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第60話:故国からの使者
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リリアーナの日常は、春の小川のように穏やかに流れていた。
闇の教団による暗殺未遂事件など彼女は露ほども知らない。アシュレイとレオナルドが張り巡らせた見えない守りの中で、彼女はただ自分の務めとささやかな幸福を噛み締める毎日を送っていた。
彼女が刺繍した勿忘草のハンカチは、今やアシュレイが公務の際に必ず懐に忍ばせるお守りのような存在になっていた。
しかしその穏やかな水面を揺るがす波紋が、遠い故国から静かに、しかし確実に広がってきていた。
その日、皇城の謁見の間には緊張した空気が漂っていた。
皇帝アルフォンスと、その隣に立つアシュレイの前で宰相が神妙な面持ちで報告を行っていた。
「……バークレイ王国より、正式な使節団派遣の申し入れがございました」
その言葉に、その場にいた大臣たちの間に微かな動揺が走る。
「目的は両国の友好親善と、先の魔物の暴走に対する見舞いとのことですが……」
宰相は言葉を濁した。
その真の目的がそんな綺麗事でないことは、ここにいる誰もが分かっていた。
「時期が悪すぎる」
アシュレイが冷たく言い放った。
「自国の疫病と魔物の対処に追われているはずの国が、友好親善だと? 笑わせる」
彼の青い瞳は全てを見透かしていた。
「奴らの狙いはリリアーナだ」
謁見の間がしんと静まり返る。
皇帝アルフォンスが重々しく口を開いた。
「……であろうな。『帝国の聖女』の噂はすでに大陸中に広まっている。藁にもすがりたいというのが本音であろう」
その声にはバークレイ王家の浅はかさに対する、隠しようもない軽蔑が滲んでいた。
アシュレイは皇帝に向き直った。
「父上。この件、私に一任願えますか」
「うむ。そなたに任せる」
皇帝は息子に全幅の信頼を寄せていた。
アシュレイは宰相とレオナルドに視線を移すと、次々と命令を下していく。
「使節団は受け入れろ。だが国賓待遇など不要だ。帝都の外れにある迎賓館に滞在させ、行動は常に監視下に置け」
「はっ」
「そして最も重要なことだ」
アシュレイの声が一段と低くなった。その声には絶対的な意志が込められている。
「この一件、リリアーナの耳には決して入れるな。彼女に使節団の存在を知らせることも接触させることも、断じて許さん」
彼の徹底した庇護の姿勢に、大臣たちは息をのんだ。
「彼女の心を過去の亡霊で乱す必要はない。奴らが誰を寄越そうと何を言ってこようと、リリアーナは帝国が保護する。それだけだ」
その言葉はもはや一国の皇太子のものというより、愛する女を守ると誓った一人の男の宣言だった。
数日後、バークレイ王国の使節団が帝都エルミリアに到着した。
物々しい騎士団に護衛されながら彼らが案内されたのは、華やかな王城ではなく市街地の外れにある古風な迎賓館だった。丁重だが明らかに一線を画した帝国の対応に、使節団の者たちの顔には不満の色が浮かんだ。
その夜。
迎賓館の一室で、使節団を代表する老伯爵が苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。
「……手厳しいな、帝国は。聖女様との謁見を申し入れたが『祈りの最中』とやらで、けんもほろろに断られたわ」
「やはり正面からでは無理ですか」
部屋の影から若い男の声がした。
「ああ。噂に違わぬ鉄壁の守りだ。氷の皇子がよほど彼女を囲い込んでいると見える」
老伯爵はため息をついた。
「しかし我々にはもう後がない。国王陛下は病に倒れ、国は滅びかけている。聖女様を連れ戻すことだけが、我らが生き残る唯一の道なのだ」
「分かっております」
影の中から一人の青年が姿を現した。
その顔を見た老伯爵は深く頭を垂れる。
青年は窓の外にそびえる皇城を、暗く粘つくような瞳で見つめていた。
自分が捨てたはずの玩具が手の届かない場所で、見たこともないほど輝いている。
その光景が彼の歪んだ自尊心を激しく刺激した。
「……どんな手を使っても、必ず」
青年は歯ぎしりしながら呟いた。
「リリアーナは私が連れ戻す。彼女は私のものなのだから」
使節団の真の長であるその青年が、かつてリリアーナを不要だと断罪した張本人、セドリック王子であることに帝国側はまだ気づいていない。
