無能と蔑まれた悪役貴族、実は人の心を数値化できる最強の傀儡師でした ~感情を支配するスキルで、腐敗した帝国を裏から作り変えます~

夏見ナイ

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第三十二話:敵の懐へ

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バルツァー伯爵の妨害工作は、一度きりでは終わらなかった。ヴァイスラントからドベルグへ向かう僅かな商人たちは、領境付近で執拗な嫌がらせを受けるようになった。時には「盗賊」に襲われ、時には「関所の役人」から不当に高い通行税を要求される。その全てが、バルツァー伯爵の指示によるものであることは、アッシュには分かっていた。

ヴァイスラントの経済は、まだ芽吹いたばかりの双葉のように脆い。このままでは、交易路は完全に断たれ、村は再び孤立してしまう。

「もはや我慢ならん!伯爵の城に殴り込みをかけるべきだ!」
義勇兵たちの間では、ボルグを筆頭に主戦論が高まっていた。彼らの感情は「怒り」と「焦り」に満ちている。

だが、アッシュはその意見を一蹴した。
「無意味だ。我々が軍事行動を起こせば、帝国法に抵触する。そうなれば、バルツァーは被害者の顔をして、中央に我々の討伐を要請するだろう。我々は反逆者として、帝国軍に潰されることになる」

「では、どうするのだ!」
ボルグの問いに、アッシュは一枚の地図を広げた。それは、バルツァー伯爵領の詳細な地図だった。ジョセフが、ドベルグの情報屋を通じて手に入れたものだ。

「戦争は、剣だけで行うものではない。情報こそが、最大の武器だ」
アッシュは、伯爵の居城を指し示した。
「この城の中に、我々の目と耳となる人間を送り込む」

「密偵、ですか?」
サイモンが、緊張した面持ちで尋ねた。
「しかし、誰を?我々の中に、そのような訓練を受けた者はおりません」

「訓練など必要ない。必要なのは、度胸と、少しばかりの演技力だ」
アッシュの視線は、部屋の隅に控えていた一人の男に向けられた。それは、アッシュがドベルグから連れてきた、護衛の若者の一人だった。彼の名はカイル。口数は少ないが、冷静で観察眼に優れ、何より胆力が据わっている。

「カイル。お前に、この役目を任せたい」
名を呼ばれたカイルは、驚いたように顔を上げた。彼の感情は「驚き:80」「緊張:70」。だが、その奥にはアッシュへの「忠誠心:90」が燃えていた。
「俺が……ですか?」

「ああ。お前は商人を装い、バルツァー領の城下町へ潜入しろ。目的は、バルツァー伯爵の周辺を探ることだ。彼に不満を抱いている者はいないか。彼の弱みは何なのか。どんな些細な情報でもいい、全てを集めろ」

それは、あまりにも危険な任務だった。失敗すれば、捕らえられ、拷問の末に殺されるだろう。
だが、カイルは迷わなかった。
「……御意」
彼は短く答え、深く頭を下げた。彼の感情に、「決意:95」という鋼のような光が宿った。

数日後。カイルは、行商人の荷物を積んだ一頭のロバを連れて、バルツァー領へと旅立った。彼の荷物の中には、ヴァイスラントで採れた高品質な鉄で作った、数本のナイフが隠されていた。これは、アッシュが彼に与えた「手土産」だった。

カイルは、城下町の酒場に腰を据え、情報を集め始めた。最初は誰も、ヴァイスラントから来たという見すぼらしい行商人に注意を払わなかった。だが、彼が売るナイフの切れ味は、すぐに腕利きの傭兵や騎士たちの間で評判になった。

「おい、兄ちゃん。このナイフ、どこで手に入れた?こんな上質な鉄、見たことがねえぞ」
ある夜、一人の屈強な傭兵がカイルに声をかけてきた。カイルはアッシュに言われた通り、にこやかに答えた。
「へえ、北の果ての、忘れられた土地で偶然見つけた鉱石で作ったもんでさ。まだ少しなら在庫がありやすぜ」

ナイフは、情報収集のための撒き餌だった。カイルは、ナイフを売る傍ら、客たちの会話に耳を澄ませ、彼らの感情を注意深く観察した。

アッシュの狙いは、伯爵に不満を持つ人物、特に、彼の軍事力を支える騎士団の内部にいる人間を見つけ出すことだった。そして、カイルが潜入してから一週間後、ついにその人物が姿を現した。

その男の名は、ダリウス。バルツァー伯爵配下の騎士団長だった。年の頃は四十代。顔には深い皺が刻まれ、その目には長年の心労と諦めが浮かんでいる。彼は、酒場の隅で一人、黙々と酒を呷っていた。

カイルは、アッシュから与えられた指示を思い出した。
『スキルを持たないお前でも、相手の感情を推し量る方法がある。言葉、表情、そして、その周囲の空気だ。本当に探すべき相手は、不平不満を大声で叫んでいる者ではない。黙して語らず、しかしその内側に、消せない怒りの炎を燻らせている者だ』

ダリウスは、まさにその男だった。
カイルは、さりげなく彼の隣の席に座ると、一杯の酒を奢った。
「団長殿。何か、お悩みでも?」

ダリウスは、胡乱げな目でカイルを一瞥した。
「……お前には関係ない」
彼の声は低く、感情を押し殺していた。だが、カイルが持っていたヴァイスラント製のナイフに目を留めた時、その表情が微かに動いた。

「いい鉄だ。こんなものが、なぜこんな辺境の地に……」
「へえ。俺の故郷の自慢の一品でさ」

そこから、二人の会話はぽつりぽつりと続いた。ダリウスは、酔いが回るにつれて、少しずつ胸の内を漏らし始めた。
彼は、かつては誇り高い騎士だった。だが、強欲で猜疑心の強いバルツァー伯爵に仕えるうちに、その誇りはすり減っていった。伯爵は、騎士団を私兵として扱い、略奪まがいの任務を平気で命じる。ダリウスは、何度も諫言したが、聞き入れられることはなかった。

「俺は、騎士として主に忠誠を誓った。だが、俺が仕えているのは、卑劣な盗賊の頭だったというわけだ……」
自嘲するダリウスの言葉に、カイルは確信した。この男こそが、アッシュが求めていた人物だと。

ヴァイスラントの館。アッシュは、カイルから届けられた密書を読んでいた。そこには、ダリウスという男の人となりと、彼が抱える葛藤が詳細に記されていた。

アッシュは、地図上の騎士団の詰所を、指でなぞった。
「最高の駒が見つかったな」

彼のスキルは、ここヴァイスラントからでも、カイルが報告してきたダリウスの感情を、ぼんやりとだが捉えることができた。
「不満:70」「絶望:60」「義憤:50」
そして、主君であるバルツァー伯爵に対する、強い「嫌悪:75」。

この男は、まだ騎士としての誇りを完全に失ってはいない。あとは、その燻る魂に、ほんの少し火をつけてやるだけでいい。

「ジョセフ。カイルに次の指示を伝えろ」
アッシュの口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
「次の満月の夜、計画の第二段階へと移行する、と」

敵の懐に打ち込まれた楔は、これから、バルツァー伯爵という巨木を内側から蝕み、崩壊させていくことになる。アッシュの描く謀略の網が、今、静かに張られようとしていた。
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