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第9話 故郷へ
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どれだけ泣き続けたのか、アレンには分からなかった。気づけば東の空が白み始め、夜の闇はインクを水に溶かしたように薄れていた。裏路地に差し込む朝の光が、昨夜の出来事が夢ではないと冷酷に告げている。
涙は枯れ果て、代わりに虚脱感だけが残っていた。心にぽっかりと穴が開き、冷たい風が吹き抜けていく。彼は汚れた壁に背を預けたまま、ぼんやりと空を眺めた。小鳥のさえずりが聞こえる。平和な朝。しかし、その平和はアレンの世界とは全く無関係だった。
ポケットの中で、硬い感触があった。ジェイクが投げ捨てた数枚の銅貨。アレンはそれを取り出し、手のひらの上で見つめた。これが、今の彼の全財産。Sランクパーティのヒーラーとして過ごした数年間で、彼の手元に残ったのはこの屈辱の証だけだった。
(このままでは、駄目だ)
ふと、そんな思いが頭をもたげた。
このまま朽ち果てるのか。こんな街の裏路地で、誰にも知られず、飢えて死ぬのか。
冗談じゃない。
あれだけ自分を馬鹿にした連中に、そんな結末を笑われてたまるものか。
生きなければ。
何のために、という目的はない。ただ、生きなければならない。
その本能的な衝動が、アレンの体を突き動かした。彼は壁に手をつき、軋む体をゆっくりと起こす。足の傷がまだ痛むが、昨夜よりは幾分かましになっていた。
まずは、この街を出よう。そして、冒険者を辞めよう。
ギルドでの屈辱的な体験が、彼の心を完全に折ると同時に、ある種の決意を固めさせていた。もう二度と、他人の評価に怯え、誰かの道具として利用される人生はごめんだ。
アレンは裏路地から大通りへ出た。朝の市場はすでに活気づき、新鮮な野菜や果物を並べる店主の威勢のいい声が響いている。その喧騒の中を、彼は幽霊のように彷徨った。人々の視線が痛い。誰もが自分の惨めな姿を指差して笑っているような気がした。
彼は銅貨を握りしめ、一番隅にあった小さなパン屋へ向かった。そこで一番安い、石のように硬い黒パンをいくつか買った。次に、古道具屋でひびの入った古い皮袋を一つ。これで水を確保できる。なけなしの金は、それだけでほとんど消えた。
店主の憐れむような目が辛かった。だが、アレンは何も言わず、ただ深く頭を下げて商品を受け取った。最後に、店の隅に積まれていた古着の山から、継ぎ接ぎだらけのフード付きマントを銅貨一枚で譲ってもらった。これで、少なくとも人目を少しは避けられる。
最低限の旅支度を整えたアレンは、誰に声をかけるでもなく、アークライトの西門へと向かった。
門をくぐり、一度だけ街を振り返る。楽しかった思い出など一つもない。あるのは屈辱と絶望の記憶だけだ。彼はもう二度とこの街に戻ることはないだろうと確信し、静かに背を向けた。
目的地は、故郷の村。
王都から遠く離れた、大陸の西の果てにある辺境の村だ。
幼い頃に両親を流行り病で亡くし、天涯孤独の身となったアレンが育った場所。冒険者になるという夢を抱いて飛び出した、懐かしい故郷。まさか、こんな形で帰ることになるとは、夢にも思わなかった。
乾いた街道を、アレンは一人とぼとぼと歩き始めた。
歩きながら、これまでのことが走馬灯のように頭を駆け巡る。
冒険者学校に通っていた頃は、まだ夢があった。
自分にヒーラーとしての才能が乏しいことは、早くから分かっていた。他の生徒が次々と新しい魔法を習得していく中で、自分はいつまでたっても《ヒール》と《デトックス》しか使えなかった。それでも、リリアだけはいつも隣で励ましてくれた。
「アレンのヒールは、誰よりも温かい光をしているよ」
「すごい魔法が使えなくたっていいじゃない。誰かの傷を癒せるだけで、立派なヒーラーだよ」
彼女の言葉が、劣等感に苛まれるアレンの唯一の支えだった。人の役に立ちたい。その一心で、彼は必死に努力した。
【熾天の剣】に加入できた時は、天にも昇る気持ちだった。
リリアの推薦という形ではあったが、それでも大陸最強と謳われるパーティの一員になれた。ガリウスの神がかった剣技。ティナの全てを焼き尽くす魔法。ジェイクの神出鬼没の動き。その全てが眩しく、憧れの対象だった。いつか自分も、彼らと肩を並べて戦えるようになりたい。そう本気で願っていた。
最初の頃は、まだ関係も良好だった。
アレンはパーティのために、できることは何でもやった。荷物持ちも、食事の準備も、野営の設営も、全て率先して引き受けた。戦闘で役に立てない分、せめて他のことで貢献したかったからだ。ガリウスたちも、最初は「気が利くな」と褒めてくれたこともあった。