彼の愚かな執着がやがて帝国の静かな怒りを買うことになるのを、彼はまだ知らなかった。
故国からの使者は友好の使者ではなく、過去という名の災厄を運ぶ不吉な凶鳥だった。
闇の教団による暗殺未遂事件など彼女は露ほども知らない。アシュレイとレオナルドが張り巡らせた見えない守りの中で、彼女はただ自分の務めとささやかな幸福を噛み締める毎日を送っていた。
彼女が刺繍した勿忘草のハンカチは、今やアシュレイが公務の際に必ず懐に忍ばせるお守りのような存在になっていた。
しかしその穏やかな水面を揺るがす波紋が、遠い故国から静かに、しかし確実に広がってきていた。
その日、皇城の謁見の間には緊張した空気が漂っていた。
皇帝アルフォンスと、その隣に立つアシュレイの前で宰相が神妙な面持ちで報告を行っていた。
「……バークレイ王国より、正式な使節団派遣の申し入れがございました」
その言葉に、その場にいた大臣たちの間に微かな動揺が走る。
「目的は両国の友好親善と、先の魔物の暴走に対する見舞いとのことですが……」
宰相は言葉を濁した。
その真の目的がそんな綺麗事でないことは、ここにいる誰もが分かっていた。
「時期が悪すぎる」
アシュレイが冷たく言い放った。
「自国の疫病と魔物の対処に追われているはずの国が、友好親善だと? 笑わせる」
彼の青い瞳は全てを見透かしていた。
「奴らの狙いはリリアーナだ」
謁見の間がしんと静まり返る。
皇帝アルフォンスが重々しく口を開いた。
「……であろうな。『帝国の聖女』の噂はすでに大陸中に広まっている。藁にもすがりたいというのが本音であろう」
その声にはバークレイ王家の浅はかさに対する、隠しようもない軽蔑が滲んでいた。
アシュレイは皇帝に向き直った。
「父上。この件、私に一任願えますか」
「うむ。そなたに任せる」
皇帝は息子に全幅の信頼を寄せていた。
アシュレイは宰相とレオナルドに視線を移すと、次々と命令を下していく。
「使節団は受け入れろ。だが国賓待遇など不要だ。帝都の外れにある迎賓館に滞在させ、行動は常に監視下に置け」
「はっ」
「そして最も重要なことだ」
アシュレイの声が一段と低くなった。その声には絶対的な意志が込められている。
「この一件、リリアーナの耳には決して入れるな。彼女に使節団の存在を知らせることも接触させることも、断じて許さん」
彼の徹底した庇護の姿勢に、大臣たちは息をのんだ。
「彼女の心を過去の亡霊で乱す必要はない。奴らが誰を寄越そうと何を言ってこようと、リリアーナは帝国が保護する。それだけだ」
その言葉はもはや一国の皇太子のものというより、愛する女を守ると誓った一人の男の宣言だった。
数日後、バークレイ王国の使節団が帝都エルミリアに到着した。
物々しい騎士団に護衛されながら彼らが案内されたのは、華やかな王城ではなく市街地の外れにある古風な迎賓館だった。丁重だが明らかに一線を画した帝国の対応に、使節団の者たちの顔には不満の色が浮かんだ。
その夜。
迎賓館の一室で、使節団を代表する老伯爵が苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。
「……手厳しいな、帝国は。聖女様との謁見を申し入れたが『祈りの最中』とやらで、けんもほろろに断られたわ」
「やはり正面からでは無理ですか」
部屋の影から若い男の声がした。
「ああ。噂に違わぬ鉄壁の守りだ。氷の皇子がよほど彼女を囲い込んでいると見える」
老伯爵はため息をついた。
「しかし我々にはもう後がない。国王陛下は病に倒れ、国は滅びかけている。聖女様を連れ戻すことだけが、我らが生き残る唯一の道なのだ」
「分かっております」
影の中から一人の青年が姿を現した。
その顔を見た老伯爵は深く頭を垂れる。
青年は窓の外にそびえる皇城を、暗く粘つくような瞳で見つめていた。
自分が捨てたはずの玩具が手の届かない場所で、見たこともないほど輝いている。
その光景が彼の歪んだ自尊心を激しく刺激した。
「……どんな手を使っても、必ず」
青年は歯ぎしりしながら呟いた。
「リリアーナは私が連れ戻す。彼女は私のものなのだから」
使節団の真の長であるその青年が、かつてリリアーナを不要だと断罪した張本人、セドリック王子であることに帝国側はまだ気づいていない。
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