51 / 97
第52話 静寂の背中、あるいは見えない壁
しおりを挟む
ペンキ事件の後、教室の空気は微妙に、しかし確実に変わってしまった。
天宮さんの神対応によって、クラスの団結力はむしろ高まったかのように見えた。だが、俺と雪城さんの間に流れていた、あの特別で心地よかった空気はどこかへ消え失せてしまった。
彼女は俺と目を合わせようとしなくなった。
昼休みの進捗確認会議でも、彼女は俺を通してではなく直接各チームのリーダーに指示を出すようになった。
放課後、二人きりで残って作業をする時間も、彼女は必要最低限の言葉しか発しない。その声は、夏休み前のまだ俺たちがただのクラスメイトだった頃のように冷たく、そして遠かった。
俺が何か話しかけても、返ってくるのは「はい」か「いいえ」か、「問題ありません」だけ。
あの秘密の筆談も、ぱったりと途絶えてしまった。
何かがおかしい。
俺が何か彼女を怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。
思い当たる節は一つしかない。
天宮さんだ。
俺がミスをして、天宮さんがそれを庇ってくれた。そして、俺は彼女に感謝した。
ただ、それだけのことだ。
だが、きっと彼女にとってはそれだけのことではなかったのだろう。
『他の女性と親しくするのは、未来の私への裏切りです』
かつて彼女が俺に言った言葉が頭の中で蘇る。
俺は彼女を裏切ってしまったのだろうか。
いや、でも、あの状況で天宮さんの優しさを無下になんてできなかった。
俺の頭の中は、ぐるぐると同じ思考を繰り返すばかりだった。
その日の放課後も、俺たちは静寂に包まれた教室で二人きりの作業を続けていた。
彼女は黙々とシフト表の最終調整を行っている。その横顔は完璧なポーカーフェイス。何を考えているのか、全く読み取れない。
俺は、その重苦しい沈黙に耐えられなくなっていた。
「……あのさ、雪城さん」
俺は意を決して彼女に話しかけた。
彼女はペンを動かす手を止めずに、視線も上げずに短く答えた。
「……何ですか」
「怒ってるのか? 俺、何かしたか?」
俺の問いに、彼女の手がぴたりと止まった。
数秒間の長い、長い沈黙。
やがて、彼女は顔を上げることなく、静かに、そして平坦な声で言った。
「別に。私は何も怒ってなどいません」
嘘だ。
そのあまりにも感情のない声が、逆に彼女が深い怒りの底にいることを雄弁に物語っていた。
「あなたが誰と親しくしようと、誰に助けてもらおうと、それはあなたの自由です。私にはそれを止める権利はありません」
その言葉は、まるで鋭いガラスの破片のようだった。
俺と彼女の間に、見えない壁がゆっくりと、しかし確実に作られていくのを感じる。
「……そんなこと、思ってないだろ」
「思っています。私は、ただの実行委員長ですから。あなたの個人的な人間関係に、口を出す立場にはありません」
彼女はそう言い切ると、再びシフト表に視線を落とした。
そして、何事もなかったかのようにペンを走らせ始める。
もうこれ以上会話を続ける気はない、という明確な拒絶の意思表示だった。
その静かで冷たい背中。
それは、今まで俺が見てきたどの彼女の姿よりも、俺の心を深く抉った。
怒鳴られた方がずっとマシだった。
泣かれた方がずっと楽だった。
この感情を完全にシャットアウトした完璧な無関心。それが何よりも俺を苦しめた。
俺は、彼女との間にできてしまった深くて冷たい溝を前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
何が悪かったのか、どうすればよかったのか、もう何も分からない。
ただ、一つだけ確かなこと。
俺は彼女を深く傷つけてしまった。
そして、その傷をどう癒せばいいのか、その方法を俺はまだ見つけられずにいた。
夏の終わりのあの温かい夜。
二人で交わしたあの固い約束。
その全てが、まるで遠い夢の中の出来事のように色褪せて見えた。
静寂に包まれた教室で、俺は初めて彼女を失うかもしれないという本当の恐怖を感じていた。
天宮さんの神対応によって、クラスの団結力はむしろ高まったかのように見えた。だが、俺と雪城さんの間に流れていた、あの特別で心地よかった空気はどこかへ消え失せてしまった。
