無能と蔑まれた悪役貴族、実は人の心を数値化できる最強の傀儡師でした ~感情を支配するスキルで、腐敗した帝国を裏から作り変えます~

夏見ナイ

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第二十八話:心を開く温かい食事

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湯気の立つスープと、ふかふかしたパン。
獣人族の少女リリアは、目の前に置かれた食事を、ただ呆然と見つめていた。彼女の人生において、温かい食べ物というものは存在しなかった。残飯、泥水、時には石ころを口にさせられることもあった。それが、奴隷としての彼女の日常だった。

だから、理解できなかった。なぜ、この銀髪の少年は自分にこんなものを与えるのか。これは罠ではないのか。これを食べたら、もっと酷い目に遭わされるのではないか。
彼女の心は、「恐怖」と「戸惑い」でがんじがらめになっていた。

「食べないのか」
アッシュの静かな声が響く。リリアの肩がびくりと震えた。
「毒など入っていない。腹が減っているだろう」

その言葉に嘘はなかった。アッシュの感情は、凪いだ湖面のように平坦だった。リリアは、おそるおそるアッシュの顔を見上げる。その赤い瞳は、自分を値踏みしているようでもあり、ただ観察しているようでもあった。少なくとも、これまで見てきた奴隷商人たちのような、粘つくような欲望の色はなかった。

リリアは、震える手でスープの器に触れた。温かい。その温もりが、凍てついた指先から、心の奥へとじんわりと伝わっていくようだった。彼女は意を決し、器を手に取ると、スープを一口、口に含んだ。

その瞬間、リリアの大きな瞳が、これ以上ないほど見開かれた。
肉と野菜の旨味が溶け込んだ、優しい味。塩気。そして何より、温かさ。その全てが、生まれて初めて経験する感覚だった。冷え切った体の芯から、何かがゆっくりと溶けていく。

リリアは、夢中でスープを飲み干した。次にパンを手に取り、夢中でかじりつく。その食べ方は、お世辞にも行儀が良いとは言えなかった。だが、アッシュもジョセフも、それを咎めることはしなかった。

全てを食べ終えた時、リリアの瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。それは悲しみの涙ではなかった。自分でもよく分からない、温かい感情が胸の内から込み上げてきて、涙となって溢れ出たのだ。

アッシュは、スキルで彼女の心の変化を正確に捉えていた。
「恐怖」の数値が大きく後退し、「戸惑い」が「安堵」へと変わる。そして、その安堵の中から、ほんの小さな、しかし確かな光が生まれた。
「感謝:10」「興味:20」

(第一段階は成功だな)
アッシュは内心で頷いた。恐怖による支配は、反発を生む。だが、恩義による支配は、強固な忠誠心へと繋がりやすい。前世で、彼はそれを何度も見てきた。

「アッシュ様、彼女は……」
ジョセフが、心配そうに声をかける。
「問題ない。今はまだ怯えた子猫だが、いずれ猛虎になる。俺の目は節穴ではない」

アッシュは、リリアのポテンシャルを確信していた。奴隷市場で見せた、鞭打たれた後の体勢の立て直し方。あの獣のような反射神経と身体能力は、間違いなく本物だ。

その証明は、意外な形で訪れた。
アッシュが今後の計画を練るため、机の上の燭台に近づいた時だった。考え事に集中するあまり、自分の外套の袖が燭台の炎に触れかけていることに気づかなかった。

「アッシュ様、危ない!」
ジョセフが声を上げたが、間に合わない。袖の先端に、赤い炎が燃え移った。

その瞬間。
部屋の隅にうずくまっていたリリアが、弾かれたように動いた。それは、人間の動きではなかった。床を蹴る音もなく、まるで一陣の風のようにアッシュの元へ駆け寄ると、彼女はその小さな素手で、燃え盛る袖を躊躇なく叩いた。

パン、パン、と乾いた音が二度響く。炎は、一瞬で消し止められていた。
あまりの速さに、ジョセフも、部屋の外で見張っていた護衛たちも、何が起きたのか理解できなかった。ただ、アッシュの袖から焦げた匂いが立ち上っているだけだった。

当のリリアは、自分のしたことに気づき、ハッと息を呑んだ。
(触ってしまった……!ご主人様の体に……!)
奴隷に許されない最大の禁忌。彼女の顔は恐怖で真っ青になり、その場に再びうずくまった。
「ご、ごめんなさい!ごめんなさい!鞭で打たないで……!」

彼女の感情が、再び「恐怖:90」へと振り切れる。
だが、アッシュがかけた言葉は、彼女の予想とは全く違うものだった。

「よくやった、リリア」

その声は、静かで、穏やかだった。
「お前のおかげで、火傷をせずに済んだ。感謝する」

リリアは、恐る恐る顔を上げた。アッシュの赤い瞳に、怒りの色はない。彼は、自分の焦げた袖を一瞥すると、まるで何事もなかったかのように続けた。
「その速さ、見事だな。お前は、俺の護衛として十分に役に立つ」

リリアの心臓が、大きく跳ねた。
感謝された。褒められた。役に立つと、言われた。
生まれて初めて、誰かに肯定された瞬間だった。

彼女の感情ウィンドウが、再び激しく揺れ動いた。「恐怖」の赤い色が、まるで潮が引くように消えていく。そして、その後に残されたのは、暖かな色の光だった。
「安堵:70」「興味:50」、そして、「信頼:30」。

アッシュは、この投資が成功したことを確信した。

その夜、ジョセフが街で仕入れてきた簡素なメイド服が、リリアに与えられた。汚れたボロ布を脱ぎ、清潔な服に袖を通した彼女は、まるで別人のように見えた。銀色の髪と大きな瞳が際立ち、その可憐さが初めて表に現れた。

「お前の寝床はそこだ」
アッシュが指差したのは、部屋の隅に敷かれた、清潔で厚い毛布だった。冷たい石の床や、湿った藁の上でしか眠ったことのないリリアにとって、それは王侯貴族のベッドにも等しいものに見えた。

リリアは、その毛布の上に、おそるおそる横たわった。柔らかな感触と、温かさ。
その夜、彼女は生まれて初めて、恐怖に怯えることなく眠りにつくことができた。

アッシュは、そんなリリアの寝顔を一瞥すると、再び机の上の地図へと向き直った。感傷に浸っている暇はない。ガイウスの命のタイムリミットは、刻一刻と迫っていた。

ジョセフが、街で集めた新たな情報を報告する。
「アッシュ様。奴隷市場で、最近ドワーフの鉱山技師や、頑固な建築職人が借金のカタに売られたという噂がございました。しかし、すでに買い手がついた後らしく、今はどこにいるか……」

「まだこの街にいるはずだ」
アッシュは、地図上のいくつかの点を指で囲んだ。
「この街の権力者が、有用な奴隷を囲い込んでいる可能性が高い。明日からは、その影を追う」

リリアという最強の駒を手に入れた今、アッシュの次なる一手は、より大胆なものになろうとしていた。彼の頭脳は、ガイウスの命を救うための最短ルートを、冷徹に計算し続けていた。
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