いつからだろうか。全てが歪み始めたのは。
パーティの名声が高まるにつれ、ガリウスの傲慢さは増していった。彼は自分の力を過信し、より危険で無謀な戦い方をするようになった。アレンの回復があることを前提に、防御を完全に捨てた突撃を繰り返す。
アレンの役割は、いつしか「仲間を癒すヒーラー」から、「ガリウスという最強の剣を研ぐための砥石」へと変わっていた。彼の存在は、ガリウスをさらに無謀にさせるための装置でしかなかった。
ティナやジェイクの態度も、徐々に冷たくなっていった。彼らはガリウスの強さに心酔していた。そのガリウスがアレンを罵倒するようになると、彼らもそれに倣うようにアレンを見下すようになった。それはまるで、強い獣に媚びへつらう弱い獣のようだった。
リリアとの間にも、いつしか見えない壁ができていた。
聖女として神殿からもてはやされ、民衆から崇められる彼女は、もうアレンの知っている幼馴染ではなかった。彼女はアレンの境遇に同情はしてくれても、ガリウスに逆らってまで助けてはくれない。彼女は聖女である前に、【熾天の剣】の一員であり、その地位を守りたかったのだ。結局、彼女も自分のいる世界を選んだ。アレンのいる世界を、切り捨てて。
そして、あの追放宣告。
仲間だと思っていた者たちの、冷たい目。嘲りの声。
それらが、アレンが抱いていた淡い幻想の全てを打ち砕いた。
彼らは、最初からアレンを仲間などとは思っていなかったのだ。ただの便利な道具。それ以下でも、それ以上でもなかった。
回想からふと我に返ると、太陽はすでに真上に昇っていた。
喉がカラカラに乾き、足の傷が再び痛み出す。皮袋の水を一口だけ飲み、乾パンを少しだけ齧る。味などしない。ただ、生きるための燃料を体に詰め込むだけの作業だった。
この旅は、決して楽なものではない。故郷までは、歩けば一月以上かかる距離だ。野盗に襲われるかもしれないし、モンスターに遭遇するかもしれない。食料が尽きて、飢え死にする可能性だってある。
生きて故郷にたどり着ける保証など、どこにもない。
それでも、アレンは歩みを止めなかった。
もう失うものは、何もない。守るべきプライドも、信じるべき絆も、追いかけるべき夢も、全てあのダンジョンに置いてきた。
今の彼を動かしているのは、ただ一つ。
「生きたい」という、あまりにも純粋で、そして強靭な意志だけだった。
夕日が地平線に沈み、彼の影を長く長く伸ばしていく。
その影は、ひどく孤独で、ちっぽけに見えた。
だが、その影の主は、確かに前を向いて歩き続けていた。果てしなく続く荒野の道を、たった一人で。
涙は枯れ果て、代わりに虚脱感だけが残っていた。心にぽっかりと穴が開き、冷たい風が吹き抜けていく。彼は汚れた壁に背を預けたまま、ぼんやりと空を眺めた。小鳥のさえずりが聞こえる。平和な朝。しかし、その平和はアレンの世界とは全く無関係だった。
ポケットの中で、硬い感触があった。ジェイクが投げ捨てた数枚の銅貨。アレンはそれを取り出し、手のひらの上で見つめた。これが、今の彼の全財産。Sランクパーティのヒーラーとして過ごした数年間で、彼の手元に残ったのはこの屈辱の証だけだった。
(このままでは、駄目だ)
ふと、そんな思いが頭をもたげた。
このまま朽ち果てるのか。こんな街の裏路地で、誰にも知られず、飢えて死ぬのか。
冗談じゃない。
あれだけ自分を馬鹿にした連中に、そんな結末を笑われてたまるものか。
生きなければ。
何のために、という目的はない。ただ、生きなければならない。
その本能的な衝動が、アレンの体を突き動かした。彼は壁に手をつき、軋む体をゆっくりと起こす。足の傷がまだ痛むが、昨夜よりは幾分かましになっていた。
まずは、この街を出よう。そして、冒険者を辞めよう。
ギルドでの屈辱的な体験が、彼の心を完全に折ると同時に、ある種の決意を固めさせていた。もう二度と、他人の評価に怯え、誰かの道具として利用される人生はごめんだ。
アレンは裏路地から大通りへ出た。朝の市場はすでに活気づき、新鮮な野菜や果物を並べる店主の威勢のいい声が響いている。その喧騒の中を、彼は幽霊のように彷徨った。人々の視線が痛い。誰もが自分の惨めな姿を指差して笑っているような気がした。
彼は銅貨を握りしめ、一番隅にあった小さなパン屋へ向かった。そこで一番安い、石のように硬い黒パンをいくつか買った。次に、古道具屋でひびの入った古い皮袋を一つ。これで水を確保できる。なけなしの金は、それだけでほとんど消えた。
店主の憐れむような目が辛かった。だが、アレンは何も言わず、ただ深く頭を下げて商品を受け取った。最後に、店の隅に積まれていた古着の山から、継ぎ接ぎだらけのフード付きマントを銅貨一枚で譲ってもらった。これで、少なくとも人目を少しは避けられる。
