そう言って、何の躊躇もなく俺の手を振り払った、あの時の彼女の顔。

今、目の前で泣いている女と、記憶の中の彼女が重ならない。都合が良すぎる。あまりにも、身勝手すぎる。

「……ふざけるな」

静かな、だが心の底からの怒りを込めた声が、蓮の口から漏れた。

「え……?」

「ふざけるなよ! 今さら、なんだよそれ!」

抑えていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。蓮は、テーブルを叩かんばかりの勢いで立ち上がった。ガタン、と椅子が大きな音を立てて倒れる。

「あんたが捨てたんだろ! アイドルになるからって、俺のこと、いらないって言ったのはあんたの方じゃないか! 俺がどれだけ惨めな思いをしたか、あんたに分かるか!?」

瑠奈は、蓮の剣幕に怯え、ただ目を見開いている。

「トップアイドルになって、孤独で辛い? それで俺に泣きついて、やり直したい? 勝手なこと言うな! 俺のこの数年間を、何だと思ってるんだ!」

蓮の叫びが、静かな喫茶店に響き渡る。マスターが驚いてこちらを見ているのが分かったが、もう構ってはいられなかった。

これ以上、ここにいたら、何を口走るか分からない。何を、してしまうか分からない。

「待って、蓮! 話を……!」

引き留めようとする瑠奈の声を振り切り、蓮は伝票を掴んでレジへと向かった。金を叩きつけるように置き、逃げるように店を飛び出す。

外は、まだ雨が降り続いていた。
蓮は、傘もささずに雨の中を走り出した。どこへ向かうという当てもない。ただ、この場から、星宮瑠unaという存在から、一秒でも早く遠ざかりたかった。

冷たい雨が、火照った顔を叩く。だが、頭の中はぐちゃぐちゃにかき乱されたままだ。

『もう一度、やり直したい』

その言葉が、悪夢のように耳元で反響する。
壊された。間違いなく、壊されてしまった。
陽葵と出会って、ようやく手に入れかけたはずの、穏やかで静かな日常が。

蓮は、足を止めることなく走り続けた。過去という名の激しい雨が、彼の全てを洗い流そうとするかのように、無情に降り注いでいた。
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