無能と蔑まれた悪役貴族、実は人の心を数値化できる最強の傀儡師でした ~感情を支配するスキルで、腐敗した帝国を裏から作り変えます~

夏見ナイ

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第三十三話:猜疑心の種

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満月の夜。バルツァー伯爵領の城下町は、普段と変わらぬ静けさに包まれていた。だが、その水面下では、アッシュが仕掛けた謀略が静かに進行していた。

酒場の個室で、密偵カイルは騎士団長ダリウスと差し向かいで酒を酌み交わしていた。この数週間で、二人は奇妙な友情を育んでいた。カイルの朴訥な人柄と、彼が語るヴァイスラントの再興の物語は、ダリウスの荒んだ心を少しずつ癒していた。

「……また、ヴァイスラントの話か。お前の故郷は、本当にそんなに変わりつつあるのか」
ダリウスは、杯を傾けながら呟いた。彼の感情には、カイルに対する「信頼:40」と、ヴァイスラントへの「興味:50」が芽生えていた。

「ああ。俺たちのリーダーは、まだ若いが、本物の傑物だ。俺たちのような見捨てられた者にさえ、役割と希望を与えてくれる」
カイルは、アッシュから教え込まれた通りの言葉を、自らの実感として語っていた。

会話が途切れたタイミングで、カイルは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。それは、アッシュが書いた偽の手紙だった。
「実は、団長殿に渡したいものがあるんだ」

「……何だ、これは」
ダリウスは、怪訝な顔で羊皮紙を受け取った。

「俺たちのリーダー、アッシュ様から、団長殿への親書だ。団長殿のような高潔な騎士にこそ、我々の仲間になってほしい、と」

ダリウスは、驚きに目を見開いた。ヴァイスラントの指導者が、自分を名指しで?
彼は、戸惑いながらも手紙の封を切り、その中身に目を通し始めた。

手紙の内容は、こうだった。
『高潔なる騎士団長ダリウス殿へ。貴殿の噂は、我がヴァイスラントにも届いている。腐敗した主に仕えながらも、騎士の誇りを失わぬその姿に、深く感銘を受けた。つきましては、我が陣営に加わってはくれまいか。貴殿を、我が軍の副司令官として迎え入れたい。我らと共に、真の正義を成そうではないか』

それは、ダリウスの心をくすぐる、甘美な誘いの言葉だった。彼の感情が激しく揺れ動く。「困惑:80」「誇り:60」。そして、バルツァー伯爵への「不満」が、アッシュへの「興味」へと転化していく。

だが、ダリウスは首を横に振った。
「……ありがたい話だ。だが、俺は一度誓った忠誠を違えることはできん。この話は、聞かなかったことにさせてくれ」
彼は、騎士としての最後の矜持を保とうとした。

「そうか。残念だ」
カイルは、あっさりと羊皮紙を受け取ると、それを目の前の燭台の炎で燃やし始めた。
「今の話は、ここだけの秘密だ。あんたに迷惑はかけられねえ」

その行動は、ダリウスの警戒心を解き、彼の中にカイルへの「信頼」をさらに強固なものにした。

だが、この会談そのものが、アッシュが仕掛けた罠の序章に過ぎなかった。

その様子を、酒場の二階の窓から、一人の男が覗き見ていた。男は、バルツァー伯爵がダリウスを監視するために付けた、密偵だった。
密偵は、カイルがダリウスに手紙を渡し、ダリウスがそれを読み、そしてカイルがそれを燃やすまでの一部始終を目撃していた。手紙の内容は分からない。だが、敵地の者と密会し、何らかの文書をやり取りしていたという事実だけで、報告としては十分だった。

密偵は、すぐにその場を離れ、伯爵の城へと駆け込んでいった。

ヴァイスラントの館。アッシュは、チェス盤の駒を一つ、動かした。
「第一段階は成功だな」
彼のスキルは、ここからでも、バルツァー伯爵の居城で、新たな感情が生まれたのを捉えていた。
「猜疑心:70」「怒り:60」

伯爵の執務室。密偵からの報告を受けたバルツァーは、激怒していた。
「ダリウスめ!裏切りおったか!」
彼は元々、猜疑心の強い男だ。部下を信じず、常に裏切りを警戒している。そんな彼にとって、今回の報告は、ダリウスへの不信感を決定的なものにするには十分すぎた。

「お待ちください、伯爵様!」
側近の一人が諫める。
「まだ、ダリウス殿が裏切ったと決まったわけでは……」

「黙れ!奴がヴァイスラントの密偵と会っていたのは事実なのだろう!何か裏取引があったに決まっている!」
バルツァーは聞く耳を持たない。彼の頭の中では、ダリウスがヴァイスラントと手を組み、自分を裏切るという妄想が、すでに真実として完成していた。

しかし、彼はすぐにはダリウスを罰しなかった。ダリウスは騎士団の信望が厚い。下手に動けば、騎士団の反発を招きかねない。
「……泳がせておけ。奴が尻尾を出すまでな。それまでは、重要な任務からは全て外せ。奴の息のかかった者たちもだ」

その日から、バルツァー伯爵のダリウスに対する態度は、あからさまに冷たくなった。軍議の席に呼ばれることもなくなり、彼の部下たちは、辺境の警備など、閑職へと追いやられていった。

ダリウスは、その仕打ちに戸惑い、苦しんだ。自分は何もしていない。なのに、なぜ。彼の「不満」と「絶望」は、日に日に募っていく。
そして、その変化は、騎士団の内部にも不穏な空気を生み出した。敬愛する団長が不当な扱いを受けていることに、多くの騎士たちが「不満」を抱き始めたのだ。

アッシュが蒔いた「猜疑心」の種は、バルツァー伯爵という猜疑心の塊のような土壌を得て、見事に芽吹き、その根を深く、広く張り巡らせていった。

カイルからの報告を受け取ったアッシュは、チェス盤の次の駒へと手を伸ばした。
「そろそろ、次の客人を迎える準備を始めるとしよう」

彼の視線は、地図のさらに南、帝都の方角へと向けられていた。バルツァー伯爵領の混乱は、彼が描くさらに大きな絵図の、ほんの小さな一部分に過ぎなかった。

アッシュの謀略は、敵の心を内側から崩壊させる、静かで、しかし致死性の高い毒のように、ゆっくりと確実に効果を現し始めていた。
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