無能と蔑まれた悪役貴族、実は人の心を数値化できる最強の傀儡師でした ~感情を支配するスキルで、腐敗した帝国を裏から作り変えます~

夏見ナイ

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第二十七話:全財産という投資

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「金貨五枚」

静まり返った奴隷市場に、アッシュの静かな声が響き渡った。銀貨の値を呼び合っていた喧騒が、まるで嘘のように掻き消える。買い手も、門番も、そして舞台上の奴隷商さえも、声の主である華奢な少年に釘付けになった。

銀貨二百枚が、金貨二枚に相当する。金貨五枚は、銀貨五百枚。常軌を逸した額だった。この辺境都市で小さな家が一つ買えるほどの金額だ。

一瞬の静寂の後、奴隷商の顔が驚愕から狂喜へと変わった。
「き、金貨五枚!旦那、今、金貨五枚と仰いましたかい!?」
彼の感情が「狂喜:100」「強欲:95」に振り切れる。目の前に、人生最大のカモが現れたのだ。

他の買い手たちは、呆然としていた。彼らは銀貨数枚の儲けのために競り合っていたのだ。金貨を持ち出すような相手と張り合えるはずもない。
「どこの貴族の坊ちゃんだ……」
「道楽が過ぎるぞ……」
そんな囁きと共に、彼らの感情は「嫉妬」と「諦観」に染まり、競りから完全に降りてしまった。

「金貨五枚。これ以上を出す者はいるか?」
奴隷商は形式的に周囲を見回したが、手を挙げる者は誰もいない。
「いないようだな!よし、決まりだ!この獣人の嬢ちゃんは、そこの旦那様が金貨五枚でお買い上げだ!」

カンカンカン、と高らかに鐘が鳴らされる。
ジョセフと護衛の若者たちは、主の突飛な行動に顔面蒼白になっていた。
「アッシュ様!正気でございますか!我々の財産のほとんどを……!」
ジョセフが慌てて耳打ちするが、アッシュはそれを無視して舞台へと進み出た。

彼は懐から革袋を取り出すと、ずしりと重い金貨を五枚、奴隷商の目の前の台に置いた。チャリン、という硬質な音が、その取引が現実であることを証明していた。

奴隷商は震える手で金貨をひっつかむと、歯で噛んで本物であることを確かめ、下卑た笑みを浮かべた。
「へへへ、毎度あり!さあ、こいつがおたくの所有物になった証だ」
彼はそう言って、一本の錆びた鍵と、少女に繋がれた鎖の端をアッシュに手渡した。

アッシュは鎖を受け取ると、舞台の上でうずくまる銀髪の少女を見下ろした。彼女は、自分の身に何が起きたのか理解できていないようだった。ただ、目の前の少年が新たな主人になったことだけを察し、その体を恐怖でさらに固くさせていた。

「さあ、行こう」
アッシュは鎖を軽く引き、少女に歩くよう促した。少女は怯えながらも、それに従うしかない。

一行は、好奇と嫉妬、そして侮蔑が入り混じった視線を背中に浴びながら、奴隷市場を後にした。

宿屋への帰り道。ジョセフは、たまらずアッシュに問いかけた。
「アッシュ様、一体どういうお考えで……。我々の目的は、ガイウス様を救う薬と、村を立て直すための技術者だったはずです。あのような大金を、一人の奴隷に費やしてしまっては……」

彼の声には、深い憂慮と、主へのわずかな「不信」が滲んでいた。
アッシュは、夜道を歩きながら淡々と答えた。
「目的は変わっていない。手段が変わっただけだ」

「と、申しますと?」

「薬師も技術者も、今の俺たちでは手に入らない。だが、彼女は手に入った」
アッシュは、後ろを俯いて歩く少女を一瞥した。
「彼女は、薬や技術者以上の価値を生む可能性がある。ガイウスを失った場合、ヴァイスラントの守りは脆弱になる。だが、彼女を鍛え上げれば、一人で百人の兵に匹敵する戦力になるだろう。そうなれば、盗賊だけでなく、いずれ現れるであろう『見えざる敵』にも対抗できる」

それは、あまりにも冷徹で、合理的な計算だった。アッシュは少女を人として見ていない。ただ、ヴァイスラントという事業を成功させるための、最も価値の高い「資産」として見ているだけだった。

「これは、俺がした中で最高の投資だ。全財産を賭ける価値がある」

その言葉に、ジョセフはもはや何も言えなかった。主の思考は、自分の理解を遥かに超えている。彼はただ、その狂気じみた合理性が、良い結果をもたらすことを祈るしかなかった。

宿屋の一室に戻ると、アッシュは護衛たちに部屋の外で見張るよう命じた。部屋の中には、アッシュとジョセフ、そして壁際にうずくまる少女だけが残された。

少女は、これから自分の身に何が起きるのかと、恐怖に震えている。彼女の感情ウィンドウは、「恐怖:99」で真っ赤に染まっていた。

アッシュは、そんな彼女に静かに近づくと、奴隷商から受け取った鍵を、彼女の首につけられた鉄の首輪の鍵穴に差し込んだ。カチャリ、と小さな音が響く。少女の肩がびくりと震えた。

アッシュは、首輪を外すと、それを部屋の隅に投げ捨てた。ゴトリ、と重い音が床に響く。

「お前は、もう奴隷ではない」

アッシュは、少女の目を見て言った。
「今日からお前は、俺の専属メイド兼護衛だ。俺の身を守り、俺の命令に従う。それがお前の仕事だ。分かったか?」

少女は、アッシュの言葉の意味が理解できず、ただ戸惑ったように彼を見つめ返すだけだった。
「……名前は?」
アッシュが尋ねる。

少女はしばらく黙っていたが、やがて蚊の鳴くような声で答えた。
「……リリア」

「リリアか。いい名だ」
アッシュは頷くと、傍らに控えていたジョセフに目配せをした。
「ジョセフ、食事を」

「はっ。準備してございます」
ジョセフは、道中で買っておいた温かいスープと、柔らかいパンが乗った盆を、リリアの前の床にそっと置いた。

湯気の立つ温かい食事。
リリアの大きな瞳が、そのスープを見つめて、微かに揺れた。彼女は生まれてこの方、残飯や泥水以外のものを口にしたことがなかった。誰かが自分のために用意してくれた、温かい食事。その意味を、彼女はまだ理解できなかった。

だが、彼女の心に、ほんの僅かな、しかし確かな変化が起きていた。
真っ赤に染まっていた「恐怖」の数値が、ほんの少しだけ下がり、その代わりに、今までなかった新しい感情が、小さな芽のように顔を出した。

「戸惑い:30」

アッシュは、その変化を見逃さなかった。絶望の凍土に開いた、最初の小さな亀裂。彼は、この投資が成功することを、静かに確信していた。
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