隣の席のクールな銀髪美少女、俺にだけデレるどころか未来の嫁だと宣言してきた

夏見ナイ

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第51話 天使の庇護、あるいは優しい棘

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文化祭準備は、いよいよ佳境に差し掛かっていた。
放課後の教室は、ダンボールの匂いとペンキの匂い、そして生徒たちの熱気でむせ返るようだ。
雪城委員長の完璧な指揮のもと、巨大な迷路のようなお化け屋敷の骨格が日に日にその姿を現していく。黒いビニールシートで覆われた教室は、昼間だというのに薄暗く、既に不気味な雰囲気を醸し出していた。
「相沢ー! こっちの壁、人手が足りねえ! 手伝え!」
「優斗くん、この小道具、どこに置けばいいかな?」
副委員長である俺は、もはや雑用係のプロフェッショナルと化していた。各セクションを駆け回り、指示を出し、足りない資材を運び、時には作業そのものにも加わる。目まぐるしい忙しさだったが、クラス全体が同じ目標に向かって一つになっている、この独特の高揚感が心地よかった。
そして何より、この戦場のような教室の司令塔の隣にいることが、俺の原動力になっていた。
「優斗さん。こちらのセクションの進捗が、予定より7%遅れています。原因を特定し、リカバリープランを提案してください」
教壇の位置から全体に鋭い指示を飛ばす雪城冬花。その姿は、もはや女王の貫禄十分だ。
「了解、委員長」
俺が少しだけふざけてそう返すと、彼女は誰にも気づかれないように、ほんのわずかに口元を緩ませた。
そんな二人だけの秘密のやり取り。それが、俺の疲労を吹き飛ばす最高の栄養ドリンクだった。

その日、俺は、お化け屋敷のクライマックスで使う一番大きな壁の塗装作業を手伝っていた。
「よし、この壁を真っ黒に塗りつぶせば、今日のノルマは達成だ!」
陽平が元気よくハケを手に取る。俺もペンキの缶を開け、作業に取り掛かった。
順調に作業は進んでいた。だが、その事件はほんの些細な不注意から起こった。
「おっと!」
俺が足元に置いてあった別のペンキ缶に気づかず、蹴飛ばしてしまったのだ。
白いペンキが入った缶は綺麗な放物線を描いて宙を舞い、そして俺たちが必死に黒く塗っていた一番大きな壁に無慈悲にぶちまけられた。
バシャッ、という絶望的な音。
今まで真っ黒だった壁に、無残な白い染みが大きく広がった。
シン、と教室の空気が凍りつく。
全ての作業が止まり、クラス中の視線が、俺と壁の白い染みに突き刺さった。

「お……おい、相沢……」
陽平が青ざめた顔で呟く。
「何やってんだよ、お前!」
壁の近くで作業していた男子の一人が怒鳴り声を上げた。
「この壁、一番目立つとこだぞ! どうすんだよ、これ!」
「乾く前に拭かないと!」
「いや、もう無理だろこれ……」
非難と絶望の声。俺は頭が真っ白になり、その場で立ち尽くすことしかできなかった。
「ご、ごめん……。俺……」
かろうじて絞り出した謝罪の声は、情けないほどに震えていた。
その最悪の空気の中だった。

「大丈夫だよ!」

凛とした、しかしどこまでも優しい声が響いた。
天宮夏帆さんだった。
彼女は慌てて駆け寄ってくると、俺と責め立てる男子たちとの間に割って入るように立った。
「わざとじゃないんだから、そんなに責めないであげて! 誰にだって失敗はあるでしょ?」
彼女はまるで俺を守る女神のようにそう言った。
そして俺に向き直ると、太陽みたいな笑顔でにっこりと微笑んだ。
「気にしないで、相沢くん。大丈夫、大丈夫。こういうのは、みんなで協力して直せばすぐだよ!」
彼女はそう言うと、近くにあった雑巾を手に取り、率先して壁のペンキを拭き取り始めた。
「ほら、みんなも手伝って! 乾いちゃう前に!」
彼女のその一声で、凍りついていたクラスの空気が少しずつ動き出す。
「……まあ、仕方ねえか」
「天宮さんが言うなら」
何人かの女子が彼女に続いて雑巾を手にしてくれた。陽平も「しゃーねえな!」と俺の肩を叩いて作業に加わる。
俺はそんな光景を、ただ呆然と見つめていた。
天宮さんのその圧倒的なまでの優しさとカリスマ性。
彼女は、俺が作り出してしまった最悪の状況を、一瞬で立て直してしまった。
「……ありがとう、天宮さん。本当に、ごめん」
俺が改めて彼女に頭を下げると、彼女は悪戯っぽく笑って、俺の鼻についたペンキを指でそっと拭ってくれた。
「ううん。副委員長さん、いつも頑張ってるから疲れが出ちゃったんだよ。たまには私たちにも頼ってね?」
そのあまりにも自然で、あまりにも優しい仕草。
俺の心臓が、ちくりと小さく痛んだ。
彼女の優しさが嬉しかった。ありがたかった。
でも、同時にどうしようもない申し訳なさと居心地の悪さを感じていた。
俺は、この優しさに応えることができないから。

そして、俺は気づいてしまった。
その一連の流れを。
少し離れた場所からじっと見つめている、一対の氷の瞳に。
雪城冬花だった。
彼女は教壇の前に立ったまま腕を組み、俺と天宮さんのやり取りを無表情でただ見ていた。
彼女は何も言わなかった。
「大丈夫ですか?」と駆け寄ってくることもなかった。
「こうすれば、もっと効率的に修復できます」と的確な指示を出すこともなかった。
ただ静かに、俺たちがペンキを拭き取る様子を見つめているだけ。
やがて彼女は、ふい、と俺たちから視線を外した。
そして、くるりと踵を返すと何事もなかったかのように自分の作業――山積みになった書類の整理――に戻っていった。
その背中は、いつもと同じように真っ直ぐで美しかった。
だが、今の俺には、その背中が見たこともないほど冷たく、そして遠いものに見えた。

壁の染みはクラスメイトたちの協力のおかげで、なんとか目立たないレベルにまで修復することができた。
だが、俺の心に残ったざらりとした感覚は消えることがなかった。
なぜ、彼女は何も言ってくれなかったのだろう。
なぜ、助けてくれなかったのだろう。
以前の彼女なら、きっと何か言ってくれたはずだ。
その小さな、しかし確かな違和感。
それはまるでガラスに入った、目に見えないほどの小さなひび割れのように。
俺たちの間に生まれた最初の『すれ違い』が、静かにその影を落とし始めていたことを、俺はまだ本当の意味では理解していなかった。
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