「働きたくない…」と本気で祈ったら怠惰の神が降臨。【フルオート】で身の回りを快適にしていたら、インフラを整備した救国の英雄になっていた

夏見ナイ

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第五十六話 帝国の諜報員

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月明かりすらない新月の夜。
アルテア王国とガルニア帝国の国境に広がる深い森の中を、一つの影が疾風のように駆け抜けていた。

男の名はゼクス。帝国諜報機関『黒き蠍』の中でも最高の腕を持つとされる五人の精鋭『影(シャドウ)』の一人。その存在は帝国軍最高幹部にすら知らされておらず、皇帝直属の刃としてこれまで数々の不可能任務を遂行してきた。

彼の今回の任務は一つ。
アルテア王国東部辺境に現れたという『賢者』の正体を暴き、その力の源泉を帝国へ持ち帰ること。

ゼクスは音も気配も完全に消し、闇に溶け込んでいた。国境警備隊の厳重な警戒網を、まるで存在しないかのように通り抜ける。彼にとってそれは朝の散歩ほどの難易度でしかなかった。

やがて彼の眼前に、例の『賢者の道』が現れた。夜の闇の中、淡く発光するその道は確かに噂通りの異様な光景だった。

「……なるほど。これは人の業ではないな」

ゼクスはその石畳を指でなぞり、冷静に分析する。寸分の狂いもない加工精度。内部に練り込まれた魔光石。そして道そのものから感じる、微弱だが極めて安定した魔力の残滓。

彼はその道を走らなかった。敵地に残す痕跡は最小限に留める。それが諜報員の鉄則だ。彼は街道の脇の森の中を、道と並行して驚異的な速度で走り続けた。

一夜にして、彼は目的の村が見える丘まで到達した。
日の出前の薄明かりの中、ゼクスは木の上から村の全景を観察する。

平和だ。
あまりにも平和すぎる。

豊かに実る畑。活気に満ちた市場。そして村人たちの顔に浮かぶ、何の憂いもない笑顔。情報にあった通り、貧しい辺境の村というイメージとはかけ離れていた。

そして何よりも異常なのは、その警備体制だった。村の入り口、森との境界、そして村の外れにある一軒家を取り囲むように、明らかに正規の訓練を受けた騎士たちが鋭い視線を光らせている。

「……王家の紋章。しかも、あの女は……」

ゼクスの鷹のような目が、騎士たちを指揮する一人の女性を捉えた。燃えるような赤い髪。凛とした立ち姿。間違いない。アルテア王国の第一王女、アリア・フォン・アルテア。

「王女自らがこんな辺境の警備に? 面白い」

ゼクスの口元にかすかな笑みが浮かんだ。この村にはそれだけの価値があるということだ。

昼間、ゼクスはみすぼらしい旅人に変装し村へと潜入した。彼の完璧な変装はアリアの騎士たちの目すらも欺いた。

彼はまず村人から情報を引き出そうと試みた。酒場に入り、隣に座った農夫に何気なく話しかける。

「いやあ、この村は活気があっていいですな。何か特別な産物でもあるんですかい?」

農夫は待ってましたとばかりに顔を輝かせた。

「旅の人かい? よくぞ聞いてくれた! この村にはな、我らが賢者様がおわしますのだ!」

そこから始まったのは情報ではなく、信仰告白だった。一夜にして大地を変え、泉を湧かせ、天災すらもねじ伏せたという、もはや神話の域に達した物語。ゼクスが賢者の人となりについて尋ねても、返ってくる答えは同じだった。

「賢者様は慈悲深く、そして深遠なるお方だ!」
「我々にはそのお姿を拝むことすらできぬ、雲の上の存在よ」

具体的な情報は一つも得られなかった。村人たちは誰も賢者の顔も知なければ、直接言葉を交わしたこともない。ただその偉業を信じ、崇めているだけだった。

(……狂信か。あるいは集団催眠の類か。だが、この村の豊かさは本物だ)

ゼクスは次に、商業都市『レイジ・シティ』へと足を運んだ。ここでも状況は同じだった。商人たちは「商業神」の化身たる賢者の偉大さを熱っぽく語るだけで、その正体に関するまともな情報は一つも持っていなかった。

だが、一つの共通点があった。
村人も商人も、その信仰の全てを村の外れにあるあの一軒家に向けていた。

「目標地点は確定だな」

その夜。ゼクスは再び闇の衣をまとった。
アリアの騎士団が敷く鉄壁の警備網。昼間にその配置、巡回ルート、交代時間、そして個々の騎士の癖まで全て記憶していた。

風が彼の味方をした。
騎士が欠伸をしたほんの一瞬の隙。
雲が月を隠し影が深くなった刹那の暗闇。

ゼクスはそれらの僅かな綻びを完璧に突き、誰にも気づかれることなく警備網の内部へと侵入した。

彼の目の前に、目標の家が静かに佇んでいた。
古びた何の変哲もない家。ここからあの数々の奇跡が生まれたとは到底信じがたい。

だが、近づくにつれてゼクスの肌が粟立った。

何かある。
目には見えない、しかし確かな『何か』がこの家を守っている。空気そのものがここでは密度が違うかのように、重く、そして張り詰めている。

(……結界か。それも相当に高度な)

ゼクスは懐から小さな水晶片を取り出した。帝国製の魔力探知用の魔道具だ。だが水晶はうんともすんとも言わない。

(魔力に反応しない? 隠蔽されているのか、それとも我々の知らない全く別のエネルギー体系なのか)

謎は深まるばかり。
だが彼の任務は、謎を持ち帰ることではない。謎を『解き明かす』ことだ。

ゼクスは家の壁際まで音もなく接近した。そして建物の構造を確かめるため、その古びた木の壁にそっと指を伸ばした。

彼の指先が壁に触れる寸前。

ピタリ、と彼の動きが止まった。

彼の全身を、経験したことのない悪寒が背骨を駆け上った。

それは殺気ではない。威圧でもない。
もっと根源的で、静かで、そして絶対的な『拒絶』の感覚。

まるで一個の生命体が、体内に侵入しようとする異物を認識したかのような冷たい反応。

『見ている』

誰かに見られている。
いや、この家そのものに見られている。

ゼクスは諜報員として叩き込まれた全ての技術と、幾多の死線を乗り越えてきた第六感の全てで悟った。

これ以上踏み込めば、死ぬ。

理由も過程も分からない。
だがその『結果』だけが、絶対的な真実として彼の魂に直接突き刺さってきた。

彼はゆっくりと、そして慎重に壁から手を引いた。
そして一歩、また一歩と影の中へと後ずさる。

帝国最高の『影』は、その生涯で初めて任務を中断し撤退するという屈辱的な決断を下した。

その夜。
ベッドの中で俺は心地よい眠りについていた。

だが夢うつつの中で、俺の脳の片隅にあるシステムログが、一つの通知を記録していた。

《【安眠守護システム】が、未登録の生命体の接近を感知》
《対象の敵意レベル:低(監視/探査)。警告プロトコル、フェーズ1にて待機》
《対象、脅威圏内より離脱。監視を継続》

俺はそんなことに全く気づかず、ただ一つ、平和な寝返りを打っただけだった。
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