彼女は俺と目を合わせようとしなくなった。
昼休みの進捗確認会議でも、彼女は俺を通してではなく直接各チームのリーダーに指示を出すようになった。
放課後、二人きりで残って作業をする時間も、彼女は必要最低限の言葉しか発しない。その声は、夏休み前のまだ俺たちがただのクラスメイトだった頃のように冷たく、そして遠かった。
俺が何か話しかけても、返ってくるのは「はい」か「いいえ」か、「問題ありません」だけ。
あの秘密の筆談も、ぱったりと途絶えてしまった。
何かがおかしい。
俺が何か彼女を怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。
思い当たる節は一つしかない。
天宮さんだ。
俺がミスをして、天宮さんがそれを庇ってくれた。そして、俺は彼女に感謝した。
ただ、それだけのことだ。
だが、きっと彼女にとってはそれだけのことではなかったのだろう。
『他の女性と親しくするのは、未来の私への裏切りです』
かつて彼女が俺に言った言葉が頭の中で蘇る。
俺は彼女を裏切ってしまったのだろうか。
いや、でも、あの状況で天宮さんの優しさを無下になんてできなかった。
俺の頭の中は、ぐるぐると同じ思考を繰り返すばかりだった。
その日の放課後も、俺たちは静寂に包まれた教室で二人きりの作業を続けていた。
彼女は黙々とシフト表の最終調整を行っている。その横顔は完璧なポーカーフェイス。何を考えているのか、全く読み取れない。
俺は、その重苦しい沈黙に耐えられなくなっていた。
「……あのさ、雪城さん」
俺は意を決して彼女に話しかけた。
彼女はペンを動かす手を止めずに、視線も上げずに短く答えた。
「……何ですか」
「怒ってるのか? 俺、何かしたか?」
俺の問いに、彼女の手がぴたりと止まった。
数秒間の長い、長い沈黙。
やがて、彼女は顔を上げることなく、静かに、そして平坦な声で言った。
「別に。私は何も怒ってなどいません」
嘘だ。
そのあまりにも感情のない声が、逆に彼女が深い怒りの底にいることを雄弁に物語っていた。
「あなたが誰と親しくしようと、誰に助けてもらおうと、それはあなたの自由です。私にはそれを止める権利はありません」
その言葉は、まるで鋭いガラスの破片のようだった。
俺と彼女の間に、見えない壁がゆっくりと、しかし確実に作られていくのを感じる。
「……そんなこと、思ってないだろ」
「思っています。私は、ただの実行委員長ですから。あなたの個人的な人間関係に、口を出す立場にはありません」
彼女はそう言い切ると、再びシフト表に視線を落とした。
そして、何事もなかったかのようにペンを走らせ始める。
もうこれ以上会話を続ける気はない、という明確な拒絶の意思表示だった。
その静かで冷たい背中。
それは、今まで俺が見てきたどの彼女の姿よりも、俺の心を深く抉った。
怒鳴られた方がずっとマシだった。
泣かれた方がずっと楽だった。
この感情を完全にシャットアウトした完璧な無関心。それが何よりも俺を苦しめた。
俺は、彼女との間にできてしまった深くて冷たい溝を前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
何が悪かったのか、どうすればよかったのか、もう何も分からない。
ただ、一つだけ確かなこと。
俺は彼女を深く傷つけてしまった。
そして、その傷をどう癒せばいいのか、その方法を俺はまだ見つけられずにいた。
夏の終わりのあの温かい夜。
二人で交わしたあの固い約束。
その全てが、まるで遠い夢の中の出来事のように色褪せて見えた。
静寂に包まれた教室で、俺は初めて彼女を失うかもしれないという本当の恐怖を感じていた。
0
あなたにおすすめの小説
小さい頃「お嫁さんになる!」と妹系の幼馴染みに言われて、彼女は今もその気でいる!
竜ヶ崎彰
恋愛
「いい加減大人の階段上ってくれ!!」
俺、天道涼太には1つ年下の可愛い幼馴染みがいる。
彼女の名前は下野ルカ。
幼少の頃から俺にベッタリでかつては将来"俺のお嫁さんになる!"なんて事も言っていた。
俺ももう高校生になったと同時にルカは中学3年生。
だけど、ルカはまだ俺のお嫁さんになる!と言っている!
堅物真面目少年と妹系ゆるふわ天然少女による拗らせ系ラブコメ開幕!!