最低限の旅支度を整えたアレンは、誰に声をかけるでもなく、アークライトの西門へと向かった。
門をくぐり、一度だけ街を振り返る。楽しかった思い出など一つもない。あるのは屈辱と絶望の記憶だけだ。彼はもう二度とこの街に戻ることはないだろうと確信し、静かに背を向けた。
目的地は、故郷の村。
王都から遠く離れた、大陸の西の果てにある辺境の村だ。
幼い頃に両親を流行り病で亡くし、天涯孤独の身となったアレンが育った場所。冒険者になるという夢を抱いて飛び出した、懐かしい故郷。まさか、こんな形で帰ることになるとは、夢にも思わなかった。
乾いた街道を、アレンは一人とぼとぼと歩き始めた。
歩きながら、これまでのことが走馬灯のように頭を駆け巡る。
冒険者学校に通っていた頃は、まだ夢があった。
自分にヒーラーとしての才能が乏しいことは、早くから分かっていた。他の生徒が次々と新しい魔法を習得していく中で、自分はいつまでたっても《ヒール》と《デトックス》しか使えなかった。それでも、リリアだけはいつも隣で励ましてくれた。
「アレンのヒールは、誰よりも温かい光をしているよ」
「すごい魔法が使えなくたっていいじゃない。誰かの傷を癒せるだけで、立派なヒーラーだよ」
彼女の言葉が、劣等感に苛まれるアレンの唯一の支えだった。人の役に立ちたい。その一心で、彼は必死に努力した。
【熾天の剣】に加入できた時は、天にも昇る気持ちだった。
リリアの推薦という形ではあったが、それでも大陸最強と謳われるパーティの一員になれた。ガリウスの神がかった剣技。ティナの全てを焼き尽くす魔法。ジェイクの神出鬼没の動き。その全てが眩しく、憧れの対象だった。いつか自分も、彼らと肩を並べて戦えるようになりたい。そう本気で願っていた。
最初の頃は、まだ関係も良好だった。
アレンはパーティのために、できることは何でもやった。荷物持ちも、食事の準備も、野営の設営も、全て率先して引き受けた。戦闘で役に立てない分、せめて他のことで貢献したかったからだ。ガリウスたちも、最初は「気が利くな」と褒めてくれたこともあった。
いつからだろうか。全てが歪み始めたのは。
パーティの名声が高まるにつれ、ガリウスの傲慢さは増していった。彼は自分の力を過信し、より危険で無謀な戦い方をするようになった。アレンの回復があることを前提に、防御を完全に捨てた突撃を繰り返す。
アレンの役割は、いつしか「仲間を癒すヒーラー」から、「ガリウスという最強の剣を研ぐための砥石」へと変わっていた。彼の存在は、ガリウスをさらに無謀にさせるための装置でしかなかった。
ティナやジェイクの態度も、徐々に冷たくなっていった。彼らはガリウスの強さに心酔していた。そのガリウスがアレンを罵倒するようになると、彼らもそれに倣うようにアレンを見下すようになった。それはまるで、強い獣に媚びへつらう弱い獣のようだった。
リリアとの間にも、いつしか見えない壁ができていた。
聖女として神殿からもてはやされ、民衆から崇められる彼女は、もうアレンの知っている幼馴染ではなかった。彼女はアレンの境遇に同情はしてくれても、ガリウスに逆らってまで助けてはくれない。彼女は聖女である前に、【熾天の剣】の一員であり、その地位を守りたかったのだ。結局、彼女も自分のいる世界を選んだ。アレンのいる世界を、切り捨てて。
そして、あの追放宣告。
仲間だと思っていた者たちの、冷たい目。嘲りの声。
それらが、アレンが抱いていた淡い幻想の全てを打ち砕いた。
彼らは、最初からアレンを仲間などとは思っていなかったのだ。ただの便利な道具。それ以下でも、それ以上でもなかった。
回想からふと我に返ると、太陽はすでに真上に昇っていた。
喉がカラカラに乾き、足の傷が再び痛み出す。皮袋の水を一口だけ飲み、乾パンを少しだけ齧る。味などしない。ただ、生きるための燃料を体に詰め込むだけの作業だった。
この旅は、決して楽なものではない。故郷までは、歩けば一月以上かかる距離だ。野盗に襲われるかもしれないし、モンスターに遭遇するかもしれない。食料が尽きて、飢え死にする可能性だってある。
生きて故郷にたどり着ける保証など、どこにもない。
それでも、アレンは歩みを止めなかった。
もう失うものは、何もない。守るべきプライドも、信じるべき絆も、追いかけるべき夢も、全てあのダンジョンに置いてきた。
今の彼を動かしているのは、ただ一つ。
「生きたい」という、あまりにも純粋で、そして強靭な意志だけだった。
夕日が地平線に沈み、彼の影を長く長く伸ばしていく。
その影は、ひどく孤独で、ちっぽけに見えた。
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