クラスで一番人気者の女子が構ってくるのだが、そろそろ僕がコミュ障だとわかってもらいたい
みずがめ
恋愛
学生にとって、席替えはいつだって大イベントである。
それはカースト最下位のぼっちである鈴本克巳も同じことであった。せめて穏やかな学生生活をを求める克巳は陽キャグループに囲まれないようにと願っていた。
願いが届いたのか、克巳は窓際の後ろから二番目の席を獲得する。しかし喜んでいたのも束の間、彼の後ろの席にはクラスで一番の人気者の女子、篠原渚が座っていた。
スクールカーストでの格差がありすぎる二人。席が近いとはいえ、関わることはあまりないのだろうと思われていたのだが、渚の方から克巳にしょっちゅう話しかけてくるのであった。
ぼっち男子×のほほん女子のほのぼのラブコメです。
※あっきコタロウさんのフリーイラストを使用しています。
昔好きだったお姉さんが不倫されたので落としに行ったら後輩からも好かれていた
九戸政景
恋愛
高校三年生の柴代大和は、小学校一年生の頃からの付き合いである秋田泰希の姉である夕希に恋心を抱いていたが、夕希の結婚をきっかけに恋心を諦めていた。
そして小学生の頃の夢を見た日、泰希から大和は夕希の離婚を伝えられ、それと同時にある頼みをされる。
バイト先の先輩ギャルが実はクラスメイトで、しかも推しが一緒だった件
沢田美
恋愛
「きょ、今日からお世話になります。有馬蓮です……!」
高校二年の有馬蓮は、人生初のアルバイトで緊張しっぱなし。
そんな彼の前に現れたのは、銀髪ピアスのギャル系先輩――白瀬紗良だった。
見た目は派手だけど、話してみるとアニメもゲームも好きな“同類”。
意外な共通点から意気投合する二人。
だけどその日の帰り際、店長から知らされたのは――
> 「白瀬さん、今日で最後のシフトなんだよね」
一期一会の出会い。もう会えないと思っていた。
……翌日、学校で再会するまでは。
実は同じクラスの“白瀬さん”だった――!?
オタクな少年とギャルな少女の、距離ゼロから始まる青春ラブコメ。
友達の妹が、入浴してる。
つきのはい
恋愛
「交換してみない?」
冴えない高校生の藤堂夏弥は、親友のオシャレでモテまくり同級生、鈴川洋平にバカげた話を持ちかけられる。
それは、お互い現在同居中の妹達、藤堂秋乃と鈴川美咲を交換して生活しようというものだった。
鈴川美咲は、美男子の洋平に勝るとも劣らない美少女なのだけれど、男子に嫌悪感を示し、夏弥とも形式的な会話しかしなかった。
冴えない男子と冷めがちな女子の距離感が、二人暮らしのなかで徐々に変わっていく。
そんなラブコメディです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
元おっさんの幼馴染育成計画
みずがめ
恋愛
独身貴族のおっさんが逆行転生してしまった。結婚願望がなかったわけじゃない、むしろ強く思っていた。今度こそ人並みのささやかな夢を叶えるために彼女を作るのだ。
だけど結婚どころか彼女すらできたことのないような日陰ものの自分にそんなことができるのだろうか? 軟派なことをできる自信がない。ならば幼馴染の女の子を作ってそのままゴールインすればいい。という考えのもと始まる元おっさんの幼馴染育成計画。
※この作品は小説家になろうにも掲載しています。
※【挿絵あり】の話にはいただいたイラストを載せています。表紙はチャーコさんが依頼して、まるぶち銀河さんに描いていただきました。
学園の美人三姉妹に告白して断られたけど、わたしが義妹になったら溺愛してくるようになった
白藍まこと
恋愛
主人公の花野明莉は、学園のアイドル 月森三姉妹を崇拝していた。
クールな長女の月森千夜、おっとり系な二女の月森日和、ポジティブ三女の月森華凛。
明莉は遠くからその姿を見守ることが出来れば満足だった。
しかし、その情熱を恋愛感情と捉えられたクラスメイトによって、明莉は月森三姉妹に告白を強いられてしまう。結果フラれて、クラスの居場所すらも失うことに。
そんな絶望に拍車をかけるように、親の再婚により明莉は月森三姉妹と一つ屋根の下で暮らす事になってしまう。義妹としてスタートした新生活は最悪な展開になると思われたが、徐々に明莉は三姉妹との距離を縮めていく。
三姉妹に溺愛されていく共同生活が始まろうとしていた。
※他サイトでも掲載中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる